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*陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(4)
・・元帥・上原勇作とは何者か
3)川上操六と野津道貫の強力な引きで参謀本部に
上原少佐は、明治25年8月25日付で、工兵第五大隊長を罷め、参謀本部副官に補せられ、9月9日付で陸大教官兼任となる。
この人事は参謀次長・川上操六中将の推薦であった。川上は当時46歳、参謀総長・有栖川宮親王を補佐して参謀本部を改革し、従来の組織を一変して、天下の英才を幕下に集めた。
参謀本部が軍機の中枢機関となったのは、ひとえに川上の力によるも
のと言われている。
川上と上原の関係について『元帥上原勇作伝』は「上原が仏国より帰国するや、たちまち士官学校の教官となったのも、臨時砲台事務官となったのも、士官学校兼務となったのも、小沢中将の随員となって欧州各国の海防事務を視察したるも、工兵第五大隊長として、広島師団の隊付となって実地の軍務に従事したるも、みな川上将軍の力に有らざるものはなかった」と記す。
野津と川上による上原の引き立ては、辺りを憚らぬものであった。
その川上は、戊辰戦争の際、京の薩摩藩邸で周蔵の祖母ギンヅルと親しくなり、後には男女関係もあったらしい。川上が一貫して上原を引き立ててきたのは、本人の才能からして当然ではあるが、ギンヅルからの依頼もあったはずである。
参謀本部副官として、軍務に携わった上原少佐は、明治26年7月22日付で、ベトナム及びタイの視察を命ぜられた。
これより先フランスとタイの間に、メコン河左岸の領有問題を生じていた。フランスは、インドシナを領有して以来、メコン河を遡って南支方面に対する通商路とすることを図ったが、メコン河は急流のために船便が難しかったので、方向転換してタイ国境に侵入した。
そのため、タイ・フランス間に軍事衝突が頻発し、遂に交戦を見るに至った。
イギリスは明治13年以来ビルマを併呑し、マレー半島の南半部を占有していた。イギリスは南西北から、フランスは東北からタイを蚕食したから、英仏関係は、タイを挟んで緊張することになる。
その結果次第によっては日清両国の利害にも関係するので、川上参謀次長は、南支方面の形勢を探索するため、上原少佐と山田良円中尉を派遣したのである。
7月26日に東京を出発した両名は、11月12日に帰国する。
往復およそ180日(ママ?)、その間に90日をフィリピンで過ごしているのは、理由があるのだろう。
後に上原はこの視察を回顧して、ベトナムの港湾は昔は開放しており、日本人が多数この地に植民し、江戸幕府が鎖国するまで継続していた。日本人町も日本家屋も存在し、日本人墓地も発見された、と語っている。(『元帥上原勇作伝』)
日清間に戦雲が立ち込める。
明治27(1994は−1894のミス)年6月1日、参謀本部内に大本営が設置され、5日付で野津道貫中将率いる第五師団に動員令が下り、師団の一部が混成旅団に組み入れられた。同7日付で、参謀本部副官・上原勇作少佐は、在朝鮮国日本公使館付心得を以てソウル(漢城)に派遣され、福島安正中佐と共に特別任務を帯びて軍事外交の折衝に当たる。
6月8日には清国兵が牙山に上陸し、日本軍も遅れじと仁川に上陸する。7月12日には第五師団残部にも動員令が出される。
7月23日、京城事変が起きる。朝鮮の宮殿に入ろうとした大島公使が韓兵に阻まれて、軍事衝突したのである。上原少佐は、28日に成歓で、29日には牙山で清国軍との戦闘に参加し、参謀の任務に服した。
成歓、牙山の戦闘で、日本軍は清国軍に大勝する。このことが、事大主義を本領として大国・清国の顔色を窺っているばかりの朝鮮政府に大きな衝撃を与えた。
この戦闘は局地戦にすぎなかったが、その物質的・精神的成果は絶大なものがあったのである。
8月1日、日本は清国に対して宣戦を布告し、日清戦争がここに勃発したが、9月16日には早くも京城が陥落し、戦争の舞台は満洲平原に移る。(4)−了 (2007/04/20)
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続・落合論文(補注)
(1)−5)渡辺ウメノと政雄にまつわる数多くの秘話
として、以下の通り(一部略)記した。
