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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その12
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 12 日 08:09:15: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その12

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―4

●「(ギンヅルが)来タル目的ハ 高島サンニ・・」
 
 もう一つは『周蔵手記』の「別紙記載」で、「九月ニナルトハヤク婆サンガ上京出テ来タル」で始まる「京都探訪記」で、ここにも高島が出てくる。大正6年9月初頭から10月下旬にかけて、ギンヅルに同行して京都に行った周蔵が、祖父・提哲長の愛人だった渡辺ウメノを訪ね、その孫で外科医の渡辺政雄を東京に引き取った一件の記録に、高島の名が二箇所出てくる。まず冒頭部分に「(ギンヅルが上京し)来タル目的ハ 高島サンニ関フル事モアルヤフダシ、閣下二用モアルノデアラフガ、例ノ如クアノ人物ト同伴デアルニ 何カタクラム事デモ アルノデアラフ。閣下モ又マメニ ヨク手紙ヲ出スヤフデアルシ 婆サントニ人 薩摩ノ田舎ニオヒテ コノ國ノ情勢ヲ コマンカ事(細かなこと)マデ 手二取ッテヲラル・・・」とある。「アノ人物」とは日高尚剛で、日高を同伴してギンヅルが上京してきたことから、周蔵は、二人の用件が前年1月11日に死去した高島鞆之助の後始末、及び上原勇作との用件と察し、「上原閣下もまめに報告を欠かさないから、この二人は薩摩の田舎にいながら、この国の情勢を細かい事まで把握している」と記したのである。上原から中央の動向を報告させている事を以て、二人の行状の一端を想像すべきであろう。

 同じ文のなかで「トコロデ 三居(ギンヅルのこと)ハ、哲長トハ最後マデ 妾トハ云へ 暮ラシテ来テヲリ、自分ガコノ頃 閣下ヤ高島サンカラ聞クニハ・・・」とある。ギンヅルの過去のことを、この頃になって上原と高島から聞いたというわけだ。この高島が鞆之助か養子高島友武か未詳だが、前者は前年1月11日に死去していた。後者は吉井友実の次男で鞆之助の女婿だが、当時は陸軍少将で第十九旅団長であった。十九旅団は京都十六師団麾下で、本部が伏見区藤森にあり、今はその後に京都教育大学が置かれている。周蔵は10月に京都へ行くが、その折高島友武を訪ね、そこでギンヅルの噂を聞いたというのだろうか。そこまでは分からぬが、何しろ高島鞆之助は戊辰戦争以来のギンヅルの辱知、しかもビジネス・パートナーの仲であった。大正2年春、大阪日赤病院で初めて会った周蔵だが、ギンヅルの孫として粗略にしなかったのは当然で、その関係が養嗣子の友武にも引き継がれていたものと観てよい。

 余談ながら、明治から大正にかけて、東京新宿の淀橋に淀橋医院と称する個人医院があった。吉薗周蔵が大正六年以来、本願寺から預かっていた佐伯祐三の診療を頼んだ医院である。院長は日向・飫肥(おび)藩主・伊東家の血筋の人で、薬局部には遠藤与作という薬剤師がいた。伝承では、淀橋医院は高島鞆之助と川上操六が作ったもので、上原勇作が継承したという。特色はどうやら薬局部にあり、そこで阿片その他の薬学的研究を秘かに行っていたようである。
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)    <了>

 ************* 
 *以下、参考までに、
 天才佐伯祐三の真相 vol.4 より。 
 (★左下のリンク「佐伯祐三調査報告」からどうぞ)
  http://www.rogho.com/saeki/vol-4.html

  第三章  武生市発表「小林頼子報告書」なるもの
  第二節 小林報告書の要点と誤り  から
  
 ★B.周蔵と医学 を紹介しておきます。
    
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 B.周蔵と医学

 吉薗資料の内容

1.熊本高等工業を二年で中退し、山本権兵衛の紹介で帝国医専に裏口入学。「これを数ヶ月で中退して、ケルン大学へ留学」(小林氏の解釈)。      
2.帰国後、中野に救命院を開設する傍ら、淀橋の牧野天心堂で手伝う。
3.牧野は佐伯の結核の主治医であったが、不在の折りは、中村彝の主治医であった遠藤が佐伯を診ていた。
4.周蔵は医師免許を取るため、額田の研究室に通って、医学の研究を続けた。額田たちは大正十四年(小林氏の解釈・本当は大正六年)の段階で、周蔵が血液型を分離する作業をみて驚嘆した。

●小林報告
1.周蔵は東亜鉄道学校(熊本)に大正元年十月一日から三年九月二十五日で在学していた。上京したというのは疑わしい。     
2.帝国医学専門学校の存在は確認できない。
3.牧野の遺族は周蔵や佐伯の名前を知らなかった。
4.遠藤医師が、中村彝の主治医だった遠藤繁清のことだとすると、中村と知り合ったのは大正十年四月以後だから、大正六年十一月あたりに出てくる「救命院日誌」は怪しい。
5.淀橋病院は昭和七年の設立なのに、「救命院日誌」の大正六年十一月以降の条に出てくるのは、怪しい。
6.「救命院日誌」一九一六(本当は一九二六年)年四月三日の項に「額田兄弟の母(これは小林解釈)を大森に訪ねた」とあるが、額田医師の母上は前年九月十一日にすでに死亡しており、住居も大森ではなかった。
7.日本の血液型の研究は大正五年頃より、広範な分布調査がなされているのに、その九年も後で、額田が驚嘆したり、また「救命院日誌」一九二六年の条に「先月ノケルン大学カラノ雑誌デ、AB型ノ親カラO型ノ子供ハ生マレナイト知ッタ」とあるのは荒唐無稽である。ケルン大学へ問い合わせたが、当時雑誌を発行していた事実はない。

