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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その21
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
― 『宇都宮太郎日記』から起高作戦=高島鞆之助再起策を追う
★「高島を棄ておくのは今日甚だ残念」起高作戦の淵源
前月に紹介した『宇都宮太郎日記』の明治33年2月5日条は、次のように始まる。
「起高作戦の第1着手として、直ちに本人を紀尾井町の邸に訪い(退省掛)、其の出づべきや否やを叩きしに、自分に於ては何時にても出づるの意なきにあらざる旨を答ふ。因て其の方法として2案を陳ぶ(1は直に大山を交代すること、2は1旦大臣となり夫れより本目的の地に移ること)。本人は、不同意にはあらざるべきも時機未だ到らずとの意を洩らせり。余は、妨げとならざる様、多少試みるところあらんことを告げ、且つ互いに秘密を守るべきことを約す」
いきなり出てきた「起高作戦」とは、2年前に陸相を罷めて予備役に編入された高島鞆之助を再起させる作戦のことである。宇都宮少佐が高島邸(現在は上智大学のクルトゥルハイム聖堂)を訪れたのは、高島を参謀総長に就ける工作を実行するに当たって本人の意思を確認に来たわけだが、高島がいつでも出馬の意思はあると答えたので、方法として2案を示した。第1は、大山巌・参謀総長と直接交代すること。第2は、一旦陸相に就き、それから本来の目的たる参謀総長に移ることである。これに対し高島は、不同意ではないが時機未到来と答えた。そこで宇都宮は、邪魔にならぬ範囲で若干試してみると告げ、互いに秘密保持を約した。夕食後、宇都宮は高島邸を一旦辞去し、参謀次長・大迫中将を訪れる。種々談話の中で「高島中将を現在のままに棄ておくのは、国家大有為の今日甚だ残念」と言うと、大迫も同感と答えたが、宇都宮は真意までは明かさず、10時過ぎに大迫邸を辞して高島邸に戻り、一泊した。
同じく2月18日条にも、次のような一文がある。
「午後3時過ぎの汽車にて大磯に至り、伊瀬地少将を訪ひ、此の夜は旅館石井に一泊す。此の行の目的は一には少将の病気を見舞ひ、一には起高作戦の第1着手を為したるなり。蓋し、露国との大決戦を目前に控えたる帝国の参謀総長としては、諸将官中に〔高〕に勝るものなく、国家の為め是非とも之を起さざる可らざることを説き、其方法としては(1)政変の際高島を陸軍大臣となし、現役に服せしめ、大臣の席を他に譲り自らは参謀総長に転じて、終身之に拠るの決心を為さしむること。(2)は大山現総長をして、自ら高島を薦めて辞職せしむること・・・」
宇都宮が大磯に来た日的は、まず伊瀬池少将の病気見舞いである。伊瀬池好成は薩摩藩士で、明治4年の御親兵募集に応募して初任少尉。第一連隊長・乃木希典の副官だった伊瀬地は、郷里の隣家・湯池氏の息女シヅを乃木と見合いさせた。11年に高島鞆之助夫妻の媒酌で結婚式を挙げた乃木夫妻は、その34年後に壮絶な自裁によって明治の日本精神を世界に顕現した。日清戦争の最中に少将に進級した伊瀬地は、28年11月に第一1旅団長、兼威海衛占領軍司令官に補せられ、31年10月1日付で近衛歩兵第二旅団長に転じた。この日は大磯の石井旅館別館で病臥していたが、2か月後に中将に進級して第六師団長に補されるほどで、重病ではない。病気見舞は口実で、宇都宮の本来の目的は「起高作戦」に関して伊瀬地の意見を聴くことであった。ここで「帝国陸軍の参謀総長として高島程の適材は他に居ない」との主張は、現総長・大山巌も実は適材でないことを意味する。茫洋を以て自他ともに任じる大山元帥のリーダーシップは調整型で、国家危急の際の適材ではないので、国家のためには果断を以て鳴る高島を是非とも立ち上がらせる必要があるとし、その実現方法としては次の2つを挙げた。(1)は、現行の山県内閣の倒れる際、高島を3度目の陸相に就けて現役に復帰させ、その後陸相を後進に譲る形で高島自身は参謀総長になり、生涯その職を全うする決心をさせること。(2)は、現総長大山巌が高島を後任に指名して辞任することである。更に続けて『日記』に記すところは、
「この2案の中では(2)が良い。それは政変が起こるにしても、次の内閣を組織する者は伊藤かその同類であって、自由党とは必ず提携か連
立するだろうし、またその時には桂は依然としてその地位に留まるだろうから、高島の登場の余地はほとんど期待できない。又、進歩党との連携も、遠い将来はともかく、当分は出来る望みはない。要するに、自由党にせよ進歩党にせよ、高島の手腕を畏怖しているので、之を迎えて内閣に招くことは、当分の情況では決してあり得ることではない。然し、時機時機と言ってばかり居ると、歳月の過ぎるがごとく、高島は軍人からも忘れられ、世人からも全くの予備役将官として谷や曽我と同視されるがごとき境涯に陥り、現役復帰は益々困難となっていく・・・」
つまり、高島を参謀総長に就ける方策は、@政変の際に高島を陸相に押し込み、その後で高島が陸相から総長に転進するか、A現総長の大山が後継に高島を指名するか、の2案があるが、結論としてAが良い。理由は、政変が起こっても山県の後任首相は伊藤かその同類の政党容認派であって、自由党系と連携するだろうし、その場合には桂は陸相を罷めないから、高島を押し込むのは無理である。しかしながら、好機を待っていては、高島は同じく予備役中将の谷干城や曽我祐準(当時日本鉄道社長)と同様、軍人からも忘れられてしまう。右の理由で、宇都宮は焦燥感を抱いていた。
★大山巌参謀総長に後任として指名させれば・・・
『宇都宮日記』は、続きを次のように記す。
「結局(1)は採れず、(2)を採るしかない。つまり単刀直入の(2)が最も得策で、しかも決行は現時点が適している。それは、当の競争相手のうち、山県は目下総理大臣、桂は陸軍大臣、児玉はまだ競争相手に数えるには足りないが台湾総督の座にあり、これらの大物が参謀総長に手を伸ばすことを今はしにくいから、大山が納得して自ら引退し、代わりに高島を推薦したばあい、彼らは勿論内心は反対であるにしても、西郷従道(内務)、樺山資紀(文部)、山本権兵衛(海軍)らの閣僚が同心協力して、その地位を賭けても之れをなさんとの決意さえあれば、できないことではないと確信する。このため、まず西郷を説得し、西郷から大山に説得させ、且つ山県らに対しては、大山にも一緒に相談させなければならない。西郷を説くには野津(大将・東武都督)を用いるが、野津を動かすのは伊瀬地その人である。この決心が一旦決まるや、一瞬にして決行すべきで、そうでないと長州の桂太郎・寺内正毅(中将・教育統監)を中心として陸軍省の岡部政蔵(長州・陸軍省高級副官)・宇佐川一政(長州・軍事課長)から、また参謀本部でも田村チ与蔵(山梨・第1部長)・福島安正(長野・第2部長)から、連合して反対運動も起こるべく、伊藤を経由して天皇の聖旨を持ち出す反対運動もあり得る」
以上の要旨を反復して伊瀬地に説いたところ「同人も素より大大賛成 にて、病気がもう少し回復すれば、3月下旬ころ帰京して大いになすあるべきを承諾した」との文章の隅々に、起高作戦に当たってまず伊瀬地に打診したところ、大賛成の感触を得た宇都宮の嬉しさが滲み出ている。