渡辺ウメノが生んだ哲長の種と称する一子は、性別ははっきりしないが、女子と思われる。とにかくその子を通じて、ウメノの孫の渡辺政雄が生まれた。政雄は大正6年ころ盛岡の医専を出たらしく、周蔵と同年輩である。
手塩にかけて育てた政雄を、ウメノが医専に入れたのは、上田吉松・出口ナオらと組んで始めた皇道大本(大本教のこと)の仕事に携わらせる目的があった。
外科医となった政雄はそれを警戒し、同じ哲長の孫として従兄弟にあたる周蔵を頼り、大正6年に東京に移ってきた。・・・
政雄は後年、祖母・渡辺ウメノの母系の丹波国桑田郡曽我部郷穴太村の上田家の伝承を、周蔵に詳しく教えた。
渡辺ウメノが哲長に教えた薬の原料は特殊のケシで、その種子は江戸時代にオランダからはいってきて、穴太村・上田家に伝わったものらしい。
穴太村は、古代に朝鮮半島の南端の加羅の安羅(アナ)から渡来してきた石工・穴太(アナフ)衆の旧址である。
穴太村を本拠とする上田家の家伝では、上田の本姓は海部(あまべ)で、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家である。海部・上田家は、古代に渡来したイスラエルの子孫で、なかでもアヤタチと呼ばれた特殊の家系という。
これは、戦前の皇国史観や戦後の弥生史観に泥んだ耳には荒唐無稽に聞こえるかも知れぬが、他の伝承などに照らしても、充分首肯しうるものである。
さらに、古くからオランダとの取引をしてきた上田家には、夙にオランダ人の血が入り、吉松の五代前の先祖で画名を丸山応挙として知られる上田主水も、オランダ血統であったという。幕末の当主は上田吉松で、「言霊呼び」という御祓いをしながら、全国を巡ってケシ薬を売り、裏では朝廷の諜者として働いていた。
その子が上田鬼三郎(*これが本名で、どこかで喜三郎と変えたらしい)すなわち後の大本教の聖師・出口王仁三郎である。渡辺家に嫁いだ吉松のオバ(叔・伯は不明)がウメノを生むが、そのオバがケシ薬の秘伝を渡辺家にもたらしたものと考えられる。いとこのウメノを愛人としていた吉松は、同じような関係にあった出口ナオと図って、明治25年に皇道大本を立ち上げるのである。
ここには、私などが抱いていた<イメージ>とは一変の、大本教に関して極めて興味深い記述なので、少し、それについて記しておく。
<私の「大本教」イメージ>とは、以下のようなものである。
思いつくままに、記すと、以下のようになる。
1)貧しい農家の未亡人・出口ナオが突然「神懸り」になり、膨大な量の「お筆先」
を記した。
2)それを「文章化」した、養子の出口王仁三郎が実質的指導者。
3)出口王仁三郎という人物の筆力にも感嘆した。
「満洲行」等行動力もある人物。
3)日本の近・現代宗教史を語る時、欠かすことの出来ない一大民衆(間)宗教である。
4)二次にわたる大弾圧を受けて壊滅した。
近・現代日本における宗教弾圧としては、最大級のものであった。
5)「お筆先」を書籍化した、『大本神諭』がある。(東洋文庫等)
6)旧軍人の間にも浸透していた。
7)学生運動の渦中、故・高橋和巳には『邪宗門』という著作があった。
8)関連著作は多数あるし、蔵書もあるのだが、例により何れも中途で積読状である。
ざっと、書き記してみたが、いくつか興味のわいた点について、以下<メモ>しておくことにする。
(2007/04/20)
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<追記>
吉薗周蔵は生前、こう語っていたと言う。
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落合莞爾が吉薗明子に質問する。
「お父さんは、日頃どういう人物を批判していましたか?」
吉薗明子
「まず武者小路実篤さんと、総理大臣だった岸(信介)さんです。それに父・周蔵は、藤山愛一郎さんと知り合いでしたが、戦後、岸さんと一緒にやるために政界入りをなさるということを聞いて、それだけは思いとどまるようにと、手紙を書いたことを記憶しています」
周蔵は生前、岸など当時の政界保守派の巨頭を貶していた。。明子がその理由を聞くと、「日本をアメリカと国際資本に売ったからだ」と答えたという。
『天才画家・佐伯祐三真贋事件の真実』p.344より。
