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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その17
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 13 日 15:58:48: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その17

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)−4


 ●三宅雪嶺も断じ切れなかった政治家としての器

 高島のかかる冷遇を世間は怪しんだものと思う。選挙干渉以来の国民的不人気から同情に値せずというのならば樺山資紀も同断であるが、樺山は国民的英雄となった。世人の不審に答えたのが秋川書店『帝国陸軍将軍総覧』の高島評で、「大阪では鎮台司令官、第四師団長として大いに権勢を振るい、多くの新規事業も実施した。その後、陸軍大臣、拓殖務大臣など軍政家として政治的手腕を発揮したが、早く現役を退いた。直情径行のためといわれる」と月旦する。これは『大日本人名辞書』が「鞆之助豪放にして膽気あり。細事に汲々たらず、家資常に空し。政治家の器ありと雖も、直情径行にして紆余曲折の態に乏しきを以て、晩年落寞として振るはず」と評したのを受けただけで、自ら究明するところがない。小島直記『日本策士伝』も似た解説
を述べるが、三宅雪嶺の『同時代史』を借用しただけで、自身の意見はない。高島晩年の不振の理由を雪嶺は、「恐らく第四師団長以後、頭脳の発達が停まり(中略)記憶力の乏しきは何時頃よりの事か、後に人の面を忘れ、感情を害すること少なからず・・・」と憶測するが、「我執を強くし、偏狭に流れ」と評したのは、何のことを指したものか分からぬが、樺山と共に閣内で選挙干渉を主張し、関与知事の更迭に飽くまで反対した件からすると、高島に対する「案外に偏固の癖あり、思い立てることは飽くまで遂げんとす」との評も、あながち不当とは言い切れまい。しかし事実は、雪嶺自身が云うように、「まだこのときは、まださすがに勇敢だ、となお重きをおかれ」ていた。だからこそ5年後に再び陸相のお鉢が回ってきたのである。

 つまり、高島への酷評は、そこで出世が止まったから生じた結果論で、初回の陸相の時には評価のガタ落ちなどなかった。雪嶺が「高島の評価がガタ落ちした」と指摘するのは第二次松方内閣の時であるが、この内閣も5年前の第一次内閣と同様、松方が首相兼蔵相、陸相兼拓殖相に高島、海相に西郷従道、内相に樺山と、要所を薩人で固め、その他は外相大隈(佐賀)、司法相清浦奎吾(熊本)、文相蜂須賀茂詔(大名)、農商務相榎本(幕臣)、逓信相白根専一(長州)を配したもので、閣員構成は5年前の第一次内閣と酷似している。

雪嶺は「先ずこの内閣は〔欲ありて意なく、意ありて謀なく、謀ありて力なき〕閣員の集合体であった」というなら第一次内閣の顔触れも同様だ。松方・高島・樺山の薩摩三人衆が水戸黄門トリオ宜しく並び、心情的に薩人に近い榎本が加わり、他は首のすげ替えだから、両次の松方内閣に挟まれた第二次伊藤内閣が、井上・山県・陸奥・黒田の元老を並べて「元老内閣」と呼ばれたのと比べると閣員の爵位は確かに一段落ちるが、政治の評価はそんなことには関係がない。この内閣の特徴は、進歩党の大隈が松方に協力した連立内閣という点にあり、ために世人は松隈内閣と呼んだのである。雪嶺が、玄洋社と政治的立場を同じくする松隈内閣に対して悪態を吐いた心理は不可思議だが、その詮議はともかく、「そこで薩派の牛耳を執るは陸相兼拓相の高島にして」の言は流石に正鵠を得ている。両次の松方内閣で要所を占めた薩人をまとめたのは、確かに陸相高島の一言であった。したがって「第四師団長として嘱望されたときのようであれば、内閣関係者を結合する中心人物として、事実上の首相となったであろう」との評は正しい。問題は事実がそうならなかったことで、その理由を雪嶺は「豪傑肌で愉快な人と見られるのと、小事を争って策略を弄する御仁として知られるのと、どちらが本当か。世人は判断に戸惑い、それが高島信者の損となり、高島本人の損となった」と評した。評言の重点は後半部にあり、「高島が、第四師団長時代とは一変して、小事を争う偏狭な人物に変わった人材異変を原因とする」と断じたわけである。
    
