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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その20
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―3
★ワンワールド人脈の華麗かついかがわしき樹形図
吉井友実に松方正義・樺山資紀・高島鞆之助ら自ら維新に挺身したのが薩摩ワンワールドの第1世代で、白洲退蔵はこれに同期している。維新前後に生まれたその息子ら、即ち樺山愛輔・吉井幸蔵(安政2年生)、樺山資英(明治元年生・妻は高鳥鞆之助の娘・球磨子)らが第2世代で白洲文平や陸奥広吉ら留学帰りが彼らに同期してワンワールド仲間を形成した。吉井幸蔵の実弟で高島鞆之助の婿養子となった友武(慶応3年生・妻は高島鞆之肋の長女・多嘉)も、当初は仲間に加わっていた筈であるが、その事績は陸軍中将としてしか伝わっていないし、高島子爵家を継がすべく甥(幸蔵の次男)友春を養子にし、後に離縁した事情は未詳である。第3世代は第2世代の子女ら即ち白洲次郎(明治35年生)・正子(明治43年生)夫妻らの世代で、ここに至ると薩摩の枠を抜け出し、他藩出身者に拡大するのは自然の成り行きである。
この第3世代が宮中コスモポリタンを形成し、美智子皇后の皇室入りを実質的に支援したと言われている。
媒介の栄誉を表面的に担った東宮御教育参与・慶応義塾塾長の小泉信三が、小泉信吉の子息であったことは偶然ではない。小泉信吉は嘉永2年(1849)生まれの紀州藩士で、慶応2年に福沢諭吉の蘭学塾で洋学を学び、フルベッキが教頭の開成学校教授となり、明治元年に英国留学し、帰国後は大蔵省に入った。横浜正金銀行の創業時には白洲退蔵の下で副頭取を務めた信吉は、第1世代の退蔵とは年も離れたいわば第1.5世代であった。横浜正金時代にも渡英して金融事情を学んだ典型的なワンワールド金融人で、その子・信吉は明治21年生れでワンワールド第3世代に同期し、2代に亘るコスモポリタンであった。
福沢諭吉から発したワンワールド人脈は、白洲退蔵と小泉信吉に分岐して白洲次郎と小泉信三を生んだのである。戦後貿易庁長官に挙げられ、吉田茂の片腕としてマッカーサー司令官と種々折衝し、サンフランシスコ講和条約締結に尽力した白洲次郎を、救国の英雄と囃す向きが近年多いが、むしろコスモポリタン特有のいかがわしさを感じるのは私(落合)だけであろうか。
松方正義の三男・幸次郎(慶応元年生)も典型的な薩摩ワンワールド第2世代で、明治17年に東京帝大を中退し、エール大学とソルボンヌ大学に留学、明治24年に第1次松方内閣の秘書官に就くが、明治29年に実業界に転じて川崎造船初代社長となり、昭和3年までその地位にあった。第一次大戦後の欧州で絵画・彫刻らを蒐集し、松方コレクションで知られるが、政治家としても昭和11年から3期連続の衆議院議員として政界でも活躍し、国民使節として渡米し国際交流に務めた。幸次郎の妻は旧三田藩主、子爵・九鬼隆義の息女・好子で、三田藩と薩摩ワンワールドの浅からぬ因縁を感じる。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―4
●なぜ松方正義は大隈重信を凌駕できたのか
『横浜正金銀行史』のなかで同行の父親に譬えられる大隈重信はフルベッキ神父の直門である。
維新政府では、当初は外国事務局や外国官を歴任したが、明治2年に会計官出仕となって財政畑に転じて以後、13年2月までは一貫して大蔵省最高首脳のひとりであった。片や同行の母親に擬せられる松方は大隈より3歳年上であるが、維新政府では長崎県裁判所参謀助役を皮切りに民部(内務)畑を歴任し、4年7月に大蔵省に転じて以来ずっと大隈の配下となり、明治8年11月から13年2月まで大蔵大輔を勤めた この間、10年10月にフランス博覧会事務副総裁としてフランス出張を命ぜら、11年3月から12月まで滞仏した。この時にフランス蔵相で、パリ・ロスチャイルド家の番頭と言われるレオン・セーに会い、中央銀行設立を助言された。