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陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その4
吉薗周蔵手記(5)ー4
*上原応援団は高島鞆之助、
野津道貫、そして樺出資紀
上原勇作応援団は、日清戦争で偉勲を挙げた台湾総督の樺山・第一軍司令官の野津・参謀次長の川上に台湾副総督の高島を加えた薩摩将官四人組であるが、そのうち川上を除く3人は濃い血縁で結ばれていた。
高島鞆之助は、天保15年(1844)11月9日、薩摩藩士・高島嘉兵衛の第四子に生まれ、藩校造志館に学び奥小姓となる。文久2年(1862)島津久光に従い京に上り、禁裏守衛に当たるが、この時京の薩摩藩邸で女中頭のギンヅルと出会った。すなわち上原勇作の叔母、吉薗周蔵の祖母である。
明治元年の戊辰戦争では三番遊撃体の監軍として戦功を建て、武運が開けた。4年4月、新政府が御親兵を設けて東西に鎮台を置くことになり、薩摩・長州・土佐の三藩の兵を充てた時、薩摩藩士が続々応じるのに混じり、27歳の高島も野津鎮雄、道貫の兄弟らとともに上京した。
明治4年、御親兵入りを目的に上京した高島は、折から参議・西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が企てていた宮中改革の要員に挙げられた。
明治元年10月15日、御所が江戸城に移った後もなお旧態依然、女官が取り仕切っていた宮中の改革のため、4年7月20日権大納言・内国事務局の徳人寺実則が宮内省出仕に挙げられ、これを支援するため旧薩摩藩士で京都薩摩藩邸留守居役たった民部大丞吉井友実を宮内大丞に転じて宮中改革の断行に当たらせた。旧薩摩藩士から高島や村田新八が選ばれて7月28日侍従に任ぜられたが、他藩からも島義勇などが選ばれた。
8月1日吉井大丞は女官を総罷免し、奥向きの決定権はすべて皇后が総覧することにした。
高島は明治45五年8月、当時を回顧して「初めて天顔に拝したのは明治4年で、宮中の積弊を改革せんとの議が先輩(西郷・大久保)の間に起こり、終に破格の恩命に接し、われわれ野武士が召されることとなったが、この改革において吉井友実伯は一通りならず尽力された」と語っている。大久保は西郷から、日常の御相手が高島鞆之助と村田新八などと聞き、薩摩でも評判の暴れん坊なので、びっくりしたという。
翌5年4月、高島は侍従番長に抜擢され、六月には旧幕臣の山岡鉄太郎も宮中に入って侍従番長となった。これに先立つ5月、吉井大丞は前年の女官総罷免に掛からなかった典侍以下の36名を一掃した。
徳大寺を宮内卿にして京都御所以来の女官を一掃し、倒幕諸藩から若手を抜擢して天皇側近を固めた名分は、宮中の旧弊改革である。その通りだが、他に目的がなかったか。それは、@ 徳大寺による天皇御教育、A女官追放による秘密護持、B 諸士による天皇護衛ではないかと思うが、論究は明治維新の真相が明らかになる日まで待たねばなるまい。いずれにせよ、天皇の日常の御生活は一変し、午前10時から午後4時まで、女官の立入りを厳禁した表御座所において政務を執られた。御乗馬には高島侍従番長が従い、極めて規則正しく行われたのでメキメキと腕を上げげられた。力試しは毎日のごとく、侍従たちと腕押しをするのを好まれ、終に山岡が諌めたほど血気盛んであられた。侍従の案内で薩摩藩行きつけの品川遊廓に御幸されたとも灰聞する。
(続)
*陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(5)−5
<明治天皇侍従番長として至誠を尽くした高島>
天皇の傍らに侍した高島侍従番長は西国巡幸に際し、明治5年5月23日から7月12日の還御までお側を離れず、九州沿岸部を視察した。さらに六年四月五日小金原における陸軍大演習にもお供した(『 明治史要』に鎌倉演習としてあるのが不思議)。大演習の総指揮は元帥兼近衛都督西郷隆盛が執ったが、近衛局長官少将篠原国幹の指揮ぶりを御目にした天皇は、「皆も習え篠原に」と仰せになり、それが習志野の地名となった。また、8月3日から31日までの両陛下の箱根・宮の下温泉での御静養にもお供した。
以上のほか、侍従番長時代の業績に明治6年11月の北海道出張がある。元来日本の領土であった樺太は、幕末ロシア帝国の侵出が激化した際、国際情勢にうとい江戸幕府では対応できず、慶応3年の仮条約により日露両国の共同管理地とされてしまい、以後、明治8年5月7日の千島・樺太交換条約までの間、両国民が雑居したが紛争が絶えなかった。日本は南北分割のため国境の確定を望んでいたが、明治5年10月から始まった交渉でロシア側が全島の領有権を主張して譲らないため撤退を決意し、売買譲渡することとし、参議副島種臣が条件交渉に入った。