●落合報告
1.周蔵は飛び級で小学校を一年短縮し、都城中学に入るが、数日で退学し、その後、山本権兵衛の口利きで、熊本高等工業を裏口受験させて貰うが、試験をさぼった。その後、上京したが、大正元年八月、前陸軍大臣上原勇作中将の命令で、東亜鉄道学校へ入ったものである。
2.周蔵は、呉秀三医博の勧めで、大正九年十月から、帝国針灸漢方医学校へ通った。もとより実在の私塾で、校長は周居応という中国人であった。
3.牧野の娘は、周蔵の長男緑との恋に破れて、他家へ嫁いだとのことであるから、思い出したくないのではないか。
4.牧野の代診をしていた遠藤与作は、遠藤繁清の縁者で、当時もとより実在した淀橋医院の薬剤師であった。
5.牧野は確かに以前は中村画伯の主治医で、事情があって遠藤繁清に代わった。従来の中村の評伝は、これに関しては不正確なようである。
6.額田の兄の妾のいた大森の置屋の女将(養母かも知れぬ)のことを「額田ノ母サン」と「救命院日誌」に記したのを、小林頼子が誤解したものである。
7.額田らを驚嘆させたのは、周蔵がウイーンから帰国した直後の、大正六年秋のことである。小林頼子は吉薗資料に「帰国シタバカリ」とあるのを、強引に大正十四年のことにしている。
8.ケルン大学云々と「救命院日誌」にあるのは事実であるが、これを理解するには「救命院日誌」の本質を知らねばならない。「救命院日誌」は、裏で本願寺の諜者をしている佐伯祐三のアリバイ(バックグラウンド)作り目的の日誌であった。その内容は、佐伯が、事実に基づいて創作したものである。ケルン大学の雑誌の条は、佐伯の作文性が行き過ぎた例である。  

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(13)―1

★知られざる大物『上原勇作伝』と『周蔵手記』に見る高島鞆之助
                                ◆落合莞爾
  ニューリーダー誌 2008.1月号

 ●杉山茂丸の一端を明らかにした『アジア連邦の夢』
 (*『ドグラマグラ』の夢野久作=杉山直樹・泰道の父親) 
 
前月号で、高島鞆之助・樺山資紀と児玉源太郎、後藤新平の関係を述べつつ、「ここまで書いて折よく、この見解を裏付ける資料に際会した」と書いた。その資料とは、平成十八年に発行された堀雅昭著『杉山茂丸伝〔アジア連邦の夢〕』である。内容は後稿で紹介するが、玄洋社総帥の頭山満の指南役だった杉山茂丸が、伊藤博文・山県有朋・桂太郎など長州派首脳や後藤新平を操縦していく経緯を、原資料に当たりながら解説したもので、御用史家や売文史家が従来全く気づかなかった杉山の本質を明らかにしている。この著の価値は長州派首脳に取り入った杉山が、独自の政治的価値観を以て国策を進めたことを立証した点にあるが、その一方、一介の浪人・杉山がそのような地歩に立ち得た理由については考察及ばず、また杉山が近侍した謎の貴公子・堀川辰吉郎に全く触れていないのも遺憾がある。
 
 尤も、かかる杉山の深奥部に関しては、そもそも直接資料なぞあるべくもなく、考察対象を原資料に限定する限り、已むを得ないものと思う。ともかく私としては、本誌の新連載で探究・推理を始めた日本近代史の核心部分、すなわち吉井友実・根方正義・高島ら薩摩ワンワールドと、その後継者たる上原勇作と上原に続く荒木貞夫につき「杉山茂丸という一本の補助線により極めて明瞭に裏付けられた」との実感がある。

 *****************

前に、こう紹介された(した)著作を読んでみます。

「目次」を先ず見てみると、「怪人」、「百魔」=杉山茂丸の一生が浮き出てくる「気配」が強く感じられます。

 以下、紹介していきます。
 
 先ず「目次」から。
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はじめに

第一章 自由民権の嵐

吉田磯吉と珍山尼
伊藤博文との出会い
士族たちの最後の戦い
藤田伝三郎との出会い
再上京の決意
文明開化の匂いの中で
井上馨と甲申事変
ねらわれた伊藤博文
北海道への逃亡
アンダーグランドの世界
頭山満との出会い
山田顕義と九州鉄道
山県有朋の保安条例
国権派新聞の誕生
『大阪毎日新聞』の創刊
井上馨と玄洋社の運転資金
「犬神博士」と炭鉱王

第二章 日清開戦の機運

戦争と炭鉱
井上馨を救った頭山満
大隈重信の右足
謎の「金受取証」
日清戦争の発案者
石炭貿易
日清貿易研究所
殉節三烈士
品川弥二郎との密約
選挙干渉の舞台裏
実業学校の開設
朝鮮沿海漁業と天佑侠
日清戦争への布石
山県有朋から出た工作資金
金玉均の暗殺
遼東半島割譲に反対する
李鴻章の狙撃
三浦梧楼と閔妃暗殺

第三章 膨張する視座

幻の『露西亜亡国論』
台湾鉄道の敷設
台湾銀行の創設
児玉神社
鄭成功伝説
京釜鉄道の敷設
青木周蔵と釜山港の埋築
経済策士の資本主義
第一回渡米と八幡製鉄所
第二回渡米とJ・P・モルガン
ニューヨーク
日本興業銀行

第四章 日露開戦への道

政友会の成立
日露開戦の七つの密約
日英同盟の裏側
第三回と第四回の渡米
京浜銀行の後始末
京阪電気鉄道の敷設
義太夫と日露戦争
最初の著書『帝国移民策新書』
ロシア革命とユダヤ人
機密情報の漏洩
児玉源太郎と南満洲鉄道
「凱旋釜」の石碑

第五章 アジア連邦の夢

支那は永遠に滅びぬ国
辛亥革命
東京大学の骨格標本
週刊誌『サンデー』の創刊
「日韓同祖論」と宋来峻
韓国統監になった伊藤博文
未完のアジア連邦
伊藤博文の韓国統監辞任
安重根発射の弾丸
日韓合邦記念塔
「遷都私議」と博多湾
築港
第一次世界大戦後の不況
消えた大分軽便鉄道計画
関門海底鉄道トンネル

