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2011-08-05生きるといふこと!!
敢えて、『ふ=う』を使った!!
『無常といふこと』という
小林秀雄の文章が頭をよぎったからである!
かといって、高尚な文学記事を書こうとしているのではない。だが、氏の『・・・常なるものを見失ったからである。』という下りは、久しく妙にこびりついている。
無常と言うことと、生きるといふことと切っても切り離すことは出来ない。
確かに、生きるといふことは、艱難辛苦に満ちている。四苦八苦とも言うが、生きるその様を言い表している。少し、敷衍(ふえん=広める)すると、
四苦とは生老病死のことである。八苦とはそれに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦が加わる訳であるが、要するに、愛するものとの別れ、憎み合うものの邂逅(かいごう)、求めて得られず、沸き上がる心の不安である。
兎も角、苦しみが伴うのが生きるといふことである。
何のためにそんな苦しみに生きるかという疑問であるが、それは無常だからである。それらの苦しみは無常である。
言わば、これは映画を見ている人とスクリーンの関係と同じだ。スクリーンに繰り広げられるドラマは、光源が絶たれるとすぐに消えてしまう。しかし、その間、鑑賞している人は、まさしく、ハラハラ、ドキドキのし通しである。時には、涙を流し、怒りに震え、恐怖を体験する。
いわゆる、カタリシス効果だ。劇場を出た人は、良くも悪くも、少なくとも入る前とでは気分は一新している。これを劇的という。
生きるといふことは、これと同じであろうと思う。生きる目的は何かと問われるなら、難しい話は抜きにして、生命(いのち)のカタルシス効果のためにあるのだろう。その為には、その生命(いのち)が、同じ無常であっては意味がない。
ある登山家に『何故、山に登るのか?』と問うたという話がある。それは『山が、そこにあるからだ。』と、応えたという。本当かどうかは知らないが、有名な話である。
山登りは、きつい。ましてや、プロの登山家の登山に至っては尋常ではない。いわゆる命を賭している。それでも登山家は、並々ならぬ意欲を示す。その理由は、何か? 『山が、そこにあるからだ。』
マラソンも同じであろう。野球であれ、相撲であれ、レスリング、ボクシングも同じだ。勝って、一瞬の『ヤッター』という達成感もあろうが、希である。それより、敗北する人の方が遙かに多い。場合が多い。
それでも、人は生きる。何故であろうか?
成功のために生きると言うが、それはそれはホンの一部で、そう願っている人は確かに多いが、大抵はその逆の場合が多い。大半は、勝利するより敗北のケースがほとんどだ。
生きるといふことは、常なる観点から判断する必要がある。常なるとは永遠の意味である。
生命(いのち)で言えば、永遠の生命(いのち)と言うことだ。生命(いのち)は永遠である、と言うことが仮にも必要だ。それがないと、本当に生きるといふことの謎が解けない。
普通、生きるというと、赤ん坊として生まれて、成人し、やがて死ぬまでの期間である。これは、まさしく、四苦八苦の世界である。それでも生きるために生まれたことは、間違いないであろうから、何がそうさせているのか?
人が生きるといふことは、常なる観点を自ずから把持している事になる。逆論になるかも知れないが、人間誰しも永遠の生命(いのち)を持った存在であると言うことになる。
つまり、スクリーンの画面を眺めている本当の生命(いのち)の存在がある。自分の一生を、もう一人の自分が眺めている。そう考えざるを得ない。もう一人の自分が永遠の存在、つまり、常なるものだ。
この世は、言うまでもなく全ては無常だ。儚き夢である。そこに身を置き、様々な体験をする立体モーションピクチャーがこの世だ。その主人公は身を置いた自分であり、もう一人(常なる存在)が、その観客であると同時に、プロデューサーでもある。
こう考えると謎が解ける。
何故、人は生まれ、苦界に身を置き、生きようとするか? その謎が解ける。それは、もう一人の自分(常なる存在)が計画したことだからである。その計画は、単なる無常の世界の成功物語ではないはずだ。
スクリーン上では、時には悪役も引き受けなければならない。失敗もシナリオにある場合がある。貧乏もあれば、苦難のシナリオも用意されている。主人公の自分は、その不運を嘆くが、もう一人の自分(常なる存在)はそんなことは眼中にない。あるのは作品全体の総体評価である。
評価と言えば、あまりにクールであるから、言い換えよう。もう一人の自分がプロデュースするにあたり、何を考えているかと言うことだ。観客ももう一人の自分(常なる存在)であるから、媚びへつらいは必要ない。考えられるのは、豊富な体験と言うことになるだろう。
そう、人生は体験を積むためにあるのである。生きるといふことは体験なのである。その重要性を無意識に認識しているから、人はひたすらに生きる。その事を裡(うち=こころ)に秘めているのだ。
百人いれば、百様の人生がある。当然である。主人公は人それぞれの自分であって、百態の体験が生まれる。それをよしとしているもう一人の自分(常なる存在)が必ず居る。その自分が駆り立てているから、無意識の意欲が存在する。これが生きる源泉力だと考えられる。
もう一人の自分(常なる存在)を魂と言い換えることも自由だろう。だから、魂は永遠である。永遠でなければならない。
その魂からすれば、この無常の世界はかけがえのないスクリーンと言うことが出来る。そして、それ故、それを望んで生まれて来る。これが実相だと考えている。
最後に、幸せについて言及したい。
多くの場合、願望が成就する事を幸せと考える。それには違いはないが、常なる観点に立つと、願望の成就が全てではなくなる。
無常の世界では、勝った敗けたも一つの成果である。しかし、所詮はいずれも無常であるから、儚き夢に過ぎない。儲けた損したも同じだ。それらに託する幸福感も又同じ儚き夢である。
山に登頂した時の達成感、試合に勝った時の満足感、経済的に成功した時の充足感、これなども同じ刹那の話なので、夢の又夢だ。スクリーン上の一つのドラマの盛り上がりにはなるが、ストーリーはそれでは終わらない。
山があれば谷がある。必ずある。山高ければ、谷深しは、無常の摂理だから、そんなものは永遠ではない。必ず、最終的には消えてしまう。
幸せを常なる観点からすれば、『仕合わせ』とも言う。仕組み合わせとも読める。つまり、シナリオのことである。良きシナリオは良き人生と言うことになる。
何を言いたいかというと、人生の中の一点の『ヤッター』の高揚感は、本当の幸福ではないと言いたいのである。本当の『仕合わせ』とは、人生全般の作品の出来加減で、言い換えれば、体験の豊富さを量るスケールと言いたいのである。
その証拠に、長く生きた人ほど幸福感は大きいと言うことだ。そうでもない例外もあるが、その場合は、まだ、体験の途上にあって、味わう余裕のない状況だ。四苦八苦の最中に呻吟している状況だ。単に長く生きたから、シナリオを演じ終えたとは、必ずしも言えまい。しかし、長く生きた人の多くは、シナリオの終局面に立ってる。
又、大きな幸福は、『仕合わせ』を噛みしめる度量を必要とする。それは、厳しいかも知れないが、本当の自分のシナリオを信ずることだ。そして、それにひたすらに生きてみることだ。
それが、生きるといふ事だと考える。
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