続く。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19)
― 『宇都宮太郎日記』から起高作戦=高島鞆之助再起策を追う
★「上原勇作大佐を訪れ起高談をなす」
以下も『宇都宮日記』を観ていく。
「2月19日、朝飯が終わったばかりの頃に、伊瀬地が来た。そこで自分は旅館を引き払い、伊瀬地の宿(石井旅館の別館)に行き、前日の談論を反復してその決心を確かめ、午後3時28分発の汽車で帰京した。2月20日役所(参謀本部)にて、高島を起こす必要を上原勇作と語るが、起高の決心はまだ本気では語らなかった。3月3日、高島子爵を訪ね、例の件に関し、大迫・西の両中将が今夜高島子爵を訪う由を聞く。3月6日の東京朝日に『サーベル党が大山もしくは大迫を排除せんとしつつあり』云々の記事あり。無関係のことながら伊瀬地に文書を送る。3月19日、上原大佐を訪れ起高談をなす」(要約)
翌朝には伊瀬地の方から宇都宮を訪ねてきた。旅館をチェックアウトした宇都宮は、伊瀬地の泊まっている石井旅館に同行し、昨日の議論を反復して伊瀬地の決心を確かめた後、午後の汽車で帰京した。翌日参謀本部に出勤し、早速第三部長・上原勇作大佐(薩摩)と会い、高島を引っ張りだす必要を語るが、起高の決心はまだ明かさなかった。3月3日、高島子爵を訪ね、参謀次長・大迫中将と第二師団長・西中将が今夜、高島を訪れる由を聞く。19日、上原大佐を訪ねて起高論を交わす。
肥前出身の宇都宮が起高作戦を持ちかけた相手は、薩摩の伊瀬地・上原であった。すでに高島本人と接触し始めたらしい大迫尚敏、浜寛二郎の両中将も薩摩である(「サーベル党」については長州人脈のことと思うが★、ここでは立ち入らない)。前述したように、上原勇作には叔母吉薗ギンヅルが組成した応援団が付いていて、団長格が高島、副団長格が樺山資紀であった。20年前、上原少尉は仏国留学を前にして熊本鎮台に司令官・高島少将を尋ね、また警視総監・樺山少将の代官山の別宅で歓送会を開いて貰ったのは、ワンワールドの本場に赴くに際しガイダンスを受けたのだが、右の関係を知る由もない宇都宮は、上司の上原大佐を起高作戦に巻き込もうとするものの、起高の決心を直ぐには上原に明かさない。素より起高作戦に異存はない上原だが、ワンワールド薩摩派の総長高島の後継第一候補として高島の実状を知っているから、宇都宮ほど単純ではない。
その後の記載を追うと「4月6日、伊瀬地を訪う。4月8日、橋口勇馬と共に、其の叔父・樺山資紀伯爵の邸に行く」とある。橋口は明石元二郎と同じ士官生徒6期で当時少佐、宇都宮の1期上だが親友である。勇馬の父の薩摩藩土橋口伝蔵は、寺田屋事件で本藩の鎮撫使によって斬殺された。その弟が橋口覚之進すなわち時の文相・海相樺山資紀で、叔父に招かれた橋口は宇都宮を誘い、紀尾井町の樺山邸(現在の自民党本部)で鹿肉の御馳走になった。樺山資紀はワンワールド薩摩派の副長として陰で総長の高島を支えていたのだが、そんな関係を知る由もない宇都宮は、樺山の甥の橋口勇馬を巻き込んで、高島を参謀総長に担ごうとしていたのである。勇馬は明治40年大佐、大正3年に少将・歩兵第十三旅団長、同6年には待命となるが、日露戦争で満洲義軍を率いて後方撹乱に当たった。その時の配下が西南戦争の軍神・逸見十郎太の遺児・勇彦で、後に高島鞆之助と上原勇作の諜者となる。
★「政界同様陸軍でも薩人はまた長州人に圧倒された」
『宇都宮曰記』は続けて言う。
「4月24曰、大迫中将(参謀次長)を訪ねる。陸軍部内に異動あり大迫中将も転出するので、自分がどうなるか聞いたら、米国大使館の件は取りやめとなり、英国大使館付に内定の旨、内命があった。4月25曰、予報 の通り更迭あり、大迫は第七師団長に転出し、寺内中将が交代に入り、
川上系軍人は敬遠・左遷されて、長州人が要部を独占するところとなった。政界と同様、陸軍でも薩摩人はまた長州人に圧倒された。薩長の消長は強いて問う所ではないが、陸軍の部に非戦主義者が跋扈するのは実に嘆ずべきである。軍備拡張の大精神を誰か支持できるだろうか・・・伊瀬地は中将になった」
陸軍も政界と同様で、薩摩が凋落して長州が跋扈すると宇都宮は嘆く。すべては前年5月11曰に参謀総長・川上操六が53歳で急死したことから始まった。川上は弘化4年(1847)生まれで、戊辰戦争に従軍したが、明治4年の御親兵募集に応じ初任中尉、西南戦争の戦功で11年中佐、15年大佐に進級、18年少将、23年中将、26年参謀次長に就き、征清総督府参謀長として曰清戦争を指揮した。桂太郎は川上の誕生の17曰後に、萩藩の馬回り役120石の家に生まれ、戊辰の戦功で賞典禄250石を受けた。ドイツに留学し、6年に帰国して陸軍に入った際、賞典禄では佐官級だが、陸軍人事の新規則に従い初任大尉に甘んじた。川上と桂は典型的な好敵手で、佐官時代からまったく同曰に昇進し、31年1月の伊藤内閣で川上が参謀総長、桂が陸軍大臣に就いた。一致協力して対露戦に当たることになった2人は9月に揃って大将に進級したが、川上が急死したので陸軍内のバランスが崩れた。長州派が優勢となった以上、陸軍内部が非戦主義に傾くのは必至と観られていたが、早くも4月25曰付の人事異動でその答えが出た。この人事を予想した宇都宮が、此れに先立ち起高作戦を開始したのは、軍拡派が失った均衡を回復するには、大西郷の後継と目された高島中将を担ぐしかないと考えたからである。この感覚は、高島に軍歴以上の隠然たる権威を感じ取っている点で半ば当たっているが、反面、高島が参謀総長に専念するのを許されぬ政治性本位の<薩摩総長>に就いたことに気付かぬ点で、半ば失しているとも言える。
さらに『宇都宮曰記』を読み、起高作戦に関する事項を拾うと、
「5月6曰、上原大佐が来り、去る25曰の人事異動を評して、将来の方針を協議した。5月15曰、伊瀬地に電話で呼ばれ、上原大佐も同席にて将来を談じた。自分の意見としては、同志の勢力集中を必要とし、そのためには同志を東京に招致することを述べた。5月16曰、伊瀬地の赴任(熊本第六師団長)を新橋駅に見送り、橋口勇馬の来宅を待つ。5月17曰、橋口が清国公使館付武官として出立するのを新橋駅に見送る。5月19日、高島子爵を訪い将来を談じ、大迫前参謀次長が札幌第七師団長に赴任するのを上野停車場に見送る。5月25日、高島子爵を訪う」
ここまでの記事は起高作戦が主だが、5月28日条に<清国暴徒義和団なるもの>が暴動を起こしたと記した以後、義和団関係の記事が増える。起高関連の記事は「6月13日、予倉と共に高島子爵を訪うも不在」と記すのみで、以後は伊瀬地中将との書信往復を記載する以外は「7月3日、夜に入り上原勇作を往訪す」とあるだけである。宇都宮が立案した北清事変の作戦計画を携えた参謀次長・寺内正毅が、列国の先任指揮官と協議のため清国に出張することとなり、宇都宮は鋳方と共に随行を命じられた。
ここで『宇都宮日記』明治33年の条は途絶え、起高作戦の顛末は結局判らないまま、宇都宮が34年1月15日付を以て駐英公使館附に補されて英国に赴任することを記す。起高作戦に奔走した者で、大迫・伊瀬地の中将クラスは師団長として遠方へ移され、橋口勇馬と宇都宮は外国へ飛ばされ、参謀本部に残ったのはただ1人上原勇作大佐だけとなった。