第六章 第二維新の準備

お召し列車事件
南北朝正閏論と『乞食の勤王』
ラス・ビハリ・ボース
「中村屋」のカレー
フィリピン買収計画
ホルワット政権樹立構想
暗殺された原敬
国技館の再建
関東大震災と夢野久作
武智歌舞伎と『浄瑠璃素人講釈』
大杉栄と伊藤野技
田中義一と日魯漁業
雁の巣飛行場
五・一五事件と二・二六事件
交友五十年と祝賀披露会
茂丸の死
一行寺での玄洋社葬

杉山茂丸年譜
おわりに
主要参考文献
主要人名索引 

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★次に巻頭言 (「はじめに」) です。

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はじめに

 黒田藩馬廻組百三十石という侍の家に生まれた杉山茂丸だが、若い頃に小学校の代用教員をした以外、生涯浪人を貫いたアウトサイダーだった。その日暮らしを意味する「其日庵」(そのひあん、又は、きじつあん)を号にしたのもそのためだが、長州閥の政治家たちの裏側には必ず彼がいた。日韓併合を断行したといわれる伊藤博文、日清戦争を工作した山県有朋、日露戦争を戦った桂太郎、南満洲鉄道を計画し台湾総督になった児玉源太郎、朝鮮経営を実行した寺内正毅、昭和に首相になった田中義一、国際連盟を脱退して満鉄総裁に就任した松岡洋右。長州閥は陸軍閥なので、乱暴にいえば陸軍の背後で暗躍した人物といえなくもない。一方で福岡の国家主義団体「玄洋社」を率いた頭山満とも睨懇で、ある時期からは玄洋社の金庫番として頭山の指南役にもなった。そして自由に朝鮮や台湾に遊び、アメリカにまで雄飛して世界一の金融王J・P・モルガンと外資導入案をまとめたりもした。
そんなとらえどころのない輪郭により、いつしか「ほら丸」だの「策士」と揶揄されるようになる。
茂丸の面妖さがいか程であったかは、鵜崎鷺城が『当世策士伝』(大正三年刊)で語る次の一文でも察しがつくはずだ。「政治家にあらずして政界に関係を有し、実業家にあらずして財界に出没し、浪人の如くして浪人にあらず。堂々たる邸宅に住ひ、美服を身にし、自動車を駆って揚揚顕官紳士の邸に出入し、常に社会の秘密裏に飛躍しつつある杉山茂丸は、当代の怪物一種の策士として興味ある人物である」
 幸い茂丸は『其日庵叢書第一篇』『乞食の勤王』『青年訓』『建白』『百魔』『百魔続編』『俗戦国策』といった著作を明治末から昭和期にかけて二〇冊以上も残した。息子の夢野久作も『近世快人伝』で父を語っているし、学者の研究書では未完ながら一又正雄の『杉山茂丸・明治大陸政策の源流』や室井廣一の「杉山茂丸論ノート」(東筑紫短期大学研究紀要)、血縁者が書いたものに野田美鴻(よしひろ)の『杉山茂丸伝・もぐらの記録』などがある。そこで私は、これらの資料を読み解き、茂丸の軌跡をたどることで、一人の魔人の視点から日本近代の舞台裏を眺めることにした。
 (続く)
 

★次は「おわりに」と題した興味深い文章です。

 違和感を感じる箇所(後ほど記す)もありますが、誠実さ(特に「附記」)は充分に伝わってきました。

 **************** 

おわりに

 この作品を書くのに、ほぼ全力投球で五年を費やしたが、そのことは杉山茂丸の評伝に苦戦したことをそのまま物語っている。そして執筆の終盤においてソウルを取材する気になったのは、茂丸の大きな目標であった日韓合邦(日韓併合)のその後を、自分の目で確かめたかったからだ。
 ソウルには福岡国際空港から三時間で到着できた(仁川国際空港までは僅か一時間半)。まず、そのことが外国ではないという親近感を与えた。それに街の風景が日本と似ていたことで益々それを感じた。目の前に高層アパートが建ち並び、渋滞する自動車の排気ガスで霞がかった人ロ1000万人を越えるソウルの街は、出発地の福岡がそうであったように、日本のどこにでもある地方都市がそのまま肥大化した風情があった。自動車が左ハンドルで看板類がハングル語という以外、街そのものの空気はどこか懐かしい日本的な匂い示して、私の身体を拒絶するものは無いに等しい。
 この街の発展は、ここ20年ほどのもので、具体的には1988(昭和63)年のソウルオリンピック以来のものといわれるが、街を歩いて感じるのは短期間で近代化がうまく進んでいるという印象である。わずかの期間で発展できたのは、大日本帝国が近代化の基礎を築いていたからであり、どこか懐かしいという印象も、たぶんその辺りに起因するものだろう。しかし、それ以上に感じるのは、大日本帝国が朝鮮に恋慕を抱いていたのではないかということである。

昭和九年に京城蓮建洞(よんこんどん)の興亜堂書店から『京城遷都論』なる本が日本人の豊川善嘩により発行された。京城(現在のソウル)を日本の首都にすべきと主張する書物が出版されたこと自体、この街で暮らす日本人の朝鮮に対する恋愛感情を示していた。日本政府が皇民化政策で打ち出した官製の「内鮮一体」以外に、民衆の内から芽生えた朝鮮への愛があっても不思議はないというのが、ソウルを歩いた実感である。

 例えばソウル駅に隣接する赤レンガ造りの旧ソウル駅舎を見たときがそうだ。東京駅に匹敵する外観の美しさに、植民地主義以外の別モノを感じた。しかし韓国側にも似た心情があったようで、駅舎前の説明板に、「日本が中国大陸侵略の足場として、ソウルと新義州を結ぶ京義線と、ソウルと元山を結ぶ京元線を利用するために、1922年6月に着工、1925年9月に竣工した」と悪口風に書きつつも、実際には「史跡第ニ八四号」に指定して大切に保存していたからだ。日本国内でもそうであったように鉄道は軍事目的で敷設されながら、やがて近代化に大きな貢献を果たした。総工費94万5000円という当時としては膨大な予算を組み、朝鮮総督府が3年以上の歳月を費やして建設した豪華な駅舎は、この土地を愛した日本人のエ不ルギーが完成させた建造物という気がしてならない。
 同じことはソウル市庁舎にもいえた。大日本帝国が造った京城府庁が、今なおソウル市庁舎として使われ、偉容を誇っていたからだ。この建物には首都にふさわしい威厳がある。階段や壁の大理石は朝鮮総督府の建材が流用されたというが、洗練された美しさが建物内部に保たれた理由も、入口の警備員の監視が一躍(?)かっているように見える。

