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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その19
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 14 日 11:33:38: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その19

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー3

 ●国学、啓蒙主義双方に通じていた肥前鍋島藩  

 肥前鍋島藩は、幕府から黒田藩と交替で長崎の警固を命ぜられて、西洋の息吹に触れ、近代化の必要を覚る。嘉永5(1852)年に反射炉を稼働させ、慶応2(1866)年に最新兵器のアームストロング砲を自力で完成した位で、西南雄藩中有数の工業力と軍車力を備えていたが、安政2(1855)年に幕府が長崎オランダ海軍伝習所を開設すると、西南雄藩中最多の藩士を派遣する。海軍といえば、国柄を問わずワンワールド傘下で啓蒙主義団体を兼ねるから、長崎伝習所に派遣された肥前藩士は軍事知識のみならず、啓蒙思想の洗礼を受けたわけである。さらに、慶応元(1865)年に開設した藩校致遠館の校長に宣教師★フルベッキを招き、このことで明治維新における肥  前藩の役割とその後の地位が決定した。

 維新実行の西南雄藩の一つでありながら、肥前藩は倒幕の軍事行動に参加せず、実際に兵を挙げたのは維新後で、新政府から北海道先鋒を命じられた時である。大政奉還・王政復古の前に京に兵を送ったのは薩長土だけで、鍋島藩は静観していた。そのため、明治4年の御親兵募集に当たっては三藩だけを対象としたが、それでも鍋島藩は維新の功績では三藩に劣らないと評価された。
  
 鍋島藩の特色は、国学(南朝崇拝)と啓蒙主義(ワンワールド思想)の双方に通じていたことである。それを端的に示す人材が、楠公義祭同盟の創始者・枝吉神陽の弟の国学者でフルベッキ致遠館の教頭となった副島種臣(1828生)、および楠公義祭同盟の一員ながらフルベッキの直弟子となり、新政府有数の実力者となった大隈重信(1838生)である。他にも、大木喬任・佐野常民らがいるが、かかる肥前人材の維新後の活動を補完するのが杉山茂丸の役割だったと思える。維新に尽力した西南雄藩は挙って南朝の事績を顕彰した。肥前では枝吉と横井小楠が楠公義祭同盟を興し、薩摩では大久保・吉井らの誠忠組が楠公神社を建て、長州では藩校明倫館で楠公祭を執り行った。土佐では、城下近郊で上士と郷士が対立した井口村事件の後、下士・郷士が結成した土佐勤王党にも南朝復興の息吹を感じるのは私(落合)だけであろうか。ともかく、宮内省を抑えていた吉井友実の後を受けて、東京宮廷を護ったのは土佐勤皇党の土方久元(1833生)と田中光顕(1843生)で、前者が20年から31年まで、後者が31年から42年まで、併せて20年以上もの間、宮内大臣に就いていたことに注目せねばならない。因みに、杉山茂丸も南朝事績の顕彰を重視し、南朝正統論を説く『乞食の勤皇』を著している。

 茂丸の幼少時については巷間溢れる他書に譲るが、何を読んでも講談もどきの武勇伝ばかりで、若干20歳の杉山が明治17年、山岡雪舟(*鉄舟)の紹介状を懐に暗殺目的で伊藤博文に会いに行った事などが面白く書いてある。肝心なのは、なぜそれが可能だったかだが、それは全く書かれておらず、策士だのとフィクサーだのと騒ぐだけである。杉山は玄洋社の看板で動いたが、根底はワンワールド傘下であったと観るべきである。玄洋社に薩摩ワンワールドのダミー的性格があることは前述した経緯からも不自然でなく、高島と杉山を結ぶ地下水脈があっても当然である。後年、薩摩出身の上原勇作元帥は、玄洋社の頭山満や中野正剛を私兵のごとく使役していたが、この関係は、高島=杉山と玄洋社の関係を上原が引き継いだものと見るしかないが、さらに遡れば、明治4年から24年まで宮内省を支配した吉井友実の本当の役割(薩摩ワンワールド総長)を高島が引き継ぐと同時に、杉山との秘密関係をも承継したものと推量する。