★台湾政策に陰で辣腕を振るった高島鞆之助
高島も青年将校に担がれて満更でなく、「自分に於ては何時にても出づるの意なきにあらざる旨」を宇都宮に語ったが、真意は「国家の危急は砂糖・樟脳・アヘンに優先するから、参謀総長を受ける気はある」というだけのことで、結局は参謀総長にならなかった。私見であるが、25年8月の陸相辞任後の3年間、高島は枢密顧問官の閑職にいながら、秘かに吉井友実が育てたワンワールド薩摩派の事業を引継いでいた。それは台湾産業に関わる事業であった。28年8月、樺山から台湾副総督を嘱されると之れを快諾したのは、薩摩派の事業よりも日本の台湾領有を優先したのである。高島は進んで拓殖務相に就き、台湾総督府を督励して台湾基本政策を確立したが、その後陸相に再任した時は、もはや陸軍よりも台湾政策に軸足を置いていた。桂の策謀で陸軍を追われた31年1月からの2年間は、雌伏を装いながら、日高尚剛・吉薗ギンヅルと組んで砂糖・樟脳など台湾に関するる事業を掌握したのである。樺山が台湾総督を辞めた29年6月以後、2代総督・桂太郎(10月まで)から、3代・乃木(31年2月まで)、4代・児玉源太郎(39年4月まで)と、10年にわたり長州軍人が総督の座を占めたが、玄洋社を看板にした杉山茂丸は彼らを積極的に操作し、また伊藤博文・井上馨にも接近して、歴代総督に高島の建てた台湾産業基本政策を踏襲せしめた。なかでも乃木希典は第四師団以来高島の隠れた腹心となり、結婚の仲人も高島夫妻に頼んだほどで、その台湾政策は高島の意向を完全に反映していた。高島はまた、日高が糸を引く鈴木商店の金子直吉に命じて、長州派の領袖・曽根荒助と近かった藤田謙一を引き抜き、意のままに働かせた。藤田ほどの大物を易々と取り込んだ薩摩の潜在的勢力は、桂太郎やその周辺の長州人の比ではなかったと思える。
軍人と言えば俸給を目的とする職業人の意味だが、武人とは天職の謂である。蓋し「武」の本義は避戦を意味し、一命を捨てても平和をもたらすのが武人の本懐である。宇都宮や橋口有馬は、世界情勢を分析した結果、もはやロシア帝国との大決戦を避け得ないと考え、軍拡の実行を高島の政治力に期したのである。その使命感を、「現世的利欲に狂った軍人的思考」と戦後文化人が罵るのは間違いである。当時の日本を帝国主義段階と規定した以上、国家指導者をすべて侵略主義者と見做さざるを得ないマルクス史観に従うだけの浅薄な臆断に過ぎない。因みに、宇都宮太郎はその後、陸軍長州閥を掣肘するために上原陸軍大臣の実現に奔走し、陸軍上原閥の大番頭になり、陸軍大将に昇った。その子・宇都宮徳馬は、戦後参院議員となり、日中友好を唱える平和主義的政治家として鳴らしたが、その政治資金はすべて、上原の草だった吉薗周蔵が創業した阿久津製薬(後にミノファーゲン製薬)の利益が充てられたのである。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(19) <了>
★「サーベル党については長州人脈のことと思うが・・・」とあるが、3月6日の東京朝日の
記事↓からする限り、対露強硬派のことで、長州人脈とはいえない。
参考までに『陸軍大将・宇都宮太郎日記』よりの重引で(P、9)、
『東京朝日新聞』の記事を紹介しておきます。
★『東京朝日新聞』 1900年3月6日
「サーベル党の厄鬼」。
日清戦役を距ること既に五年、戦争熱の冷却するに従ふて世間漸く軍備過大の拡張を悔い、甚だしきは藩閥の元老にして今日の経済上の惨状は所謂戦後経営の結果なる如く論議する者あるに至りたれば、参謀本部のサーベル党は大に驚き、此気運を挽回し再び我々の世の中と為すには某強国との間に遠からず妖雲の靉靉くことあるが如き形勢を示すの外なしと案出し、既に一旦馬山浦問題に付て故らに強行の手段を執りたれど、何分にも現任大山総長にてはテキパキしたる仕事も出来ず、叉大迫次長も珍らしき結構人なれば、熟れも故川上総長の昔を思ひ、昨今総長次長の中責めて一人を更迭せしめんとの運動を始めたりと云ふ。
『陸軍大将・宇都宮太郎日記』 (岩波書店 2007・4・5)
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(20)
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(20)
「高島鞆之助の家政困窮」はある目的のためのめくらまし
★陸軍大臣辞任後の高島鞆之助の姿
明治30年2月、桂太郎の策謀で陸軍を追われた高島鞆之助は、翌年1月から大正5年の死去まで枢密顧問官に就いたままで、歴史の表面から姿を消した。巷間伝わる噂さえ稀な中に、堀雅昭『杉山茂丸伝』は語る。
明治32年頃、京城と釜山を結ぶ京釜鉄道の敷設に奔走していた杉山茂丸は、金策を引き受けたものの当てがなく、やむなく高島を訪ねる。ところが拓殖務大臣も陸軍大臣も辞めた高島も金欠で、遂に「借金返済のために家財道具を売るから、買わないか」と持ちかけられたという。
かく言う杉山の意図は、薩摩総長たる者の失墜を流布する事にあり、真相にはほど遠い。
『宇都宮太郎日記』の明治33年3月条に書き留められた起高作戦は結局成功せず、高島は以後も顧問官のほか何の公職にも就かなかった。ところが、『宇都宮日記』の明治40年以後の条にも高島の名が出てくる。即ち40年3月条には、「久し振にて高島中将を訪ふ。当年の意気梢や消沈の態あるを覚えたり」とある。起高作戦から7年、63歳の高島は意気やや消沈して見えた、と宇都宮は観察したのだ。また42年3月10日条にも「橋口・高島上京、不日帰任に付き、其の友人等新富町竹葉軒に会せる出席す」とある。これは、陸軍記念日のために上京していた第62連隊長樺山勇馬(樺山資紀の甥)と第八連隊長・高島友武(高島の養子・吉井の次男)が帰任するので、友人らが竹葉軒に集まったことを指す,同年1月29日、宇都宮は士官生徒第7期のトップで陸軍少将に進級したが1年先輩の橋口はまだ大佐で、第10期の高島は前年に大佐に進級したばかりである。当日の出席者は宇都宮を含め9人で、高島友武の義弟・樺山資英もいた。樺山資英は留学帰りの法学博士で、28年5月に26歳で台湾総督・樺山資紀に直属する総督府参事官に挙げられ、翌年には拓殖務大臣高島鞆之助の秘書官兼大臣官房秘書課長、30年には松方総理大臣秘書官、31年には文部大臣樺山資紀の秘書官兼大臣官房秘書課長となった。つまり、薩摩の首脳3人に請われ、次々にその秘書官を務めた典型的なワンワールド秀才である。高島の腹心たる宇都宮が、高島の女婿になる資英と親しかったのは当然で、42年3月29日条は「樺山資英を夜食に招き時事談を為す」と記す。
9月17日条には「久し振にて高島中将を訪ふ、不在。不遇の上に負債累積、如何にも気の毒の状況に在り。併しさすがに本人は辞色に現はさず、強て平然たる所一層気の毒の感を深くす」とあり、高島は何かの理由で巨額の負債を抱えて困窮していたが、本人の平然たる様子が却って宇都宮の同情を引いたことを物語っている。12月12日条には、「予備陸軍中将・高島鞆之助往訪(略)高島氏にて晩餐。嗣子大佐友武、女婿樺山資英等列席。往時を追想して感慨深し」とある。「往時」とは無論宇都宮が起高作戦を打ち出した33年を指すのだが、この席で債務処理が語られたかどうか。
