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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その8
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投稿者 BRIAN ENO 日時 2011 年 7 月 12 日 07:37:34: tZW9Ar4r/Y2EU
 

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その8

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(9)

●民俗・集合(団)を越えた集合(体)であり 多くの代名詞(呼称)を持つ 

 私見によれば、ワンワールド戦略の淵源は古代オリエントに発祥した。元来シュメル人が立てた世界戦略で、ヴュルム氷河期以前からの旧種人類たるシュメルは、自らの体質的弱点を補うため、シュメル女に身体頑強なセム族長の子を生ませた,そのアブラハムを混血民族ヘブライの始祖とし、これにワンワールド戦略を受け継がせて、自らは姿を隠した。カナーンに定住した後、ヘブライは一神教のユダヤと多神教のイスラエルに分かれた。ユダヤは遊牧民族で、日常哺乳動物を殺害して食することに原罪意識を持ち、唯一神に救済を求めた。イスラエルは農耕民族で、万物に精霊の宿るを感じて多神教を奉じた。しかし、両支族とも基本的にはワンワールドの戦略を保持したのである。
 アッシリアに滅ぼされた★イスラエル支族は東方に流移し、その末端は日本に至る(海部・物部・秦氏)。また新バビロニアに滅ぼされたユダヤ支族は各地を流浪してセファルディとなるが、トルコ系カサール族が新たにユダヤ教に入信してアシュケナジとなった。ユダヤ教の分派キリスト教はローマ世界に広まり、カソリック・正教・プロテスタントに分岐した。また一神教の別派としてアラビア半島に生まれた回教は、中東世界を席巻する。このような宗教分化にとらわれず、ワンワールド思想は諸民族・諸教徒の間に連綿として受け継がれた。ワンワールドは、世界統一戦略を保持する民族・宗教性を超えた集合であるが、アシュケナジを含めたユダヤ教徒が人目を引いたので、「ユダヤ」がその代名詞となった。幾つもある秘密結社のなかで世界に顕れたフリーメーソンもまた、その代名詞となる。両者を重ねた「ユダヤ・フリーメーソン」とは、より正確を期した表現である。

以来、年々積み重ねた知力と経済力で宗教・思想の分野をほぼ独占した彼らは、ユダヤ教、キリスト教に潜入(マラーノ)し、異教徒を改宗させて、精神的に支配した。経済分野では商業に励み、特に奴隷貿易・武器貿易と貴金属の流通を握るが、やがて、交易・金融に特化し、国際賞品市場と信用通貨制度を創設した。これを支配する特定家系の集団がすなわちワンワールド・バンカーで、武力に立脚する地域覇権を裏から操縦した。近代に共産主義を唱えて王国としたのも、世界戦略の発露で 現代の新戦術は情報分野の構築で メディアを支配することで世界戦略を効率化した。
  (続)
 
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(9) 