(落合莞爾著 1997.5.30 時事通信社刊) (2007/04/20)
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落合論文の関連で、<大本教>等について。
*大本教の実質的指導者・出口王仁三郎についての興味尽きない対談がある。
『朝日と読売の火ダルマ時代』 藤原肇著 1997.11 国際評論社刊より。
第二章 読売王国を築いた巨魁の奇怪な足跡
*「歴史の証言」 『番町会グループとサンカ人脈の秘図』
これは、明治維新以来、日本の政治・経済界を支配する、「番町会グループ」という奇妙な結束力の背後に何が潜んでいるのか、について、藤原博士がCさんと交わした興味深い対談の記録である。
藤原氏によると、Cさんとは:関西に根拠地を持ち京都や大阪の文化史に精通し、日本人として文化の底の底まで熟知した、人物である。
「Cさんの堅い口から漏れた驚くべき秘密は、目から鱗が落ちるという形容そのままだった」という。
<引用始> F;藤原氏
F この前にお目にかかった時の宿題だったサンカですが、神保町の古本屋や図書館で調べても、参考になる本がほとんどなくて、苦労したけれど、幸運にも田中勝也の『サンカ研究』(新泉社)を入手し、5回ほど読んで概念と用語を整理して、後は三角寛、柳田國男、南方熊楠などの本に目を通しました。・・・
でも現在の日本の目に見えない構造を捉える上では、もっと歴史的な構造分析が必要だと考え、中世から近世にかけての聖と俗について調べ、前代未聞の鉱脈を掘り当てた感じです。
C それは良かった。自分で苦労して答えを見つけ出すことが、人生にとって最高の喜びであるという意味で、あなたが行った研究はいい財産になりますよ。
F ありがとうございます。
歴史的にサンカを生態人類学的に調べたら、海系統と山系統の二つの流れがあって、海系統の海人(あま)は海や川で漁をする海部で、山系統の山人は山岳地帯に住む山部であり、海部と山部の総支配者をアヤタチと呼び、これがサンカの大統領に相当しています。
そして、アヤタチの住むところが丹波のアヤベであり、出口王仁三郎はサンカ出身だったから、その後に政府の大弾圧で徹底的に破壊されたが、大本教の本部を京都府の綾部においたのだし、丹波はサンカ文化にとって本拠地のようです。
C 出口王仁三郎は本名が鬼三郎だった通り、確かにサンカ出身だったのは明らかだが、それで綾部に本部を作ったというのはどうかな。
丹波は古くから全体としてサンカの聖地で、大統領はしばしばアヤタチ丹波であるし、丹波・丹後・但馬はサンカ王国の中心だった。だが、出口王仁三郎や大本の話は明治のことだし、歴史的にみれば割りに最近の出来事であり、中世に起源を持つサンカの歴史にとっては、それほど決め手になるとはいえないな。
F その意味で一気に古代に遡って考えると、奈良時代の役小角に関係しているようだし、・・・中略・・・
C そこに気づいたのは結構だとは思うが、それは(サンカの起源、文化人類学的アプローチ等々)学者達に任せたらいいことで、今更ここで私がとやかくいう問題じゃない。
抽象的な話をするのは時間の無駄だ。
F 済みません。・・・以下、略。
以下、サンカと部落(被差別部落・山師とサンカ・後藤新平の死因と久原房之助=正力松太郎との関連・久原の「長州サンカ」といわれる出自。正力松太郎=サンカ説・・・等々対談は続くが、ここの本題とは逸れるので、後日。
一読、これまで抱いていた民衆宗教・「大本教」のイメージが崩れていくのを感じたものである。
漠然としたイメージを明確にするために、回り道のようだが、村上重良氏の「解説」(東洋文庫『大本神諭・天の巻』1979.1.30刊、巻末の同氏によるもの)によって、<大本教=出口ナオ・王仁三郎>の再確認をする。
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<サンカ>と<大本教>
以前の記事を、先ず確認しておこう。
*手塩にかけて育てた政雄を、ウメノが医専に入れたのは、上田吉松・出口ナオらと組んで始めた皇道大本(大本教のこと)の仕事に携わらせる目的があった。
*政雄は後年、祖母・渡辺ウメノの母系の丹波国桑田郡曽我部郷穴太村の上田家の伝承を、周蔵に詳しく教えた。