★高島救済作戦 根津一の奔走
明治42年が明け、宇都宮ら腹心にとっても高島の財政問題が課題になってきた。43年3月15日条には「根津一を訪ひ、同人高島鞆之助子爵救済のため伊瀬地中将を鎌倉に訪ふたる結果を尋ねしに、中将は到底不可能として応せざりしと云ふ。遺憾の次第なり。更に善後を議し、根津重ねて今日高島氏を訪ひ、自ら松方侯に依頼せしむべきを試むることに談決す」と記す。参謀本部第2部長の宇都宮少将が車亜同文書院に院長・根津一を訪れたのは、根津が予備陸軍中将・伊瀬地好成に高島救済を諮ったので、その結果を聞くためであった。根津から伊瀬池が「到底不可能」と答えたと聞いて遺憾に思った宇都宮は、更に根津と善後を談じた。その結果、根津が本日再度高島と会って、本人自ら松方正義侯爵に頼み込むように説得することに話が纏まった。松方は永年に亘る大蔵省支配を辞めた後は、貴族院議員で日本赤十字社長に就いていた。薩摩派ワンワールドの内部では、総長に高島、副長に樺山が就いたが、ロスチャイルド直参の松方は別格で金融部門の総帥に就き、当時もその地位に在ったと思われる。松方が金融総帥を辞めたのはおそらく大正期で、その権力の1部は高橋是清か継いだものと思う。この時、高島自身が松方に家政苦境を訴えたかどうか未詳、松方がいかなる対応をしたのかも当然分からない。
宇都宮と共に高島救済作戦に関わった根津一は、高島が初代団長を務めた陸軍教導団を首席で卒業して12年に陸士砲兵科に進学し、士官生徒4期生と同時に14年に少尉に任官した。ドイツ人教官メッケルに反抗して陸大を諭旨退学となったが、陸軍はその後も根津を必要としたので、根津は現役復帰と予備役を繰り返した。教導団と陸士では根津の1年後輩で、生涯の盟友となったのが荒尾精である。参謀本部に入り支那課付となった荒尾中尉は19年、参謀本部から大陸での実地踏査を命じられ、銀座と上海に目薬を扱う楽善堂薬舗を開いていた岸田吟香の協力を受け、漢口に楽善堂支店を設けた。表向きは薬局だが、実体は「支那内地軍事探偵の本部」である。荒尾は、22年に提出した報告書で「清国とは和戦いずれも得策ならず、ただ革命勢力と結んで滅清興漢の義兵を起こし革命政府と結ぶべし」と主張、そのために日清貿易の拡大を強調した。荒尾はそれを実践するため、22年9月、上海に日清貿易研究所を創設し、これに根津が参加した。
研究所の費用は杉山茂丸の石炭貿易の利益が充てられたのは、荒尾が大陸事情に関して杉山の師匠で、杉山の大陸知識はすべて荒尾に負う所であったからという(堀雅昭『杉山茂丸伝』)。
如かく、杉山の航跡は至る所に残り、それらを点から点へと繋ぐだけで、凡そ杉山の概容が浮かび上がるのだが、教科書史学が杉山を無視しているから、この明治史上最大の人物は史書にほとんど出てこないのである。
新領土となった台湾統治の円滑化のため、明治29年、荒尾は台湾茶商・李春生らと共同し、内地・台湾の紳商の合作を目的とする「紳商協会」を設立する。その直後、台南視察に出てペストに罹り病死した荒尾の精神を受け継いだのが根津一で、車亜同文会の会長近衛篤麿と意気投合し、東亜同文書院を設立して院長に就いた。根津の階級は予備役少佐であったが宇都宮には先輩に当たり、東亜同文書院の院長として世上にも重きをなし、その地歩は宇都宮少将に敢えて劣らなかった。
明治43年3月16日と25日に根津の来訪を受けた宇都宮は、3月26日 条に「樺山資英を訪ふ。与倉喜平来宅、談深更に及ぶ」と記す。樺山資英は高島の女婿で、いわばその代理人である。また歩兵第1連隊長の与倉大佐は宇都宮の腹心で、2つの会談はどちらも高島に関するものであった。同4月7日条には「樺山資英来衙(高島中将統監推薦の儀に付き、樺
山・大迫大将訪問の模様を報じ来れるなり。尚今後のことに付き意見を述べ、奮撃突進其の同郷諸先輩を作興、之れが後押を為すべきを勧告す)・・・出勤の途、第7師団長上原中将を訪ふ」とある。
ここで高島救済作戦の1部が明らかになった。つまり宇都宮らは高島鞆之助を韓国統監に就けようとしていたのである。日本は、日露戦争後保護国とした大韓帝国に38年12月21日付で統監を置き、初代統監に伊藤博文を任じたが、伊藤が枢密院議長に転じたのを機に42年6月15日、曾禰荒助が副統監から昇任したが、曾禰は43年春から健康が悪化、後任問題が浮上していた。折から日韓合邦の機が迫り、次期統監には超大物が求められていた。樺山資英が43年4月7日に宇都宮を尋ねたのは、次期統監に高島鞆之助を推薦する件につき、薩摩出身の海軍大将・樺山資紀と陸軍大将・大迫尚敏に会ってきた模様を報告に来たのである。報告を受けた宇都宮は、今後の方針について意見を与え、「突撃盲進すべく薩摩の諸先輩に働きかけて実現のための後押しとせよ」と勧告した。宇都宮はその後で、参謀本部に出勤の途中、第7師団長・上原勇作中将を訪ねる。上原の任地は旭川であるが、4月5日に師団長会議があり近衛師団を含む19人の師団長が東京に集まっていた。宇都宮は前夜も上原を訪ねたが、不在だったためにこの朝再び訪ねたのである。上原・宇都宮の主従会談の主題は当然高島問題だったが、統監推薦は捗らず、5月12日付で陸相・寺内正毅大将の韓国統監兼任が決まった。日記には記さないが、宇都宮の無念が伝わってくる。
★イエズス会に売却され聖堂となった高島邸
それから3ヵ月経った43年8月6日条には、「樺山資英(同人負債も家宅邸地を渡し2、3日中に整理出来、高島鞆之助中将も同様とのこと賀すべし)を訪ひ、次に高島中将を訪ひ2時間許(ばかり)談じて帰る」とある。樺山資英を訪れた宇都宮に対し、資英は「自分も負債があるが、家屋敷を手放して2、3日中に埋めることが出来る」と告げた。樺山文相の秘書官を辞めて以後、大正3年に満鉄理事に就くまで資英は10年以上も公職に就かず、当時の状況は未詳だが、舅の高島を助けて薩摩ワンワールド関係の隠れ事業をしていた可能性が高い(未調査)。ともかく、高島の負債も同じようにして始末が付くと聞いて安堵した宇都宮は、続いて紀尾井町の高島中将邸を訪問し、2時間ほど話して帰宅した。明治29年から翌年にかけて建てられた高島邸は、この時イエズス会の手に渡ってクルトゥルハイム聖堂となり、米軍の大空襲を奇跡的(?)に免れ、今も上智大学校内にある。資英が、高島邸を処分すれば何とかなると宇都宮に告げたのは、一般論でなく、具体的な処分金額の見当が付いて債務弁済の見通しが立ったからである。これだけの大型物件になると、処分の仕方により数倍もの差異が生じるが、有利な処分のアテが付いたのだ。
8月11日条にも「根津一(高島子爵家政整理に付き其外数件)」とあり、続く8月12日条も「歩兵大佐・与倉喜平来衙(高島子家政整理の報告)」と記しているので、宇都宮が高島支援を頼んでいた根津と与倉からも、資英からと同様な吉報が入ったことが分かる。買手のイエズス会は、ワンワールド宗教部門の本山で、ローマ教皇ピウス12世の要請を受け、41年日本に大学を設置するだめに3人の会士を派遣してきた。44年には財団法人・上智学院を設立し、2年後の大正2年に上智学院を開校するが、当時は校舎候補地を探しており、この頃に紀尾井町一帯と決定して、秘かに地上げを始めだらしい。しかしながらこの一帯は、高島邸ばかりでなく、旧伊瀬地邸だった大島久直子爵邸など、陸軍将官の邸が並んでいた。所有者からは「折角の話だ、出来るだけ高く売ろう」との声も上がったが、高島は「外人だからこそ、ここは安く売ってやろう」と言いだし、ために買収がうまく行き、イエズス会は今も高島を徳としているという。裏を読めば、高島に自邸処分の意向があることと一帯に将官住宅の多いことで、地上げが円滑に造む要素があり、それが校舎地選定の理由になったのかも知れぬ。