 つまり、杉山と高島・上原は等しく役割を分担したもので、一方が上司、他方が部下という関係ではないと観るべきである。囚って、ここに前月稿を訂正したい。


 ●対清・対露非戦派の長州元勲工作に奔走 へ続く。  

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー4

 ●対清・対露非戦派の長州元勲工作に奔走 

 いわゆる戦後史観は、「帝国主義に目覚めた日本が近代化に遅れた中国、満洲と韓国を侵略した」とし、すべてを日本発の国家悪のごとく論難するが、これは皮相に過ぎない。明治時代の杉山の政治活動を具に観ていくと、長州元勲の工作に腐心していたことは明らかで、日清・日露間の戦争を何か何でも起こさせるため、非戦派の伊藤博文・山県有朋を開戦論に転向せしめんとする策略と行動に満ちている。つまり、非戦派・長州と主戦派・薩摩とが対峙する状況の中で、杉山が長州人の周囲を徘徊しながら開戦をけしかけているのである。

 杉山の主戦論は陸軍薩摩派の主張と軌を一にするから、恰も杉山が陸軍の意を受けて工作しているかに見えるが、もっと大きく観ると、杉山の方から薩摩派をそのように誘導していた可能性さえある。或いは、地球某所に実在する秘密勢力が、日本を日清・日露の戦争に誘導するため、長州非戦派に対する転向工作を杉山に命じているようにも見える。結局、最後の線が正解に近いから、戦後史観は最早放棄すべきである。正しくは「戦争によって清国・ロシアを破るのを日本の役割と、世界秘密勢力が定めた」ので、それを知る杉山が「日本としては、これに逆らうよりも進んで開戦し、事を早く済ますべきである」と考えて、長州工作に専念したものと思う。

 薩英戦争以後はイギリスと親交した薩摩藩首脳は、そのくらいは知っており、果断な実行策を練った。ところが長州は、知っていても実行には戸惑った。幕末に至るも封建的武士社会の伝統を固守していた薩摩に比べ、長州では封建制が既に崩壊に瀕し、町民階層が台頭していたからである。この地域的特性により、薩摩では維新後も有司専制の武断正義を保持し、長州は民意尊重の文治主義的傾向が強まっていたから、長州人は文官・伊藤博文は言うに及ばず、陸軍閥の巨頭と目される軍政家官・山県有朋でさえ民意を恐れていた。明治22年の山県第一次内閣の責務は、ロシアの南下を防ぐための海軍拡張の実行にあったが、民党側は民力休養を主張し軍拡に反対した、山県は議会対策に腐心するだけで解散に踏み切れず、民党との妥協を模索し、農商務相・陸奥宗光に依頼して土佐派を籠絡し、予算を大幅に修正した上で漸く成立させた。山県に替わって首相を拝命した薩摩出身の松方正義は、対清・対露戦に備える軍拡を使命と考え、自ら蔵相を兼ねて積極財政を組んだ。民党はむろん軍拡に大反対であったが、薩人の陸相・高島鞆之助、海相・樺山資紀はひるまず解散を主張したので、松方は敢えて解散に出て、史上有名な選挙人大干渉を行った。

 長州人の山県が「一介の武弁」を気取りながら民意に阿諛したのに比べ、薩人はデフレ財政で知られた松方さえ、必要と認めた軍拡は民意に逆らってでも実行しようとした。この選挙大干渉は、長州人の内相・品川彌次郎が担当して各県知事を指揮したが、福岡県では杉山も干渉に参加し、県知事・安場保和とともに民党を攻撃し、流血事件さえ生じた。政府側は莫大な資金を投入したが、それでも選挙に勝てなかったのは、民党の激化を恐れた長州の元勲伊藤・井上・山県が、品川内相に対して手加減を要求したからとされる。薩摩と長州の政治風土の差異は右の通りで、杉山の心中は常に薩摩側であった。高島と杉山の接点を証明する文献の有無は知らないが、以上を観ても、接点が無い筈はない。長州派工作を責務とする杉山は、長州派元勲との交遊ばかりを意識的にあげつらい、高島ら薩派との関係を世間から隠したのであろう。


 ●松方正義デフレ主義の根幹にあったのは・・・ へ続く。

 
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)ー5

 ●松方正義デフレ主義の根幹にあったのは・・・ 

 吉薗家の伝承では、上原元帥は横浜正金銀行にも特殊な権力を持っていた。それが陸軍大将・荒木貞夫に受け継がれたようで、大戦が始まり為替が不自由になった中、フランス再渡航を希望する薩摩次郎八に頼まれた吉薗周蔵が、荒木閣下に頼んで為替を入手した、との記述がある。