   <続く>


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)ー5
  
 ●陰の使命、薩派総長就任のため陸軍路線を転換

 事実を追うと、第四師団長時代の令名もあり24年5月、第2代陸
相に挙げられた高島は、選挙干渉の一件で辞去を提出した25年8月から、3年間を枢密院で過ごした。陸相経験者の高島にとって陸軍内での席は、各地の師団長を別にすれば、@陸相再任、A参謀総長、B教育総監、C台湾総督−−以外にはなく、予備役編人もやむを得ないが、日清講和後に現役復帰して台湾副総督に就くのを見ても、陸軍との縁は切れていない。副総督は軍隊指揮官のみならず軍政官(行政官)だから、この人事は「政治家としては問題あるが、軍人ならばまだやれるだろ」といった類のものではない。第一行政手腕に欠ける面が明白なら、伊藤内閣が新設した拓殖務人臣に、わざわざ高島を任じることはない。短期間に台湾を治定し、台湾統治の根本を策定した高島の軍政力に期待したのである。第二次松方内閣でも拓殖務相を続け、陸相を兼務した高島を評して、「この内閣の時に、人物偏狭とうてい大事に堪えずと判断された」と評するなどは、どうみてもおかしい。第四師団長後の高島の経歴を辿るとき、結局雪嶺の言うがごとき「人材異変」は見当たらないのである。

 第二次松方内閣の治績は、対清戦争準備と新聞条例の改正だけでなく、貨幣法の制定こそ、内閣最大の眼目であった。明治30年3月26日公布の貨幣法は、金本位制の確立を意味し、維新直後から長年にわたり政府紙幣の整理に苦心してきた2人の財政家、すなわち大隈重信(明治6年10月から13年2月まで大蔵卿)と松方正義(8年11月から13年2月まで大蔵大輔、14年10月から18年12月まで大蔵卿)が、それぞれ外相兼農商務相および首相兼蔵相となり、その実行のために連立内閣を組織したのである。松隈内聞の異称も宣なる哉のこの内閣は、10月1日の貨幣法施行を見届けたら崩壊するのも自然の成り行きで、11月6日大隈は辞任した。共同首相というべき松方・大隈は素より、副首相格の高島・樺山もその他の重要閣員も、ワンワールドの一員だった筈だ。松方と大隈に連立を提案した三菱の岩崎弥之助が日銀総裁に任ぜられた意味も深長である。金本位制の確立を指図したのが金融皇帝ロスチャイルドだったことは当然だが、一流の評論家・三宅雪嶺でさえワンワールドの実存を知らず、また覚り得なかった所に、明治(から平成までの)日本知識人の限界が露呈している。浅薄ただ喋るだけの文人に対し、重厚軍人は敢えて剛毅朴訥を装い、自らのワンワールド性を韜晦したのである。

 軍部大臣は内閣交替にさほど影響されず、在任期間は総じて長い。明治13年陸軍卿となった大山巌は、内閣制度発足の18年、初代陸相となり、在任5年(陸軍卿通算で11年余)の後、24年5月に高島に譲った。長期の陸相在任が予定された高島が選挙干渉の一件で辞任したので、大山は第二次伊藤内閣の陸相に復し、在任さらに4年に及ぶ(第二軍司令官の期間は、海相・西郷従道が臨時的に陸相を兼摂)。政党と事を構えた高島が予備役で「ほとぼり」を冷ます間、大山自ら陸相の席を守りながら、高島のアク抜けを待ったように見えるし、それが真相かも知れぬが、別の可能性もある。即ち、高島がそれまで辿ってきた陸軍路線を転換し、前年4月に逝去した吉井友実の後を継いで、薩摩ワンワールドの総長に就いた可能性である。