『宇都宮日記』は、44年1月8日条に「田中義一と将来の国事に就き意見交換、手始めに財部少将(海軍次官)と打ち解け話」とあるのを転機に、以後の主題は陸軍改革問題に移る。4月12日条に「樺山資衛来衙談」とあるのも、陸軍改革運動についてであろう。しかし、10月7日条には「樺山資英、来衙(高島氏紀尾井邸買人つきしこと、政局将来談等)」とあるので、宇都宮は、訪ねてきた資英から、時事談の傍ら高島邸に買手がついたとの報告を受けたことが分かる。ようやく実行されだのだが、高島邸は仕様構造がとりわけ上等で聖堂に転用できるため、他より有利に評価されたのであろうか。
12月22日条に「根津一を訪ふ。善隣同志会なるものを組織中にて、その宣言書を一覧せしに、全く革命党を助けんとの宣言を発せんとす。時局に多少の利あらん。会長には高島鞆之助を推さんとす」とあるから、清国革命に際し、荒尾の遺志を継いで孫文革命党を応援する善隣同志会を組織した根津は、会長に高島を担ごうとしたのである(それが結局どうなったか、まだ調べていない)。翌々年の大正2年2月、桂大郎内閣を倒した憲政擁護運動の最中、尾崎行雄が、次期の総理には高島鞆之助を担ごうと旨いだした話は前にも述べた。要するに、高島は陰の超大物として、その存在を決して忘れられてはいなかったのである。
●莫大な台湾利権を手中に 高島の家政事情の真相
講談社の『大日本人名辞書』は高島を評して「細事に汲々たらず家資常に空し。晩年落莫として振るはず大正5年1月10日病みて京都伏見に没す」という。明治31年、桂に陸相を追われた高島は翌年には杉山茂丸に家財道具を売りたいと持ちかけるほど、金欠に陥っていた。40年頃には意気消沈していた高島だが、42年春には累積負債による家政困難がはっきりしてきて、宇都宮・根津らの腹心は高島の家政救済を検討しだした。しかし8月になって女婿樺山資英が、高島邸を処分すれば負債の始末が付くと告げだので、腹心たちは安堵する。44年10月、やっと買手がイエズス会であることが明らかになった。金欠が表面化してからここに至るまでの2年半は、長いようで短いと評すべきか。思うに、高島の負債の主因は30年の邸宅取得であろう。設計に金をかけた 本格的洋館で、現にクルトゥルハイム聖堂として今も結婚式の人気スポットで知られ、挙式は上智大字卒業生だけに許している。
三たび大臣に就いたとはいえ、高島は俸給生活者で、女婿・友武は軍人、その実父・吉井友実は宮内次官、もう1人の女婿・樺山資英は少壮官僚、妹婿で従兄弟の野津道貰も軍人であって、縁戚には 財閥らしきものはなく、豪華な自邸取得資金は借金で賄う以外にない。
晩年に高収入の道を得たならばともかく、予備役中将と枢密顧問官の俸給では、やがて到来する弁済期は凌げず、外部からの援助でもなければ 自邸の売却以外に弁済方法はない。
また通常はそれで善く、高島の場合も結局はそうなったわけだ。日清戦 争直後の日本では、将来は誰にも読みきれなかった。まして、軍政のトップに立つ高島には、自邸資金に関する返済計画なぞ始めからある筈も
なく、エイヤアの気合で突っ走ったのだろう。単純に考えれば、右の通りに解釈して良い。しかしながら、31年に現役を退いた高島が、以後何をして過ごしたのか、それを考えると話は違ってくる。
台湾の樟脳・煙草・阿片に関する基本政策は、日清講和直後の28年4月1日、第2次伊藤内閣が台湾事務局を置き、総理自ら総裁を兼ねた時に始まる。阿片漸減政策は、この時に内務省衛生局長・後藤新平が建白し、軍医総監陸軍省医務局長・石黒忠悳も支持し、伊藤総裁(首相兼務)が採用を決定したものである。
台湾統治は当初、跳梁する土匪と住民の阿片吸引癖が2大問題で、解決したのが児玉と後藤新平の時代だから、巷説は両人を以て台湾経営の根源のようにいうが、それは治安と社会政策から見た阿片漸禁政策に焦点を合わせ過ぎており、産業政策を軽視する点で僻見である。そもそも台湾は世界的な樟脳の産地で、天然樟脳は当時の最新素材「セルロイド」の可塑剤として不可欠で、合成品が出来る大正後期まで極めて重要視され、また当時の最先端兵器たる無煙火薬の原料として、世界の注目を集めていた。
樺山総督と高島副総督は、江戸時代から樟脳を輸出していた薩摩藩の出身であり、台湾の樟脳製造事業を重視し、早くも28年10月に「官有林野及樟脳製造業取締規則」を作り樟脳製造に官許の制限を加えた。台湾事務局は、29年4月1日付で拓殖務省になり、初代大臣に就いた高島は、30年9月まで台湾政策の最高責任者として総督府の監督に任じ、各種の官業政策を指導した。29年6月に2代目総督に就いた桂太郎は、4ヵ月の腰掛けで実際は赴任せず、後を継いだ乃木希典が31年2月まで総督を勤めた。乃木は、伊瀬地の斡施で結婚の媒酌まで頼んだ高島拓殖務大臣の指導監督を受けて高島路線に忠実に従い、30年に阿片専売政策を実施した。31年2月、乃木が休職して児玉源太郎が第4代台湾総督となり、32年に樟脳と食塩について専売制度を実施した。この時、神戸の樟脳・砂糖商鈴木商店に台湾樟脳の65%の販売権を与え、これを機に鈴木商店は、以後異常な発展を見せる。27年に未亡人経営に移行した鈴木は、日高尚剛の母方の煙草業者安達リュウー郎の工作で薩摩派ワンワールドの隷下にあったが、そのことを知らぬ児玉ではない。24年の欧州出張でワンワールドの洗礼を受けた児玉は、20年8月に帰朝、直ちに陸軍次官の内示を受けて前陸相・高島鞆之助を大臣官邸に訪問した。そこで高島から杉山茂丸を引き合わされた時に、すべては始まったのである。総督副官だった堀内文次郎は「児玉と杉山は異心同体で、児玉の台湾政策は悉く杉山の指示通り」と語っている。鈴木に樟脳販売権を与えたのも杉山茂丸の示唆(実質は指令)で、他にも台湾砂糖が薩摩派の巨大な財源になった証左は、「大日本製糖には上原勇作の息がかかっている」との伝承である。こうして台湾由来の財源を得た薩摩派の総長高島が、ハシタ金に困る筈もない。宇都宮ら腹心たちを惑わした高島の家政困窮は、おそらく樺山資英が実状を隠蔽するために流したガセネタで、だからこそ薩摩の領袖たちは真相を薄々知っていた。伊瀬地が宇都宮らに対して「救済なぞ到底無理」と言ったのは、適当にいなしただけで、また松方侯爵も、根津らの苦心を知りながらも、内心苦笑していたのではなかろうか。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(20) <了>
『ニューリ−ダー』 2008年 8月号
発行所:はあと出版株式会社
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)−1
−台湾そして満洲へ外征のキーパーソン児玉源太郎と後藤新平
◆落合莞爾
★台湾政策の根源は高島か、杉山か?