*穴太村を本拠とする上田家の家伝では、上田の本姓は海部(あまべ)で、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家である。海部・上田家は、古代に渡来したイスラエルの子孫で、なかでもアヤタチと呼ばれた特殊の家系という。
*古くからオランダとの取引をしてきた上田家には、夙にオランダ人の血が入り、吉松の五代前の先祖で画名を丸山応挙として知られる上田主水も、オランダ血統であったという。幕末の当主は上田吉松で、「言霊呼び」という御祓いをしながら、全国を巡ってケシ薬を売り、裏では朝廷の諜者として働いていた。
*その子が上田鬼三郎(*これが本名で、どこかで喜三郎と変えたらしい)すなわち後の大本教の聖師・出口王仁三郎である。渡辺家に嫁いだ吉松のオバ(叔・伯は不明)がウメノを生むが、そのオバがケシ薬の秘伝を渡辺家にもたらしたものと考えられる。いとこのウメノを愛人としていた吉松は、同じような関係にあった出口ナオと図って、明治25年に皇道大本を立ち上げるのである。
「吉薗周蔵の手記」にみえる要点は、以上のようである。
以下、サンカと大本教について見てみる。
先ず、「ウィキペディア」から。
<引用始>
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サンカ(山窩)
山家、三家、散家とも表記される。その生業や生活形態は多岐にわたる。「山窩」は官憲の犯罪者対策や戦前の大衆小説などに用いられた蔑称的表記であり、公平性を期するには片仮名で表記されるべきである。「山窩」の表記は明治、大正期に「セブリ」、「ドヤ付」、「家持」と呼ばれた非定住の虞犯性が高いと官憲に目された不特定の人々を指す言葉として警察の内部において隠語的に発展したものだと考えられる。ちなみにセブリは「瀬降り」と言い、ミナオシ、テンバなどが用いていた生活道具であり、セブリサンカには、犯罪性が無かった事は、明らかにされている。「山窩」の表記を虞犯性が高いと目されていた事実を抜きに語ることは妥当ではない。
サンカという言葉は江戸時代末期(幕末)の広島を中心とした中国地方の公文書に初めて顕われ、(それより以前に言葉の出現を求める意見も有る)第二次世界大戦前には大衆小説を通し「山窩」として広く知られ、戦後には、映画『瀬降り物語』や、五木寛之の小説『風の王国』などによって再認知された。その初期から犯罪者予備軍、監視及び指導の対象者を指す言葉として用いられた事が、三角寛の小説での山窩の描かれ方の背景となっている。またサンカを学問の対象として捉えた最初の存在と言っても良い柳田國男やその同時代の研究者達もその知識の多くを官憲の情報に頼っている。江戸時代末期から大正期の用法から見て、本来官憲用語としての色合いが強い。虞犯性が特に高いと目されていた人々は社会構造の変化や官憲による摘発によって、他の単純な貧困層より早い段階(おそらくは大正期まで)にほぼ姿を消したと見る意見もある。
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一般的な記述に終始している。
次に、より詳細な記述を参照するが、長くなるので、稿を改める。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(5)
(5)−1 上原勇作の軍歴と上原応援団・薩摩将官三人組
*上原勇作・輝ける軍歴の出発点・日清戦争
明治28年8月1日、日本は清国に戦線を布告した。これに先立つ五月12日、本稿の主人公・吉薗周蔵が、小林村字堤で誕生していたことは特記しておく。
9月1日第一軍が編成され、司令官・山県有朋大将は第三師団長・桂太郎を伴って京城に向かうが、途次高陽駅で9月16日、平壌陥落の報告を受けた。
山県司令官の朝鮮上陸後、在韓軍の行動はすべて第一軍の統制下に置かれることとなり、参謀次長・川上操六中将は第五師団長・野津道貫中将宛に打電し、第三師団の来着を待って平壌攻撃を開始することを命じた。
しかるに野津は「攻撃準備すでに成り、予定の計画を変更すること能わず」と返電し、独断専行で攻撃を開始、忽ち平壌を陥落した。
すこぶる短兵急な作戦であったが、『上原伝』は、当時の情勢を的確に判断した作戦だと褒めている。上原は9月25日付で、山県有朋の後を受けて第一軍司令官に補せられた。
