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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その10
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 11−(3)
★満洲の需要を外国資本から守るべく「東亜煙草」設立
鈴木商店のついでに東亜煙草について述べるのは、「東亜煙草は上原閣下が作り、最終的には周蔵がオーナーになった」と吉薗家に伝わるからである。その前に日本の煙草専売史を要約すると、専売制以前の煙草産業を支えたのは大小さまざまな煙草業者で、大手では天狗煙草の岩谷商会(薩摩川内市出身の岩谷松平)と、そのライヴァルでアメリカ・タバコと提携した村井兄弟商会(村井吉兵衛)が知られ、関西にはダルマ堂があった。政府は明治30年に葉煙草専売法を公布、翌年施行し、36年になると「煙草専売制度理由及施行順序」を公表し、翌年には猛反対を押し切って煙草専売法を施行した。日露戦の軍費に充てるためである。38年には台湾にも煙草専売法を施行し、 専売局が製造・販売を行い、民業は輸出業務だけとなった。
東亜煙草株式会社は、官煙の輪出・移出の特許に加え樺太全土の独占販売権を専売局から与えられた国策会社で、明治39年10月に創立、社長に佐々熊太郎が就任した。前年の日露戦争で日本の勢力圏となった満洲の煙草需要は大きかったが、BAT(英米煙草トラスト社)が前年に奉天工場を建設したことで内外業者による競争激化が予想された。専売局は、外国資本に対抗させるため、民製時代からの内地製煙草輸出業者を糾合して東亜煙草会社を設立せしめ、42年、同社に『朝日』『敷島』『ゴールデンバット』その他の官煙の製造を許可することとした。大正3年(1914)8月1日付の『京城日報』は「東亜煙草は朝鮮では巻煙草製造も行い、ソウルの製造所は建築広壮・設備完全で、職工3千人がいて、口つき両切り合計で日産5百万本を下らない。満洲でも各地に販売所を置き、英米煙草トラスト(BAT社)との角逐に備える」と報じている。
明治39年、第四軍参謀長・上原少将は1月17日を以て満洲から凱旋、2月6日付で本官の陸軍工兵監に復し、4月1日には軍功により功二級金鵄勲章と年金千円を賜わり、6月20日付で陸軍軍制調査委員を命ぜられ、7月6日付で陸軍中将に進級し、翌年の8月から第二師団ほか数個の師団の特命検閲使属員として地方に出張する。後に軍政家として知られた上原も軍令系統にいて専売局管轄の国策会社の設立に関与する機会はありえない。つまり、「上原が東亜煙草を作った」とは創立でなく「育成した」意味と解するほかはない。
★東亜煙草社長室に飾られていた佐伯祐三の代表作 へ<続>。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 11−(4)
★東亜煙草社長室に飾られていた佐伯祐三の代表作
本稿の前身は平成8年から本誌に掲載された『陸軍特務吉薗周蔵の手記』で、タイトルの通り『周蔵手記』を解読・解説したものである。平成8年の4月号の第1回以来、ひたすら手記の解読を続け、成果は本誌に毎月掲載してきた。周蔵が上原元帥の命を受けて大連・奉天に出張した大正元年5月条の解説はその第34回で、平成11年1月号に掲載された。解読の対象は『周蔵手記』別紙記載の『私文・張作霖氏の美術品を写したる釈明』で、出だしは次のように始まる。「五月六日に家を発ち大連に来たるは、上原閣下の自分に対する親心のやふなものと心得ている。満洲東亜煙草なる会社の設立の権利を、自分にも分けて下さる手筈のための目的であった。大連にて室原重成と会ひ、すべてやっつけて来るやふにと言はれていたが、会ってみると室原さんは自分の先輩であった・・(中略)・・持参なる三万円を渡し、自分も一人前に東亜煙草なる会社の権利者となる・・」。