● ワンワールドからの「発信」がうかがえる 

近年、在外不動産投資家を称する加治なる人物が文筆界に現れた。まず著書・『石の扉』によってフリーメーソンの実態を、外観的だが具体的に説明した。従来フリー・メーソン陰謀説を唱えた類書がすべて主観的論評に終始するのとは大違いで、世士に注目を浴びた。次いで著した『操られた龍馬』では坂本龍馬と秘密結社との関係を論じ、さらに最近出した『幕末維新の暗号』は小説仕立てながら、明治維新をフリーメーソンが指導したと主張した。一連の著作に当たり加治は、海外のフリーメーソン・ロッジで直接取材し、そこで得た生の情報を用いている。これが従来の類書になかった最大の特徴である。
 本誌七月号本稿で、私は「加治が『幕末維新の暗号』でフルベッキ写真を持ち出して、佐賀藩士説に対する反論を提起したことに意義がある」と論じた。
理由の第一は、その少し前に「フルベッキ写真を客観的に分析した学者が、志士写真を否認する結論を出した」と聞いていたからである。かつて半信半疑というより、七信三疑でこの写真を眺めていた私は、志士否認の結論が出たと仄聞してがっかりし、以後関心を失っていた。そこへ、新たにこの写真を持ち出してきた加治に、強い自信と黒幕の存在を覚った。さらに、従来陸奥宗光とされてきた写真右端の人物を、加治が伊藤博文と指摘し、また中央の西郷隆盛とされてきた大男の着する黒服を、薩摩藩の軍服と説明した
ので、年来の疑問が部分的だが氷解し、改めてこの写真を思い起こしたからである。しかしこれは付けたりで、第一の理由が支配的である。
 フリーメーソンから説き起こし、次いで坂本龍馬をメーソンの関係を論じた加治が、転じてフルベッキ写真を持ち出しだのは、平凡な作家の売文根性とは思えない。明治維新の真相を信頼できる筋から教えられ、史実を裏から把握した強い自信に基づく著作活動と見た方がよい。その証拠に加治は、「吉井友実こそメーソンと結託した恐ろしいほどの大物」と断定しながら、全く論証していない。七月号本で述べたように、吉井の経歴を調べるだけでも論証は大凡できる。にも関わらず、加治の論証なぞ問題にしない態度は、既に真相を知ったからその必要性を感じないものと思われる。また、第三作を小説仕立てにしたのは、ドキュメンタリー風に証拠を並べることを、情報元から禁じられたからではないか。
 フルベッキ写真が志士写真であったとしても、その価値は、明治維新と秘密結社を結ぶ物証だからではない。そんなこと識者の間では既に明らかである。この写真の真価は、中央下部に長刀を抱いて斜に座し、深重の眼差しを遠方に投げる一少年の存在に尽きる。被写体に維新志士をそれぞれ当て嵌めて行くと、少年に該当する志士は大室寅之佑しかいない。反対に、もしこれが一般藩士の写真と結論されれば、少年が大室である可能性はないから、写真なぞ最早どうでも良い。志士否認の結論を聞いただけで私の関心が失せた所以である。しかし加治が、志士否認論が出たばかりの折からの逆風を衝いて、わざわざこれ持ち出してきたのは、迂闊だからではあるまい。大室問題を浮上させるための露払いではないか。そう思いつつ一連の作品を見るに、近代史の真相に迫れぬ本邦史学の空転を憐れみ、あるいは危ぶんで、ワンワールド側から問題を提起してきたフシがある。この種の活動を諜者の世界では「発信」と呼ぶらしい。『周蔵手記』においても、「芥川龍之介ハ海軍ノ発信」という風に用いている。
   (続)


陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(9) 

●ネット上に異論出現  批評に回答し提案する 

  本誌七月号の拙稿についての批評をネット上で発見した。吉井友実を検索していたら偶然見つかったもので、『教育の原点を考える』を検索すれば出てくるが、お互い嫌ネット性の読者のために要約すると、@例の写真の撮影場所は、明治維新後に壊した屋敷跡の広場に白壁を建造し、黒幕を垂れた上野彦馬の屋外写場である。
Aフルベッキの子供は四歳に見えず、 ウイリアムでなくその姉で、着ているのは女児服である。
B落合は、被写体の佐賀藩士を「平凡な人生を送った」と言ったが、彼らの半分は海外留学までして明治の世を作ったのだから、それらの価値を掘り起こすのが「平凡な作家」の使命の筈で西郷や伊藤だけが歴史を作ったのではないことを落合に伝えよ
――との慶応大学准教授高橋信次なる人物のメッセージも付け加えてある。
 
偶然にせよ、知ったからには答えねばならず、また本稿の主旨にも関連するから、お答えする そもそも私は七月号に明言したように、この写真に関しては傍観者である。理由の第一は『周蔵手記』を今まで見た限りフルベッキにも大室寅之佑にも触れていないからで、解読者としてこの写真を解明する必要がない。
第二に、正直に明かせば、例の少年が大室であろうがなかろうが、私の大室論は左右されないからである。この写真が真に大室天皇説の物証ならば、その貴重性は当然だが、すでに大室説の真相を教わり、それを確信する私にとっては、物証は最早不要である。ただ写真の素性が分かればそれで良いわけで、論文内容や論者の名を敢えて探すまでもなかった。
以上から、ネット批評者に対する回答は、
@撮影場所についての論議が深まれぱ喜ばしいが、前述の理由により私は立ち入らない。
A服飾について意見はない。外人児童は、確かに四歳よりも老けて見えるが、私には男児と思える。
B維新の志士は維新後挙って「郷」に到達したが、一般佐賀藩士は「士大夫」に止まった。歴史形成者を大衆(民)と見るか英雄(卿)と見るかは史観の違いで、当否は決めがたい。郷と民の間に介在する士大夫(臣)も歴史形成者だが、彼らを平凡と呼ぶことの是非は表現の問題と思う。ただし、「平凡人の歴史に関わるのが平凡な作家の使命」との諭旨は、遺憾ながらその主意を解し得ない。
 私なりの洞察を試みるに、例の写真はフルベッキを囲む重要な記念品として、被写体全員に配布された筈で、彼らが維新志士だとしたら、その後、写真の重大性を憂慮した指令があり、焼却されて消えうせたと見てよい。
反対に彼らが佐賀藩士で海外留学もしてそれなりに活躍した歴々だとすれば、写真は大事に保管されて家宝となった筈である。ゆえに無慮四十人の被写体の末裔のうち、十家や二十家が今に伝えている筈で、一枚も見つからないことこそ不自然ではないか。
 されば、論者に勧むるに、今すぐ佐賀藩士の末裔に檄を飛ばし、もし夫れ該写真の家宝中に存せざるや否やを問うは如何? 或いは佐賀藩士中より、例の少年の面影をば捜し出し、「これ実は旧藩士にして後年何某をなせる何某の像」なることを証明し、以って世に問うは、如何。
     (続)

