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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その22
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 14 日 11:53:30: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その22

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22)−1

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22)
 −昭和金融恐慌の主役・鈴木商店と台湾銀行を操るこの面々
                              ◆落合莞爾   

 ★神戸のふたりの豪商 後藤勝造と金子直吉 

 日露戦の実行という重要な国務を抱えていながら台湾統督に座り続けた児玉源太郎に代わり、実質的に台湾行政を総覧していた民政長官・後藤新平は、台湾産品を扱う業者にとって神様的存在であった。インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』は、杉山茂丸を「明治31年に第4代台湾総督に児玉源太郎が就任し、民政長官に後藤新平を就けると、杉山は両人に対して製糖業の振興による台湾経済の確立を献策し、自ら製糖会社の設立に携わった。また台湾銀行の創設や台湾縦断鉄道の建設にも関与した」と述べるが、これは皮相的にせよ、杉山と台湾総督府及び台湾産業の関係を示している。台湾における通貨発行権を有する台湾銀行と、台湾島最大のインフラたる台湾縦貫鉄道、さらに戦前の日本経済を支えた大日本製糖を始めとする製糖業は、すべて杉山が発案し推進したものであった。産業・経済に関する杉山の見識と実績は、どう見ても井上馨・渋沢栄一に劣らないが、そのことに従来の史家は全く触れてこなかった。その理由は、読者諸賢とこれから探っていくことにしよう。

 後藤と杉山の関係は、後藤の女婿・鶴見祐輔が「岳父と杉山は非常な親友であって、何十年となく交友した」と記した通り、極めて深かった。ドイツに留学してワンワールド哲学を体得してきた後藤の方向性は、高島鞆之助らワンワールド薩摩派や杉山のそれと極めて近いから、この3者は自然に共同歩調を取ったのである。後藤の信用を取り付けた商人は当然ながら大いに発展したが、その代表が金子直吉の鈴木商店と後藤勝造の「丸マ」後藤回漕店であった。嘉永元年(1848)生まれの後藤勝造は岩崎弥太郎に食い込み、回漕業として成功、神戸港で鈴木商店主の鈴木岩次郎らと並ぶ名士となった。旅館・ホテル業に進出した勝造は、たまたま宿泊客となった後藤新平に接近して、台湾での事業展開の基盤を固めるきっかけを掴む。JRの大きな駅に今も見かける構内レストラン食堂「日本食堂」も、新平の勧めで勝造が作った駅食堂から始まった。32年に食堂車営業を開業した山陽鉄道だがうまくいかず、30年頃に神戸市川崎町(後の郵便貯金センターの地)で開業した自由亭ホテルに食堂車の営業権を譲渡したのは34年で、自由亭ホテルは「みかどホテル」と改名したが、後に鈴木商店に建物を売却して廃業した。例の日本食堂は、昭和13年に「神戸みかど」を始め「上の精養軒」「福岡共進亭」など各地の列車食堂業者が共同で設立したものである。

 鈴木商店の大番頭・金子直吉は、神戸の豪商仲間の後藤勝造の紹介で後藤新平に接近したとされている(インターネット『月刊・きんもくせい』)が、これは表向きで、裏面では樟脳取引で知られた鈴木商店を総督府御用商人にすべく、ワンワールド薩摩派が周到に根回ししたと見るべきである。
薩摩派総長の高島鞆之肋の事業上のパーートナーであった吉薗ギンヅルは、ダミーの日高尚剛を通じ鈴木商店の経営陣に「手の者」を潜入させたと伝わるが、それは日高の母方の親類〔安達リュウー郎〕のことらしい。ともかく鈴木商店は御家はん(女主人のこと)ヨネを隠れ蓑にして、実質は薩摩派が支配していた会社なのである。

 明治30年に葉煙草専売法を公布、翌年に施行した政府が36年に「煙草専売制度理由及施行順序」を公表、翌年世上の猛反対を押し切って煙草専売方を施行した目的は、日露戦争の軍費に充てるためで、38年には台湾においても同法を施行した。専売法の施行後は、専売局が専ら製造販売を行い、民間業者の業務は輸出だけとなった。日露戦後にわが勢力圏となった満洲においても煙草需要は大きかったが、BAT(英米煙草トラスト社)の奉天工場新設により、内外業者による競争激化が予想されたので、専売局は国産煙草の輸出に関わる大小業者を糾合せしめ、外資に対抗する国策会社として「東亜煙草会社」の設立を促した。39年10月設立の東亜煙草社は、専売局から、官煙の輸出・移出の特許に加えて樺太全土の独占販売権を与えられて社長に佐々熊大郎が就任したが、この時の設立発起人の1人に、右の安達リュウ一郎がいるらしい。

 ★後藤新平も一目置いた 藤田謙一の辣腕ぶり

 その後、東亜煙草の株式を買い集めた鈴木商店は、大正2年12月24日の株主総会で、同店幹部の藤田謙一を取締役に送り込む。『弘前商工会議所』編集発行の『藤田謙一』によれば、藤田は豊臣方の武将明石掃部の末裔で、弘前藩士・明石栄吉の次男として明治6(1873)年に生まれ、5歳で藤田家に養子入りした。東奥義塾を中退して青森県庁の給仕となった藤田は、それも辞して24年に上京、明治法律専門学校(明治法律学校・明治大)に入学して同校創立者(正しくは関係者か)の法学博士・熊野敬三の書生となる。

 32年栃木県属に挙げられた藤田は、9月に大蔵省専売局属に転じ煙草専売制度を担当したので、蔵相(正しくは農商務相)曾根荒肋の知人たる後藤勝造と相識ったという(後藤勝造が、上に述べたように後藤新平に接近したのは、その後であろう)。折から葉煙草専売法公布の直後で、生産・製造・販売一貫の完全専売制の実施が迫る中、大小の煙草製造業者が乱立して過当競争に陥っており、天狗煙草で知られた業界トップの岩谷商会も経営危機に瀕していた。社主の岩谷松平は、後藤勝造が推薦した藤田に岩谷商会の一切を委ねる。34年6月に専売局を退職した藤田は、翌年岩谷商会の支配人に就き、会社組織に変更して自ら専務理事となる。BATに対抗して天狗煙草を売り込んだ藤田が大成功を収めたので、37年の専売制度の完全実施に際し、政府による岩谷商会の買収額は巨額になった。

 40年、藤田は再び後藤勝造に招かれ、今度は名古屋の豪商・小栗家の整理に当たる。42年5月に小栗系の東洋製塩の取締役に就任した藤田は、翌年同社を「台湾塩業」と改称し、建て直しに成功した。その手腕に驚いた金子直吉は、藤田を鈴木商店に招き、参謀として関東所在の傘下会社を任せた。今なら鈴木商店関東支部の関東東業部長に就任と言ったところである。

 これに先立ち前後して小栗家の整理に関わった金子と勝造はいずれも失敗し、勝造の依頼を受けた藤田が同社を見事に再生したわけだが、社名を「台湾塩業」と変えた処に台湾総督府の関与が窺われる。曾根荒助の知人とされる勝造も、大所高所から見れば金子と同じ位置で後藤新平の麾下にあったが、新平の背後に杉山茂丸がいた。
金子が藤田を鈴木商店に入れた経緯も、実は杉山が関与したのだろう。

 因みに、藤田謙一の子息がインターネットで語るには、「父は十六才の時、短刀一振りを手に上京し、桂太郎の家に厄介になった。桂家で忠勤を励むうちに岩谷天狗煙草の再建を命じられた」とあるが、藤田が16歳の21年には桂は陸軍次官で、書生も置いたであろうが、藤田が30歳で行った岩谷の再建とは時期が合わず、前掲『藤田謙一』にいう学歴・職歴とも両立しない。藤田を後藤勝造に紹介した農商務相・曾根荒助は長州派の領袖で、桂太郎とも杉山とも近かった。34年と言えば、杉山が桂・児玉と組んで、非戦派・伊藤博文を調略する秘密結社を作ったころで、杉山と桂が最も密接な時期である。桂と藤田の間に何らかの関係があっても不自然ではないが、謙一が子息に「桂太郎の書生云々」と語ったのは、出世譚につきものの誇張で、実は杉山が関係していたように思える。