 市庁舎前の大通りは景福宮につながる世宗路である。景福宮は朝鮮を代表する宮殿だけあってこの道も近代的首都にふさわしい直線美を保っていた。しかしこの通りも日韓併合を成就させた大日本帝国が、パリ市街他計画を踏襲した拡張工事で建設したものであった。今、通りの中央分離帯に豊臣秀吉の朝鮮出兵を迎え撃った朝鮮側の英雄・李舜臣の巨像が建っているのが面白いが、いずれにしても今なおソウルを代表する通りで、朝鮮人たちが誇りとする道なのだ。ついでにいえば日本の統治が始まると景福宮の前庭に朝鮮総督府が建てられ、光化門が崩されることになった。ところが朝鮮人の発行する『朝鮮日報』や『東亜日報』は当時、これといった反対運動をしておらず、門を壊すのに最も強く反対したのは日本人の柳宗悦であった。
 他にもまだある。市庁舎の南に位置する東京上野のアメ横に似た南大門市場も、杉山茂丸の親友だった末秉峻が大正10(1921)年に朝鮮農業株式会社を設立したことで開場した市場だった。更に、南大門市場に続くソウル一の繁華街となった明洞も、日帝時代の日本人商人たちが伝統的な鐘路(ちょんの)商圏に対抗して開拓した地域だった。
 平成七(1995)年に、日本からの解放50周年記念として朝鮮総督府の建物が解体されたニュースを聞いた私は、うかつにも日帝時代の遺物は全て無くなったものと思い込んでいたのである。しかしソウルを歩くと、街の骨組みそのものが大日本帝国によりデザインされていたことが改めて理解できる。そして日本人が朝鮮を愛していたことも、だ。
 私は日本人観先客がほとんど足を踏み入れないという開妃が暗殺された景福宮の一番奥に向かった。そこには焼却された閔妃の遺体が投げ込まれたという池が残っていた。案内してくれたのは国立民俗博物館のボランティアガイドを務める金激さんという老人だった。昭和8年にソウルで生まれた金さんは日帝時代の小学校で日本語を勉強したというだけあり流暢な日本語で説明したが、言葉の端々に当時を懐かしむ雰囲気さえ感じられた。ソウル出身者の多くがそうであったように、金さんの家も貴族階級の「両班」だったが、「李王朝を潰しだのは日本ではなく、両班の制度でした」と断言した。学問ばかりして実利的なことを何もしなかった朝鮮王朝は、その怠慢により滅びるべくして滅びたというのである。しかも、このような考え方は日帝時代を経験した朝鮮人に多かれ少なかれ共通していることも教えてくれた。それを今さら全て日本の責任として押し付けるのは筋違いといい、「韓国に近代化を教えてくれたのは日本です」、と閔妃の暗殺現場で語ったのである。
 日本側が一方的に強行したという理由から、日韓併合が無効であるという主張を韓国政府は展開しているが、ソウル市庁舎の西にあった徳寿宮を見学したことで、私はそのことにも疑問を感じた。徳寿宮内の中和殿は第二次日韓協約が結ばれた舞台だが、同時にそこは国王の高宗が隠れ潜んだ場所であった。そしてこの宮殿は地下道を通じて近くのロシア公使館までつながっていた。このことは、日韓併合直前の高宗がロシアの手の中で政治を行っていたことを示していた。このとき早くも朝鮮王朝は独立国家の体を捨て、自国の統治能力を失っていたのである。日韓併合はこのような状況下で日韓双方から進められた朝鮮近代化の一手段に過ぎず、韓国政府がいうような一方的な併合ではなかったことになる。

 意外な印象を受けたことは他にもある。朝鮮人は日帝時代の「京城」の呼び方を嫌うと聞いていたが、茂丸が敷設に関わった京城と釜山を結ぶ京釜鉄道は、今なお「京釜線」と呼ばれ、人々に親しまれていた。同じく日帝時代の「朝鮮」の呼称を嫌悪しているにもかかわらず、抗日運動で部数を伸ばした『朝鮮日報』でさえ「朝鮮」を冠した漢字名を新聞上部に刻印し、駅の購買所で堂々と売られていた。
 歴史は後になって脚色され、その時々の政治体制に好都合な解釈をされるが、ソウルもまたそうだったのだろう。

 本書が茂丸と彼の生きた近代日本の全貌をとらえた作品であるとは思っていない。本書も多くの謎を残したままである。この謎は茂丸個人の謎というより、日本近代史の謎であり、更に広くアジア近代史の謎といえる。この疑問が解明されるには、なお多くの時間と研究が必要であり、読者の中から解明に挑む研究者が出てくるなら、私は本書における自らの責任を果たしたことになろう。
 