 *******************

 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(14)  
 「大西郷の後継者」から「人格異変」? 高島鞆之助の実像
   『ニューリーダー』 2008年2月号 より

   <完>


●高島鞆之助
 『近代人物辞典』 吉川弘文館 より。

●高島鞆之助 1844−1916 (P594)

明治・大正の軍人、政治家。号は丙革。
弘化元年(1844)11月9日、薩摩藩士高島嘉兵衛・貞子の四男として鹿児島城下高麗町に生まる。藩校造士館に学ぶ。文久2年(1662)島津久光に随行して京都に上り、皇居の守護にあたった。
明治元年(1866)戊辰戦争に従軍して鳥羽伏見から北陸・東北に転戦した。
明治4年侍従、ついで翌年侍従番長に任ぜられた。7年陸軍大佐に任官。陸軍省第一局副長・同局長代理をつとめた。
この間、9年萩の乱鎮圧に派遣。10年西南戦争が勃発すると、陸軍少将に昇進して、別働第一旅団司令長官となり反乱の鎮圧に功績をあげた。
12〜13年フランス・ドイツに留学して軍制研究に従事。帰国後、熊本鎮台司令官・大阪鎮台司令官・西武監軍部長・第四師団長などを歴任。
その間16年陸軍中将、17年には子爵を授けられた。また17〜18年甲申事変の事後収拾のため井上馨に随行して朝鮮に渡った。
24年5月第一次松方内閣の成立に際して陸軍大臣として入閣、樺山資紀海相らとともに閣内の薩派の一翼を担い、武断派と評された。25年8月松方形内閣退陣に伴い、辞職して枢密顧問官に転じた。28年8月〜29年4月台湾副総督、29年4月〜30年9月第二次伊藤内閣および第二次松方内閣の拓殖務大臣、29年以降陸軍大臣を兼任し、ついで30年9月〜31年1月陸軍大臣専任となった(拓殖務相は廃官)。
31年1月予備役編入、32年2月再び枢密顧問官となり終身その職にあった。
反長閥勢力の中心として、大正元年(1912)〜2年には犬養毅ら憲政擁護派と連携し桂内閣打倒に一役買った。

性格は豪放磊落で胆力・勇気に富み、一時は政治家として飛躍を期待されたが、緻密さや思慮・分別に欠けるとされ、晩年は不遇に終わった。
京都の伏見桃山にある女婿高島友武少将(第十九旅団長)邸に滞在中、大正5年1月11日脳溢血のため死去。73歳。
墓は東京都港区の青山墓地にある。

参考文献『枢密院高等官履歴』・三           (鳥海 靖)


 **************

●高島鞆之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索

高島鞆之助高島 鞆之助(たかしま とものすけ、天保15年11月9日(1844年12月18日) - 大正5年(1916年)1月11日)は、薩摩藩出身の陸軍軍人、政治家である。諱は昭光。官位は陸軍中将正二位勲一等子爵。陸軍大臣・拓殖務大臣・枢密顧問官等を歴任する。また、現在の学校法人追手門学院の前身である、大阪偕行社学院の設立者でもある。第19師団長を務めた陸軍中将勲一等子爵高島友武は養嗣子。


[編集] 略歴
幼少期:薩摩藩の藩校造士館に学ぶ。
戊辰戦争に従軍する。
1874年(明治7年):陸軍大佐に任ぜられる。
西南戦争:別働第1旅団司令長官。
1883年(明治16年):陸軍中将
1884年(明治17年):7月7日子爵に叙せられる。
1887年(明治20年):11月2日勲一等旭日大綬章受章。
1888年(明治21年):第4師団長
1891年(明治24年):第1次松方内閣の陸軍大臣となる。
1892年(明治25年):枢密顧問官となる。
1895年(明治28年):台湾副総督となる。
第2次伊藤内閣・第2次松方内閣:拓殖務大臣と陸相を歴任する。
1899年(明治32年):枢密顧問官となる(死去まで)。
1916年(大正5年):1月11日薨去、勲一等旭日桐花大綬章受章。