 『横浜正金銀行史』は、「顧ふに本行は大隈侯の懇切な指導の下に、13年2月28日を以て世に生まれたのであるが、翌14年から15年に亘る財界の不振に際し、当局者の措置が宜しきを得なかったので、資本金半額以上の欠損を来たし、殆ど破綻に瀕したのを、松方侯の懇篤周到な指導の下に九死に一生を得て、今日の盛大を見るべき基礎を固めたのである。故に本行歴代の当局者は、大隈侯を生の母とし、松方侯を再生の恩ある養育の母として常に敬意を表し、尚今後も永くその恩を忘れぬであろう」として、大隈と松方の恩を挙げるが、西南戦争前後の財政を担ったのは、確かに大隈と松方であったから、当時誕生した同行が2人の世話になったのも当然である。鍋島藩士の大隈は、明治元年1月に徴士参与職・外国事務局判事に挙げられ、外国官副知事から会計官副知事に転じた。2年7月の官制改定で、会計官の後身大蔵省の大輔となった大隈は、民部・大蔵両方の事実上の統合を献言し、自ら民部大輔兼大蔵大輔として内省を取り仕切った。3年7月、両省は再び分離し、大隈は大蔵大輔専任となり9月には参議に補されたが、4年7月の官制改定に際し、大蔵省を大久保・井上コンビに譲った。

 薩摩藩士出身の松方は、大隈より3歳年上の天保6(1835)年生れで、藩士時代に長崎で汽船買い付けをしていた時、大久保の眼に留まり、明治元年1月に長崎県裁判所参謀助役に就き、元年閏4月の官制改定で徴士・内国事務局権判事に挙げられたが、同月に日田県知事に転じ、そこで黒田藩の太政官礼偽造を摘発して名を知られた。3年10月に民部大丞に挙げられ、4年7月の官制改定で大蔵少丞に格下げになるが、この時には、各省で職階調整のための降格があったようである。4年7月から6年まで大久保卿と井上大輔が支配した大蔵省に二、三格下の少丞に転じた松方は、翌月租税権頭になった。

 参議兼制度取調専務の大隈は、6年5月に至り事務統裁として大蔵省に復帰、大久保に替わって大蔵卿になり、以後13年2月まで6年半大蔵省のトップに立った。松方は7年1月に租税頭に昇り、8年11月大蔵大輔に昇進し13年まで大蔵卿大隈を補佐した。この間10年1月からは内務省勧農局長を兼ね、同年10月から仏国博覧会のためフランスヘ出張するが、これをロスチャイルドにお目見えの機会としたものであろう。

 帰国後の松方は、西南戦争後のインフレ対策に関して、大隈大蔵卿と正面から対立した。新政府は、西南戦争の戦費調達を不換紙幣の乱発で行ったから、戦後社会は大規模なインフレに見舞われていた。大隈は、インフレの原因を、貨幣流通量の過剰ではなく正貨(銀貨)の不足と考えて、「外債を発行して得た銀貨で、市場で不換紙幣と置き替えれば物価は安定する」と主張し、積極財政の維持を図った。これに対して松方は、維新以来の政府財政の膨張こそインフレの原因で、不換紙幣の回収しかないと緊縮財政を主張した。松方のデフレ主義は、訪仏した時にフランスで重農主義に触れたからと説明される。それもあろうが、真相はロスチャイルドにお目見えした時不換紙幣の乱発を指摘され、その整理を指示されたのではないか。蓋し松方理論は大隈の採ってきた積極財政を根幹から否定したから大隈は激怒し、これを憂慮した内務卿の伊藤博文が、13年2月に自ら内務卿を辞し、その席を松方に譲ったのであった。
  

  陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(16)  了。

  