これは偶然ではなく、訪仏の真の目的がロスチャイルドはじめ欧州の金融ワンワールド首脳にお目見えすることにあったと観るべきであろう。その折、中央銀行の設立と不換紙幣の整理を助言(命令)されたことは疑い得ない。帰国後の松方は、永年の上司であった大隈の積極財政を一転して批判し、真っ向から対立した。ために13年2月、内務卿に転じたが、明治14年の政変において大隈が失脚し、後釜の大蔵卿・佐野常民も辞任すると、松方が大蔵卿に就き、不換紙幣の整理を目的とする厳しい引締政策を実行した。後年のことだが、日銀副総裁として5年間にわたり澄田総裁を支え、バブル政策に加担した三重野康が、総裁になるや一転してデフレ政策に転じたのは、そこだけ見れば松方と似ている。
政府不換紙幣・国立銀行不換紙幣の整理を図るため、中央銀行を創立して正貨兌換紙幣を発行させて通貨価値の安定を図るとともに、中央銀行を中核とした銀行制度を整備し、近代的信用制度を確立することを提議したのが松方である。明治15年に日銀条例を制定、同年10月6日にはかつて横浜正金銀行管理長であった大蔵少輔・吉原重俊を日銀総裁に任じ、同月10日を以て日銀は開業した。14年10月に初めて大蔵卿に就いた松方は、18年12月の内閣制度発足で大蔵大臣の名称となってからもその座に在り、24年5月には総理大臣を拝命するに至るも、なお蔵相を兼務、結局25年8月に第一次松方内閣の崩壊に際して蔵相の座を渡辺国武に譲るまで、実に11年近くも継続して蔵相の座に在ったのである。しかも、後を継いだ第二次伊藤内閣にあっても、28年3月から8月まで蔵相を務めた。それだけではない29年9月に再び大命降下を受け、31年1月まで続く第二次松方内閣でも蔵相を兼務し、更に31年11月から33年10月の第二次山県内閣でも蔵相に就いたので、合計すれば14年半、これに大蔵大輔時代の四年半をも併せれば、実に19年に及ぶ期間を大蔵省の最高首脳として帝国の財政を壟断したのである。実に、明治の財政金融は松方1人が取り仕切ったと言っても過言ではない。松方の第二次内閣は、かつて上伺として仕えながら、帰国後にその積極財政策を批判したため不和となった大隈を、外相・農商務相として招いた。この内閣の最大の業績は、周囲の反対を押し切って、貨幣法の制定により金本位制を確立したことである。松方が敢えて大隈を閣内に迎えたのは、金本位制定に関する深い事情があるものと思う。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)−5
●フルベッキの最大事績は ある人士らの啓蒙・育成
明治4年7月、松方が大蔵権少丞となった時、3歳年下の大隈は既に大蔵大輔を経て参議兼制度取調専務で、はるか高位にあった。
やがて松方は、13年2月に内務卿、14年10月には参議兼大蔵卿を拝するに至るが、大隈の参議就任は松方よりも10年以上も早い明治3年で、大蔵卿に就いたのも8年早く、6年10月であった。ところが明治17年の華族令で松方が伯爵を授かるのに対し、戊辰役で功績のなかった大隈は、20年になって伯爵を授かった。丁度その頃から2人の位置が逆転、内閣総理大臣の初就任は、松方が24年5月なのに対し、大隈は明治31年であった。侯爵への陞爵(しょうしゃく)は、松方が40年9月に受けるが、大隈は2度目の総理を拝命した大正5年7月まで待たされた。大正12年1月8日、死に瀕した大隈重信の公爵陞爵について論議される。佐野真一 ★『枢密院議長の日記』(*現代新書2007.10.20刊)によれば、当時宗秩寮総裁事務取扱をしていた貪富有三郎(勇三郎)日記の同日条には、宮内次官関谷(関屋)貞三郎から電話で「大隈は侯爵と為りたる後年数も少く、その後別段の功績なき故、普通にては陞爵の理由なきも、陞爵を主張する人は大隈一生の勘定を為せば陞爵しても適当なりと云ふものの由。貴見は如何」と問われた倉富は、「此の事に付ては昨日宗秩寮にて一応の内談を為し、予は陞爵の必要なしと考えたるなり。最高等の政策にて特別の恩典あるは格別、通常にては陞爵の理由なしと思ふ」と答えた。翌日も陞爵論議は続き、宮内書記官白根松介が元老の松方正義にお伺いを立てた。前日に意見を聞いた時には陞爵に賛成した松方は、白根に対し、