先代: (未設置) 拓殖務大臣:1895 - 1896 次代:(廃止)
先代: 大山巌 陸軍大臣第2代:1891 - 1892 次代:大山巌
先代: 西郷従道 陸軍大臣第7・8代:1896 - 1898 次代:桂太郎

 *************
上の写真は、★近代日本人の肖像( http://www.ndl.go.jp/portrait/contents/rights.html )より。
 


●『期待と回想』 鶴見俊輔

●『期待と回想』 鶴見俊輔 朝日文庫 2008.1.30

(原著は1997.8月刊 晶文社。) よりのメモ。

7。伝記のもつ意味  より。 p396〜
 (質問者は小笠原信夫 日時は1994.4.30 )

*章頭の質問は次の通り。
 鶴見さんの仕事で伝記というスタイルの表現が多くありますが、人とその生きてきた時代を、いまという時代に置いてみようということではないかと思います。
 70年代に入り『高野長英』、それ以降『柳宗悦』『太夫才蔵伝』『夢野久作』『アメノウズメ伝』。こうした伝記を書こうというときに何を心がけていますか。
 *************


★『高野長英』は史料がものすごく多いという感じがしました

 江戸時代の史料というのは使ったことがなかったんです。本格的に史料調査をやる人だったらもっと楽々と書くのではないでしょうか。これを書こうという直感は、高野長英(1804一50)は悪党だということなんです。高野長英を美化しようとか、尊皇の志士という諸説から切り離したかった。それからもう一つある。「べ平連」での脱走兵援助があったことですね。高野長英は脱走囚となって逃げたでしょう。それです。

 高野長英自身は悪党なんだが、かれを助けた人は長英より逞かにえらい人なんだ。長英を助けている人たちが、あちこちにいて、いずれも立派な人たちだった。貧乏しているけど先祖が長英をかくまったことを今も愉快に思っているんだね。上州にいましたよ。このことな
んです。私か脱走兵援助をしていなかったら、これを書くモティーフは出てこなかったでしょう。長英が残した『蛮社遭厄小記』はすごい。牢屋に入れられるとふつうはあきらめるものなんだが、高野長英は金を小者にやって火をつけさせ逃げるでしょ。すごい知恵じゃないですか。「べ平連」で脱走兵援助を一所懸命やったが、それはいったん終わった。アメリカの基地から出てきた脱走兵を助けた人たちと同じ気分を、高野長英を助けた人たちはもっていたと思う。そのことを、ゴシップでもいい、嘘でもいい、集大成してみよう。そんな思いなんです。

 『夢野久作』は、京都で「家の会」(サークル)をつくったころに話したことがあるんですが、杉山茂丸と夢野久作という父親と息子の関係に興味をもっていたんですが、意外なことに夢野久作の長男の杉山龍丸さんという人物が現れて、私の家に何度もやってきたんです。私が夢野久作について20枚ほどの原稿を書いた(1962年)ことがきっかけなんです。手紙を送ってきて、それから来るときはかならず伊勢名物の「赤福」を持ってきたんですよ。京都駅で買ってきたのでしょ。

 三一書房が夢野久作の全集を出すというので、谷川雁が兄の谷川健一に頼まれ、私を巻きこもうとした。杉山龍丸は、この全集の編者に入ってくれるなという内容の電報を打ってきた。そのあとに手紙がきたんだけど、「あなたと私とのあいだに金を介在させたくない。あ
なたが編者に加われば、かならず金の問題について私は要求することになる。それがいやだ」と書いてあった。

