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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その6
吉薗周蔵の手記(7)−2
● 高島の後見役・吉井友実、謎の外遊と経歴の陰に
明治4年、御親兵入りを目指して上京した高島鞆之助を、吉井友実(幸輔)が特に抜擢して宮中入りをさせた。西郷、大久保と共に薩摩三傑の一人として知られる吉井は、文政11年(1828)生まれ、高島よりも16歳年長であった。出生地は維新の英傑が輩出した加治屋町方限(ほうぎり)で町内からは吉井の他に西郷隆盛、伊地知正治、高島鞆之助らが出た。野津鎮雄・道貫の兄弟は、加地屋町に隣接する上之園町方限の生まれである。
吉井は幕末に大阪の薩摩藩倉屋敷で留守居役となり、その後は京都の薩摩藩邸を取り仕切って国事に尽力した。戊辰戦争では、伏見方面の戦いで五中隊分の兵力を指揮して幕府軍を敗走させ、その功績により明治2年、賞典禄千石を与えられた。志士たちの賞典禄を思いつくままに並べると、最高額はむろん西郷隆盛で二千石、大久保・木戸・伊藤が千八百石、大村益次郎が千五百石である。吉井と同じ千石は、薩摩藩では伊地知、土佐藩では後藤象二郎と板垣がいた。因みに黒田清隆は七百石、山県有朋は六百石で、以て吉井の位置をを知るべきである。
維新直後は国防事務局判事、軍務官判事と軍政に携わった吉井は、明治3年4月民部少輔に転じ、7月まで大蔵少輔を兼ねた。11月にはなぜか民部大輔に降格し、翌4年7月になり宮内大丞に転じるが、これは西郷の宮中改革案を実行する目的の人事である。2月に宮内少輔に昇進し、7年3月まで約3年宮中で勤め辞職した。
吉井がその後、フランスなどに旅行したことは左の逸話から明らかであるが、この外遊に関する記録を殆ど眼にしないのは、あながち私の浅学のせいではあるまい。それほど、維新後の吉井に関する情報は少なく、事跡が知られていない。明治7年、藩命でフランス工芸大学に留学した旧金沢藩士清水誠が外遊中の「宮内次官」吉井友実と会った時、吉井は卓上のマッチを示して国産化を勧めた。これが本邦マッチ製造の契機で、翌8年に帰国した清水は横浜造船所に勤務する傍ら、三田四国町の吉井別邸を仮工場としてマッチの製造を始めた。日欧の往復だけでも2ヶ月以上掛かった当時、欧州旅行には最低一年を費やした。したがって7年3月に宮内少輔を辞した吉井の外遊は、明らかに辞官の後で、正確には「前宮内少輔」である。
帰国した吉井は8年4月に元老院議官に就き、10年8月に一等侍輔に転じ、11年5月からは再び元老院議官を兼務する。12年3月に工部少輔を兼ね、翌年工部大輔に昇進し、15年1月に辞官して日本鉄道の社長になった。工部省はかつての建設省、今の国土交通省で、吉井が工部小輔・同大輔を兼ねたのは政府の鉄道計画と関係があるものと思う。政府内ではもともと井上勝(前号で触れた武田成章の弟子)など鉄道国営論が強く、鉄道開設の準備として東京−高崎間の測量から始めたが、西南戦争後の財政難で工事の着工が遅れたため、民間資金による鉄道の早期開業を求める動きがあり、明治14年(1881)8月1日、岩倉具視を始め華族などが参加して日本鉄道会社が設立されたが、吉井が工部大輔を辞めたのは、その社長に就くためである。日本鉄道は川口―前橋間から建設を開始し、16年7月28日には上野―熊谷間を開業し、その後路線を増やしていった。この時期に日本鉄道社長を勤めた吉井は、2年間に鉄道事業が軌道に乗るや辞職し、17年7月、伯爵に叙されると同時に宮内大輔に挙げられた。
当時の太政官制は、卿が大臣格、大輔・少輔が次官格、大丞・少丞が局長・部長格で、その下が大録・少録である。吉井と同じ賞典禄一千石の板垣退助は早くも4年7月に参議、同じく後藤象二郎は4年6月から工部大輔を経て6年に参議になった。吉井と同格と見て良い伊地知正治も、7年に左院議長、次いで参議となった。参議は無任所の大臣で、各省の卿ないし大輔を兼ねることが多かった。「明治維新後朝廷厚く友実を用い」と『大日本人名辞書』にはあるが、事実を見ると、実績からして参議が当然の吉井が、板垣・後藤・伊地知らが挙って参議に就いている時期に、大丞と少輔の間を昇降している。12年に至っても兼職が工部少輔とは不自然である。外遊後の8年から断続的に、都合7年にわたって就いた元老院議官や一等侍輔という職掌は、その内容が外部から窺いにくく、吉井が何か陰の仕事に携わっていた感は否めない。明治7年のフランス外遊も、吉井ほどの立場なら辞官する必要もないと思うが、きちんと退職してから旅に出たようで、この外遊には、世間や政府筋に対しては公けにできない目的を想像する。私用めいた用件、例えばワンワーールドの入会儀式に出たのではなかろうか?