 鈴木商店に入った藤田には、同店の死命を制する後藤新平さえ一目置いた。後に後藤新平四天王の1人と呼ばれた藤田は、もし後藤内閣が実現していたら大蔵大臣になった(前掲『藤田謙一』)と評されたほどで、金子の下風に立つ男では決してなかった。藤田はまた玄洋社の頭山満とも親交があったが、杉山の仲介によるのは自明であろう。そもそも薩摩派が裏から操っていた鈴木商店に、金子が藤田を招いたとは表向きで、真相は藤田の能力を買った誰かが、藤田の活動拠点として鈴木商店を提供したものではないか。その誰かが、在英ワンワールド直参の杉山なのか、それとも薩摩派総長の高島か、或いは東北キリシタンの棟梁・後藤新平なのか。それは目下のところ断定できないが、東京商工会議所の第5代会頭として日本商工会議所の創設に奔走し、自ら初代会頭に就いた藤田は、傍ら孫文ら亡命要人を匿い、またユダヤ満洲共和国の建国計画に参画したため、フリーメーソンの日本代表と噂された。いかにもと思うが、鈴木商店を足場に台湾総督府に食い込み、長州派を操縦した藤田の足跡は、玄洋社を看板にした杉山とまったく酷似している。思うに藤田は、鈴木商店に入社後幾許もなく杉山の代行役となり、対長州工作や財界工作を分掌したのではあるまいか。

 昭和2年に起きた金融恐慌の詳細に関する史書は、巷間に溢れているから、本稿で述べる必要はあるまい。

   続く。


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22) −2

★西園寺公望の懐刀にして台湾銀行頭取、中川小十郎  

 恐慌劇の主役たる台湾銀行は、台湾領有の3年目すなわち明治30年に創立され、32年に開業したが、その創立に杉山茂丸が深く関わったことは周知である。大正9年から15年まで、台湾銀行と鈴木商店が最も密着した時期に台銀頭取を務めた中川小十郎は、慶応2年(1866)生まれで、出自は丹波弓矢隊で西園寺家の家臣だった。大学予備門時代には夏目漱石・南方熊楠・正岡子規、さらに上原勇作と旧制士官生徒で同期(第3期)の秋山好古(秋山真之の兄)と同窓だった中川は、明治26年帝大法科を出て文部官僚となったが、31年に辞職、33年に京都法政学校(後の立命館大学)を創立して西園寺家の私塾・立命館を継承する。39年に第1次西園寺公望内閣が成立すると首相秘書官に就いた中川は、41年の西園寺内閣総辞職に伴い樺太庁第1部長に就いた。これは、日露戦後に南半部がわが領土となった樺太に軍政施行を望む陸軍の要求を阻止すべく、西園寺が送り込んだとされる。45年に樺太庁を辞職した中川は、杉山茂丸の計らいで台湾銀行副頭取に就任し、大正9年に頭取に昇任し、14年まて在任した。正副頭取の在任は実に14年に及び、この間の鈴木商店に対する過剰融資は実に中川が行ったもので、その背後に杉山がいたことは自明である。

 中川の樺太庁第1部長当時の上司・樺太長官は、大学予備門で杉山?の同期(帝大卒業は1期上)だった☆平岡定太郎で、原敬の腹心として政友会の政治資金を捻出するために☆郵便切手の不正払下げを行ったとして、大正3年に免官、翌年横領罪で起訴された。三島由紀夫の祖父である。原敬は山県有朋に接近したためか、薩摩派とはいわゆる反目(はんめ)で、その大正8年の☆暗殺に関しても、後藤新平・上原勇作の関与が近来囁かれ始めた。

 ブロガー註:
 ☆参考:
 「・・(平岡)定太郎の長官任命に力を貸した政治家達の圧力で、定太郎は漁業と缶詰業の認可と引き換えに金を受け取り、その金を選挙資金として東京に送ることを余儀なくされた。ライヴァルの漁業会社がこのニュースを洩らし、スキャンダルが広がって、定太郎は退官の止むなきにいたった。しかも、定太郎の退官はその後の目のまわるような失墜のほんの始まりにすぎなかった。・・」 『三島由紀夫 ある評伝』 ジョン・ネイスンより。
 因みに、今は関係のないエピソードだが、この三島由紀夫(平岡公威)の祖父・定太郎は、帝大法科卒業の翌明治26年、著名な武士の家系の永井夏子という女性と結婚する。
 少女時代から、「しばしばヒステリーの発作」を起こし、長女にして「一家の厄介者」だったといわれる女性である。
 この夏子が生後まもない孫の公威(三島)を母親から奪い取って12歳になるまで独占したという。

 ☆「原敬暗殺」に関して、例えば、
 「原敬日記」 大正10年2月20日条には次のようにある。
 「・・・ 夜、岡崎邦輔、★平岡定太郎、各別に来訪。余を暗殺するの企てあることを内聞せりとて、余の注意を求めくる。余は厚意は感謝するも別に注意のなしようも無し。また、度々かくのごとき風説伝わり、時としては、脅迫状などくるも、警視庁などに送らずしてそのまま捨ておくくらいなれば、運は天に任せ何ら警戒等をくわえおらざる次第なり。狂犬同様の者にあらざるかぎりは、余を格別憎むべきはずもこれ無しと思うなり。」。
 
 引用に戻る。

 西園寺公望の腹心だった原敬は、長州派に加担したため後藤・杉山と路線を等しくする薩摩ワンワールドの反対側に回った。原は腹心の平岡定太郎を樺太長官に起用して樺太の材木利権を確保しようとしたが、西園寺が第1部長に送り込んだ家臣で実質筆頭秘書だった中川がどこかで杉山と繋がっていて、台銀の最高幹部となって台湾運営に深く関与し、結局、薩摩派のダミーたる後藤・杉山・中川と長州派のダミー原敬・平岡組の対立に発展したが、その原因の一つに、樺太の木材問題を巡る利権的対立があると推定するが、別に論及したい。

 ともかく、高島鞆之助が陸相の座を追われた明治31年から、高島と組んだ吉薗ギンヅルが日高尚剛をダミーとして鈴木商店に深く関わり、鈴木商店を通じて東亜煙草との関係も深まった.その利権は、元来ワンワールド薩摩派総長の座に由来するもので、上原勇作が明治45年の陸相就任を機に高島から引き継いだと見られるが、引退した高島は大正5年に死去する。後藤と上原の関係は知られていないが実に深く、後藤の右腕・中村是公が息女を上原元帥の嗣子・七之助に嫁がせている所に、後藤の隠れた1面が浮かぶ。

 ★まさに〔いつか来た道〕 取付騒ぎと公的資金注入  

 第一次大戦の好景気の反動が顕れてきた大正15年11月20日、政府・日銀は、鈴木商店及び日本製粉を救済するために資金援助措置を決定した。明けて昭和2年、年初から地方銀行の一部が休業し始めたが、3月14日の国会で片岡蔵相が東京渡辺銀行の手形が決済不能と□にしたのを切っ掛けに、各地で銀行取付けが発生し、瞬く間に全国に広がった。その間に鈴木商店の経営破綻が明らかになり、鈴木商店に貸し込んだ台湾銀行も経営危機に陥った。日銀の鈴木商店への貸出は総貸出の半分近くに膨らみ、しかもその9割以上が固定貸出であった。昭和末年から平成初頭に掛けての日本長期信用銀行と高橋治則のイ・アイ・イ・インターナショナルの関係もこれに近いものがある。

 帝国議会は3月31日を以て閉会していたが、旧憲法第八条では、帝国議会閉会中に緊急の必要がある場合、天皇が法律に代わる勅令を発布することが出来た。そこで政府は、緊急勅令を用いて日銀特融による日銀救済措置を実施しようとし、4月17日に枢密院に諮詢(しじゅん)したところ、19対11で否決されたので、首相・若槻礼次郎は即日内閣を投げ出す。この事態は、枢密院の主といわれた伯爵・伊東巳代治が元来若槻の政策に不満で、反対に回ったために生じたものであったが、議長の男爵・倉富勇三郎及び副議長の男爵・平沼騏一郎も同じく反対に回った。

 ★明治天皇の母方のいとこ? 伯爵・伊東巳代治の政治力

 伊東巳代治は、長崎町年寄で書物役の伊東善平の三男として安政4(1857)年に生まれた。原敬と上原勇作の1歳下、後藤新平とは同じ年で、彼ら大正三傑と全く同期している。伊藤博文を腹心中の腹心として支えた伊東の政治力は、伊藤の死後もなお隠然たるものあり、実に上の大正三傑に準ずるものがあった。

 ワンワールド薩摩派は、フルベッキ、グラバー及びアーネスト・サトウの直接指導を受けて倒幕開国を進めた吉井(1827生)、西郷(同
年生)、大久保(1830生)の薩摩三傑を第1世代とするが、維新の時分には30代で戊辰役では方面指揮官や隊長に就いた樺山資紀(1837生)あたりもこの世代に相当する。慶応から明治初頭に生まれた彼らの子女が第2世代である。その中間の第1.5世代というべき高島鞆之助(1844生)は、吉井の引きで明治政府での出世は樺山らよりずっと早く、年齢差もグッドタイミングで、吉井から薩摩派総長の地位を譲られた。