明治6年10月14日西郷の朝鮮派遣を巡る左院での閣議の席上で樺太事件に対する外務卿の派遣が論じられているが、事件の詳細は分からない。とにかく、この政変で政府部内が分裂し、副島も下野することとなり、交渉は中断した。直後の10月9日、樺太でロシア人の暴動が起こり、日露間に緊張が高まった。近代日本が初めて遭遇したこの国際的事件の収拾のために、明治天皇は高島を派遣し、高島は天皇の信頼に応えて無事任務を果たした(『 大阪借行社附属小学校物語』 )というが、政府が分裂して対露交渉に支障を来したので、とくに高島侍従番長が派遣されたものか。
いまひとつは、明治7年3月の佐賀表出張で、2月4日佐賀の乱が起こり、山県有朋が陸軍卿から近衛都督に転じ、東伏見宮嘉彰親王が2月23日付で征討総督に任じた。高島の任務は天皇の意向を前線司令官に伝えることらしい。3月27日首魁江藤新平ほか元侍従・島義勇が縛に就き、佐賀の乱は収まるが、高島は5月11日に陸軍入りし任陸軍大佐、陸軍省第一局副長兼局長代理に補せられた。
高島の7歳下の妹・登女子が野津に嫁したから二人は義兄弟であるが、3歳の年長で3年先任の野津道貫が大佐に抜擢されたばかりなのに、初任大佐と超抜擢の理由は、侍従番長時代の功績にあることは明らかである。野津は三番大隊附教頭として出仕し、明治4年7月23日陸軍少佐に任ぜられ、麹町区下二番町に邸を構えた。明治4年末に上京した上原勇作が下宿した時、野津と高島の二家族が共同生活をしていたが、高島の母・貞子が野津夫人の母でもあったから、不思議はない。
高島の次女・球磨子は樺山資紀の血縁の樺山資英(後の満鉄理事)に嫁いだから、高島家は樺山家とも野津家とも縁威になるのである。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(6)
「上原勇作応援団」の正体を探ると、隠された近代が見える
本稿は、陸軍元帥上原勇作の個入付き特務であった吉薗周蔵の自筆手記に、隠された日本近代史の解明を目的とするものである。
当然ながら元帥その人を知る必要があり、それには上原を育てた陸軍中将高島鞆之助、元帥野津道貫、元帥樺山資紀、陸車大将川上操六らの事績を知らねばならない。樺山と高島は単なる軍人でなく、正体は政治家で、むしろその方に本質があった。ところが、この二人は、世間に対しいかにも朴訥の薩摩軍人らしく振る舞ったので、生存中ですら「一介の武弁」と見られていた。当今に至っては、史家も僅かにその名前を知るのみで、もしそれ論考に至っては皮相の羅列に終始し、真相を穿ったものをほとんど見ない。本稿が彼らの事績を考究するのは、そのことが『周蔵手記』の解読のみならず、近代史の隠された真相に迫るために不可欠だからである。
極言するならば、高島鞆之助が判らなければ、日本近代史は判らない。かかるが故に、読者諸兄にはもう少々我慢してお付き合いを願いたい次第。
1.上京直後、近衛参謀長・野津道貫邸に寄留決定の不思議
明治四年春、御親兵募集に応ずるため上京した三十一歳の野津道貫は、七月二十三日に少佐に任ぜられ、翌五年八月中佐に進級した。七年一月大佐に任じられ、近衛参課長心得に就いた。野津の三歳年下の高島鞆之助も陸軍入りを目指したが、西郷隆盛の推挙によって宮内省侍従に挙げられ、明治天皇の近臣となった。二十八歳の高島は、妹が野津の夫人だったので、老母・家族とともに義弟の野津少佐邸に同居していた。
龍岡勇作(のちの上原)の実兄龍岡資峻も、四年八月に御親兵を目指して上京し、近衛第二大隊に編入されたが階級は低く、翌年十月に陸軍伍長に任じられた。十六歳の勇作は兄の後を追って単身上京を決意、十二月十五目に都城を出て翌五年の一月十四日に東京に到着したが、訪ねた兄の兵舎では下宿が不可能なため、一旦柴田藤五郎の家に寄寓し、二月二目に至り野津邸に寄食することとなった。
それを同郷人の斡旋によるものと『元帥上原勇作伝』(以下単に「伝記」とする)に記すが、上京後わずか二週間で近衛参課長邸に寄留する話がまとまるなぞ尋常ではなく、その裏では勇作の叔母・吉薗ギンヅルが采配し、同郷人を使って寄宿話を進めたものと見て間違いない。ギンヅルは明治二年に愛人の公家正三位右衛門督堤哲長に死に別れ、忘れ形見の次長(後の吉薗林次郎)を提家に認知さすべく運動しながら、浅山丸などの高貴薬を製造販売して提家の財政を支えていた。浅山丸は都城藩にとっても貴重な財源で、ギンヅルは同藩の製薬事業にも関与していたのである。
伝記には「是れより兵学教官武田氏に就き研学す。二月二十一日、外国語学校へ入学」とあるが、勇作は野津邸に下宿した直後、高名の兵学者武田氏に就いて学んだようだ。武田は当時、フランス語の私塾を関いていたので、伝記にいう外国語学校とは、実は武田塾のことと思われる。また、上京直後、柴田が学問の方向如何を問うたところ、勇作は「フランス学を学びたい」と答え、さらに「将来の目的如何」と問うと、「軍人たらんとするにある」と答えたと伝記はいう。軍人志望を唱えたのは薩摩士族の境遇からして当然のことであるが、明治三年制定の兵制で、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式ときまったから、これは陸軍を志望する意味である。
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