宮中に入ったまま大臣参議にならず、出世の道から外れたかに見える吉井は、明治17年7月施行の華族令で、伊藤・山県・黒田・板垣らと同じく伯爵を授けられた。その経緯は、伊藤宮内卿から黒田内閣顧問に宛てた書簡(神奈川県立公文書館蔵)に記されており、吉井友実・伊地知正治・副島種臣に伯爵を与えたのは明治天皇の意思によるものとしている。吉井は授爵と同時に宮内大輔に就き、元年の官制改革により宮内次官と呼び方が変わるが24年3月に辞めるまでその職にあり、辞職後もなお宮中庁御用掛を拝し、翌4月に死去した(叙正二位)。
経歴から窺える通り、明治4年以後の吉井は、工部・鉄道関係を除き宮中に関わりきりで、東京・明治王朝を裏から支えたフシがある。爵位勲等と職位の釣合いが取れないのはそのせいだろう。途中いかにも唐突に鉄道に関わるが、或いは鉄道事業にワンワールドにとって特別の意義があるのかも知れぬ。
吉井の嗣子幸蔵(安政2年生まれ)は海軍少佐・侍従武官となり、その子が今日では祖父より有名になった歌人吉井勇である。次子の友武(慶応3年生まれ)は士官生徒10期の軍人で、高鳥鞆之助の長女多嘉(明治6年生まれ)の入婿となって高島家を継いだ。これだけでも吉井と高鳥鞆之助の深い関係が分かる。大正7年に陸軍中将・第十九師団長となった友武は、10年7月予備役となった。
吉薗周蔵の手記(7)−3
● 「フルベッキ写真」検証 行方不明の坂本龍馬は・・
吉井友実が宣教師フルベッキに親灸したことは確かである。有名な「フルベッキと志士の写真」にも吉井とされる顔が写っている。フルベッキ写真については、その真偽について論議が喧しく、つい教カ月前にも某大学の準教授が「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の論士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。これで一件落着したかに見えたが、その直後に加冶将一著『幕末維新の暗号』が出て、問題は大きく展開した。すなわち、フルベッキ写真についての分析が最近ようやく行われるようになり、論議が表面
化する兆しが生じた。
まず撮影場所であるが、それが長崎であり屋外であることが、同一場所で撮影された写真が出てきて証明された。明治初期、フルベッキを教え子の長崎英学所済美館の生徒らが囲む写真である。撮影場所は、これまで上野彦馬のアトリエなどとまことしやかに囁くばかりで、誰も写真を検証しなかった。地面の舗石からして屋外ないし半屋外で大きな寺か邸宅の玄関先と私(落合)は思っていたが、加治もそう判断したらしい。
次に、写真中のフルベッキ長男ウイリアムの実年齢方ら推測することで、撮影時期が慶応元年(1865)か2年に絞られた。折しも慶応2年1月には薩長秘密同盟が締結され、
翌年には薩士秘密盟約が結ばれている。この写真は「これらの歴史的事件に関する政治的秘密の真相を物語る要素があるために、明治になっても発禁扱いが続いた」との加治の言に、甚だ肯綮に当たるものがある。
さらに被写体の各人物の鑑定である。昔から巷間を流れるフルベッキ写真は数種あるが、その中に各画像に志士の姓名を当てた写真がある。フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが、巷間★奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑だと言う人もある。
★私(落合)は以前から、これを維新志士たちの写真と直感していたが、多少の疑問もあった。それは、例の写真が右端の人物に陸奥宗光を当てていたからで、羽織の袖の家紋は輪郭が丸くあたかも陸奥氏の家紋たる牡丹と見えるが、牡丹は珍しい家紋で、この紋付きを着る志士は、陸奥の他には思い浮かばない。ところが寓居に近い岡公園に立つ陸奥の銅像を見ても、顔貌たるや細く狭小で、写真のごとく幅広ではない。しかしこの疑問に加治は答えた。即ち、★この人物を伊藤博文と判断したのである。