「(昨日は)山県公が陞爵の意見ならば反対しないと言ったまでだ。大隈侯は維新の功労もなく、その後も格段の功労があったとは思わない」と消極的意見を述べた、という。大隈の公爵陞爵を否認した松方は、8力月後の9月11日に公爵を授かり、13年7月2日に逝去した。
明治維新を誘導したワンワールド人士の中でも啓蒙に尽くしたフルベッキは、維新前後には抜群の政治的影響力があった。天保元年(1830)年生まれのフルベッキは松方より6歳上、大隈より9歳上で、安政6年(1859)長崎に上陸し、佐賀藩の長崎致遠館で大隈、副島を教えた。
大隈とフルベッキは無類のチームワークを組み、お互いに引き立て合った。明治新政府の顧問となったフルベッキの最大の事績は、大隈を通して新政府に持ちかけた岩倉訪欧団とされる。維新で権力を握った人士が挙って隊伍を組み欧米に渡った目的は、ワンワールド首脳に面晤する機会を作るためで、いわば集団入会ツアーを企画、実行したのである。
その他、フルベッキが大学南校(東大法文学系)の教頭として多数のワンワールド人士を育成し、また宣教師ヘボンと共に東京一致神学校(後の明治学院)を創立したことは周知であるが、明治14年の政変で権力の座を追われた大隈に指令して東京専門学校(後の早稲田大学)を設立せしめた真相を誰が知るだろうか。フルベッキの政治的影響力が明治14年の大隈の失脚以前に衰えていたのは確かで、フランスでロスチャイルドの臣下になった松方が、以後大隈に代わり帝国財政の実権を握る。松方からすれば、明治14年までの大隈の権勢はフルベッキのお陰にしか過ぎなかったのである。フルベッキが赤坂の自宅で死去した明治30年は、松方が大隈
の協力を得て金本位制を断行した年であった。
松方の金融ワンワールドにおける地位の一部は上原勇作が継承したとされるが、上原は安政3(1856)年の生まれで、右に述べた第1.5世代に属しており、或いはその世代的な位置が権力継承を可能にしたものかも知れぬと思う。
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17) <了>
★『枢密院議長の日記』(*現代新書2007.10.20刊)によれば、・・・の文中、
貪富有三郎は<勇三郎>、宮内次官関谷貞三郎は<関屋>貞三郎 です。
同上書 P242
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)
●明治日本における真の権力を掌握した薩摩ワンワールド ◆落合莞爾
★金融・軍事・信仰の三系を持つワンワールドの源流
鎖国日本の開国に向けた動きは光格天皇の治世(1779〜1817)に始まる。これを知ったのは平成18年の竹田恒康氏の講演であった。恒康氏は旧皇族でJOC会長の竹田恒和氏の長男で、平成初年の一日北海道を旅行中、恒和氏運転のワゴンにたまたま同乗したことがある。あの時の少年がと感嘆したが、その講演では結論しか聞けなかった。これを契機に独自に追究したところ、開国の淵源は皇室にあり、ワンワールド中枢の意思に対応して日本で維新が胎動したと知った。明治維新の推進力は世に言う鍋島・島津・黒田ら九州雄藩だけでなく、実は光格天皇と11代将軍家斎から発したのである。この真相が明らかになれば、維新史は固より江戸徳川史が引っ繰り返るのだが、本稿は吉薗周蔵日記に見える陸軍元帥・上原勇作の背景を探索する目的なので、そこまでは立ち入らない。