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(9) 

●フルベッキ写真と私 そして「大室天皇論」 

   そもそもフルベッキ写真を知ったのは、以前本誌に長く連載されたU博士と、十年ほど前に大室天皇を議論した時である。U博士が大室天皇完全否定説を述べられたので、勢い私はその反対側(非・完全否定説)に立った。大室天皇に関する伝承は維新の関係者が残しており、戦後皇室の将来が危ぶまれた時、宮内省関係の旧華族が回想ないし暴露の形で語ったのを聞いた人もまだ生きていた。物証・書証としてはフルベッキ写真のほかに、★『中山忠能日記』中の「慶応三年七月十八日、★★奇兵隊天皇来る正月上中旬の内に御元服云々」の条がある。これについてU博士は「これは(大室というより)誰かの仇名だろう」としか言われない。確かに誰かの仇名に違いないが、だからこそ大室を指す以外にないではないか、と思った。
 写真についても、U博士は偽作論、私は「仮説としては完全否定はできない(容認できる)」との立場を取った。★原版そのままを焼いた写真では、画面の左前方に脱ぎ捨てられた下足が積み上がり、右側は壁で雨具らしきものが懸かっている(加治が「外套または人物?とするのは、原版を見ていないからと思う)。公開写真は原版画像の周囲を切り取り、体裁を良くしたもので、世に上野彦馬撮影と言うが、原版を見れば「写真師がこんな構図を選ぶのか」との素朴な疑問が湧く。また、公開写真の中に各人物像に志士の姓名を宛てたものがあり、有名志士に似た人物像(例えば大村益次郎)は確かに多い。右端の人物を陸奥宗光というのは首肯しがたいが、誤って陸奥を宛てたのなら写真全体は否定できないし、それが伊藤俊輔(博文)と分かれば尚のことである。★何よりも印象的なのは、たった一人志士の名を宛てられない人物が居ることで、その人こそ斜に構えて遠方を見るあの少年である。


 巷間、ただの幕末写真だという人は多いが、風評ばかりで実がない。志士写真でないと断じるならば翻って被写体を究明せねばなるまいに、誰もそれをしない。こんな風説よりも偽造説の方がまだ合理的だから、私は「仮説的容認説」を持すことにした。
居ること数年、某出版社の編集者から「大室天皇に関する原稿を★F氏から頂いたが、出版には至らなかった」と関いた。原稿を拝読したいと思う裡、まだ会っていないF氏からの便りで「大室天皇論を共著でやらぬか」との申し出を受けた。あの後、興味を持った某雑誌社が★大室天皇説の真否を元宮内庁関係者に探りを入れた由で、その結果も聞いたが、ここに明かし得ない。国内出版は無理と考えた関係者が、外国で出版すべく翻訳の手配をしたが、★事故により不調に終わった由で、因って私に共著話が来たとおぼしい。平凡且つ不才の身には果報なことである。F氏によれば、写真の原版はフルベッキが日本を去る前に★雑誌『太陽』に与えた由で、明治二十八年刊行の『太陽』に載った。その後、関係者から原版を人手したF氏は、長らく大室天皇説を聞知しなかったが、近年耳にして興味を抱き書き上げたもので、未だ拝読していないが、主旨は史実として大室天皇説を認め、維新政府が国民を欺いたことを遺憾とするものらしい。当然フルベッキ写真が中心ネタになる。私が共著に気が進まなかったのは、中心ネタの写真に残る前述陸奥のごとき疑点のためではない。実は数年前、すでに大室天皇の真相を知り確信したが、永久封印と思うから共著どころではなく、証拠写真のごときも、もはや問題外だからである。
 