思い起こせば執筆に取りかかるのと時を同じくして、茂丸の生誕地である福岡市街をはじめ、筑豊炭鉱や門司港近辺を歩き回った。あるいは明治の元勲を生み出した山口県の各地や長崎、熊本、東京などを旅した。ずいぶん長い旅であったが、その途中で、茂丸の孫である三苫鉄児氏からお話を伺うことができたし、長年、茂丸の研究を続けてきた東筑紫短期太学副学長(当時)の室井廣一氏から研究紀要の全てと、茂丸の滞在先であるニューヨークでの取材結果を教えていただけた。夢野久作に詳しい西原和海氏からは、久作の父としての茂丸像を語ってもらい、茂丸の創刊した週刊誌『サンデー』や月刊誌『黒白』の実物を見せてもらった。最晩年の西尾陽太郎氏から日韓併合問題の核心を聞けたことも、今となっては貴重な収穫となった。他にも国立国会図書館や福岡県立図書館、山口県立図書館、宇部市立図書館、玄洋社記念館の職員の方々にお世話になったし、ソウルでも金氏をはじめとした親日派の方々のお世話になった。その人たち全てに、お礼を申し上げるのはいうまでもないが、何よりこの5年間、執筆に苦悩し、途中で何度も筆を折りかけた私を励まし続けてくれた小野静男編集長に感謝しなければならない。おそらく氏の励ましが無ければ、私は執筆を断念したことは間違いないからだ。最後になったが本書の出版を快く承諾して下さった三原浩良社長にも、心からのお礼を申し上げたい。

2005年晩夏、ソウルにて  堀 雅昭 


 〔付記−本書刊行までの経緯について〕

 本書は2005年11月末に刊行される予定だった。ところが印刷を終え、製本直前になって茂丸の曾孫にあたる杉山満丸氏より、いったんは出版社をまじえた協議の末に合意したはずの「杉山文庫」(福岡県立図書館に満丸氏が寄託)所収の諸資料・写真類の引用・使用をすべて許可しない旨の通告を受けた。
 理由は、本稿が杉山茂丸の清濁両面を描いたからだと思われる。満丸氏は「濁」の部分のみの削除を求めたが、著者は「濁の部分もあってはじめて茂丸の実像に迫ることが出来、本稿の存在意義もある」と主張して譲らなかったため、前記の不許可となった。
 氏が問題視したのは、条約改正をめぐる大隈重信への爆殺未遂事件及び金玉均、李鴻章、児玉源太郎、原敬、伊藤博文、大杉栄などの暗殺事件への茂丸の関与をうかがわせる“匂い”であった。
 そこでやむなく、すでに刷り上がっていたものを全面廃棄し、「杉山文庫」所収の諸資材を引用・使用した部分を削除するなど修正を施し、また杉山家所蔵の写真類は著者が独自に収集したものと差し替えたうえで刊行することにした。こうした一連の作業のため刊行が大幅に遅れたことを記し、読者の皆様に心よりお詫び申し上げる次第である。
                             著者識


『杉山茂丸伝』 第一章 自由民権の嵐 より。

  ***************
 ●吉田磯吉と珍山尼

 代々黒田藩士だった杉山茂丸の家が、住み慣れた福岡城下を離れて芦屋に移ったのは明治2(1869)年である。幕府が終われば侍は百姓に戻るべきであると茂丸の父・三郎平が「帰農在住」を藩主の黒田長溥(ながひろ)に進言し、明治4年の廃藩置県を待たずに自ら身分をなげうった結果だった。これにより杉山家は秩録公債という失業保険さえ貰えず、芦屋で苦しい生活を送ることになる。芦屋は遠賀川が玄海灘に注ぐ北九州の鄙びた海辺だった。

 杉山一家を迎えたのが★トンコロリンの妙薬で財を成した勤皇派薬商・塩田久右衛門であった。三郎平は久右衛門の庇護のもと昼間は海で漁をし、夜は近所の子弟を集めて私塾を開いた。また、妻の紫芽(重喜)も近所の娘たちに裁縫を教えた。このような生活を久右衛門が亡くなる明治9年までの約7年間、芦屋で続けるのである。6歳から13歳までの間、今でいう小学生の時期を茂丸は芦屋で過ごしたことになる。

 この土地で茂丸の身の回りに幾つかの出来事が起きた。第一が後に仁侠政治家として名を馳せる吉田磯吉との出会いである。3歳年下の磯吉との思い出を茂丸は次のように語る。*掲載写真(=磯吉の正装写真・略)の説明にはこうある。・・吉田磯吉。子分が神戸に流れ、山口組発足のきっかけを作った。また嗣子の敬太郎が初代若松市長となった(吉田淵世氏蔵)
・・・

 「その頃が私の餓鬼大将の最も盛んな時で、敵味方に別れて戦をやる。私が采配を振って〈進め!〉というと、吉田がいつも真先に飛んでいったものだ。その後、だんだん大きくなるにつれて、私はそのようなことをいつとはなしに忘れてしまっていたが。ずっと後になって吉田が私を訪ねてきた時、少年時代の私の餓鬼大将ぶりの話をして、二人で大いに笑ったことがある」(『吉田磯吉翁伝』「餓鬼大将の時代から」)

 磯吉はその後、遠賀川で筑豊の石炭を運ぶ川ヒラタの船頭となり、喧嘩で名を上げ、川筋者の顔役となる。つまり北九州任侠界の嚆矢だが、更に花柳界、炭鉱、興行界で力をつけ、大正4年に民政党から立候補して当選、侠客議員として中央政界に進出する。政界で手腕を発揮したのが大正10年に起きた郵船会社事件たった。それは国策会社の郵船会社の利権を政友会が一人占めしようとしたことで内紛が起き、このとき山県有朋が茂丸に相談したことで茂丸が磯吉を動かしたときである。結果、磯吉が手打ちを行い、事件は無事に解決した。

 話を芦屋時代に戻すと、茂丸は母・紫芽をこの土地で失った。生活の苦労が災いしての死で、明治5年7月、茂丸8歳の時だった。これにより父・三郎平は後妻として親戚筋の林家から友(とも)を迎える。天然痘の跡が顔にあることで後に杉山家で「ジャンコ婆さん」と呼ばれる人である。ジャンコとは福岡地方の方言で顔に痘痕(あばた)かあることをいったからだが、ともあれこのときから彼女が茂丸の継母となった。

 実母を亡くした失意の時期に、茂丸はもう一人別の女性と出会っていた。女医の珍山尼である。彼女は福岡藩の侍医であった青柳家に生まれ、本名を秀子といったが、祖父と父が長州勤皇派と関係したことで切腹させられ、その後、香月恕経(かつきひろつね)の叔父である小倉の医者・半田珍山に引き取られて養女になったことで珍山尼を名乗るようになった。このとき茂丸は彼女から歌の手ほどきを受け、勤皇思想の教えを受けた。