 因みに長州では、薩摩三傑に同期しているのが大村益次郎(1825生)、広沢兵助(1833生)、水戸孝允(同年生)が長州三傑と言うべきで、ここから井上馨(1835生)、山県有朋(1838生)までが第1世代で、伊藤博文(1841生)も早熟のため第1世代に入る。高島のライバル桂太郎(1847生)は、高島と同じく第1.5世代に属したため、山県有朋(1838生)から長州陸軍の棟梁の座を譲られたのである。

 大正三傑は薩摩・長州の枠を超えた日本ワンワールド三傑だが、伊東巳代治がこれに準ずるのは、伊藤博文から長州派の2部門を引き継いだからである。ワンワールドが金融・軍事・宗教の3部門に分かれることは前述した。その外に情報宣伝分野の存在を忘れてはならないが、これは広義の宗教部門に含まれる。伊東は明治5年に15歳で工部省電信寮修技教場を卒業し、長崎電信局に入るが、翌年1月に辞職、「兵庫アンド大阪ヘラルド新聞社」に入社した後、兵庫県属に転じて訳官(通辞)になる。10年には再び工部省に入り、権大属に任じた。電信に携わったために国際通信事情に通じた伊東は、工部卿・伊藤博文の注目を浴びて腹心となり、伊藤が憲法調査のために明治15年2月から1年半にわたり渡欧した時同行し、その後は金子堅太郎・井上毅と共に、伊藤の下で明治憲法の草案を練った。25年8月の第二次伊藤内閣で内閣書記官長に就き、28年には早くも男爵を授けられ、31年1月に第三次伊藤内閣の農商務相に就き、32年から枢密顧問官となる。以来昭和9年に死去するまで実に35年間を枢密院に居続け、枢密院の牛耳を執って憲法の番人と称された。

 伊東巳代治といえば、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』は「明治天皇の母方のいとこでもある」と解説している。奇説なのに根拠を明らかにしないのは不思議だが、わざわざ書くほどだから根拠がある筈だ。それだけではない。清末の洋務運動で知られる譚嗣同の子孫でジャーナリストの譚路美が著した『父の国から来たスパイ』とか題した書にも同じ事を述べるが、やはり根拠を示さない。両者は同じネタに接したのだろうが、ネタが明らかでない。甚だ興味深いことであるから、脇道に逸れるのは承知で、次号で若干の探究を試みたい。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(22)   <了>。
 

●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(23)  ◆落合莞爾
 『ニューリーダー』誌 11月号   
 
 ★伯爵伊東已代治は 従一位中山慶子の甥? 
 
 前月稿で触れたが、明治憲法の起草者の一人で伊藤博文の側近中の側近だった伯爵・伊東已代治が、実は〔明治天皇の母方の従兄弟〕であるとの記述が、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』のほか譚嗣同の子孫でジャーナリストの譚路美の著『父の国から来たスパイ』に見られる。甚だ興味深いので、横道に逸れるのを承知で、その点に触れておく。

 明治天皇の御母は中山慶子(1836生まれ)だから、〔明治天皇の母方の従兄弟〕とは「慶子の甥」のことで、已代治の父か母が慶子と〔きょうだい〕でなくてはならない。已代治の父母は長崎町年寄・書物役の伊東善平と妻の谷口氏ナカで、そのいずれかと慶子が「きょうだい」ならば、慶子は、

@父の中山忠能が善平もしくはナカの実父であるか、又は
A母の松浦氏愛子が善平もしくはナカの実母でなければならない。

 しかし忠能の生年は1809年、松浦氏愛子は1817年で、共に年齢からして善平(1814生)あるいはナカ(1822生)の父母たりえない。第一已代治の父母のどちらかが中山大納言のご落胤ならば、そう言えば良く、回りくどい言い方をする必要はあるまい。枠を広げてその根拠を慶子の血統に求めた時には、慶子の実父母が実は中山大納言・愛子でなかったことになるが、収拾が付がなくなるからここでは採らない。とすると、残された可能性は明治天皇の御血統である。萄もジャーナリストを称する譚路美が、論理的には不可能の〔明治天皇の母方のいとこ〕を敢えて唱えたのは、表面の論理よりも内容の真実性を信じるからであろう。

 そこで、譚路美の説を尊重しながら論理的解決を探ると、結局〔明治天皇は慶子が産んだ睦仁親王とは御別人〕との仮説に逢着せざるを得ない。ここにおいて浮上するのが宮中某秘事即ち☆大室寅之佑一件である。奇説というべくも一概に否定はできず、そのうちあっさり真相が判ることもあり得ようから、本稿はこれ以上追究しない(注 他書は寅之祐とするが、落合が敢えて寅之佑とするのは、他説と区別するための便宜である)。 
 
 ☆ブロガー註:代表的なものに故・鹿島昇『裏切られた三人の天皇−明治維新の謎』
  (新国民社 1997年2月)はじめ、一連の著作がある。 
  鹿島の言う「裏切られた三人の天皇」のうちの一人、孝明天皇の暗殺(毒殺)説の出所の
  代表的なものに、アーネスト・サトウの回想録『一外交官の見た明治維新』がある。
  サトウは、「前将軍・家茂も慶喜によって消されたといううわさは、かなり流布したもの
  である」とも書くが、サトウにそのことを「確言した」人物については、
  「ある日本人」としか記していない。
  萩原延壽『遠い崖』によれば、「サトウがそれを(ある日本人)聞いたのは、
  天皇崩御の当時ではなく、『数年後』、すなわち明治年間のことである。ちなみに、
  サトウの日記は、この『毒殺』云々について、ひとこともふれていない。・・」とある。
  (朝日文庫版 (4)、p195) 
 
 ★国防の核心に携わる俊秀・上原勇作の台頭

 四面を海に囲まれた日本で海防思想が芽生えたのは幕末で、江戸幕府も之れに目覚めた、維新後の明治4年(1871)、兵部大輔山県有朋、同少丞川村純義、同西郷従道が『軍備意見書』を上奏した。侵入する外敵を撃破すべき沿海砲台の設置を主張する消極的守勢戦略であるが、政府は財政的余裕がなく、山県陸軍卿は8年再び上奏して沿海砲台の設置を要望したが、実行は進まなかった。
 13年になり、参謀本部長・山県有朋は「隣邦兵備略」を上奏、帝国主義が末期段階に入って列強の世界分割が始まった国際情勢に鑑み、沿岸主要地域の砲台建設を焦眉の急務と主張した。あたかも戦後文化人が叫んだ「一国平和主義」に相当する当時の「東方論」の非現実性を指摘して、「軍備なければ独立なし」と、砲台建築の必要を訴えたわけである、果せるかな、清国は侵攻するロシアに屈してイリ条約を結ばされ、安南(ヴェトナム)では宗主国・清国が侵入したフランスと争い、清仏戦争に発展した。なかでも泰平の安眠を貪っていた李氏朝鮮は、開国と独立を巡って日・清・露三国対立の焦点となった。南下意欲が急なロシアが朝鮮半島を狙うのに対し、日本は国家存立のために朝鮮半島の独立を欲したが、李氏朝鮮の宗主国・清国は頼むに足りず、この先独立を保つ保証はなかった。

 世界規模で言えば、英露間の帝国主義的争闘すなわちグレート・ゲームの先端が極東に達し、中華思想によるパックス・シネンシス(シナによる平和すなわち冊封体制)と衝突、之れを破壊する歴史的必然が顕現したのである。イギリスは、地政的条件から日本をしてロシアに対抗させる戦略に立った。

 仏国留学中に大尉に進級した上原勇作は明治18年末に帰朝、翌年2月に士官学校教官・工兵学分課を命ぜられたが、19年12月には士官学校教官を罷め、臨時砲台建築部事務官に補せられた。これは陸軍の俊秀を悉く参謀本部に集めた川上人事の一環で、大山陸軍卿の欧州視察に随行し18年1月に帰朝した川上操六が5月21日付で少将に進級、参謀本部次長となって断行したものである。川上が上原を国防の核心たる砲台建築に配置したのは、留学帰りの新知識だからであるが、吉薗ギンヅル・高島鞆之助・野津道貫・樺山資紀・吉井友実ら勇作応援団の要望と完全に一致していた。因みに川上と一緒に大山の海外視察に随官した桂太郎も、川上と同時に少将進級、陸軍省総務局長に就き、以後は川上が軍令系統、桂が軍政系統と分担して日清・日露の両戦役に備えることとなった。砲台建築の技術方面を担当した上原大尉は、20年1月士官学校御用掛を兼補、参謀として各地の砲台候補地を視察し、その間6月から5か月間、軍事探偵として北大から満洲にかけて大陸に潜入した。この車事探偵行を『元帥上原勇作伝』は故意に隠蔽したが、神坂次郎著『波瀾万丈』により明らかになった。同著の根底は、南方でカラユキさんの娼館を経営した樺山伊平治の手記で、それには伊平治が天津の日本領事からの依頼で上原の従者となった次第を述べている。