明治政府の内外で活躍した維新の功臣を、@有司専制主義の薩長藩閥派、A自由民権主義の土佐・肥前派に大別するのが学校史観で、その他にB天皇親政主義の侍講派の存在を指摘する説がある。また、人は薩長と一括するが、薩摩と長州では大いに異なり、前者は武断派の有司専制主義で、政党嫌いだったが、後者は文治派で民意を伺い政党を尊重したことは、政党政治家に転じた伊藤博文は言うに及ばず、軍閥巨頭で内務閥の親玉を兼ねた山県有朋も、超党派を装いながら内心民意を恐れ、民意に背く外征を躊躇していたことで明らかである。そんな非戦派長州人を背後でけしかけて、日清・日露戦争に誘導したのが玄洋社の(看板を借りた)杉山茂丸であった。その言動が薩摩を代弁したかに見える杉山だが、決して薩摩隷下の特務ではなく、ワンワールド中枢の直参の立場で長州閥の領袖たちを工作していたと観るべきである。この辺りは、杉山が奉じた謎の貴公子掘川辰吉郎を分析しなければ理解できず、また明治史の真相を得るのは不可能である。
明治日本における真の権力を掌握したのは「薩摩」であった。ワンワールドの薩摩支部という意味である。ワンワールド中枢は金融系と軍事系の両立と聞くが、蓋しその権力の源泉は通貨創造と国家金融にあり、債務国家の弁済力を担保するため、時には国家間の戦争を必要とするからであろう。金融・軍事系の一段の奥には宗教系が控えている感があるが、ともかくワンワールドそれ自体が超宗教というべきであるから、宗教・信仰とは決して無縁ではない。明治日本を支配した「薩摩」も三系に分化していた、金融・軍事・宗教これである。ロスチャイルドの直臣となって大隈を蹴落とした松方正義が金融財政部門を支配し、軍事部門は陸軍を大山巌→高島鞆之助、海軍を西郷従道→樺山資紀が押さえた。ところが薩摩三傑の1人で維新最大の功臣・吉井友実は、世俗的権力を顧みず自らは宮廷を掌握した。以上が明治日本の真相で、長州はこの真相を隠す役割を与えられ、明治政界の表面を浮流したフシがある。薩摩内部での権力分化は、表面的には二頭体制とも三頭体制とも取れるが、彼ら全員が薩摩城下で下級士族の居住区たる方眼(ほうぎり)に生まれ、郷中教育により以心伝心、暗黙に合意する超個人的な一大人格に融合していたから、仲間うちの対立は本来あり得なかった。例外たる西郷・大久保の対決は、薩摩が抱懐した二大テーゼすなわち風土の伝統たる士族専制主義と在英ワンワールドに教化された近代化主義の間の矛盾が発露し、それぞれを代表した西郷(桐野を代弁)と大久保両雄が対立の已むなきに至った弁証的な過程で、両雄から等距離にいた吉井がこれを止揚した。その結果、薩摩ワンワールドのグラン ドマスター(以下では薩摩総長という)に就いた吉井が、一等侍講となって. 天皇親政派の頭になった。これこそワンワールドが最も重要視する「信仰」を司るためで、明治日本においてそれは皇室崇拝であった。吉井が自ら工部少輔、大輔を兼ね、遂には日本鉄道会社社長に就くが、これは在英ワンワールドが日露戦争のために鉄道網建設を不可欠として、その実現を吉井に託したからであろう。ロスチャイルドの直参として財政金融を支配した松方が、首相・公爵・大勲位とあらゆる世俗的権威において吉井を上回ったとしても、宮中に籠もって明治天皇を護持する吉井に代わって薩摩総長に就くことは、あり得なかったのである。
★宮内省実質ナンバー2 吉井友実の後継者は
吉井友実の維新後の事跡については、先日来『月刊日本』に連載中の『疑史』に述べており、詳しくはそれを参照して頂きたい。維新の功臣として賞典禄1千石、ナンバー6に挙げられながら、功臣中ただ1人、参議にも何の大臣にも就かなかった吉井は、宮内省の実質ナンバー2を定位置として、宮内卿・徳大寺実則と力を併せ、明治王朝の護持に専心した。24年4月、吉井が64歳で他界した時、内閣は山県第一次であったが、海軍増強の予算案を民党に攻撃され、大幅に修正して可決したものの敢え無く倒壊、5月6日に第一次松方内閣が成立した。これを機に陸相・大山巌は辞任、5月17日を以て陸相を高島鞆之助に譲った。13年陸軍卿、18年の内閣制施行で初代陸相となり24年まで11年に亘り陸軍を支配した大山は、吉井の長女・澤子を娶ったが、15年に病死されて山川捨松を後妻にしたのである。高島も吉井の次男・友武を婿養子にしていた。濃密な姻戚関係もワンワールド人の特徴である。吉井が死去した時、薩摩最大の権力者は金融系の総帥・松方で、首相を目前にしていたが、薩摩総長則ちワンワールド薩摩支部の元締めとしての地位を継いだのは、吉井と最も近縁の高島であった。これは吉井生前からの既定路線と思われるが、明治も中葉を過ぎて社会運用の法則も固まりつつあり、吉井のごとく隠然として支配するのは最早不可能で、高島も何か重要職に就く必要があった。大山が高島に陸相を譲ったのは、本人の実力や陸軍内の序列に加えて、右の事