 面白いのは後に茂丸の盟友となる頭山満も同じ頃、福岡で興志塾(人参畑塾)を開いていた眼科女医の高場乱(たかばおさむ)を訪ね、彼女から勤皇主義を教えられていたことである。国権派の代表格となる二人が国
権思想の基礎を教わったのは、いずれも女医だった。また茂丸は水戸学派の学者だった父・三郎平から『大学』などを教わり、「民を親にするに存り」というような独特の民主的天皇観や社会観の基礎を学んだ。

 一方、書を習ったのが芦屋の海霊寺(天台宗)で、ここで和尚から法螺貝の吹き方を習ったことにより、後に「ホラ丸」の異名を持つようになったと『百魔続篇』で語っている。

●伊藤博文との出会い

「岩城山県立自然公園 伊藤公記念公園」。山口県大和町束荷(つかり)に、その公園はあった。周囲の田園風景を眺めながら坂道を上ると、二階建ての白亜の洋館が突然目の前に立ちふさがった。伊藤公記念館だ。清水組(現在の清水建設)が工事を請け負い、明治42年3月に着工したと入り口に書いてある。伊藤自らが基本設計をして、翌43年5月に完成したが、日韓併合前の同42年10月26日に彼自身は満洲国ハルビン駅頭で
安重根に暗殺された。つまり伊藤は、この洋館の完成を見ることなく死んだ。

 隣に建っていたのが生誕150年を記念して平成9年に開館した資料館で、裏手の丘に以前、伊藤神社があった。「故伊藤公爵遺跡保存会」が大正8年5月に建立した神社だが、今は跡地に椅子に座した伊藤の銅像が据えられているだけだ。これらの施設が整備されているのは、そこが伊藤の生誕地のためで、実際、敷地の片隅には茅葺平屋の生家が復元移築されていた。伊藤はここで天保12(1841)年に生まれたが、当時はまだ★林利助の名で(林家の本家は束荷村の庄屋)、14歳で萩の下級武士・伊藤家の養子に入ったのである。そして萩において吉田松陰の松下村塾で尊攘思想を学び、そこで知り合った高杉晋作らと維新運動に参画した後、文久3(1863)年に脱藩してイギリスに密航、岩倉遣外使節団参加(明治5〜6年)を経て初代総理大臣に上り詰めるのだ。しかしその直前、伊藤は杉山茂丸に命を狙われた。

 それは朝鮮で起きた甲申事変の処理で李鴻章と交渉するため、天津に旅立つ矢先のことだ。明治18年2月で、伊藤は43歳、茂丸は22歳。そのときの茂丸の風貌といえば、フンドシを硬く締め上げ素肌に着物をまとい、羽織の下にタスキを掛けるという、いかにも怪しげなものだった。身の丈170センチを越える巨体ゆえ、素手で伊藤を殺せると思っていた茂丸だが、実際に伊藤に会ってみると想像とはかなり違っていた。そのときの印象を次のように語っている。
「写真で見たとは大違ひで、ソンナ堂々とした人物ではございませぬ。すこぶる貧乏らしき顔をした小男であります」(『其日庵叢書第一編』)

 それでも茂丸は激しく詰め寄った。しかし伊藤は驚いた様子もなく、子供をあやすかのように落ち着いて答えた。しかも★自分の若い頃とそっくりとまでいった。確かに伊藤も高槻藩士の宇野東桜や国学者の塙次郎を暗殺していたし、長井雅楽の暗殺未遂事件も起こしていた★元過激派だった。高杉晋作、久坂玄瑞、山田顕義たちと品川御殿山の英国公使館を焼き討ちしたこともある。攘夷から開国に転じたのは翌・文久3年に井上馨らとイギリス留学(密航)してからだ。そんな体験を語った伊藤は、自分を殺しても世の中は良くならないから、お互い国のために尽くそうと諭した。茂丸は納得した。実にこれが伊藤との初対面だった。

 *林利助―俊助・・など当時の名前は多種にわたる。山県なども同様で名前はもちろん、系図など貧農・最下級武士の彼らにあるはずもないが、維新後冗談半分、勝手放題に作り変えた。
山口県図書館に問い合わせれば、資料を郵送してくれます。
 *過激派というよりは、テロリスト、殺し屋のほうが実情に近い。
  「自分の若いころに・・・」というのはそれの自認の言。

●士族たちの最後の戦い

 明治維新の後、新政府の中枢部に上り詰めた長州人たちは萩町内会的というべき身内優先の政治に始終したため、各方面から憎まれた。福岡出身の杉山茂丸がそのシンボル的存在だった伊藤博文の暗殺を考えるに至ったのも、そのためだ。『俗戦国策』で、「水戸も筑前も、薩長藩閥の鳶に、尊王攘夷と云ふ油揚げを浚はれたと同じ事である」と語るように、茂丸の家をはじめとした筑前士族(筑前勤王派)が明治維新に貢猷したにもかかわらず、功績を薩摩と長州人脈が独り占めした怒りがあった。それは茂丸一人の憤慨ではなく、旧黒田藩士族の子弟たちに共通する憤りである。後に彼らが自由民権結社「玄洋社」を結成し、政府と妥協したかに見える国権伸長論を掲げた後も、反政府的な態度を裏に秘めた理由が、そこにある。
 
 *写真:前原一誠らが処刑されたとされる新獄跡。頭山たちもここにいたようである(萩市恵美須町)