 ★あの甘粕正彦の愛人が・・・上原の渡欧アリバイエ作 

 22年3月、臨時砲台建築部長・小沢武雄中将の欧州派遣に当たり、上原は随行を命ぜられて欧州を巡覧する。『元帥上原勇作伝』所載の旅行日記によれば、一行は9月2日にマルセイユに到着、翌日パリの「ロード・バロン・ホテル」に投宿した。17日にはオーストリアに向かい、ウィーンで内務大臣・山県有朋一行と会い、29日まで同国を巡覧。31日からポーランドに向かい、次いでロシアの首都ペテルブルグに入り、ロシア皇帝に謁見して滞在20日。次はスウェーデンから北欧諸国を経てドイツを視察した後、7月25日にパリに帰着して暫く滞在、その期間は無記事の日々も多いが、何しろ夏休みである。

 8月23日、パリを発って夜行列車でサザンプトンに向かい、9月6日まで滞英、9月7日にフランスに三度目の入国をした。以後14日まで挙動の記載がなく、15日からパリを基地にしてフランス各地を遊覧した。大抵は同僚の日本将校と同行したが、単独行動の日もある。27日にリヨンを発ってスイスに向かい、ジュネーブに滞留2日、イタリアのヴェニスに入ったのは12月2日であった。以後は南欧諸国を巡視して、12月15日に帰朝の途に上る。

 以上は『元帥上原勇作伝』所載の旅行記であるが、不審なのはその末尾の「元帥がスイスよりイタリアに入った当時はあたかも盛夏の候に際し、官庁は暑中休暇であり、イタリア皇帝は暑さを避け陸海軍の高級武官も亦皆転地中なるを以て、元帥は調査上不便を感ずること少なくなかった。因って再びフランスに至りて調査書類を整理したという」との記載である。旅行記の本文によれば、上原がイタリア入りしたのは12月で、三回目の入国をしたフランスのリヨンを出て、スイスを経由し、イタリアに初入国したのである。盛夏のフランス入国ならば、7月25日にドイツから入った二回目の方で、この時は9月7日に英国から入仏したが、むろんイタリアを経由してはいない。旅行記の本文と末尾が明らかに矛盾するのである。

 落合思うに、これは伝記の編者が上原生前の発言に惑わされたもので
あろう。昭和12年に発行された『元帥上原勇作伝』の編者代表は荒木貞夫大将で、奈良武次大将・松井庫之助中将・井戸川辰三中将が監修に当たった。上原の側近だった荒木が覚えていた上原生前の言を旅行記の末尾に載せたのだが、本文との矛盾は先刻承知で、敢えて放置したものと思う。『元帥上原勇作伝』の内容に隠蔽や矛盾が多いのは、荒木が上原の隠蔽を暴かず矛盾を放置したためで、上原のアリバイ癖を十分承知していたからであろう。上原が始終アリバイ作りに腐心したことは、『周蔵手記』も指摘しているが、素より承知の荒木は敢えて「真相暴露を百年の後に待つ」方針を建てたものと考えられる。

 上原は、この滞仏に関して何を隠そうとしたか。それは、明治に14年4月から18年12月までの留学時代にフランスで馴れ親しんだ女性、ポンピドー家のジルベール(?)との再会であろう。この旅行から39年経った昭和3年、上原の密命で渡欧した吉薗周蔵と若松安太郎は、パリで藤田嗣治と会い、甘粕正彦をリーダーに仰いで密命を果たす。アルザスで周蔵と落ち合った甘粕は、独りで用件を済ましてきて、周蔵たちに報告した。「相手は閣下(上原)の子供だと思える女だった。母親は昨年亡くなりましたと上原に伝えて欲しい、と託かった。混血で、年齢は少なくとも35ぐらいではないかと思う」と。

上原のこの時の滞仏で身ごもった子ならば、明治23生れの38歳になる。その「母親」が上原の帰国後に来日して生んだのかも知れぬが、ともかく、甘粕の愛人としてフランス語を教えたポンピドー牧師の姪とは、この女と見て間違いあるまい。それを、甘粕がいかにも他人のように語ったのは機密保持のためではあるが、それは帝国陸軍の機密ではなく在仏ワンワールドの機密であった。むろん甘粕の内心には、若干の照れもあっただろうが。
 
 ★ワンワ〜ルド薩摩派政権  松方正義内閣の攻防

 明治22年1月25日に帰朝した上原勇作は、臨時砲台建築部事務官として各地の砲台に出張し、5月9日陸軍工兵少佐に進級、10月22日には工兵第五大隊長に補せられた。工兵第五大隊は広島第五師団麾下で、師団長は野津道貫中将である。広島に滞在すること1年、野津の長女・槇子(明治6年10月11日生)が満18歳に達するのを待っていた勇作は、24年10月25日に槇子と結婚式を挙げた。

 ワンワールド薩摩派の初代総長で前宮内次官の吉井友実が24年4月22日に長逝、薩摩派は名実共に二代総長・高島鞆之助の時代に入る。5月6日、山県有朋が内閣を投げ出し、松方正義が第一次内閣を組閣するや、第四師団長高鳥鞆之助が大山巌に替わり陸軍大臣に就く。海軍大臣はその1年前に西郷従道に替わり樺山資紀が就いていた。参謀本部では、総裁に有栖川宮熾仁親王を仰ぐも、実質は参謀次長・川上操六(23年6月中将進級)が取り仕切っていた。いずれもワンワールド薩摩派の中枢で、高島が総長、樺山が副長、川上も副長格であるが、なかでも首相に就いた松方はロスチャイルド直参で日本金融総帥として別格であった。正に陸軍・海軍・参謀本部・金融財政と国家権力の主要部をワンワールド薩摩派が握ったのだが、面々はすべて吉薗ギンヅルの知己で、上原勇作応援団のメンバーであった。上原は恐ろしいほど順調に登竜門を登ったのである。

 軍拡予算を急務とする松方第一次内閣は、民力涵養を叫ぶ民党の攻撃に反撃するため25年2月議会を解散し、総選挙に打って出た。これは閣内強硬派の高島陸相・樺山海相の主導で、松方首相も同心であった。
 彼らが軍拡に固執したのは本人の国防上の信念であるが、根底には英国ワンワールドの意思があったことを見逃してはならない。
 ロシアとのグレート・ゲームを優位に進めるために、日本をして朝鮮半島と台湾島を確保せしむる戦略を薩摩派に実行せしめたのは、玄洋社を看板にした杉山茂丸以外にない。

 選挙干渉は、高島・樺山が主張して閣内唯一の長州人・品川彌次郎内相に実行せしめたが、品川は非戦主義で軍拡延期派の長州陣営に属したから、伊藤博文・井上馨の工作で選挙干渉の手を秘かに緩めた。ところが、福岡県では知事・安場保和が先頭に立ち、玄洋社と相携えて選挙干渉の指揮を取った。安場ら官僚政治家よりも一介の浪人・杉山茂丸の方が、この種の政治行動に積極的だった所に杉山の特異性を観るべきである。

 25年8月8日、選挙干渉を実行した樺山(資雄)・調所両知事の更迭に反対した高島・樺山の辞任で松方は内閣を投げ出し、伊藤博文に替わる。高島・樺山も予備役入りして枢密顧問官となり、陸相に大山巌が復任、海相には仁礼景範(薩摩)が就いた。8月18日に欧州出張から帰朝した陸軍少将・児玉源太郎は、早速に前陸相・高島を陸軍官舎に訪ね、高島から杉山を紹介された意味は深長である。同23日、児玉は陸軍次官兼軍務局長となる。ここにワンワールド薩摩派の政権は一見崩壊したかに見えるが、松方の金融における、また高島の陸軍における、さらに樺山の海軍における権力にはいささかの欠落も生じなかったと思われる。
 