情があったものと思う。
大山の動きに海軍も応じ、初代海相の西郷従道が同日辞任、樺山資紀にその座を譲った。ここに薩摩の軍部大臣が2人とも代替わりして、第一次松方内閣を支えた高島は薩摩総長を継ぐと同時に陸軍系の頭領を兼ねるが、同時に海軍系頭領に就いた樺山が、高島を補佐する薩摩副長を兼ねたものと観るべきである。それを端的に示すのが後年、両人が台湾総督・副総督、及び拓殖務相・台湾総督のコンビを成したことである。三宅雪嶺が『同時代史』で、「第一次松方内閣の閣議を制したのは高島の一言であった」と評したのは、主要大臣を薩摩勢が占めた第一次松方内閣の中での高島の卓越した地歩を、期せずして指摘したものであった。
第一次松方内閣は、民党の海軍費削減案に憤激した高島陸相と樺山海相が断固解散を主張し、総選挙においても大選挙干渉の主導者となった。 しかし第一次松方内閣は、選挙干渉の責任で25年8月8日を以て倒壊し、高島も樺山も辞任して枢密顧問官となる。薩摩総長高島は、陸相としても対清・対露の戦略に忙殺されていたが、わずか1年余りで陸相を辞任した。以後、28年8月に台湾副総督を委嘱されるまで、3年間を枢密顧問官として過ごし何の職にも就かなかった。薩摩副長の樺山も、高島と同時に海相を辞し枢密顧問官となったが、27年7月日清戦争の勃発を機に現役復帰して軍令部長に任じた。目清が戦端を開いたこの時機に陸軍が高島を必要としない筈はないが、それでも高島が従軍しなかったのは、薩摩総長の大役を優先したからであろう。樺山は戦功により、28年5月海軍大将に進級し、初代台湾総督に就くが、8月になり予備役中将・高島をわざわざ副総督に招請した。日清戦争に参加しなかった高島が、講和後の台湾統治に招かれるや、樺山の下風を厭わず副総督になったのは注目に値する。台南匪賊を討伐し台湾を平定した高島は29年4月、総督府を監督する拓殖務大臣となり、樺山を指揮して新領土台湾を統治する立場になった。学校歴史は、日清戦争の目的を「帝政ロシアの南下から祖国を護るべく、進んで朝鮮半島の独立性を確保するため」と説明するが、つらつら惟んみるに、台湾領有こそ隠されたもう一つの目的であった。尤も当時は台湾統治は日本政府のたっての望みではなく、在英ワンワールドが地政学的必要性から日本にその役割を割り当てるため、以前から薩摩を通じて日本政府を動かしていたフシがある。杉山茂丸が日清戦争に向けてしきりに長州勢を煽動したのは、非戦派の山県有朋を刺激し、且つ平和思想の伊藤に戦意を吹き込んだもので、日本の台湾領有を実現する大目的のために、日清間に戦端を開かせたのである。
因みに高島と樺山資紀の間には以下の関係がある。資紀は橋口家から樺山家に養子に入ったが、樺山の本家筋と思われる(これは博雅の士の高教に待つ)樺山資雄は、内務官僚で各県知事を歴任し、佐賀県知事として例の大選挙干渉を実行した。資雄の長男・資英は明治元年生まれ、21年に渡米しエール大学で法学博士号を得て、26年に帰国。28年に台湾総督府が設置されるや総督府参事官として総督・樺山資紀の秘書を務め、29年には拓殖務大臣・高島鞆之助の秘書官兼大臣官房秘書課長となるが、高島の次女・球磨子(明治14年生)との縁談はこの時に纏まったものか。薩摩第二世代の典型的な俊秀たる資英は、後に貴族院議員、内閣書記官長として、大正から戦前にかけて政財界で暗躍した。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(18)
★「薩摩」の枠を超える第二世代の華麗なる面々