彼らが新政府の中枢から外されたのは、西郷隆盛の西南戦争に呼応して明治10(1877)年3月に福岡の変を決起したのが直接のきっかけだった。前年秋から熊本で神風連の変、福岡で秋月の変、年末には山口で萩の変が起きており、福岡の変もその延長線上の出来事だった。これらはいずれも廃刀令など旧士族の冷遇に不満を持った面々が一団となり、新政府に反旗を翻した事件だが、わずか14歳の茂丸もこのとき福岡の変に参加していた。しかし、「成年未満で無罪で返へされた」(『其日庵叢書第一篇』)のである。
  そして全ての叛乱が鎮圧されると、残党たちはことごとく新政府の弾圧を受けた。もちろん茂丸の家も例外ではなく、一家をあげて筑前・山家宿(現福岡県筑紫野市に転居し、旧宿場医の加島家での居候生活となる。この加島家は山家に現存し、昭和38年に地元有志者たちが建てた「東洋国士 杉山茂丸遺蹟」の石碑が庭に残り、茂丸たちが暮らした部屋がわかる旧加島家の見取図も保存されている。それによると玄関脇の六畳と八畳間を間借りして、生活のために鍬や鎌の柄を作ったり、米の買い出しをしていたようである。
 
一方、福岡の変の痕跡は、福岡市郊外の平尾霊園で見ることができ、一郭に首謀者だった★武部小四郎の辞世の刻まれた「魂の碑」が建っている。事件後に再決起を考えていた武部であるが、少年たちが次々弾圧されていく様子を見兼ねて自首し、処刑されたのだ。その直前に武部が、「行くぞオオーオオオー」と絶叫したのを健児16名が床にひれ伏して聞いていたと夢野久作は『近世快人伝』で書いている。実に、この絶叫こそが、後の玄洋社を生み、茂丸が伊藤暗殺のために上京する原動力となった。
 この時期、茂丸より9歳年上の頭山は、萩の変の首謀者である前原一誠と連絡をとっていたことで萩で拘禁されていた。頭山とともに後に玄洋社を興す★箱田六輔(第四代・玄洋社社長)や進藤喜平太(第二、五代玄洋社社長)も皆、萩の獄舎にいた。皮肉にも彼らは萩の変に連座したために一命をとりとめたのだ。 

 *・・一方、福岡の変の痕跡は、福岡市郊外の平尾霊園で見ることができ、一郭に首謀者だった★武部小四郎の辞世の刻まれた「魂の碑」が建っている。事件後に再決起を考えていた武部であるが、少年たちが次々弾圧されていく様子を見兼ねて自首し、処刑されたのだ。その直前に武部が、「行くぞオオーオオオー」と絶叫したのを健児16名が床にひれ伏して聞いていたと夢野久作は『近世快人伝』で書いている。実に、この絶叫こそが、後の玄洋社を生み、茂丸が伊藤暗殺のために上京する原動力となった。・・
 
 以下、参考までにこの『近世快人伝』の印象的な一文を引用・紹介します。
 「近世快人伝」 ★奈良原到  より。 

 (続く)

奈良原到 (上)
 
 筑摩文庫版 夢野久作全集 11 より引用します。


 前掲の頭山、杉山両氏が、あまりにも有名なのに反して、同氏の親友で両氏以上の快人であった故・奈良原到翁があまりにも有名でないのは悲しい事実である。のみならず同翁の死後と雖も、同翁の生涯を誹謗し、侮蔑する人々が少なくないのは、更に更に情ない事実である。

 奈良原到翁はその極端な清廉潔白と、過激に近い直情径行が世に容れられず、明治以後の現金主義な社会の生存競争場裡に忘却されて、窮死した志士である。つまり戦国侍代と同様に滅亡した英雄の歴史は悪態に書かれる。劣敗者の死屍は土足にかけられ、唾せられても致方がないように考えられているようであるが、しかし斯様な人情の反覆の流行している現代は恥ずべき現代ではあるまいか。

 これは筆者が故奈良原翁と特別に懇意であったから云うのではない。又は筆者の偏屈から云うのでもない。

 志士としては成功、不成功なぞは徹頭徹尾問題にしていなかった翁の、徹底的に清廉、明快であった生涯に対して、今すこし幅広い寛容と、今すこし人間味の深い同情心とを以て、敬意を払い得る人の在りや無しやを問いたいために云うのである。

 その真黒く、物凄く輝く眼光は常に鉄壁をも貫く正義観念を凝視していた。その怒った鼻。一文字にギューと締った唇。殺気を横たえた太い眉。その間に凝結、磅礴(ほうはく)している凄愴の気魂はさながらに鉄と火と血の中を突破して来た志士の生涯の断面そのものであった。青黒い地獄色の皮膚、前額に乱れかかった縮れ毛。鎧の仮面に似た黄褐色の悠髭、乱髯(らんぜん)。それ等に直面して、その黒い瞳に凝視されたならば、如何なる天魔鬼神でも一縮みに縮み上ったであろう。況んやその老いて益々筋骨隆々たる、精悍そのもののような巨躯に、一刀を提げて出迎えられたならば、如何なる無法者と雖も、手足が突張って動けなくなったであろう。どうかした人間だったら、その翁の真黒い直視に会った瞬間に「斬られたツ」という錯覚を起して引っくり返ったかも知れない。

 事実、玄洋社の乱暴者の中ではこの奈良原翁ぐらい人を斬った人間は少かったであろう。そうしてその死骸を平気で蹴飛ばして瞬一つせずに立去り得る人間は殆んど居なかったであろう。奈良原到翁の風貌には、そうした冴え切った凄絶な性格が、ありのままに露出していた。微塵でも正義に背く奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人という感じに、一眼で打たれてしまうのであった。

 この奈良僚翁の徹底した正義観念と、その戦慄に価する実行力が、世人の嫌忌を買ったのではあるまいか。そうしてその刀折れ矢尽きて現社会から敗退して行った翁の末路を見てホッとした連中が「それ見ろ。いい気味だ」といったような意味から、卑怯な嘲罵を翁の生涯に対して送ったのではあるまいか。
  実際・・・筆者は物心付いてから今日まで、これほどの怖い、物すごい風采をした人物に出会った事がない。同時に又、如何なる意味に於ても、これ程に時代離れのした性格に接した事は、未だ曾て一度もないのである。
そうだ。奈良原翁は時代を間違えて生れた英傑の一人なのだ。・・・
略・・・