明治28年4月1日、第1次伊藤博文内閣は台湾統治のために台湾事務局を置き、総裁を伊藤首相が兼務した。内務省衛生局長後藤新平は「台湾島阿片制度施行に関する意見書」、即ち阿片漸禁策を伊藤総裁に提出し、諒承された。29年4月2日、台湾事務局は新設の拓殖務省に移行するが、初代大臣高島鞆之助も之れを踏襲し、実行に移した。
明治31年1月の陸軍首脳人事は、東京防御総督桂太郎中将が政治力を発揮したもので、薩摩勢の後退と長州派の躍進は眼を峙たしむるものがあった。陸軍3長官の人事では、陸相高島鞆之助中将(薩)を予備役に編入して桂太郎(長)が自ら之れに代わり、参謀総長は小松宮彰仁親王を元帥府に祭り上げて次長の川上操六中将(薩)が昇格した。従来の監軍はこの時に教育総監と改称されたが、第三師団長・寺内正毅少将(長)が初代総監に就いた。陸軍次官・児玉源太郎中将(長)は、後を中村雄二郎少将(紀州・長州派)に譲って第三師団長に転じたが、翌月になって急に休職することになった台湾総督・乃木希典中将(長)を継いで第4代総督となる。
児玉は台湾最大の社会問題である阿片吸引問題を改善するため、総督府民生局長として後藤新平の割愛を内務省に要望する。総督副官に配された堀内文次郎大尉は宇都宮太郎と同期(士官生徒7期)で、宇都宮や樺山勇馬とともに高島鞆之助を参謀総長に推戴しようとした「起高作戦」の一員であった。後に中将に昇った堀内は、台湾総督府で児玉に親炙した経験を語り、「児玉と杉山は正に異体同心で、杉山の策を悉く児玉が実施した」と語っている。文化人としても知られる堀内の言は、その人格 からしても信ずべきである。
堀内は、巷間に流れる児玉・後藤伝説の虚妄の訂正を意図したと思われるが、折角の言も世人に顧みられず、虚妄は今も増殖を続けている。その堀内も、杉山と高島の関係には言及していない。これは、高島が堀内ら股肱に対しても実状を隠したのか、逆に堀内が高島の秘密を知ればこそ上の言に止めたのか、定かではないが、あの 饒舌な杉山も高島についてほとんど語っていないのを見れば、杉山と高島の関係は極秘にされたことは慥か(たしか)である。いずれにせよ、高島が台湾政策を発案し、杉山を通してそれを児玉・後藤に授けたと観るべきでなく、台湾政策の根源はむしろ杉山であって、高島ら薩摩派の台湾関連事業でさえも、実は杉山の指導によるものと解すべきフシがある。
★「自分は隠れキリシタン」 後藤を生んだ水沢の伏流
後藤新平は、水沢伊達家の小姓頭・後藤左伝次の長男として、安政4年(1857)に生まれた。安政3年生まれの南部藩上士の次男・原敬と、同年の日向都城藩士の次男・上原勇作を合わせた3人こそ大正時代の3大政治家で、その気宇と実績は現実に首相に就いた大隈重信・寺内正毅・山本権兵衛らを遥かに凌駕している。台湾政策の実行に関わった児玉と後藤を比べる時、後藤が児玉(というより、薩摩派首脳を除くどの日本人)よりも、1段深くワンワールドに染まっていたと思えるが、理由はその出自であろう。大正中期、上原元帥の命令で特種のケシを栽培し、純質アヘンの生産に励んでいた吉薗周蔵は、後藤新平から数回にわたりケシの栽培・利用に関する協力を求められたが、その際に後藤が指定した密会場所は、たいてい神田や中野のメソジスト教会で、そこで後藤は「自分は隠れキリシタンの家筋で、家には数百年以来の伝承がある」ことを明らかにした。水沢は独自の国際化政策を有した伊達家がキリシタンを集めた地で、水沢キリシタンの主頭・後藤寿庵の直系子孫が後藤新平である。
寿庵は陸中磐井郡の藤沢城主・岩淵秀信の次男として、天正5年(1577)に生まれたが、主君の葛西氏が豊臣秀吉によって滅びると、長崎に落ちのびてキリシタンになり、迫害によって五島列島に逃れた時、五島姓を名乗った。寿庵は、京都の商人田中氏に紹介された支貪常長を通じて慶長16(1596)年に伊達政宗の家臣となり、伊達家中で武勇で知られた後藤信康の義弟となった。寿庵堰と呼ばれる大規模な用水を作り、また東北キリシタンの頭領として、元和元年(1621)ローマ法王パウルスニ世の教書に対する返信を送った寿庵だが、終焉の地は不明で、秘かに渡欧して欧州で卒したとの説がある。寿庵以来、水沢の地に伏流したワンワールドの精神は、2百余年の後に噴出する。すなわち新平の大叔父・高野長英であるが、その行蔵はここに記すまでもない。
後藤新平の目ざましい出世は、家門の使命を自覚して自ら境遇を切り開いたことに因るものだが、彼を育てた安場保和と長与専斎にも目を向けねばならない。安場保和は天保6(1835)年に熊本藩の上士に生まれ、横井小楠門下の四天王に数えられた。戊辰の戦功で賞典金3百両を授かり、明治2年に太政官に出仕し、胆沢県大参事(県知事に相当)に任じるが、その折、水沢伊達藩士の子弟で当年13歳の後藤新平とその1歳下の斎藤実(後の首相・海軍大将)を書生にし、県庁の給仕に採用した。
西郷隆盛の推挙で明治4年に大蔵省に入り、大蔵大丞を経て租税権頭に就任したが、その直後に大蔵大輔・大隈重信を弾劾する意見書を提出する。弾劾案は流石に否決され、提出者の安場は岩倉使節団に加えられて11月から欧米出張を命じられた。安場は民族主義的性向が強く、途中で嫌気がさして引き返したが、それでもこの辺りにワンワールドとの接点があるように思える。5年5月に帰国した安場は福島県権令に任じ、県令に昇ると、東京の荘村家で書生をしていた後藤新平を福島県に呼び寄せて6年5月福島第1洋学校に入れ、翌年には須賀川医学校に転校させた。8年12月、愛知県令に転じた安場は、須賀川医学校を卒業して鶴岡の病院に就職が決まっていた19歳の新平を愛知県に呼び寄せ、9年9月付で愛知県病院三等医とした。これを皮切りに新平は、名古屋鎮台病院雇医などを経て12年12月に愛知県病院長兼医学校長職務代理となる。安場は13年3月に元老院議官に転じるが、翌年愛知医学校長兼愛知病院長に昇進した後藤は、15年4月に岐阜で壮士の難に会った板垣退助の治療に当たって有名になる。新平が安場の娘カツ(慶応2年生)を娶るのはこの頃である。
折から愛知病院長としての実績に注目していた内務省三等出仕の長与 専斎の招きで、後藤は明治16年1月に内務省に移る。長与衛生局長の 懐刀となった後藤は、23年4月から内務省に籍を置いたままドイツに私費留学した。この留学に際し、ミュンヘン医大に留学中の長与の長男称吉(慶応2年生まれ)が現地女に子供を生ませた1件を処理し、称吉を帰国させる密命を帯びた。だが、留学の意義はそれだけでなく、長崎の医師出身でワンワールドの上席であった長与専斎が、後継者と決めた後藤を在欧ワンワールド首脳に謁見さすのが真の目的であったと観るべきであろう。在籍のまま官職を辞しての私費留学は、前にも述べた陸軍少将・大山巌、宮内大輔・吉井友実らの例と同じで、この形に何らかの意味があるようだ。因みに、長与称吉の相手のドイツ女性は、その後歴史に残る社会活動家となり、また2人の間の混血児はドイツ人の家庭に入籍してその家名を名乗り、後年ジャーナリストとして来日し、わが国の最高機密を窺って世紀の大事件となったと囁かれている。奇談というべきだが、真否については未詳である。
(*因みにゾルゲの生年は1895年(明治28年)。鉱山技師のヴィルヘルムとロシア人ニナとの間に9人兄弟の1人としてソ連邦・アゼルバイジャン共和国の首都・バクー生まれ。)
後藤は25年6月帰国、11月に内務省衛生局長に就く。その1年後に相馬事件に連座して収監されたが、27年5月に保釈出獄、12月には無罪が確定して原職に復帰した。28年4月、臨時陸軍検疫部長を兼務した児玉陸軍次官は、同部の事務官長を兼務して帰還兵の診察に当たる後藤新平の手腕に驚倒し、台湾総督府に迎える背景となった。後藤は総督府民政局長に就き、児玉総督、堀内副官らと共に、31年3月台湾に渡った。