 ★圧勝に終わった日清戦争 樺山の躍進と高島の不遇

 第五大隊長として広島に在った上原少佐は、明治25年8月29日参謀本部に戻り、副官を命ぜられ陸大教官を兼補した。また参謀総長・有栖川宮熾仁親王の高級副官として陸軍大演習に臨み、ある時は観兵式に臨んだ。26年7月から安南およびシャム国に派遣され、東南アジアの現況とフランス・シャム戦争の実況を視察した上原は、11月に参謀本部副官から参謀本部第二局局員に転じ、鉄道会議臨時議員・工兵会議議員に兼補され、国防戦略の中枢に入っていく。当時の国防戦略は、全国要地に砲台を設けて師団が護り、砲台の間を鉄道で繋いで兵員輸送を図らんとするものであったから、兵備としての鉄道の重要性は論を挨たなかった。財政上の理由から鉄道建設を民営に任せざるを得なかった時期に、吉井友実が宮内省を出て日本鉄道会社社長に就いたのもそのためであった。右のように参謀本部で上原が受けた優遇は著しいが、すべて参謀次長・川上操六によるものであった。

 27年3月29日、朝鮮の全羅南道で東学党の乱が起こり、5月31曰朝鮮政府は清国に討伐のための出兵を要請、清国から出兵通知を受け取った曰本も直ちに出兵し、曰清戦役が起こる。非戦士義者・伊藤博文の内閣の時に開戦したのは、歴史の皮肉である。6月5曰、野津中将隷下の第五師団に混成旅団動員の令が下り、上原も同8月27曰に第一軍参謀に任ぜられ9月15日の平壌攻撃に参加したが、翌日平壌は陥落した。9月25曰工兵中佐に進級した上原は、引続き各地の戦闘に参加する。野津は12月27曰付で第一軍司令官に就き、上原も翌年3月に第一軍参謀副長になる。

 曰清戦争は曰本の圧勝に終わり、上原勇作中佐は第一軍参謀副長として28年5月25曰凱旋、10月18曰付で功四級金鵄勲章並びに年金5百円及び勲六等単光旭日章を受ける。戦後も参謀本部に勤め、29年2月から伏見宮貞愛親王(陸軍少将・歩一旅団長)がロシア皇帝戴冠式参列のため差遣に付き、その随行を命ぜられ、半年間欧州に赴いた。

 ワンワールド薩摩派を見渡せば、この戦役の最大の成長株は副長・棒山資紀であった。25年8月の海相辞任以来、2年間を枢密顧問官で過ごしていたが、27年7月現役に復帰、海軍軍令部長に補された。陸軍参謀総長と並ぶ海軍の最高ポストである。28年5月、政府は台湾総督府を新設したが、初代総督に樺山が挙げられたのは少佐時代から台湾問題の第一人者だったからで、そのために海軍大将に進級、伯爵に昇爵した。上原の岳父で高島の義弟・野津道貫は、戦争末期の3月に陸軍大将に進級、8月5曰に伯爵に昇爵し、近衛師団長となる。戦前戦後を通じ、参謀本部次長として軍令系統を掌握した川上操六が一躍子爵に叙されたのは当然であった。右の諸子に比べると高島鞆之助の処遇が何とも不思議で、25年8月の陸相辞任で予備役に入り、樺山と同じく枢密顧問官として過ごしたが、実に3年間しかも日清戦争の戦前・戦中に何をしていたのか、明らかでない。

 終戦直後の28年8月21曰、高島は予備役の身で突然台湾副総督に任ぜられ、劉永福の土匪軍5万を相手に奮闘し台湾島を平定した。第二師団を率いた戦闘だから事実上の戦功だが、戦後処理扱いなのか、何らの恩賞に与らなかった。だが副総督として台湾に関わった高島は、伊藤首相が兼ねた台湾事務局が29年4月新設の拓殖務省に移行するや初代大臣を委嘱され、合湾総督を監督する立場になり、樺山と手を携えて台湾政策の根本を建てることとなる。高島の倒閣工作もあって伊藤が内閣を投げ出したので、9月に松方第二次内閣が成立、高島は陸相を兼務、海相には西郷従道が就き、樺山は内相で入閣した。5年前の第一次内聞を彷彿させる戦争準備内閣には違いないが、最大の目的は実は金本位制にあった。世界金融皇帝ロスチャイルドに貨幣法制定を命じられた松方は、大隈重信にも協力を要請して連立政権の体裁を成したので、世人は「松隈内閣」と呼んだ。貨幣法は30年3月13曰に衆院を通過し、23曰貴族院の是認を経て、11月から金本位制が施行される。金本位制と日露戦争の準備を責務とした松方第二次内閣の政策は明らかに在英ワンワールドの意思に沿っているが、両者を媒介した者は杉山茂丸と観る以外にあるまい。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(23)  <了>。


大日本帝国の「阿片ビジネス」。


●松本清張の遺作『神々の乱心』(未完)の一節の紹介からはじめる。

 ★大連阿片事件
 
 《 ・・・
 大正十二年八月三十日の関東庁高等法院の第二審が、大連阿片事件の被告・木原茂三郎、同川崎友次、同加藤音松に対し、一審判決の背任罪を事実誤認とし、阿片煙罪と改めて判決した背後には、政友会の高橋内閣が瓦解し、加藤友三郎、山本権兵衛と反政友会内閣の出現に影響を受けている。

 満洲の阿片問題は大正八年ごろから世界各国の関心を集め、注視を受けるところとなった。わが帝国が満鉄沿線の特別権益と関東州の租借地の特権をいいことに、シナ人に対し傍若無人な阿片侵略政策を行なったことが白日の下にわかれば、国際連盟の阿片取締法をはじめわが外交はきわめて窮地に立たされるであろう。事は政党と政商の結托から起っている。

 時あたかも台湾では大正十一年六月から翌年六月まで星製薬株式会社社長・星一他二名が台湾阿片令に違反した犯罪行為ありとして検挙された。

 関東州には当時阿片令はなく、「指令書」がそれに代るものとされていたが、台湾と朝鮮は立法化している。

 しかし、星一は(第一次)大戦で医薬用のモルヒネ、コカインなどの輸入が途絶してわが国の医療界が苦しんだ経験から、大正四年台湾専売局から粗製モルヒネを払い下げてもらい、塩酸モルヒネを製造することができた。研究の結果、日本に於て製造された最初のモルヒネである。その成功がモルヒネのほかにコカイン、キニーネなどのアル力ロイド薬品製造を起すことになり、内務省の許可をとった。これも星が日本で最初である。

 しかるに、これを嫉妬した他の製薬会社は連合して星製薬に当った。星が粗製モルヒネの大量買い付けにトルコ阿片を輸入して基隆港に荷揚げしているのに目をつけた競争製薬会社は、(星側が内務省・台湾専売局ならびに関係官庁の諒解をとっていると主張しているにもかかわらず)星の外遊中に手を回して、台湾検察当局に阿片令違反として起訴せしめる陰謀をなした。

 社長の星一は公判廷の最終陳述で云う。
「当社の発明を基礎とした低温工業株式会社の創立中に阿片事件が起り、全く破壊的打撃を与えました。さらに会社経営上一台打撃を受けております。加うるに台湾専売局より大正四年以来払下げを継続していた粗製モルヒネが、もう二年以上も一ポンドも払下げてもらえないのです。この三月に粗製モルヒネの払下げを出願せしもの三十三社あったということですが、これら三十三の出願社が直接間接に本事件の上に私及び私の会社の上に与うる悪影響は恐るべく重大なものがあります。さらに本事件は一大悲劇を起しております。昨年当社の取引関係について常務取締役・安楽栄治氏を台湾検察局に出頭させました。この善意の出頭者に対して検察官は、『何ノ為メニヤツテ来タカ、少シデモ間違ヲ云フト獄二投ズルゾ』と叱り短き訊問をし、更に何人にも会う事は絶対にならんと云うので、安楽君はホテルの一室に閉じこもり、食事も室内でなし、廊下にも出ず、ホテルの同宿者にも会わないようにして帰りました。この安楽君は本年一月直腸癌の手術を受けました。その時医師の診断によると、病気の発生期がちょうど台湾に来た時と一致するのであり、いま築地の聖路加病院に加療中ですが、危篤状態で、私の帰京まで生命がもつかどうか悲しむべき様子であります。さらにこの阿片事件で重大な関係のある前内務省医務課長・野田忠広氏は先月病死せられました。台北でこの事件のために牢死したものがあると聞きました。今もなお、ロンドンやニューヨークの競争者は、星は牢屋にいるから競争するのはこの際だとして、彼らより猛烈な競争を受けつつあります」

 この台湾阿片事件の星一の立場と、かの大連民政署の阿片事件の古賀、木原、川崎ら一味の立場とを比較せよ。星は粗製モルヒネからわが国最初のアルカロイド薬の抽出に成功した。その発明が競争会社の嫉視を買って、阿片事件を捏造され、星製薬会社の非運を招いたのである。古賀、木原、川崎ら輩とは、名は同じ阿片事件でも、まさに月とスッポン、天雲と汚泥の違いではないか!》 ・・・後略。