 かれとしては、私との関係は「赤福」を持って訪問するだけにしたい。『声なき声のたより』という小さな通信に文章を書いて送ってくれたこともあった(鶴見著『夢野久作』に収録)。こうした関係性は右翼的なものなんです。

 あとでわかったんだが、かれは夢野久作から3万坪の土地を残されていた。その金で、インドのガンジーがつくった塾の生き残りを日本に連れて来たり、世界の砂漠の緑化をやったりと全部使いきっていた。全集を出した三一書房から多くの印税が入ったと思うが、それも使いきっちゃっていた。ほんとに何にもない、文なしで人生を終えた人なんです。

 私から見るとそれは壮挙だね。こういう人間が日本の高度成長という時代にいるんだね。私もそうありたいと願っている。一種の理想なんだ。それに感激して、『夢野久作』を書いた。はじめは「家の会」的に親と子という関係で書こうと思っていた。杉山茂丸から夢野久作へ。それはある程度アカデミックな構想なんです。しかし変わってしまった。杉山龍丸という人物の登場によって。私としては、この本は、杉山龍丸に対する供養という気持ちがつよい。高度成長のときに、こういう人間がいる。福岡で3万坪というのは大変なものでしょ。それを少しずつ売っていった。かれは弟にもほとんど金をやっていない。弟に家をたててはいるんですが、戦前の長子相続権を戦後になってもがんと守った。無茶な人ですがね。

 彼は、CDIのアンケート調査で、福岡にずっと住みつづけるつもりだ。どこか別のところに行くとしたら京都だ。あそこは友だちがいるし、いい学生たちがいる、と答えた。友だちというのは私のことで、いい学生たちというのは奈良でハンセン病患者でも泊まれる家(むすびの家)をつくった柴地則之といったワークキャンプの学生たち。私は胸をつかれた。かれは杉山茂丸の孫だということで、左翼から毛嫌いされ、右翼とも喧嘩ばかりしていた。こういう男はすごいなあと思う。光を放つ、そこのところがないと伝記は書けないでしょう。

★右翼といえば、鶴見さんは葦津珍彦さんとも親しいですね。
             
 葦津さんには感心しています。葦津さんを記念する本をつくりたいと思っているんですが、もう私には力がなくてね・・。葦津珍彦という人は市井三郎が連れてきたんです。葦津さんに、夢野久作の息子が生きているはずだけど紹介していただけないか、と頼んだことがあるんだが、それはできない、あの人はよく喧嘩する人です、といった。たしかにその助言は有効だったんです。しかし私は杉山龍丸とは喧嘩をしたことはないんですよ。かれは突如として来るけど、私が家を出る用事があるというと「赤福」だけを置いてすぐに帰っていく。お
互いのあいだに最後までお金をいっさい介在させなかったね。・・・以下略・・・

  <続く>
 


●『期待と回想』 鶴見俊輔 朝日文庫 2008.1.30
(原著は1997.8月刊 晶文社。) よりのメモ。

 4.転向について(質問者は北沢恒彦 日時は1993.9.25)

 ★転向よりも重要な問題  p216〜


 いま自分は「転向」よりも重大な問題があると考えるようになった、と最初におっしゃいましたね。それはどういうことなんでしょう?

 転向論をやってるあいだは何でもかんでも転向と結びつけて解釈していたけど、30年たって、いまの私は、転向は人間のもっとも重要なテーマじゃない、という感じがしているなにがもっとも重要なテーマかというと、「生きていていいのか」「なぜ自殺しないのか」という問題なんですよ。哲学の問題としては、転向よりもこっちの方が重いんですね。
  
 この考え方に光を当てるために、『西田信春 書簡・追憶』(土筆社)という本を待ってきたんです。石堂清倫(社会思想研究家)、中野重治、原泉(女優。中野重治と結婚)の三人の共著。本のタイトルになってる西田信春という人は、戦前の日本共産党の九州地方委員長だったんだが、警察のスパイだという説があった。当時の共産党の資料は調べることができませんから、戦後もながくスパイだったと思われていた人なんです。