本邦洋画の鼻祖とされる子爵・黒田清輝の日記が残るが、その明治29(1896)年5月9日条には、「樺山愛輔と鉄道馬車で新橋まで出た(略)。樺山資英、大久保利武、樺山愛輔、白洲某(日銀)氏らと紅葉館に集まる・・・」とある。慶応2年(1866)生まれの清輝は当時30歳、薩摩第二世代に属した。養親で伯父の薩摩藩士・黒田清綱は戊辰に戦功あり、明治元年3月に弾正少弼、後に東京府大参事・元老院議官を歴任し、子爵を授けられた。歌人としても知られた清綱は、天皇親政派の高崎正風の死後、明治天皇の御製拝覧を命じられたが、右の経歴は吉井友実の辿った道の正に直後を踏んでいる。清綱の弟・清兼の子に生まれた清輝は、明治学院の前身東京築地英語学校から東京外国語学校を出て明治17年に渡仏し、初めは法律を学ぶ予定であったが19年に画業に転じた。帰国後は、本邦に初めて西洋 画を紹介し、日清戦争中は従軍画家として知られるなど、時の人であっ
た。清輝の従兄で1歳年長の樺山愛輔は、時の台湾総督・樺山資紀海軍大 将の長男で、明治10年13歳の時、陸軍少佐だった父の勧めで渡米、アマースト大学を出てドイツに渡りボン大学で学んだが、病のために26年に帰国した。愛輔も典型的な薩摩第二世代でスポーツは万能、日本人で初めてテニスをした人物で、アメリカでは一流選手と対戦をしたという。妻は薩人の海車大将伯爵・川村純義の娘常子(明治8年生まれ)であった。因みに樺山資紀邸には、清輝の代表作「湖畔」が客間に、同じく「読書」が食堂に飾られていた。これも清輝より1歳上の大久保利武は大久保利通の三男で、亡父の功により長兄・利和が授かった侯爵を後日襲爵する。樺山資英は清祥より2歳下で、その経歴については前にも述べた。
黒田の日記から、年代を同じくする薩摩第二世代の親しい交誼が偲ばれるが、ここに1人だけ「白洲某(日銀)」とあるのが興味深い。横浜正金銀行頭取の白洲退蔵については前月に述べたが、退蔵の息子・文平は明治2年生まれ、東京築地英語学校を出て渡米し、ハーバード大学を出た後、ドイツに移ってボン大学に学ぶ。
文平より4歳年上の樺山愛輔も同時期にボン大学で学び、当時から知り合いであった。文平は帰国後三井銀行に入るが、すぐに鐘紡に転じた。黒田日記の「白洲某(日銀)」とは、樺山愛輔が連れてきた白洲文平と観て間違いない。留学帰りで27歳の文平を、愛輔が「三井銀行員だ」と紹介したのを、清輝が「日銀」と聞き誤ったのだ。第二世代の愛輔の長女・正子はやがて準薩摩第二世代の文平の子息・白洲次郎に嫁ぐが、このようにして、薩摩ワンワールドが薩摩人の枠を超えて広がっていく様子が窺える。正子は学習院女子部で会津藩の☆松平節子姫(のち勢津子)と同級になり、後年宮中ワンワールドとも言うべき勢力を形成した。夫の白洲次郎は、吉田茂の側近として占頷下の日本の外交・経済を取り仕切ったことで知られている。
★高島鞆之助陸相解任の背景にあった三次元対立
日清戦争後、薩摩軍事系の目的は不可避の対露戦に備えるため軍備の一層の充実を図ることにあった。これに対し、政治の理想を政党に求めた伊藤博文と大隈重信は民意と民生を優先し、日清戦後の不況の原因を軍費の増大と見て、軍備の抑制に執心し、そのために日露間の和平を希求した。明治24年以降の歴代内閣の傾向を見るに、薩摩を中核とする超然主義者(政党嫌い)の軍拡志向と、政党と結託した長州伊藤派による軍備抑制志向が交互に反復している。すなわち、第一次松方内閣は薩派が中心で軍拡予算を政党に否認されて倒壊し、続く第二次伊藤内閣は伊藤が政党と協調を試みるうちに、たまたま勃発した日清戦役の挙国一致気運によって乗り切ったものの、改新党の大隈重信の入閣に対する自由党の反発から倒壊した。その後を受けたのが28年9月成立の第二次松方内閣で大隈の進歩党(改名)と連携したため「松隈内閣」と呼ばれたが、連携の真意が金本位制確立にあったと思われ、薩摩ワンワールド内閣の再来とみるべきである。
高島は前内閣の拓殖務相を留任し、新たに大山巌の後の陸相を兼務したが、台湾総督を辞して枢密顧問官となっていた樺山も入閣し、板垣退助の後の内相となった。両大臣は固より軍拡派で連立与党の進歩党と閣内で真っ向から対立したから、進歩党は野党の自由党と連携して政府を攻撃、ために内閣は崩壊、松方は後を伊藤に譲った。