言われてみれば、確かに文久3(1863)年の、いわゆる長州ファイブのイギリス密航時の伊藤に良く似ている。また伊藤の家紋は「上り藤」だから、輪郭が丸く見えて当然である。かつて伊藤に擬せられていたのは別の志士というしかない。加治はこのように数人の画像を鑑定し、志士の名前を当て嵌めた。その結果、前述の佐賀藩士説が一角から崩れ、私のごとき傍観者流も、再び真作説に左担することとなった。
★吉井がワンワールドに入会していたのは間違いない。だとしたら、紹介者は宣教師フルベッキか、それとも長崎で親交あった武器商人グラパーだったか。加治著『操られた龍馬』は「グラバー邸で闇の儀式を受けた武士を想像すれば、龍馬を筆頭に勝海舟、陸奥宗光、伊藤博文、井上馨、桂小五郎、五代友厚、寺島宗則、吉井幸輔たちが浮かんでくる」とする。グラバー邸でフリーメーソンに入会したと推定するのである。同著にはまた次のような興味深い記述もある。
1864(元治元)年2月、長崎でグラバーと初めて会った坂本龍馬は衝撃を受け、8月末あたりからその動きがつかめなくなる。史料によると、11月(旧暦)にぽつりと一度姿をあらわしただけで、江戸に潜伏して外国船で密航を企てた形跡だけを残して、また消息を絶つ(立つ)。加治は以上を述べた後に、次の一文を記す(208P)。「(龍馬が)次に現れたのは、それから半年後の翌年4月5日(旧暦)、京都の薩摩藩吉井幸輔邸である。吉井は、幕末の志士としての知名度は低いが、恐ろしいほどの重要人物だ。彼はまさに英国工作員として、維新をし損じることなく駆け抜けるのだが、それはさておき……」。
行方不明だった時期に、龍馬は上海に密航していた。龍馬が少なくとも二度、海外に渡っている可能性があると指摘した加治は、龍馬がその次に姿を現すのは京都の薩摩藩留守居役の吉井幸輔邸であるとし、吉井を「恐ろしい程の重要人物」と明言し、続いて「吉井は英国スパイの外交官アーネスト・サトウらと手紙を用いて頻繁に交信し、維新実行の手配をしていた」と断定している。
吉井が英国のエージェントであったという加治説の詳細は前掲著を見て貰うしかないが、吉井ら維新志士の多くがグラバーの呼びかけでフリーメーソン(落合はワンワールドと呼ぶが)に入会したとの説は、正鵠を得ているものと思う。
結局、明治維新の真相の一斑にせよ、何かの形で権威を帯びて世間に公開されるまで、志士たちのワンワールド疑惑は解明されまい。だが、その裏付けとなる状況証拠はようやく整い、社会にむけて急に発信され始めた。それは、日本社会が進歩した結果なのか、それともワンワールド自身の意図なのか分からない。いずれにせよ、加治氏の一連の著作はその典型的なものと思う。
吉薗周蔵の手記(7)−参考
★↑上の写真は、通称「フルベッキ写真」と呼ばれる問題の写真。
大室寅之祐は、中央下段、フルベッキとエマの下で斜に構える細身の若者。
後の<明治大帝の若き姿>という説もある。
勿論、「ホンモノ」は、伊藤博文などによって暗殺されたと、彼らは主張する。
真偽は依然定まらないが、「妄想だ!」と否定する根拠も弱い。
問題は、暗殺等の事実関係も重要だが、そういうことが(情報がということである)どのように
日本の近・現代史で受容されていったのか、誰が利用したのか?いつ如何なる状況で、ということだと思う。例えば伊藤博文暗殺の犯人とされた、安重根の裁判時の「イトウの罪状告発」ひとつとってみても「受容」状態は推測される。
「事実か否か」とは別に追究・考察すべき課題だろう、と思う。
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落合莞爾氏のこの連載も第七回となり、上原勇作(伝)から「高島鞆之助とワンワールド(フリーメーソン)」、薩摩三傑・吉井友実の経歴の追究、「フルベッキ写真」の被写体の誰何、武器商人・グラバーとの交通関係など興味尽きない記述が続く。