★明治外征政策の流れは 在英中枢→杉山→松方
愛知県令を4年半務めた後、元老院で数年くすぶっていた安場保和が、明治19年2月に福岡県令に就いたのは杉山茂丸の工作であった。全く進展しない九州の鉄道敷設を推進すべく、その前提として筑豊炭田の払下げを企んだ杉山は、払下げを実行すべき福岡県令に安場を就けようとし、安場の上司山田顕義を説得して、安場を福岡県令(7月から県知事)に就けることに成功する。20年3月、杉山は玄洋社の資金源として、海軍予備炭鉱として閉鎖中の筑豊炭田の払下げを頭山満に示唆するが、安場知事も結託して、翌年農商務大臣・井上馨により払下げが実現した。福岡県内の広大な鉱区権を安揚知事が玄洋社に払下げ、頭山満はこれを炭坑主に売却して政治活動の資金を作ったのである。安場が県知事に就くと九州の鉄道敷設は一気に進み、21年6月には九州鉄道に免許状が下りた。
25年、第一次松方内閣は日清戦に備える軍拡予算の獲得を目指し、総選挙で大選挙干渉を行なう。安場は福岡県知事として杉山の要請に応え、選挙干渉を強行した。史上悪名高い選挙大干渉は、松方内閣が発案して玄洋社に実行を依頼したかに見えるが、もともと杉山の方から、軍拡予算とそのための選挙干渉を松方に指示したとの説がある。
鉄道敷設といい軍拡予算といい、杉山の視点は常に国家的問題にあり、
常に国際政治のレベルから判断していた杉山は、たとい官員表に名を掲げず議席を有さずといえども、立派に政治家である。いや、当時の日本最大の政治家と言ってもよい。対清・対露における積極策を一貫して保持し、非戦派揃いの長州派政治家を常に対外積極策に誘導する役割を果たした杉山が、英露2大帝国の世界的戦略抗争たるグレート・ゲームに、英国側として加わっていたのは明らかで、彼の背後は在英ワンワールド以外にあり得まい。安場は、福岡県知事以来、明らかに杉山の手の者だが、ワンワールド薩摩派の外郭的存在とも見られ、安場が育てた女婿・後藤新平も薩摩派と繋がっていて当然である。尤も後藤は、長与の配下に入ってからは視野が更に広がり、日露戦後には在露ワンワールドにも接触していくのである。
続く。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21)−2
−台湾そして満洲へ外征のキーパーソン児玉源太郎と後藤新平
◆落合莞爾
★後藤―児玉コンビの真相 そして杉山の正体を観る
明治32年6月児玉源太郎台湾総督は後藤のために総督府民政長官のポストを作る。児玉には重要な国務があったから、31年の渡台以来39年12月まで8年に亘って総督府の民政を総覧した後藤新平が、実質的な総督として阿片政策をはじめ台湾の行政・経済政策をすべて牛耳った。
児玉は33年、杉山茂丸に説得されて桂太郎・杉山と3者同盟を結び、対露戦争に向けて伊藤博文に政友会を設立させて御用政党とする重大な工作を始めた。杉山が長州派の次期最高首脳と結んだのは、高島鞆之助引退の穴を埋め、高島が果たした筈の機能を担うためと思われる。これに応じた児玉はその重責を担いながらも台湾総督の地位に強く固執し、33年陸相、36年内相兼文相、同年参謀本部次長と、軍政はおろか内政のトップに就く傍ら絶対に台湾総督の座を放さなかった。はては37年満洲軍統参謀長と、満洲の野営に身を置きながらも総督の座に拘り続け、戦勝後38年に参謀本部次長事務取扱となってもまだ辞めず、39年4月の陸軍参謀総長就任に際して、やっと明け渡した。巷説これを論じて「児玉は初めは総督を後藤に譲ろうとしたが、総督は武官限定職なのでやむを得ず民政長官の職を設けて後藤を任じ、その後は総督の椅子に自分が就いていることで、文官の後藤に実質上総督の働きをさせた」というが全くの子供騙しで、真相は児玉が後藤と同様、阿片の威力と国際商品としての価値を知っていたからであろう。
後藤にとって児玉は、表面上は最良の上司であったが、実は目の上の瘤であった。また児玉にとって後藤は、有能すぎて腹を見せぬ油断のならぬ大鼠で、両者の確執は、横浜・台湾間の定期航路の拡張問題にも顕れた。
すなわち、児玉が命じた船会社の選定を後藤が独断で日本郵船に決めたところ、既に大阪商船に決めていた児玉は後藤の僭越を詰り、日本郵船との契約の破棄を命じ、ために後藤は進退伺いを出すに至った。杉山の『児玉大将伝』はこれを評して「台湾派遣軍人たちが後藤を侮らぬよう、後藤の背後には常に児玉が控えていることを示すために打った芝居」と取り成すが、これこそ世間を騙すための虚報で、杉山はこの一言を世間に流すために『児玉大将伝』を著したとおぼしい。そもそも杉山とは何者か。私(落合)は以前には杉山を、薩摩派総長の高島鞆之助の意を受けて台湾政策を児王総督に吹き込む役目と考えたが、これは浅見であった。今は杉山こそ在英ワンワールドの直参で、薩摩派総長の高島と副長樺山に在英中枢の方針を伝える一方、長州派首脳を目的方向に誘導する役目を果たしたと推察する。彼の著作の大半は、右の真相を隠す目的を以て、故意に偽情報を混じた「発信」と観るべきものである。
★満鉄案の淵源と児玉急死の企て
明治38年7月、日露戦勝後の奉天に赴いた杉山茂丸は、満洲軍総参謀長・児玉源太郎の居室に泊まり、児玉副官の満洲軍参謀・田中義一中佐(士官生徒8期)を交えて南満洲鉄道の経営案を練った。大本営陸軍部副官・堀内文次郎中佐(当時)の言によれば、「関東州に軍政を敷いて、その地を租借して日本的な自治をしたのも、更には満鉄経営の計画を立てたのも、すべて杉山茂丸であった」(堀雅昭『杉山茂丸伝」)。杉山と児玉・後藤は、軍政による台湾経営の成功を満洲統治に応用せんとしたが、満洲は台湾と同様にはいかなかった。日露戦の最中は占領地に総督府を置いて軍政を敷き、大島義昌大将を関東(遼東半島)総督に据えたが、日露講和後に満洲の開放が問題となる。陸軍が徒に軍政を長引かせて外国人を締め出していては、やがて国際問題になることを憂慮した韓国統監・伊藤博文は、39年2月に大磯の私邸に井上馨、大山参謀総長、山県枢密院議長、児玉台湾総督兼参謀本部次長事務取扱、加藤外相ら関係者を呼んで満洲問題を論じた。席上、児玉は満洲(東三省)における総督制の実施を主張し自ら総督に就く意思を表したが、清国領の満洲に日本が総督を置くことはできない。結局、国際的配慮を重視する伊藤の主張により総督制を採らず、関東州(遼東半島)を租借して関東都督と関乗軍を置くこととなり、民政はイギリス東インド会社に倣い、南満洲鉄道会社が満洲を経営する〔自治策〕が採用される。これすべて、杉山の発案だと堀内は証言するのである。
これより先、井上馨と渋沢栄一が満鉄を米国の鉄道資本家・ハリマンに一旦売却したが、小村寿太郎の猛反対に遇い、小村の進言で、満鉄を東インド会社に倣った国策会社とする案が9月になって閣議決定した。4月に参謀総長に就いた児玉は兼職の台湾総督を辞め、7月13日付で満鉄設立委員長を兼ねたが、総裁人事に当たる最中の23日に急死する。その後は杉山の強力な運動で、後藤が初代満鉄総裁(11月付)になるが、巷説に「児玉が死ぬ前夜、後藤は児玉に総裁就任を要請され、それを固辞したが、翌日の児玉の突然死により総裁を引き受けざるを得なくなった」というのは例の子供騙しである。児玉急死の前夜、両人が会して満鉄総裁人事を論じたのは事実だが、伝えられる会談内容はすべて後藤の□から出たもので、真否は分からない(古川薫『天辺の椅子』)。近来児玉の急死に関して後藤の関与が疑われだしたのも当然だが、1件はいかにも切迫した状況で行われたと見え、直情径行に走り、何らかの証拠を残した様子さえある。