 ***************                      
 
 星一の周辺から事件前後の状況を見てみると、こうなる。

以下は、落合莞爾氏の論考「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(24)」の終章である。 
 
 ★大日本帝国「麻薬ビジネス」の本質

 明治三十七年にアメリカから帰国し、伊藤博文の朝鮮行に随行した星は、翌三十八年に星製薬所を設立し、胃腸薬などを製造販売した。米国で新聞社を経営した星が、帰国後に製薬業に乗り出したのは不自然で、もともと台湾総督府絡みのアヘン製剤を睨んで始めたものと思う。

 星が二ューヨークで知り合った新渡戸は、欧米差遣中の三十五年六月に臨時台湾糖務局長に就くが、帰国後京大教授を兼ね十月から京大教授専任となった。星が帰国した時には新渡戸は総督府を去っていたが、星は新渡戸の親分の後藤新平が三十五年に欧米出張した時に、ニューヨークで知り合っており、何よりも「根源的人物」の杉山とは渡米前からの知己であった。大正三年に第一次大戦が勃発、重要医薬品モルヒネの輸入が途絶えた日本ではモルヒネ国産化が急務となるが、翌年には星製薬がモルヒネ国産化に成功する。予め台湾に製薬所を作っていた星は、まるでモルヒネ製造の国内化を予測していたように見えるが、真相は世界情勢を知る後藤・新渡戸ないし杉山の勧めによるものであろう。内務省から独占的製造許可を与えられた星製薬は、総督府から払い下げられる生アヘンでモルヒネ・ヘロインを製造し、製薬王と呼ばれた。

 総督府の生アヘンは内地産で、麻薬王を自称した二反長音蔵が全国の農家を奨励して量産したものである。明治八年に大阪府三島郡の福井村に生まれた川端音蔵は、三十四年に二反長家の養子となったが、実家の姓が示す通り、三島郡豊川村から出た作家・川端康成の近親と聞く。音蔵がケシ栽培に眼を付けたのは、新領土となった台湾は阿片吸引が盛んで需要が多い、と聞いたからである。元来、摂津地域では幕末からケシ栽培とアヘン製造が多少行われ、道修町の薬種問屋を通じて清国・台湾に輸出していたが、邦人の需要は少なく、明治八年阿片専売法が制定されて自由栽培が禁止されたこともあり、二十年代にはほとんど絶えていた。ところが台湾には三百万人、五万貫の阿片需要があると聞いた音蔵は、国産化を思い立ち、二十八年から台湾統計府・内務省・農商務省に建白書を提出する。当初は取りあって貰えなかったが、繰り返すうちに三十一年三月、台湾総督府民政長官(六月までは民政局長)に就いた後藤新平の眼に止まる。全量を輸入に頼る台湾アヘンの国産化を急いでいた後藤は、福井村を視察した時に引見した音蔵に期待をかけ、生アヘンの全量政府買い上げを決めた。後藤が星をアヘン製剤業に起用したのは、杉山が誘導したものと思える。

 日本はモルヒネ国産化以来わずか二十年にして、モルヒネの生産世界一に達し、国産せず国内需要も少ないコカインにおいても主要取引国となった。麻薬ビジネスは元来在英ワンワールドが最も得意とした分野で、儲けも大きいが、日本はそこへ易々と進出した。その真相は、日本に対露戦争を強いた英国が、日本の軍費を補償するために麻薬ビジネスを譲与したと思う。日英の媒介をしたのは無論杉山であろう。

 ***************                      
 
  その杉山茂丸・『百魔(正篇)』には、星一について、

 16・異郷の天地に星一氏と遇う に始まり、
 24・新聞売子より製薬王になる まで9章に及ぶ記述がある。 
 
 (★書肆心水版=2006年8月刊で、P102〜152。)
   
 その紹介は後日にして、●「疑史」上原勇作(3)の終章部を少し。

 ここでは、後藤=二反長ラインが取りあげられている。
 二反長音蔵とは、「阿片王」とも「阿片狂」ともいわれた人物である。  
 
 以下引用する。***

 新領土台湾におけるアヘン漸禁政策の採用から十数年、後藤新平の意を受けた篤農・二反長(にたんちょう)音蔵の努力によりアヘン製造の内地化が始まり、ケシ栽培者も岡山県と大阪府では千人前後に増えたが、他府県では数人から百数十人しかおらず、量産にはほど遠かった。後藤・二反長系列だけでは国内需要に満たず、他からも応援が欲しい状況だったが、周蔵は量産化に向かわず、特種ケシの栽培とモルフィン純度の極めて高い特殊なアヘンの製造を志向した。(*周蔵が一時入学した)熊本医専にはケシ専門官がおらず、周蔵は極めて少ない関連書物を漁り外国文献に頼りながら、独自に研究を始めたが、戸田某が陸軍嘱託の立場で派遣されて指導に当たることとなった。しかし戸田は、個人的に上原大臣の思想と合わないとの理由で直ぐに辞した。白樺派に共鳴する帝大農学士というから、諸侯系華族に六家ある戸田家のどれかの出であろう。

 大正三年春、ギンヅルから「渡辺ウメノという老婆からケシ関係の古書を貰って来い」と言われた周蔵は、京都に行き御霊前の医師・渡辺家を訪ねる。ウメノは田舎に行ったとのことで、「綾部ナル所マデ訪ヌルト 大本教ノ教祖ノ住ヒナルニ、大部不審ヲ抱ヒタ」とある。

 母が丹波穴太村のアヤタチ・上田家から出たウメノは、上田吉松とはいとこであった。大本教(正しくは「皇道大本」)の実情は、上田吉松・渡辺ウメノと出口ナオが手を組んで立教したもので、吉松の伜の上田鬼三郎(通称喜三郎、のち出口王仁三郎)が婿入りした綾部の出口家を本拠とした。

 出口和明『いり豆の花』は、当時の大本の発展ぶりを次のように記す。
〔まさに、「日に日に変わる大本」で、大正二年から三年にかけて大本近隣の土地を買収、大正三(1914)年一月一日には上野に三千五百坪の地ならし工事が開始され、金龍殿と統務閣の新築が決定された・・・王仁三郎が綾部に腰を据えてからの成長ぶりは、目覚ましいものがあった〕。

 正に多忙を極めた大本教団を手伝うために、ウメノは綾部の出口家に寄留していたのである。この時周蔵は、出迎えたウメノの胸元になぜか銀の十字架を見たと、後に家族に語った。ウメノは周蔵に、秘伝書の他に特種の黒いケシを呉れた。前述した多神教イスラエルの子孫のアヤタチ上田家は「在日マカイエンサ」でもあり、その種はオランダ渡りという物であった。

 アヘンの主用途は大凡三つあり、誰もが知る「鎮痛用ケシ」と「快楽用ケシ」の他に、余り知られていないが「延命用ケシ」がある。この時周蔵が貰ったケシは延命用で、これから作った純質アヘン粉が万病に効き、長寿をもたらすことを知った周蔵は、上原の許可を得て、以後はその増産に専念して、上原に献上するのが主要任務となった。上原の財界の盟友・久原房之助もこれを渇望し、周蔵は思いもよらぬ財運に恵まれて一生を過ごす。

  続く。 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(25)
  上原勇作元帥の「草」にして、ケシを植える男・吉薗周蔵 ◆落合莞爾   

 ★薩摩軍人の星・上原勇作 対露非戦派・長州閥と対決 

 明治31年に高島鞆之助が桂太郎に追い立てられる形で去り、32年には川上操六が病死した陸軍にあって、トップの参謀総長に就いた薩摩の大山巌は、敢えて寡黙を装い、政治に関与するのを避けた。若い頃からチャリ(滑稽)好きで知られた陽気な性格からすると、真に不思議なことで「薩摩型統帥の理念を大山が自ら具現したもの」と俗流は解している。

 しかし、これには相応の理由があった。英露の世界史的抗争=グレートゲームの中で、在英ワンワールド首脳が薩摩支部に与えた責務はロシアに対する軍事的対抗で、そのため薩摩派の将領たちは、維新政府の中でなりふり構わず軍拡を主張してきた。
即ち吉井・高島・樺山・松方らで、大山もむろんその一人である。これをずっと妨げてきたのが長州派で、理由は民力涵養のための非戦主義と言ったところであろう。