そこで、参考になればという意味で、ここ(第七回)の「フルベッキ写真」についての一節<<・・つい数ヶ月前にも某大学の准教授が、「被写体の多くは平凡な人生に終わった佐賀藩の諸士に過ぎぬ」との考証を発表したばかりである。・・・>>、という記述のある「某大学・准教授」の考証を紹介する。
●「教育の原点を考える」というブログより。
先ずは、時系列で。
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/05/post_c39a.html#comment-13564088
2007年5月 8日 (火)
小説「幕末維新の暗号」の検討結果
慶応大学の高橋信一助教授から『幕末維新の暗号』(加治将一著 祥伝社)の書評が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。なお、以下の「フルベッキ年表」(verbeck_relatled_chronology01.xls)も是非参照願います。
「verbeck_relatled_chronology01.xls」をダウンロード
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http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2007/06/post_c844.html
2007年6月 3日 (日)
「フルベッキ写真」の汚名の変遷
慶応大学の高橋信一准教授から『「フルベッキ写真」の汚名の変遷』と題する論文が届きましたので、本ブログ上で皆様に一般公開させて頂きます。
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★万が一、未読ならば、
准教授・高橋氏にも是非お薦めしよう。この落合論文の熟読を。
<追記>
●「フルベッキ写真」検証=行方不明の坂本龍馬はーの文中「フルベッキのすぐ下で太刀を抱えて斜に構えた若者」は、「力士隊に属した大室寅之祐だという人もある」、の大室寅之祐については、故・鹿島のぼる氏の二冊を。
1.『裏切られた三人の天皇』 1997.1.20 新国民社
2.★『明治維新の生贄』 1998.7.28 同上
*上の二冊が手に入らないようなら、最近出された、二冊の要約版。
3.★『二人で一人の明治天皇』 2007.1.15 たま出版
をお薦めしておく。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)ー1
●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(8)
日本近代化事業の重要場面に差す「ワンワールド」の影
★井上友実と「日本鉄道事業の父」井上勝
明治維新の最大の人物の一人でありながら茫漠として実像の掴めない吉井友実を調べていると、近代的事業の中でも鉄道と貨幣鋳造、駅逓などの事業がワンワールドとの関連が深いように思えてくる。鉄道といえば 「日本鉄道事業の父」と呼ばれて、今も東京駅頭に銅像が立つ井上勝が、ワンワールド一員であったことは間違いない。
井上勝は前月号で紹介した兵学者武田成章の弟子であった。武田は文政10(1827)年生まれの旧伊予大洲藩士で、緒方洪庵の滴塾で蘭学を学び次いで佐久間象山の門弟となり、 洋式兵学を学んだ。象山の推挙で幕府に出仕し、函館開港に際してペリー提督の応接員として函館に派遣されたが、そのまま同地に留まって、函館奉行の下で諸術調所教授となった。函館時代の武田の弟子には井上勝のほか、「日本郵便制度の父」と呼ばれる前島密(のち男爵)がいた。
井上勝は長州藩士出身で、天保14(1842)年生まれ、実父は藩の重職にあった勝行である。安政2年、相州警備に行く実父に従い、2歳年上の伊藤博文と知り合う。安政五年、15歳にして長崎海軍操練所に学び、翌年江戸にて砲術を学んだ。作間芳郎『関西の鉄道史一蒸気車から電車まで』には「長崎の海軍伝習所に藩から派遣され、その後長崎や函館で英語を学び……」とあるから、函館に脚を延ばしたのは、砲術習得のために武田門下に入る目的だが、英語履修もしたのなら、4年後「長州ファイブ」の一員としてイギリス密航した際にはさぞ役立ったであろう。