右(上)の文から、上原が東亜煙草および満洲東亜煙草なる会社に関与したことは疑いないが、それ以外に手掛かりもなく、第34回は結局『私文』を字義通りに解釈した内容に終わった。ところがその後の調べで、東亜煙草が同年に新会社を設立した事実はないと分かった。つまり満洲煙草は実在したが、東亜煙草が明治11年に設立した子会社であって、大正9年の周蔵の大連行とはまず関係がない。周蔵の義妹池田チヤ(明治41年生)に確かめると、周蔵が関与したのは商号「満洲煙草商店」とのことで、株式会社かどうかも疑わしい。結局、大正9年に東亜煙草の満洲進出計画はあったが、法人化はしなかったらしい。後日、城山三郎の著『鼠』を読み、「鈴木子会社整理方針大綱」が示す関係会社49社の表の中に、「関係密接だが支配株のないもの」として東亜煙草の社名を見つけた。チヤも、東亜煙草の社長室に佐伯祐三の『郵便配達夫』を飾っていたことを思い出してくれた。それは昭和3年、早春のパリで祐三が独力で仕上げた油彩で、佐伯の死後吉薗家に届いた絵の一つである。その絵は、寄贈者の周蔵が東亜煙草に深く関係した証拠となる。高島鞆之助とギンヅルが、日高をダミーーとして間接操縦した鈴木商店は、東亜煙草に対する権利を有していた。それが後年、周蔵に渡ったのである。周蔵が「上原閣下の資本家」と評した日高は、実妹に三軒茶屋に家を持たせ、独身時代の勇作にあてがった。日高妹は勇作の監視役が任務で、勇作の正妻は野津道貫の長女槙子の成長待ちと決まっていたから、入籍はしなかった。高島の姪でもある野津槙子と勇作の縁組は素より、勇作に日高妹をあてがったのも高島がギンヅルの依頼で果たしたもので、日高尚剛はなぜかギンヅルに頭が上がらず、ギンヅルの言うなりにダミーを務めたと『周蔵手記』は記している。
*なお、中ほどの佐伯・「郵便配達夫」の写真は、ブロガー手許の書籍
からの撮影で見づらいでしょうが、不悪。
★周蔵の「満洲煙草商店」はケシ栽培を扱う闇業者? へ<続>。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 11−(5)
★周蔵の「満洲煙草商店」は、ケシ煙草を扱う闇業者?
さて大正9年5月、上原閣下の親心により、周蔵が大連で設立に参加した「満洲煙草商店」とは何だったか。仮称の段階で社名を「満洲東亜煙草」と称したので、東亜煙草の関連会社であることは確かである。『大阪毎日新聞』大正8年7月29日号によれば、朝鮮総督府の煙草専売制は韓国政府時代からの約束で、東亜煙草は本年を以て朝鮮における煙草製造販売権の一切を総督府に引継ぎ、今後は満洲・支那・シベリア・蒙古方面に雄飛する計画の下に「奉天に支店と製造所」「吉林付近で煙草栽培」のため姉妹会社を設立する予定とある。しかし、旧社員の回想録『東亜煙草社とともに』の年譜を見ても、大正8、9年には該当する動きがない。8年には、上海に本社を置き揚子江以南の東南アジア地域を活動地盤とする亜細亜煙草株式会社が創立されたが、同社は揚子江以北を東亜煙草、以南を亜細亜煙草に任せる専売局の二分案に基づく東亜煙草の対抗者だから、まず関係はあるまい。
東亜煙草の姉妹会社設立計画との関連すらはっきりしない「満洲煙草商店」だが、単なる煙草販売業ではないと思う。理由は、周蔵が常日頃、普通煙草を★「愚者の麻薬」として嘲笑していたからである。上原の指図で、煙草小売商・小山建一と名前を交換し、久原鉱業社内の煙草売店の売上金を小山名義で受け取ったが、これは久原房之助に売った★アヘン代金のロンダリングに過ぎない。つまり、満洲煙草商店とは、普通煙草業でなくケシ煙草業ではなかったか。