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)−1

  金融ワンワールドの頂点に立った松方正義と各人士の相関関係  ◆落合莞爾  

★「横浜正金銀行」誕生の光と影、人事での暗闘

戦前、貿易金融と外国為替に特化した特殊銀行として世界に名を知ら れた横浜正金銀行は、戦後GHQの指示で普通銀行となり、東京銀行と
改称し、昭和29年の外国為替銀行法により唯一の外国為替銀行となった。平成大暴落の後は、金融危機に対処するために三菱銀行と合併して東京三菱銀行と称し、さらにUFJ銀行と合併して、現在は三菱東京UFJ銀行の長い行名を称している。同行の創立を発案したのは、『横浜正金銀行史』によれば、早矢仕有的と中村道太であった。ハヤシライスで知られる早矢仕は、薬品・書籍の輸入業者たる丸屋商店(現在の丸善)の経営者で、中村も同商店に密接な関係があった。明治11、2年頃のわが国経済情勢は、西南事変のために政府が増発した巨額の不換紙幣が巷間に溢れ、事変鎮定後も急速な収縮が叶わず、輸入の超過と正貨の流出に拍車をかけ、ために正貨と紙幣の価値に大差を生じていた。輸出入品の貿易は、横浜・神戸・長崎等の開港場で本邦商人と外国商館の間で行われていたが、取引はすべて銀貨(メキシコ銀・貿易銀・1円銀貨)で決済された。すなわち輸出業者は代金を銀貨で受け取り、これを不換紙幣に換えて仕入れ資金に充て、輸入面は手持ちの不換紙幣を銀貨に換えて外国商館に輸入代金を支払っていた。このため、開港場における銀貨売買(銀紙取引)は活発を極めたが、それが投機資金を呼び入れ、遂には一種賭博場の観を呈して銀貨相場を変動させたため、輸出入業者の経営は危機に曝された。しかも、当時の外国為替取引は、オリエンタル銀行・香港上海銀行・マーカンタイル銀行ら外国銀行が専ら支配し、一覧払い銀貨手形を発行して相場を操縦するなど、邦人貿易商に不利を強いることが少なくなかった。これに憤慨したのが早矢仕と中村で、早矢仕が旧知の福沢諭吉に相談し、福沢の紹介により中村が大蔵卿大隈重信を訪れ、外国銀行の専横に苦しむ貿易業者の救済策を具申した。すなわち、邦人により正銀取引銀行を設立し、内外商人の間に介在して銀貨の供給を円滑にし、邦人の商権回復を図る主旨である。大隈大蔵仰は直ちに賛成して、13年2月に同行は設立された。

 表面は右の如くであったが、その実状は、丸屋商店の衰運を挽回しようとした早矢仕が、中村他を語らって銀貨投機に参入したものの、失敗を重ねたため再度挽回を謀ったものであった。彼らの予定は、資本2、30万円の小銀行を設立し、貿易商や投機家に対して銀貨を担保に紙幣を貸し、または紙幣を担保に銀貨を貸して、日歩(一日分の利息)を取ることを本業とするが、その傍らで早矢仕自らも時に投機を行おうとしたものであった。これに対し福沢は、種々適切な助言を与えて論拠を正したので、中村の意見具申を受けた大隈は大いに賛成し、資本金を予定の10倍の3百万円に増加せしめた。因って、12年11月10日付で創立願書提出、翌日に許可が下り、発起人のうちから中村道太が初代頭取になった。創立を隠然支援した福沢は副頭取に門下の旧紀州藩士・小泉信吉を送り、以後も慶応義塾出身者を多数送り込んだので、やがて行内には早矢仕・中村の丸屋商店一党と、慶応義塾出身者の一派の両派が生まれることになる。発起人は13年1月、内外の信用を博するため資本金の3分の1に当たる百万円を政府出資とすることと、業務監督のための管理官の派遣を大蔵省に請願したところ、2月6日付で許可を受け、大蔵少輔(次官・審議官クラス)吉原重俊が管理長となった。ここに同行は本店を神奈川県横浜区本町に置き13年2月28日を以て開業する。この日は大隈が大蔵卿を辞して佐賀藩の後輩・佐野常民にその席を譲った日で、また松方正義が大蔵大輔から内務卿に転じた日に当たる。フランス帰りの松方が、永年にわたり支えてきた大隈の財政政策を批判して、ともに大蔵省を去った背景は前月号に述べたところである。