因みに、英語・蘭語・仏語など語学に秀でた武田成章は、兵学者と呼ばれているが、本領は砲工部門であった。この部門は、陸軍の中でも特にワンワールドが関与する領域である。上原勇作が少年時代に武田の塾に通ったのも偶然ではなく、陸軍幼年学校長の武田を善く知る教導団長高鳥鞆之助の計らいと思える。理由は高島が吉井を通じてワンワールドに加入していたからで、武田も緒方洪庵の線でその道に入ったものと見られる。
長州ファイブとは文久3(1863)年5月、長州藩を脱藩して渡英した志道間多(後の井上馨1835〜1915)、山尾庸三(1837〜1917)、伊藤俊輔(後の博文1841〜1909)、遠藤謹助(1836〜1893)及び野村弥吉(後の井上勝・1843〜1910)のことである。翌年、志道と伊藤は四カ国の下関砲撃を防止するため帰国するが、他の三人は残留する。
野村弥吉(在英中復籍して井上勝)はロンドン大学で採鉱・鉄道を学び、明治元(1868)年1月に5年ぶりで帰国した。翌2年、右大臣三条実美邸において、大納言岩倉具美・外務郷沢宣嘉と英国公使パークスとの間で鉄道起業の会談が行われた際、民部郷大隈重信・大蔵小輔伊藤博文も列席したが、通訳をしたのは洋行帰りの井上勝であった。同年10月、井上勝は井上馨の後を継いで大蔵省造幣寮造幣頭(造幣局長に当たる)に挙げられ、民部省鉱山司・鉱山正を兼ねた。造幣頭を辞めてから鉄道事業に打ち込んだ井上は、明治4年に鉄道頭に就き、翌年には新橋−横浜間で日本初の汽車を走らせる。後に鉄道局長官になった井上は、その功績により明治20年、子爵を授爵する。また井上は、小野義信・岩崎弥之助とともに明治24年、火山灰土の原野を開墾し欧州農法に基づく小岩井牧場を創立したことでも知られる。
日本の鉄道事業は、西南戦争後の財政危機から、鉄道民営策が検討された。これに対して工部少輔兼鉄道局長兼技監だった井上勝は鉄道国有主義を持し、明治14年、工部卿佐々木高行に対して「私設鉄道に対する鉄道局長論旨」を提出し、民営鉄道の利益優先主義は日本の鉄道の理念に反するとの主旨を述べた。政府内はもともと鉄道国営論が強く、鉄道開設の準備として東京―高埼間の測量から始めていたが、西南戦争後の財政難で工事の着工が遅れたため、民間資金による鉄道の早期開業を求める動きが生じ、14年(1881)8月1日、岩倉具視を始めとし、華族などが参加して日本鉄道会社が設立された。宮中勤め一筋だった吉井友実が12年に工部小輔・同13年に工部大輔(国交省次官に相当)を兼ねた事情は未詳だが、明治政府にて極めて重要な意味を有していた鉄道民営化に関したことは確かで、15年に宮中から出て日本鉄道会社の長に就く。日本鉄道は川口―前橋間から建設を開始し、16年7月28日、上野一熊谷間を開業し、その後も路線を増やしていった。この2年間に鉄道事業が軌道に乗るのを見た吉井は直ちに辞職し、17年7月に伯爵に叙されると同時に元の宮内大輔に戻り、24年までその地位に在った。宮中奉仕に終始した吉井が例外的に工部(建設)行政と鉄道事業に関与したのは、ワンワールドからの要請に応えたものだろう。
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<追記>
広瀬隆の新刊『持丸長者 国家狂乱編』(ダイアモンド社2007.7.26刊)に、
★第三章 鉄路は伸びるー「鉄道の父」井上勝として、興味深い一文の記述がある。
御参考までに。
http://2006530.blog69.fc2.com/category2-27.html
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