ケシ煙草は、アヘン採取後のケシのガラを細かく刻んで混ぜたもので、愛好者が多く利益率が高いから民業時代は多くの業者が関わり、その是非を巡って関係者の間で当時争いがあった。国内では非合法化のケシ煙草も、満洲など外地では製造販売が自由だったから、朝鮮で専売制実施のため満蒙への転進を余儀なくされた東亜煙草は、上原参謀総長の示唆により、ケシ煙草を扱う「満洲(東亜)煙草(会社)」の設立を一旦計画した。しかし、国際的にも微妙な問題があり、結局法人化を見送り、東亜煙草と無関係の闇業者「満洲煙草商店」を創立したものと思う。その経営者を室原重成と決めたのは上原である。周蔵が「自分の先輩である」と記した室原については、後日検討したい。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (11) <完>。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―1
―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡 落合莞爾
★吉薗家伝承に登場する「東亜煙草」関係情報
平成11年の初夏、大手出版社の編集者が、作家Sを連れて紀州に私を訪ねたいと言ってきた。平成8年出版したSの著書で触れた東亜煙草会社と日本民族学会について真相を探りたく、未知の資料を求めて、吉薗周蔵の義妹・池田チヤを遠野に訪ねた。
しかし、チヤからは「落合を通じるように」と言われたらしい。両人来訪の直前、周蔵の娘・吉薗明子が、チヤから「Sに伝えよ」と命じられた内容をファクスしてきた。曰く「叔母は資料をまだ大分持っているが、叔母がいうに、この資料はまず落合さんに渡すべきものと考えている。落合さんは何年も前から周蔵に関心を持ち、それを書きたといわれたのでお渡しした。同じように書きたいという人が別にもう一人おられるという訳だが、それは順序として落合さんに断らなければならず、自分としては落合さんに、有る資料は、もし後で出て来てもすべてお渡ししますよ。貴方の好きなようになされて良いですよ、と約束している」ので、「落合さんからご自身でお借りしてほしい。落合さんにはご自由にしてほしいと申し上げたのだから、落合さんがどなたにお貸ししようと自由ですから・・・と言いなさい」とある。
チヤから一件を託された形の私は、知ることはすべて話す所存で応対したが、両人は短時間にして席を立った。発つ前にSが「周蔵さんは望月郁三という人と間係があったか、それを間いて下さい」と言うので、明子に尋ねると「一緒に東亜煙草の仕事をした人」とだけ返ってきた。
右(上)のファクスに次の文が続く。曰く
「昭和五十五年頃、水之江殿之という人が、東亜煙草のことで何か資料などお持ちでないか、と訪ねて来られたことがありますが、その折現在は兼松江商にいると言われたので、小佐野さんの関係だと思い、何も出してあげなかった、とファクスの中に加えなさいとのことでした」。
東亜煙草の元社員で、半生を捧げた煙草事業を通じて十四歳年上の周蔵と交誼があった水之江殿之は、自伝『東亜煙草社とともに』の著作を志し、周蔵の遺した資料を求めてチヤを訪ねたが、チヤは資料を渡さなかった。「現在兼松江商にいると関いて、小佐野さんの関係で来たと思ったから」と言う意味は分からないが、私はすぐに水産物輸入業者兼松通商を思い出した。証券界で一時評判になった仕手で、社主・佐々木秀美が小佐野賢治の養子と称していたが、平成十年二月に倒産した。総合商社兼松江商とは無関係と思っていたが、チヤの言からすると兼松江商、小佐野および佐々木の間には、実際何かの関係があったようだ。水之江の自伝『東亜煙草社とともに』は昭和五十七年五月七日に刊行されたが、当時の私はそれを知らない。
すると明子からまたファクスが入り、「叔母に東亜煙草のことを聞きましたら、発起人として、上原勇作の一族の一人で日高さんの母方の、安達という人が入っている。多分安達りゅう一郎というと思うとのこと」とある。東亜煙草の設立発起人は煙草業者に限られた筈で、日高尚剛の母方といえば薩摩人だろうから、安達は国分の煙草業者なのか。いずれにせよ、日高ないし安達が、明治三十九年の創業時から東亜煙草に関与していた証拠である。