 その頃には銀貨・紙幣の交換比率が益々悪化し、ために同行は、窮状に陥った輸出業者を救済すべく、邦人輸出業者に対レ貿易品買入のための紙幣の融通、つまり貿易金融を始めた。14年1月の第1回定期総会で早くも利益金を計上し株主配当を行った同行は、同月外国為替業務拡張のため小泉信吉を欧米に派遣する。出発に際して、大隈参議から英人シャンド宛の書簡を与えられた小泉は、ロンドンでシャンドから種々の便宜を得た。つまり小泉信吉は、この時めでたくワンフーールド金融部門の首脳にお目見えしたのである。
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(17)―2

 ★大正コスモポリタンの代表格・白洲退蔵の登場   

 明治14年の政変で佐野大蔵卿が辞職、代わって内務卿・松方正義が大蔵卿に就任したのは14年10月21日であった。フランスから帰国後、不換紙幣の整理を急ぎ、そのために海外からの正貨吸収を必要と考えた
松方は、その実行に当たって横浜正金を利用せんとし、従来の管理官を廃し、代わりに特選取締役を任命することなどを示達した。特選取締役は政府持株に関して政府を代表する者で、大蔵卿が任命する民間人を充てたが、これは官吏たる管理官が管理するよりも、民間適任者を選んで業務を任せた方が時宜に適すると松方が考えたからである。

松方が大蔵卿に就いた14年の末から翌年にかけ、商況は激変して貿易関係業者の倒産が増加した。横浜正金の得意先にも破産が増えたが、中村頭取の経営は放漫に流れ、15年上半期の決算は彌縫策を講じて配当を据え置きとした。これを憂慮した松方の追及で、中村頭取は7月10日の総会で引責辞任し、副頭取小野光景が頭取に就任、任期満了で副頭取を退いていた小泉信吉が副頭取に復活した。特選取締役には河瀬秀治、村田一郎が選任されていたが、河瀬は6月に辞任、これに代わって摂津三田藩(藩主・九鬼隆義)の儒官で藩の大参事もした白洲退蔵が、三田藩顧問・福沢諭吉の推薦により、8月に取締役に特選され、直ちに副頭取に就いた。

しかしながら、小野新頭取は中村時代の隠蔽体質を継承して彌縫策に走り、官民分離論あるいは平穏解散論を唱えて株主間に宣伝したから、株主間でも不穏な動きが広がり、小泉も職権の発揮を保証されないとして早々に副頭取を辞した。松方大蔵卿の意向は、同行の改革のため、白洲退蔵を頭取、深沢勝興を副頭取に任じ、深沢の手腕で改革を断行させることにあった。そこで福沢は、頭取含みの特選取締役として、松方に白洲退蔵を推薦したのである。しかし深沢は病身で、16年1月の定時総会では頭取に白洲、副頭取に小泉が就き、深沢は取締役に再選されたものの2月1日に病死する。計画が頓挫した松方は、止む無く3月22日、第百国立銀行の原六郎を特選取締役に任命し、頭取に就けた。白洲と小泉は辞任し、小泉は古巣の大蔵省に戻り、白洲は19年になって岐阜県大参事に就く。

以上長々と述べたのは、白洲退蔵とその子孫に焦点を当てるためである。

 退蔵の子息・文平は明治2年に生まれ、フルベッキ(理事長)とヘボン(初代総理)が創立した東京築地英語学校(明治学院の前身)を20年6月に卒業後、渡米してハーバード大学に学び、更に渡欧してボン大学で学んだ。ハーバードで知り合ったのが後に三井合名理事から日銀総裁・蔵相になる池田成彬(慶応3年〜昭和25年)で、生涯の知友となった。

帰国後の文平は、三井銀行から鐘紡に勤めた後、興した貿易商・白洲商店が大成功したが、昭和4(1929)年に破綻した。

日本的情緒・趣味を甚だ嫌ったという文平は、儒者ながら早々キリスト教に入信し、神戸女学院の創立に携わった父の退蔵と同じく、コスモポリタン臭が濃厚である。文平の次男・白洲次郎が妻に迎えたのは、伯爵・樺山資紀の孫女(樺山愛輔の娘)の正子であった。退蔵の父・文平と同様、岳父の樺山愛輔(慶応元年生まれ)留学帰りで、大正コスモポリタンを代表するワンワールド人士であった。
 
http://2006530.blog69.fc2.com/category2-14.html


 

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