 こうした事実は、奈良原翁と対等に膝を交えて談笑し、且つ、交際し得た人物が、前記頭山、杉山両氏のほかには、あまり居なかった。それ以外に奈良原翁の人格を云為(うんい)するものは皆、痩犬の遠吠えに過ぎなかった事実を見ても、容易に想像出来るであろう。

 明治もまだ若かりし頃、福岡市外(現在は市内)住吉の人参畑という処に、高場乱子(たかばらんこ*ママ)女史の漢学塾があった。塾の名前は忘れたが、タカが女の学問塾と思って軽侮すると大間違い、頭山満を初め後年、明治史の裏面に血と爆弾の異臭をコビリ付かせた玄洋社の諸豪傑は皆、この高場乱子女史と名乗る変り者の婆さんの門下であったというのだから恐ろしい。・・・略・・・
 (*奈良原少年もこの高場女史の薫陶をうけた。この塾に集う青少年が後に「健児社」を結成、時は西南戦争(事変)のころ。この「健児社」は「玄洋社」の前身をなす。)

・・・
そんな連中と健児社の箱田六輔氏等が落合って大事を密議している席上に、奈良原到以下14・5を頭くらいの少年連が16名ズラリと列席していたというのだから、その当時の密議なるものが如何に荒っぼいものであったかがわかる。密議の目的というのは薩摩の西郷さんに呼応する挙兵の時機の問題であったが、その謀議の最中に奈良原則少年が、突如として動議を提出した。
 「時機なぞはいつでも宜しい。とりあえず福岡鎮台をタクキ潰せばええのでしょう。そうすれば藩内の不平士族が一時に武器を執って集まって来ましょう」・・・
 これを聞いた少年連は皆、手を拍って奈良原の意見に賛成した。口々に、
「遣って下さい遣って下さい」
と連呼して詰め寄ったので並居る諸先輩は一人残らず泣かされたという。その中にも武部小四郎氏は、静かに涙を払って少年連を諌止した。
 「その志は忝ないが、日本の前途はまだ暗澹たるものがある。万一吾々が失敗したならば貴公達が、吾々のあとを継いでこの皇国廓清の任に当らねばならぬ。・・・間違うても今死ぬ事はなりませぬぞ」
 今度は少年連がシクシク泣出した。皆、武部先生のために死にたいが結局、小供たちは黙って引込んでおれというので折角の謀議から退けられて終った。

 かくして武部小四郎の乱、宮崎車之肋の乱等が相次いで起り、相次いで潰滅し去った訳であるが、後から伝えられているところに依ると、これ等の諸先輩の挙兵が皆、鎮台と、警察に先手を打たれて一敗地に塗れた原因は、皆奈良県少年の失策に起因していた。奈良県少年が破鐘のように大きいのでその家を取巻く密偵の耳に筒抜けに聞えたに違いないという事になった。それ以来「奈良県の奴は密議に加えられない」という事になって同志の人は事ある毎に奈良県少年を敬遠したというのだから痛快である。・・・略・・

 一方に盟主、武部小四郎は事敗れるや否や巧みに追捕の網を潜って逃れた。・・略・・とうとう大分まで逃げ延びた。ここまで来れば大丈夫。モウー足で目指す薩摩の国境という処まで来ていたが、そこで思いもかけぬ福岡の健児社の少年連が無法にも投獄拷問されているという事実を風聞すると天を仰いで浩嘆(こうたん)した。万事休すというので直に踵を返した。幾重にも張廻わしてある厳重を極めた警戒網を次から次に大手を振って突破して、一直線に福岡県庁に自首して出た時には、全県下の警察が舌を捲いて雲散したという。そこで武部小四郎は一切が自分の一存で決定した事である。健児社の連中は一人も謀議に参与していない事を明弁し、やはり兵営内に在る別棟の獄舎に繋がれた。
 健児社の連中は、広い営庭の遥か向うの獄舎に武部先生が繋がれている事をどこからともなく聞き知った。多分獄吏の中の誰かが、健気な少年連の態度に心を動かして同情していたのであろう。・・・略・・

武部先生が、死を決して自分達を救いに御座ったものである事を皆、無言の裡に察知したのであった。
 その翌日から、同じ獄舎に繋がれている少年達は、朝眼が醒めると直ぐに、その方向に向って礼拝した。「先生。お早よう御座います」と口の中で云っていたが、そのうちに武部先生が一切の罪を負って斬られさっしやる・・俺達はお蔭で助かる・・という事実がハッキリとわかると、流石に眠る者が一人もなくなった。毎日毎晩、今か今かとその時機を待ってい  るうちに或る朝の事、霜の真白い、月の白い営庭の向うの獄舎へ提灯が近付いてゴトゴト人声がし始めたので、素破こそと皆決起して正座し、その方向に向って両手を支えた。メソメソと泣出した少年も居た。

 そのうちに4・5人の人影が固まって向うの獄舎から出て来て広場の真中あたりまで来たと思うと、その中でも武部先生らしい一人がピッタリと立佇よって四方を見まわした。少年達のいる獄舎の位置を心探しにしている様子であったが、忽ち雄獅子の吼えるような颯爽たる声で、天も響けと絶叫した。
「行くぞオオー−一一オオオ−−」
 健児社の健児16名。思わず獄舎の床に平伏して顔を上げ得なかった。オイオイ声を立てて泣出した者も在ったという。

「あれが先生の声の聞き納めじやったが、今でも骨の髄まで沁み透っていて、忘れようにも忘れられん。あの声は今日まで自分(わし)の臓俯(はらわた)の腐り止めになっている。
貧乏というものは辛労い(きつい)もので、妻子が飢え死によるのを見ると気に入らん奴の世話にでもなりとうなるものじゃ。
藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、
腸がグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞオ』という気もちになる。貧乏が愉快になって来る。先生・・・先生と思うてなあ・・・」
 と云ううちに 奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタと毀れ落ちるのを筆者は見た。

奈良原到少年の腸(はらわた)は、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかった。
 
 奈良原到 (上) より。 略部あり。 


http://2006530.blog69.fc2.com/category2-21.html


 

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