ファクスの続きは「また、よく彦根の話の中に出てきた菅野(すがや)という人で、高島屋の仕事をしていたとか何とかという、訳のわからない話のことで(略)この人は周蔵が株を一緒に持った人物で、菅野盛太郎という人だそうです」とある。
以前明子から「周蔵と一緒に仕事をした人に、高島屋の社長か重役だった菅野盛太郎がいると聞き、学友が高島屋社員だったので歴代社長を調べて貰ったがその名は出てこず、訳の分からぬ話に終わった。その菅野に関する情報だが、文脈からして菅野は東亜煙草と無縁と感じた。しばらくして明子が「広瀬安太郎 住所△△△ 野村xxxx(社名と肩書き)」と書かれたファクスが来た。そのファクスの所在を見失った今は、住所の具体的地名、社名(野村生命保険?)と肩書(専務?)をここに記すことができないが、この広瀬も東亜煙草での周蔵の関係者ということである。こうして東亜煙草の関係情報が幾つか寄せられ、また『東亜煙草社とともに』の第三章以下しかない不完全なコピーも人手した。しかし本誌連載中の旧『吉薗周蔵の手記』を急いでいた私は、東亜煙草関係を後回しにして、、平成十八年暮に本誌連載を終えてやっと調査する気になり、そのコピーを取り出して見て驚いた。
第三章のタイトルが何と「菅野盛次郎社長時代」であった。ファクスの菅野盛太郎と菅野盛次郎は兄弟か、或いは同一人物を明子が聞き違えたのか。取りあえず同人物と見なすと、菅野盛次郎は、東京税務監督局長から大正六年に東亜煙草社長に就任、十一年まで在任した。察するに、天下り社長の菅野が体面上株を待つのに必要な資金を、周蔵が出したのだ。それだけでなく、コピーには私自身の字で、「藤田謙一は上原勇作の隠し玉」「荒木大将が上原の真似をして尻尾を出した」「最終的には周蔵が東亜煙草のオーナーだが、室原と望月を表に立てた」「株は越前松平の殿様の一族に預けた」などと、当時チヤから聞いたままを書き込んでいたのである。
<続>
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(12)―2
―台湾から満洲まで、政財軍を巻き込む「東亜煙草会社」の興亡 落合莞爾
★初代日商会頭・藤田謙一と台湾基本政策の転変
水之江の『東亜煙草社とともに』他によって東亜煙草社史を要約すると、以下のようになる。
東亜煙草株を買い集めた鈴木商店は、大正二年十二月二十四日の東亜煙草株主総会で★藤田謙一を取締役に送り込む。『弘前商工会議所』編集発行の『藤田謙一』によれば、藤田は豊臣方の武将・明石掃部の末裔で、明治六(一八七三)年、弘前藩士・明石栄吉の次男として生まれ、藤田家に養子入りした。東奥義塾中退後、青森県属・給仕となったが、明治二十四年に辞職して上京し、明治法律専門学枚(現在の明治大学)に入学、創立者・熊野敬三(注:明治大のHPでは、創立者に熊野の名はない)書生となる。三十二年二月、栃木県属となった藤田は九月に大蔵省専売局属に転じ、煙草専売制度を担当し、この時、蔵相・曽根荒助の知人後藤勝造と相識る。折から日清戦後の財政増収を図るため葉煙草専売法を公布、栽培業者の猛反対を押し切って三十一年に施行した直後である。生産・製造・販売一貫の完全専売制の実施が迫る中、大小の製造業者が乱立して過当競争に陥っていた。業界トップの岩谷商会も経営危機に瀕しており、社主の岩谷松平は後藤が推薦した藤田に商会の一切を委ねた。三十四年六月に専売局を退職した藤田は、翌年支配人として岩谷商会に入り、会社組織に変更して専務理事となる。藤田が英米煙草トラストに対抗して国産品天狗煙草を売り込み大成功を収めたので、三十七年の専売制度の完全実施に際して、政府による岩谷商会の買収金額は巨額に上った。