 そこで、玄洋社を看板にした杉山茂丸が、折から台頭してきた長州の新興勢力たる児玉源太郎と桂太郎を英同盟構想によって取込み、この両人の工作で、恐露病者で慎重派の山県有朋と非戦主義者で親露派の伊藤博文との間を分断し、伊藤を枢密院議長に祭り上げて政治力を封じた結果、国内が一転、対露積極策で固まり、大山が大声を出す必要が消えたのである。

 大山が寡黙を徹したため、陸軍内部では長州勢が人事権を握ったが、これには薩摩から長州に対する報償の一面もあった筈だ。とにかく陸軍の薩摩健児の寥々たる境遇は、真相を知らぬ九州軍人たちの同情を買ったが、その中で上原勇作だけは陸軍有数の欧州通として知られ、識見手腕ともに抜群で長州派にとっては最も手強いライバルであった。

 明治32年に男爵・林董の随員としてハーグ平和会議に派遣された上原は翌年少将に進級し、砲工学校長兼参謀本部第三部長に補せられ、34年には工兵監を命ぜられた。軍事スパイとして知られる石光真清の手記によると、大連に滞在していた石光は36年7月末、上原少将が信濃丸で到着した知らせを受け、船上に上原を訪ねて情勢を報告したところ、上原は石光の境遇や将来の方針、経済状態まで詳しく質問して労を謝した。

 これは、ジュネーブで9月から開催される万国赤十字条約会議に際し、7月20日付で委員として参列を命ぜられた上原が、渡欧の途上、大連に寄港した時のことである。上原は石光に日露の戦雲接近を告げ、交通機関、特に鉄道輸送力につき精密な調査をするように注文したのは、あくまで陸軍工兵監としての立場であった。対露戦に備えるため、自ら予備役編入を願い出て陸軍特務となった石光が、永年の活動を記録した有名な手記の中に、上原勇作の名が出るのはこれきりである。

 予備役少佐として裏から陸軍の支援を受け、時には現役に復帰して、生涯を陸軍のための諜報活動に挺身した石光だが、その後半生はむしろ上原元帥の私的諜者であった。むろん極秘の事で、長男・石光真人の編集になる『石光真清手記』が、石光と上原との右の関係を隠したのは、当然というべきであろう。
 37年2月19日欧州から帰朝した上原は、6月に勃発した日露戦争で、第四軍参謀長として岳父の第四軍司令官・野津道貫を助けて活躍した。39年1月に凱旋するや、戦功により功二級金鶏勲章及び年金一千円を賜わり、7月6日付で陸軍中将に進級、40年9月21日に男爵を授爵し、41年には勲一等瑞宝章に叙せられた。

 ★湧き起こる陸軍改革運動 増師実現へ上原を担げ

 明治40年4月4日、陸海軍首脳は陸軍二十五個師団・海軍八八艦隊による「帝国国防方針」を策定した。その濫觴は39年8月の第二次日英同盟調印に際し、英露開戦となった場合のわが軍の対処方針につき、前参謀総長・山県元帥を中心に検討したものとされる。当時の陸軍三長官は参謀総長・児玉源太郎、陸軍大臣・寺内正毅と長州が占め、教育総監だけが薩摩の西寛二郎で、三人の上に陸軍のドン山県有朋がいた。かつて恐露病者と揶揄されていた山県は、杉山茂丸の調略により日英同盟に依拠した対露積極案に鞍替えし、日露戦争で運良く功績を挙げた。「帝国国防方針」は、対ロ積極論の延長線上にあるもので、英露のグレートゲームに巻き込まれた日本には、英国の傘下たる以外に選択肢はなかった。恰も戦後日本が60年経っても米主日従体制を抜け出せないのと同様である。「帝国国防方針」の陸軍案を作った参謀本部作戦班長・田中義一中佐は、児玉源太郎の薫陶を受け、山県・寺内ら陸軍首脳の信任も厚い長州の寵児であった。

 陸相・寺内正毅中将は長州閥の意識が強く、軍人として声価を高めていく上原を警戒し、軍中央から遠ざけるために上原を41年12月21日付で旭川第七師団長に飛ばした。長州派の露骨な派閥人事に対する欝積が嵩じて、明治42年頃から陸軍改革運動が参謀本部内に澎湃として起こる。陸軍内の派閥解消を目指す運動で、首謀者は佐賀の参謀本部第二部長・宇都宮太郎少将(士官生徒七期)と薩摩の戦史課長・町田経宇大佐(同九期)であった。彼らは改革運動の中心に第七師団長・上原勇作(同二期)を担ごうとしたが、担ぎ手が九州人ばかりでは藩閥抗争と受け取られる虞があったところ、軍事課長・田中義一大佐(同八期)が加わったため、展開が急に広がった。長州閥の寵児・田中が派閥よりも政策を優先し、上原を担いだのは見識である。

 43年11月少将に進級した田中は、歩兵第二旅団長として10か月を過ごした後、44年9月1日付で陸軍省軍務局長に就いた。前年に大韓帝国を併合した日本は、朝鮮半島の治安維持とロシアの南下に備えるため、駐韓常備軍として二個師団の新設を必要としたが、日露戦後の財政難と厭戦気運から世論の賛成を得ることができないでいた。ところが海軍が戦艦8隻に巡洋艦8隻を揃えるいわゆる八八艦隊の保有を帝国議会で認められたのは、折から英国が大型戦艦ドレッドノート号(いわゆる弩号)を建造したことで世界が大艦巨砲時代に入ったことを国民が理解したこともあるが、海軍の総帥・山本権兵衛大将の政治力による所が大きかった。そこで陸軍省は悲願たる増師の実現のため、省の要の軍務局長に田中少将を就けて省内を取り仕切らようとしたわけである。田中らの共通認識は悲願達成のために担ぐべき神輿は上原以外にないというものであった。

 田中就任の前々日、8月30日に第二次西園寺内閣が成立するが、朝鮮総督に専任するため9年も就いてきた陸相の座を去る寺内の後任を巡り、上原と石本新六(士官生徒一期)の争いとなる。田中らの思いにも関わらず寺内が後任陸相に選んだのは、永年にわたり陸軍次官として支えてくれた石本であった。上原は9月6日付で宇都宮第十四師団長に転補されて都合4年も田舎回りとなる。まことに露骨な寺内の派閥意識というほかない。ところが10月、孫文が辛亥革命で清朝を倒した結果東亜の軍事情勢は急変した。すなわち、大陸政変に刺激されたロシアが満洲・朝鮮にどう出てくるか、全く予断を許さなくなったのである。これに対処するため、強引にでも註韓二個師団の増設を避けられない状況となった陸軍で、新任の石本陸相が45年4月2日に過労死したので、お鉢は自然に上原に回り、山県元帥の推薦によって上原は、4月5日に陸軍大臣に就く。増師案の実現に向けて原案を作ったのは、軍事課長・宇垣一成大佐であった。陸士の学制改正により士官生徒十二期は士官候補生に移行したが、宇坦はその第一期生で、石光真清の兄・真臣(のち中将)と同期に当たる。軍務局長・田中義一少将が宇垣案を以て内外の根回しを行い、陸軍次官・岡市之助中将(士官四期・のち男爵)が省内をまとめ、陸相の上原中将が政界トップに向けて強力な政治工作を展開するという分担となった。

 ★三居ギンヅルの計らいで 「上原閣下ニ オ目通リ」 

 私(落合)が明治日本の裏面史に目覚めたのは、外でもない。読者も御存知の『吉薗周蔵日記』にたまたま接し、その解読にこの10年を捧げたことによる。『周蔵手記』の第一冊は「上原閣下(時二陸軍大臣、陸軍中将)ニ オ目通リニツヒテノコト」と題するもので、本文は「大正元年八月二日有名ナ上原閣下ノ 手先ト称スル人物 三居二来ル。九日 上原閣下二 オ目通リノ為 東京二出ルコト決ル。 周助ヲジト 前田治兵トガ同行」で始まる。

 明治45年は7月30日を以て大正元年となる。その2日後に陸軍大臣・上原勇作の手先と称する人物が宮崎県西諸県郡小林の吉薗家に三居を訪ねてきた。【三居】とは、当主以外が隠居した場合を指す宮崎方言で、この場合はギンヅルである。四位氏を父として生まれたギンヅルは、母の実家の岩切家で育ち、吉薗に嫁す母の妹の養女分として随行、吉薗家に入った。叔母は吉薗家の跡取り・萬助を生むが、萬助には子供がなく、義姉・ギンヅルが公家・堤哲長との間に作った林次郎に吉薗家を継がせた。
当主林次郎の実母で先代の養姉でもあるギンヅルは、まさに吉薗家の三居なのである。ギンヅルの姉が龍岡家で生んだギンヅルの甥は上原家の養子となり、上原勇作となった。