私がこの本と出会うのには因縁があってね、夢野久作(作家)の伝記を書いていたときに読んだ。夢野久作が福岡で秘書役に採用した紫村一重という人物がいるんです。当時、かれは共産党員ということで起訴されて裁判が進行中だった。にもかかわらず夢野はかれを自分の秘書にした。紫村は転向したんだけど、底の底までは転向してなかった。監獄で雑役をしていたとき、自分たちの指導者を売った西田信春のことを探って、とうとうかれの警察調書を発見するんです。それを読んで西田はスパイどころか、拷問にあっても自白をせず、警察署の階段をズルズルと何度も頭から落とされているうちに死んだということがわかった。逮捕されたのが1933年2月10日で、死んだのが翌日です。その事実を警察は嘱託医をごまかして、「職務熱心でこうなりました」といっている。

 そのことが戦後になって明らかにされた。それは西田と交渉のあった中野重治や石堂清倫にとってはたいへんなショックだったんです。それでこの本ができたんです。

 この本に西田の配下だった前田梅花の書簡がおさめられている。西田にはハウスキーパーがいた。北村律子というんです。この北村律子は笹倉栄というスパイと結婚していた。そのことで前田は、西田の疑いが晴れたあと、「なぜあんたは西田ではなく笹倉と結婚したのか」と律子を詰めるんです。それに対して、律子は「たとえかれがスパイであったとしても、私はかれを愛しているから離婚するつもりはない」と答えた。前田は、それはいやだな、と思うんですけども、ついに最後は気持ちの整理がついた。「笹倉は許さなくても律子は許してやらなくてはならないと思いました。西田が遠いところから、ああもういいよといっている気がしますね」。これが前田梅花の最終的な結論なんです。

 政治行動というのは表面のことのように私には思える。それに魂を奪われたくない。スパイと一緒に暮らすことは悪いことなのか。かならず離婚しなきやいけないのか。私は、政治思想を共にしなくても、旦那がスパイであっても一緒に暮らしていくのは一つの立場のよう  な気がします。前田梅花が最後に達した結論は私には理解できる。転向よりも裏切りよりも深い問題がある。転向者として同志を売るようなことをやって、どうして生きていったらいいだろう。そこで自殺するという考え方もあるでしょ、熊沢光子(てるこ)のように。生命のかたちはそれを否定するものとの葛藤なのであって、そこまで降りていくと政治的転向より深い問題に出会うと思いますね。

 生命のかたちはいつでも生命の否定とない合わせになっている。どうしたら生きていけるのか。いっそ自殺しようか。それが根本の問題なんです。転向研究から離れたあとの30年で、私の中に定着した考え方なんです。
 私の姉はアメリカに行ったときからマルクス主義者で、その後、離れた。そして親父が選挙戦に出て倒れたのち、ひとりで膨大な借財を整理して親父の面倒をを見ていたんです。ところがプリンストン大学で博士号を取るためにアメリカに行かなければならなくなった。姉のほかに私と妹、弟と三人いたけど、引き受け手がいなくて、結局、私が家にもどってしばらく世話をした。私は1951年から15年間、親父の家に足を踏み入れたことがなかったんですけどね。

 思想の表面だけを見れば、姉には一貫性がない。だけど彼女が親父の面倒を見ていたから、私はデモとか座りこみとか自由にやることができた。親父が倒れたあとだって一文も家に入れたことはありませんよ。もし姉がいなかったら私が親父の世話を引き受けなければならない。社会的、政治的な活動もしなかったでしょうね。家のこと、親父のことを考えると、姉に対して頭が上がらない。そういう問題があるんですよ。著作の上での一貫性とはちがう問題がある。転向だけを問題として他人を押しまくることはできやしない。それが現在の立場ですね。転向よりも重大なものがあるということなんです。

  <続く>
 

http://2006530.blog69.fc2.com/category2-16.html

 

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