四十年、藤田はまたも後藤に招かれ、名古屋の豪商・小栗家の整理に当たることとなり、四十二年五月小栗系の東洋製塩の取締役に就任し、翌年台湾塩業と改称し、建て直しに成功した。藤田の前に小栗家の整理に手を出して失敗した鈴木商店の大番頭・金子直吉は、藤田の手腕を見込み、招いて参謀とし、関東所在の傘下会社を任せた。鈴木商店の関連事業本部長といったところである。鈴木商店は大正年間に急成長した企業集団で、その沿革は前月号で述べたが、金子直吉が台湾民政長官・後藤新平に協力し、 三十二年台湾産・樟脳油の六五%の販売権を得たことが発展のきっかけとなった。
台湾の樟脳、煙草、阿片に関する基本政策の起こりは二十八年四月一日、第二次伊藤内閣に置いた台湾事務局で、有名な阿片漸減政策はこの時、内務省衛生局長・後藤新平が建白し、軍医総監陸軍省医務局長・石黒忠 も支持したので、伊藤総裁(兼務)が採用を決定した。台湾事務局は二十九年四月一日付で新設の拓殖務省となり、初代大臣に高島鞆之助が就き、三十年九月まで、台湾政策の策定と総督府の監督に任じた。高島の立場でこの経緯を見ると、初代総督(二八年五月〜二十年六月)の樺山資紀は高島の盟友で、高島のライヴァルで長州の寵児・桂太郎が二代総督になるが、四か月の腰掛けで実際には赴任しなかった。
三代総督(明治二十九年十月〜三十一年二月)乃木希典も長州人だが大阪時代から高島に親暚し、媒酌も依頼した仲である。折しも二十九年四月から三十年九月まで台湾政策を総覧し総督府を監督した拓殖務大臣は高島自身なのだから、乃木総督が台湾産業政策について高島路線に忠実だったのは当然である。乃木の後任が児玉源太郎である。巷説は児玉総督と後藤民政長官のコンビを強調し、桂・乃木時代の台湾治績に、見るべきものはないと言うが、それは土匪跳梁を抑圧しきれなかったことで、 児玉時代に土匪が帰順した。
従来、巷説が言う台湾統治とは、治安問題と社会政策的観点から見た阿片漸禁政策に重きを置き、産業政策を軽視している。台湾専売制度は三十年に阿片、三十二年に樟脳・食塩について実施された。ゆえに鈴木商店が販売権を得たのは、児玉・後藤の時期であるが、その政策に専売制度の根幹を作った高島の意向が影響して当然である。
また★後藤新平が曲者で、桂・児玉の長州系に繋がると見えながら、岳父・安場保和の関係で玄洋社にも通じていた。黒田藩浪人の結社たる★玄洋社は、真相は薩摩のダミーで、この関係は黒田斎清の女婿になった島津重豪の九男斎溥が黒田家を継いだことから始まり、後年の上原元帥に至っては頭山や中野正剛を私兵として使っていた。後藤の右腕の中村是公(漱石の友人)が、上原元帥の嗣子・七之肋に息女を嫁がせていることも後藤の隠れた一面を物語る(ここまで書いて、折よくこの見解を裏付ける★資料に際会したから、次稿で詳述する)。
ともかく高島が陸相の座を追われた三十一年頃から、高島と組んだ吉薗ギンヅルが日高尚剛をダミーとして鈴木商店に深く関わり、鈴木を通じて東亜煙草との関係も深まったと見てよい。その利権は、高島(大正五年逝去)の遺産として上原勇作が引き継いだのである。
後に東京商工会議所の第五代会頭として日本商工会議所の創設に奔走し、初代会頭に就いた藤田謙一は後藤新平四天王の一人と呼ばれ、後藤内閣が実現していたら大蔵大臣になったと評される(『藤田謙一』)。
玄洋社の頭山満と親交があった藤田には後藤も一目置き、商人扱いを超えた交誼があったというが、藤田は★薩摩ワンワールドの密命を受けて杉山茂丸の役割を承継し、後藤や長州軍人間との間を周旋していたのだろう。孫文ら亡命要人を匿い、ユダヤ満洲共和国の建国計画に参画した藤田は、フリーメーソンの日本代表と噂されたが、当否はともかく、何時の頃にか日本ワンワールドの上席に就いたものであろう。
<続>
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