この間拓殖務省が30年9月に廃止され、陸相専任となった高島は31年1月の第三次伊藤内閣の成立と同時に解職、予備役編入とされたので、高島の陸相時代は前後合わせて3年半に過ぎない。この政変を利用して、本来任期の永かるべき陸相の地位から高島を追放したのは桂太郎で、これにより長州が陸軍人事権を薩摩から奪い、以後の陸軍軍政を牛耳ることとなった。
第三次伊藤内閣では、下野した進歩党と自由党が合同して憲政党となり、政府を激しく攻撃した。伊藤首相は対抗のために御用政党を結成せんとし、井上馨の了解を得たが、超然主義者を装う山県有朋の反対で長州派は割れた。ここに伊藤は官職を抛って辞職を表明し、議会の最大勢力たる憲政党の領袖大隈と板垣を後任に奏請したので、本邦初の政党内閣たる第一次大隈内閣(隈板内閣)が成立したが、それも進歩党系と自由党系の閣内抗争で自ら崩壊する。組閣の大命は山県に下り、31年11月に第二次山県内閣が成立した。海相は西郷従道から山本権兵衛に代わり、以後山本が薩摩の海軍系の総帥に就く。超然主義が看板の山県も政党政治の流れに勝てず、憲政党と閣外で手を握った。
これを要するに、軍拡・軍縮および超然主義・政党主義、さらに薩摩・長州の三つ次元における対立が重なり合って、政変の律動を来していたのである。高島鞆之肋の2度に亘る陸相就任と離任も、まさに右の律動に合わせたものであった。高島に対抗する桂太郎が、選挙大干渉以来、高島の果断な行動力を畏怖する政党勢力を手段を尽くして操り、高島の解職をネタに政治取引をしたものと思われる。三宅雪嶺は高島を、「第四師団長で慢心して頭脳に異変を来したもの」と評したが、事実は正反対で、高島の頭脳と胆力を恐れた桂が企んだ政治的陰謀がまんまと成功して、高島の解職と予備役編入をもたらしたのである。桂太郎は、この40年後の昭和13年に、戦略の天才石原莞爾を予備役に追い込んだ東條英機の俑を成したのである。予備役に編入された高島は、1年後の明治32年2月に枢密顧問官に就くが、その後の高島の境遇を示す史料は甚だ少ない。ところが近来発掘の『宇都宮太郎日記』の明治33年条に、これに関して甚だ興味深い記事がある。平和主義の参院議員宇都宮徳馬の父として知られる宇都宮太郎は佐賀藩士の出で、当時は陸軍少佐・参謀本部員であった。後に上原勇作の股肱となり、陸軍大将に昇る。上原が吉薗周蔵に命じて作らせた阿久津製薬が、後にミノファーゲン製薬となって、宇都宮の長男徳馬の政治活動を助けることになる。
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☆秩父宮雍仁親王妃勢津子(ちちぶのみややすひとしんのうひせつこ、旧名:松平 節子(まつだいら せつこ)、1909年(明治42年)9月9日 - 1995年(平成7年)8月25日)は、日本の皇族。大正天皇の次男である秩父宮雍仁親王の妃。
旧會津若松藩主松平容保の四男で外交官の松平恒雄(1877年-1949年)の長女。母は佐賀藩十一代・侯爵鍋島直大の娘・信子。
元の名は「節子」で、成婚の際に雍仁親王の実母である貞明皇后の名「節子(さだこ)」の同字となること(諱)を避け、皇室ゆかりの伊勢と松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、同音異字の「勢津子」と改めた。
昭和3年(1928年・戊辰/明治維新から60年目の年)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子(松平容保の六男・恒雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵と汚名を着せられた会津藩の名誉が回復されたことを意味していた。(ウイキペディア)
因みに、秩父宮と勢津子との結婚で朝敵=会津藩の汚名がはらされたことについては、『田中清玄自伝』でも言及されており、孝明天皇の死についても、「明らかに暗殺と聞いておる」と語られている。
(第一章 会津武士と武装共産党)
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