児玉の死の直前、杉山は後藤に電報を打ったが、その内容から杉山が児玉を見限って後藤に乗り換える意図が窺われるそうで、電文中に「朝鮮モ(満洲と)共二併呑スルコト」とあるので、満鮮政策に関し児玉と杉山らの間に食い違いが生じ、児玉が用済みにされたことが推察される(古川・前掲書)。児玉から後藤に乗り換えた杉山が、後藤を満鉄総裁に就任さすべく急死1件を企てたと思われるが、後藤自身は満鉄総裁にはあまり乗り気でなく、杉山から迫られて止むなく1件を決行した感がある。大義親を滅ぼすというが、あれほど親しかった児玉の急死1件を、杉山自身が発意したことはありえない。裏面で杉山に指図したのは在英ワンワールドを措いてあるまい。いずれにせよ、杉山がわざわざ『児玉大将伝』を著したのは、1件から世間の眼を逸らすためで、彼らの言葉で言う「発信」に当たる行為だと思う。因みに、私(落合)はこれまで杉山を在英ワンワールドの直参と推定してきたが、明治30年代になり、在英ワンワーールドの直参として杉山の上に立つ者が現れたように思う。堀川辰吉郎その人である。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(21) <了>
以下、ブロガー記。*****
後藤新平については、大杉栄との「関係」(諜報活動に伴う金銭授与など)が取り沙汰され、今では衆知の事実と化している。
(★『疑史』第15回 なども参照されたい。 -左のカテゴリー『疑史』 から。)
奇しくもただ今、アメリカと日本で首長(片や大統領、此方事実上の総理大臣)選挙という舞踏会が催され、それは連日これでもかというほど報道されているが、
マスコミ総動員の茶番劇に過ぎぬ、という賢者の見解も日米両国の候補者を見れば肯ける。
ありもせぬ「民主主義」を気取った一大ページェントもミスキャストでは台無し!というわけだ。
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偶々、わが「積読本」の整理中に目についた吉野作造の後藤新平宛書簡−
(大正13年11月=大杉虐殺後1年余り後!)を以下に紹介しておこう。
>>吉野作造選集 別巻 岩波書店 1997年3月24日、p41〜42 より。
<吉野作造−後藤新平−笹川良一>という繋がり=絡み合いも興味深いし、
あの若き周恩来が駐日時、何とか聞きたかったのが吉野作造の講演会だったし、吉野宅へ何度も訪問した(果たせなかったが)ことも★周恩来『19歳の東京日記』(小学館文庫)には明記されており、
<後藤新平−吉野作造−笹川良一>プラス 周恩来 という図式を「妄想」することも、
少なくとも、思想的なそれとしては許されるだろう。
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以下、引用・紹介します。
(大正13年11月23日 後藤新平宛 〔封書、封筒欠く〕)
謹呈 久しく御無沙汰致して申訳ございません不悪御ゆるしを願ひます
さて急に差迫った事なので風邪病臥中の不自由を忍びつつ、此手紙を捧呈します 失礼の段は之亦御宥しを願ひます
用件は大坂(ママ)の国粋会幹事・笹川良一といふ青年は多分明朝御訪ねするだらうと思ひます 昨夕私の所へ見えました
思ふ仔細ありて病床で遇ひました際閣下に紹介して呉れとの事でしたが紹介は友人間の事 先輩に対しては軽々しく出来ぬ併し子爵は元来客を喜ばれるから往訪面謁を願って見たら可いだらう 紹介はしないが折を見てあなたの御人柄を子爵に御伝して置くからと申して分れたのでした
笹川といふ青年は本年春、大坂で始めて遇ったのです 私を訪ねた目的は怪しからぬ非国民だとて謂はば厳重に詰責に参ったので 場合に依ては暴力にも訴へ兼ねまじき見幕でございましたが私が事理を尽して平素の宿論を卒直に述べると遂に自らの誤りを詫び夫れ以来私を先生扱ひにして非常に親みを有つ様になりました
私の観る所では教養が乏しいので是非得失の判断を誤り無用の事に昂憤するの嫌はありますが相当に説明してやると直に納得して善に移る珍らしい青年です
国粋会にも斯んな青年が居ると思へば頼もしくさへ感じて居ります 私がもし引続き朝日新聞に関係して居りまして大坂に参る機会が頻繁にあったら同君を通して国粋会の有志ともっと接触して見たいとさへ思ったのでありました
兎に角一寸人にそゝのかされて禁酒演説の妨害に往て其の演説に感服して禁酒禁煙を決心したといふ程の男ですから之を適当に後援指導したなら社会の為になると考へて居るのでございます
尤も御邸を御訪ねする目的は金銭上の援助を求むるのではないかと思ひますが決して徒らに乱暴する様の人物ではございませんから其の辺御ふくみの上然るべく御取扱を願ひます
相当子分もあってヒョット誤解するとまた飛んでもない事をやる素質はまだあると思ひますので此辺御参考までに申上げたいのです
作日遇った際には子爵に多額の御無心をするなどの間違って居る事を申しましたら自分のやってゐる雑誌の新年号に御話を承りたいのだと申してゐました 大体閣下には好感を有ってゐる様に見受けました
私一己の希望としてもあんな類の青年には是非御面会を願ひたいと思ふのですが十分に知っても居ないものを一時の印象に依て御薦めする訳には参りませんので只右あらまし御参考までに申上ぐるのです 草ゝ不尽
11月23日 吉野作造
後藤子爵閣下
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注:蛇足ながら、1899年大阪府豊川村(現箕面市)に造り酒屋の息子として生まれた
笹川良一はこのとき25歳で、豊川村の村会議員に当選して政治活動を始める
1年前のことである。
★訂正
上に「・・あの若き周恩来が駐日時、何とか聞きたかったのが吉野作造の講演会だったし、吉野宅へ何度も訪問した(果たせなかったが)ことも★周恩来『19歳の東京日記』(小学館文庫)には明記されており、・・」と書いた。例えば、1918年6月21日(金曜日)の日記には確かにこうある。
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6月21日(金曜日) 気候:雨
【治事】
朝、読書、10時に個人教授のところに行く。午後、友人への返信を数通出す。
6(18)時、鉄卿、東美があいついで来て、
吉野博士を訪ねるが、会えず、帰る。
【通信】 略
*鉄卿とは留日仲間で〔同学会〕の組織者・陳鋼、
東美とは劉hのことで、共に恩来に経済援助をしていたという。(同文庫より)
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しかし、再通読したところ、「日記」(小学館文庫版)では恩来の吉野作造訪問(会えずじまいだったが)に関する記述はこれだけで、「・・吉野宅へ何度も訪問した・・」と記したことは「日記」の範囲では誤りでしたので、訂正します。
しかし、同文庫の<注>にもあるように「・・・吉野作造は、かつて天津で教鞭をとっていたことがある。袁世凱の長男・袁克定の私教師でもあった吉野は、直隷督処翻訳官として参謀処付き将校に「戦時国際法」を講義し、北洋法政学堂(1907年天津に開校)では〔国法学〕〔政治学〕を講義して」おり、「周恩来も、南開学校時代から吉野の名前を聞き知っていたのかもしれない。」し、「1916年中央公論の巻頭論文で唱えた民本主義は、大正デモクラシーの根本思想となった。」ことから、恩来が吉野訪問を試みたのがこの日記に記された1度だけとは考えにくいのも事実です。
http://2006530.blog69.fc2.com/category2-12.html
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