 陸相・上原勇作の手先を名乗る前田治兵衛の用件は、林次郎の長男・周蔵を上原に目通りさせる一件であった。長男の出郷を渋る林次郎夫婦の説得のために、ギンヅルがわざわざ呼び寄せたのである。吉薗夫妻も納得したので、周蔵は上原閣下にお目通りするため、8月9日の上京が決まり、大叔父の木場周助と前田治兵衛が同行することとなった。

 陸相就任に至るまでの上原の経歴は上に陳べた通りで、34年7月、参謀本部第三部長から工兵監に転じ、以来41年11月まで(日露戦中を除いて)工兵監を務め、日本工兵の中心的存在となる一方、陸軍きっての欧州通として陸軍内の輿望を担った。警戒した寺内陸相により旭川の師団長に飛ばされたが陸軍内の人気はいよいよ高く、陸軍改革運動では改革派の星とされ、寺内陸相の後任争いでは陸軍次官・石本新六に敗れるも、石本が45年4月に急死して遂に陸相に就いた。陸軍改革派が上原を担いだのは「北の守り」即ち朝鮮常駐二個師団の増設実現を期待したものであった。

 永く陸軍中央から遠ざけられていた上原は陸相就任以来、増師に全力を傾ける。寸暇も無いはずの上原は19歳の吉薗周蔵を宮崎から呼び寄せ、8月9日、上総一ノ宮海岸の別荘で引見に及び、「お前んに【草】を頼みたか」と切り出した。「草」とは忍者の一種で「草の根を張る」とも謂い、正業を表看板に掲げて定住し、周囲の信用を得て、裏で諜報活動に従事する者の謂である。  

 ★「アヘンヲ ウヘテミテホシカ」 唐突過ぎる懇請

 明治末から大正に掛け、政界が増師問題に明け暮れていた時、当の陸相が急にアヘンの研究を始めたのは何故か。『周蔵手記』によれば、周蔵に草になってくれと頼んだ後、上原はこう言った。「自分は今、陸軍に対して一つの大胆な事をせねばならぬと思っておる。本当の事を言うと陸軍は今分岐点に来ている。自分が思っていることを誰かが試してくれて、それがうまく行ったら、この日本陸軍は大変な軍になれる」と丁寧な口調で語った。

 イギリスの支援もあり、辛うじてロシアを撃退し得た日本の将来を考えた上原は、陸軍は今や分岐点に来たと判断し、今後は軽重いずれの道を取るべきかが課題と規定したのである。周蔵が「そいはどげんこつですか」と聞いたが、まだ草になるとは答えていない。自分ではやっても良いかと思ったが、ギンヅルに聞いてからと思って即答を避けた。それを聞いた加藤邑は、「即答しなかったのは君にしては上出来だ」と褒めた。

 それでも上原閣下は、自分に内容を話して下さった(以下、カタカナ表記は『周蔵手記』より)。
 「コゲンコツ 思フチョルノデゴアス」と目上の者に言うように―
「アヘンヲ ウヘテミテホシカ 思フチョイモス」。
「アヘンと言ったのかケシと言わずに。ウーン」と加藤は唸る。
「ソレハ 上原サンハマダクハシクハ知ラナイネ」。

 上原は続けて「アヘンがうまく出来れば、軍の裏産業にもなるし、軍人の怪我の治療にも一等と聞くから、自力でアヘンを手に入れたかと思ふちょる」と言いながら、「然しそれはアヘンを余り詳しく知らん、軍の人間の考えでごあんが。アヘンちゅふもんを過大評価し過ぎている可能性もあるのでごあんが」と自ら反問した。誰かからアヘン生産を勧められていた上原は、周蔵の前でその是非を自問自答したのである。アヘンが毒とか薬とかいうが、
  「ドゲンモンカ 身ヲ以テ知ランモンガ アーダコーダ云ッチョイモス。実際二栽培シテ アヘンヲ製造シテミンコトニハ ソレガドンナモンカ分リモッサン。現二日本デモ作ッテハヲルガ 俺イニハ ヤフ分ランノ
デゴアンガ」。

 曰本では古来宗教者や忍者がアヘンを用いたが、主たる用途は自白剤であった。摂津辺でも細々と作っていたが、道修町で薬種屋奉公の太田四郎兵衛が、清国から入ったケシ粒を実家で栽培させた天明8年(1837)が近代国産アヘンの始まりという。その後は、国内需要が少ないためケシ栽培は大して広がらず、明治12年阿片専売法が出た後はほとんど立ち消えの状態であった。ところが曰清戦争で新領土となった台湾では島民の吸引が盛んで、清朝政府も手を焼いていた。政府は内務省医務局長・後藤新平が提案したアヘン漸禁策を採用し、明治31年(1899)の台湾阿片令で台湾島に於けるケシ栽培を禁止したが、吸引用アヘンは輸入に頼っていたので国産化が課題となった。

 摂津三島郡福井村の二反長音蔵が、有望な畑作物としてケシ栽培を勧誘しているのを知った台湾総督府民生局長・後藤新平は、全量の政府買上げを決めて以来、ケシ栽培農家はしだいに全国に広がった。上原が「現二 曰本デモ 作ッテハヲルガ」と言ったのは後藤・二反長系のケシ栽培を指したのである。平時にはアヘンなぞ無関係な陸軍で、しかも永く中央から遠ざかっていた上原は、アヘンと言えばケシ粉で肺壊疸が治った医薬品としてしか認識していなかった。誰かから突如アヘン生産を指示されて泡を食い、「俺イニハ ヤフ分ランノデゴアンガ」と愚痴っぽく言ったのである。

 ★阿片は極秘重要戦略物資 在英ワンワールドの狙い

 戦争史は、攻撃兵器の進化とこれに対する防御手段の発達の弁証法的発展過程である。クリミア戦争では火器が格段に発達し将兵の死傷が激増して、ナイチンゲール率いる従軍看護婦が活躍したが、曰露戦役では旅順要塞のごとき防衛手段が発達し、ナポレオン以来の決戦戦争を持久戦に変えた。勢い戦場に傷病者が累積する中で、火器と同等の重要軍事物資として注目を浴びたのが、麻酔・治療に用いる麻薬モルフィンで、これはケシから取れる生アヘンを精製して作られる。当時は帝国主義の最終段階で、欧州の戦雲は妖気を孕んできた。アヘンの需要は激増するだろう。したがって「軍の裏産業にもなるし、軍人の怪我の治療にも一等と聞くから、アヘンの実際がどのようなものかを、直接知りたいと思うから、お前ん(周蔵)に頼むのは心苦しいが、一番頼み易いお前んに頼みたい」のである。

 周蔵は大正2年6月8曰、70グラムの初収穫を上原に届ける。第三師団長に補されたが赴任せぬまま、その翌曰に待命が発令になる上原は、今後も研究栽培を続けよと金一千円を賞与して、周蔵を驚かせた。大正3年4月、陸軍教育総監として中央に復活した上原に、周蔵は7月3曰、2年目の収穫4百グラムを届けに行く。上原は「量は少ないが、お前んの薬は非常に純度の高か出来である」と今後の増収を期待した。周蔵の栽培品種は、熊本医専と細川藩しか知らない特種で、これに前年に綾部の☆皇道大本で渡辺ウメノから貰ってきた延命の黒ケシが加わった。曰本古来の特種ケシに始まった周蔵のケシ研究は以後もその方向を目指したので、二反長流の量産志向とは異なるのである。

 3年目の収穫を届けた大正4年7月10曰、周蔵は上原の本音を聞いた。「アヘンは軍の勝敗を左右する重大な物質である。それも極秘物質である。現在は支那・インド・朝鮮にその供給を頼らねばならず、いざと言う時に、生産地に裏切られたら、それが敗因になる。陸軍は阿片の自給体制がどうしても必要だ」。上原は周蔵にケシを作らせていた3年間に軍の方針を立て、ケシ栽培に踏み切ったのである。☆これは結論を言えば、在英ワンワールドが、高島鞆之助が杉山茂丸を通じて上原に指示したものであろう。明治40年の英露協商くらいで英露のグレートゲームが収まる筈もなく、現に今でも続いている。戦争手段の発達は世界を縮小するが、イギリス海軍の実力がいまだ極東まで及ばなかった当時、大陸国ロシアを牽制するには極東に海軍力を必要とし、それをイギリスは曰本に頼らねばならぬ段階であった。ところが、曰本の世情は財政難のため、非戦気分に満ちていた。そこで、在英ワンワールドは、軍備の財源として、曰本に阿片ビジネスをやらしてみようかということになったのではないかと思う。 

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(25)   <了>。

  続く。                       
 

http://2006530.blog69.fc2.com/category2-11.html


 

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