ところが加治が「発信」を始めた。加治の外にも『英国機密ファイルの昭和天皇』『天皇のロザリオ』などの新刊に著者の意図しない「発信」の臭いを感じる。あり得ないと思っていた封印解除の時機が到来したのか。となれば、例の写真は一応証拠力をチェックしおく方が良い。それには被写体の人定が必要だが、志士銘々の事歴を編年し身体形質・家紋などを照合するのは、わが能力を超える。奇特の士の研究を期待していたら、果せるかなその気配が生じたようで、豈これを喜ばざるべきや。
    
 
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(10)
上原勇作応援団の華麗なる面々とその運命 落合莞爾

★忘れられた大物 伯爵・吉井友実
  
   明治四年十二月、単身上京した上原(当時は龍岡姓)勇作は、野津道貫邸に下宿しながら南校へ通った。東京大学の前身である南校は、★宣教師・フルベッキが教頭として実質的に運営しており、陸海軍の士官養成学校と並ぶ、★ワンワールド高級人材の養成機関であった。勇作の学業資金を供給していたのは吉薗ギンヅルで、宮崎県西諸県郡小林村の吉薗家に常住し、周蔵によれば「村で今の保健婦のような」仕事をしていたが、裏では鹿児島市山下町に住む実業家日高尚剛を看板にして、自家薬の製造・販売事業を展開していた。男を表面に立てながら裏面で操縦するのは島津家の側室お山羅、徳川家定の御台所天璋院篤姫、さらには島津家から各豪家に嫁いだ貴婦人の面々に共通する、★島津女の在り方と評される。

 学業資金といっても学資や生活費だけでなく、ギンヅルは上原応援団の銘々にも献金した。団長格の高鳥鞆之助(一八八四生)は長閥の桂太郎(一八四七生)に匹敵する薩閥の寵児であった。桂に木戸・山県の引きがあったのと同様、高島は薩摩三傑の贔屓を受け、西郷・大久保の亡き後は、生き残った吉井友実(一八二八生)に加え松方正養(一八三五生)の支援を受けた。世に西郷・大久保・木戸を維新の三傑と称えるが、島津図に限れば西郷・大久保・吉井を島津三傑と謂う。今は忘れられた吉井ほそれほどの傑物で、仮に維新の四傑を選べば、四人目は吉井か長州の広沢兵助になる。維新政府の軍務局判事となった吉井は、明治四年から宮内省に移り、ひたすら宮中政革に取り組み、時に侍講となって天皇親政への動きにも関係した。十二年から三年間、工部大輔と日本鉄道社長に就いたほかほほとんど世間に姿を表さなかったのは、宮中で明治王朝の基礎固めに腐心していたからである。日本鉄道社長桂は唐突の感があるが、財政難から華族資金に頼らざるを得ない鉄道事業の重責を担える者が他に居なかったからで、加えて日本の鉄道整備を急ぐワンワールドの強い要請を受けたこともあろう。伯爵に叙された程の吉井だが、職位は次宮・局長級に過ぎず、一度も参議・卿・大臣に就かなかった。これは新時代に適合しなかったのではなく、世の注目を避けるために本人が望んだものと思われる。

 高島が吉井の次男友武を長女多嘉の婿養子とし、高島子爵家を継がせたことに両人の深い関係が窺われる。吉井と並んで高島を応援した松方正義は、吉井の上を行く傑物で二度首相になり、財政畑に君臨した。松方デフレを敢行し、日銀を創設し、金本位制を確立した業績は、すべて金融皇帝ロスチャイルドの意を受けたもので、★松方がワンワールドに属したことほ疑う余地がない。財政家松方と武官高島との深い関係は、地縁・血縁に始まりワンワールド内部で強化されたものだろう。蓋し、★宗教・金融と軍事がワンワールドの三大部門である。

 高島を脇から支えた二人の副団長が野津道貫(一八四一生)と樺山資紀(一八三七生)である。高島の義弟(妹婿)に当たる野津の長女槙子(一八七三生)を上原は娶る。つまり上原の正室は野津の長女にして高島の姪でもあり、三家は縁戚として固く結ばれた。野津は生来の武弁で、政治性に欠けたが日清・日露の功績で大勲位、元帥、侯爵に昇り、軍人の栄位を極めた。樺山資紀は陸軍から警視総監を経て海軍に転じ、海相・軍令部長から初代台湾総督になり、高島副総督に助けられた後、一転して高島拓殖務相の監督を受ける立場になる。活動分野を陸と海に分けたこの二人が、陰に陽に相互扶助したのは、★「陸軍と海軍は人的に隔絶する」人事原則を逸脱した希有な事例である。
  (続)
 
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