幕末・明治の全ての戦争に参加した野津は、勇将として知られ、後の日露戦争で満洲軍第一軍司令官として沙河作戦を指揮した時、自ら狩ってきた鹿の生き血を啜りながら、少年時代の「冷えもん取い」の話をして周囲を驚かせた。容貌に似ぬ猪突猛進タイプの性格だった。
参謀本部が満洲第一軍の参謀長に近代的な上原を配したのは両人の性格の均衡を図ったものと評される。しかしながら両人は日清戦争以来司令官と参謀長の関係にあり、死刑囚の胆嚢(冷え物)を食す習慣も薩摩では周知のことで、その経験者も野津以外に幾らでもいた。
明治28年3月12日野津道貫は陸軍大将に任ぜられ、同20日上原中佐は第一軍参謀副長に補せられたが、戦争の大勢は決しており、清国講和全権大臣李鴻章と伊藤博文首相及び陸奥宗光外相とは、この日下関春帆楼において談判を開始した。4月17日下開講和条約が調印され、第二条において、台湾などの領土割譲が決まる。李鴻章は、台湾割譲を要求する日本に「台湾を抱えたらお宅は苦労しますよ」と冷笑した。理由は阿片中毒者が多くて治安が悪いことで、加えて気候も高温多湿の熱帯性で、マラリア・コレラ・赤痢・チフスなど恐ろしい風土病が蔓延していた。それでも日本が台湾の領有を欲したのは、石炭を燃料とする軍艦のための石炭と水の供給基地を必要としたからである。
上原中佐は五月二十五日凱旋し、神戸に帰還した。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(5)
(5)−2 <難渋を極める新領土・台湾統治、一時は軍政施行も>
新領土の台湾を統治するため、台湾総督府を置くこととなり、明治28年5月10目、樺山資紀は海軍大将に任じ、初代台湾総督に補せられた。21日台湾総督府仮条例が制定され、旅順に駐屯していた近衛師団が、台湾授受のために十隻の輸送船に分乗して台湾に向かう。29日樺山総督は、近衛師団長・北白川能久親王中将と共に台湾に上陸し、六月二日基隆沖の横浜丸船上において清国全権李経方と会見し、台湾授受式を行う。台湾では割譲を機に各地で混乱が起きる。
台湾巡撫唐景松が5月25日台湾民主国の独立を宣言して自ら総統に就くが、本音は本土商人の財産確保にあり、近衛師団との戦闘もおざなりで、恐れるに足りなかった。
しかし、台南には清朝政府から台湾防衛を命ぜられた黒旗軍の劉永福将軍が駐屯していた。劉は元来、反清秘密結社・天地会の一員で、辺境の武装組織・黒旗軍に参加したが、清朝正規車に駆逐されてベトナムに逃げ込む。そこで清仏戦争に遭い、西太后の密命で黒旗義勇軍を率いてフランス軍を駆逐した功績で一等義勇男爵に叙せられた。両広総督張之洞は6月5目、唐に対し「台湾民主国総統の印綬を劉永福に渡して大陸へ引き揚げよ」と訓令したが、翌6日基隆は陥落し、清朝の元高官らは倉皇として支那本土へ引揚げてしまう。後には3万5千の陸軍兵が残され、略奪乱暴の限りを尽くした。
これを憂慮した台湾の有力商人が、治安回復のため日本車に早期入城を要請したので、日本車は清軍残兵を掃討して降伏兵を大陸に送還し、6月17日台北城内に入って閲兵式を行い、総督府施政式を執行した。
日本軍は、19日南進を開始し、台北から新竹までの問で住民の激しい抵抗を受けるが、22日新竹が陥落すると一変して歓迎を受けた。しかし、住民の抵抗や後方撹乱はその後も収まらず、樺山総督は一個師団では不足と判断して、増援を請うこととし、28日大本営に対し一個混成旅団の増援を請求した。
一方、台南商人から地方住民の頭領たることを要請された劉永福は、承諾して台南郊外の安平に移り、以後は台湾ゲリラの首領として日本車に徹底抗戦した。ゲリラ化した住民相手の平定は難航し、7月13日樺山総督は大兵力を用いて台北・新竹間を鎮圧することを決意し、18日民政から軍政への移行を指示した。
日本車は激しい掃討を行ったが、抗日勢力も引き下がらず、樺山総督は8月6日台湾総督府仮条例を廃止し、軍令を以て台湾総督府条例を制定し、民政を一時中止して軍政を施行することとした。また台南平定に必要な南方作戦に対応するため、副総督を置くこととし、枢密顧問官・高島柄之助か予備役から現役中将に復帰し、8月21日付で台湾副総督に任命された。
これより先、8月5日、日清戦争の功績を賞する叙爵が早くもあり、勲功により伊藤博文が、軍功により大山巌・西郷従進・山県有朋が侯爵・旭日桐花大綬章を受けた。また同じく軍功で、樺山資紀・野津道貫が伯爵・旭日大綬章を、川上操六・伊藤祐亨が子爵・旭日大綬章を、それぞれ受勲した。
陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(5)
(5)-3 <ようやく台湾平定成るも 北白川宮・能久親王が蔓去>
台湾では、この頃からマラリアなど風土病が蔓延し、そのために南進は一時中止となる。9月7日、台湾兵站部と近衛師団、及び到達予定の第二師団を以て南進軍が再編成され、高島副総督の指揮下に入る。近衛師団は、師団長北白川宮能久親王中将が南進部隊を率いて陸路南下し、混成第四旅団は旅団長伏見宮貞愛親王少将が率いる上陸部隊により基隆に上陸、第二師団も師団長乃木希典中将が上陸部隊を率いて上陸することとなった。9月17日南進軍司令部は南進作戦計画を決定し、22日南進命令が下るが、悪天候のほかに風土病が流行し(ショウケツし)、29日には近衛師団第二旅団長・山根信成少将がマラリアで病死した。(11月1日付で男爵)
その後も各地で激戦は続くが、10月19日劉永福が苦力に変装してイギリス船でアモイに逃れるに至り、台湾民主国は滅亡した。安平が陥落した21日は、高島が台湾副総督に就いてちょうど2か月目に当たる。
台湾平定もようやく成った10月28日、近衛師団長・北白川宮能久親王が台南で罷去された。原因はマラリヤとされるが、コレラ説・チフス説、拳銃自殺説・抗日ゲリラによる暗殺説のほか、もっと奇怪な噂もある。何しろ明治元年には官と薩長とは敵味方だったのである。しかし軍医・森林太郎(鴎外)の診療記録には「キニーネ投薬」とあるから、マラリア罹患は確かである。北白川宮は11月1日大勲位菊花章頚飾、功三級金こう勲章を受勲、同4日付で陸軍大将に特進した。
宮は伏見宮邦家親王の第九子で久邇宮朝彦王の弟、生母は堀内氏である。安政6年(1859)得度して輪王寺宮・公現法親王と呼ばれた。慶応3年(1867)5月江戸に下って上野寛永寺に入り、日光輪王寺門跡・天台座主となる。
翌年、幕臣の彰義隊に擁立されるが、敗戦して東北に逃れ、仙台藩が中心となった奥羽越列藩同盟の盟主となる。明治元年東武天皇を称したことは、諸藩の記録にあり、アメリカの新聞(「ニューヨークタイムズ」等)にも報じられた。(*「二人の天皇」がいたということである。)
明治2年蟄居を解かれ、翌年5月伏見宮家に復帰する。
明治3年からプロシアに留学し、留学中の5年3月に北白川宮家を相続して能久親王と呼ばれた。9年12月ドイツ貴族・ベルタと婚約し、政府に許可を求めたが帰国を命じられ、10年7月、プロシア陸大を中退して帰国する。
帰国後は婚約を破棄して軍務に勤しみ、ドイツ学協会初代総裁となり、現在の独協大学を創立した。第一子の竹田宮恒久王の孫が現JOC会長竹田恒和氏である。
樺山総督は11月6日南進軍の編成を解き、18日を以て大本営に台湾平定を報告した。高島副総督は12月4日内地に帰還、翌年4月2日、第二次伊藤内閣が台湾総督府を監督するために設置した拓殖務省の初代大臣に就く。樺山は6月2目、台湾総督を罷めて予備役編入、枢密顧問官になる。それまでの2カ月間は合湾総督として高島拓殖務大臣の監督下に在ったのである。
高島は24年5月に陸相に就いたが、翌年8月その座を大山巌に譲って予備役編入、枢密顧問官で従軍しなかったから、8月5日の叙勲には挙がらなかったが、直後の21日に現役中将に復帰して台湾副総督に任ぜられ、以後10月6日まで2ヶ月あまり南進軍を直接指揮し、難渋極まる状況のなかで風土病および悪天候とゲリラと戦い、これを平定した。
その後にも拓植務大臣・陸軍大臣を歴任し、政府と陸軍の要職を長く勤めたが、生前遂に綬爵・進級の沙汰がなかった。旭日大綬章も明治20年に受けており、死去に際して正二位追贈のほか旭日桐花大綬章を受章しただけである。
常に高島の後塵を拝してきた樺山と野津が元帥・侯爵に登ったのに、高島が中将・子爵に止まったのを、晩年の「発育障害」と酷評する向きが多いが、真相は別条で考究する。
http://blogs.yahoo.co.jp/sckfy738/folder/985102.html?m=lc&p=6
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