http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/349.html
Tweet |
学問道場を久しぶりに覗いたら、どうも下仲君はすでに遁走していたようだ。
しかし副島隆彦とその弟子たちは、新たな犠牲者を後釜に据えている。
下仲君に替わる生贄として、吉見君がソエジたちの欺瞞に捧げられた。
こういう犯罪行為の上に彼らの新刊本が書かれているのである。
本日のぼやきでは中田安彦の新刊本の宣伝に続いて、副島隆彦のあとがきが載せられている。
2011年6月6日
副島隆彦
あとがき
私だってもう初老だ。58歳になったが気だけは若い。3月11日の大津波に続く12日からの原発事故の大事件が起きて、この3カ月、本当にキリキリ舞いで参った。疲れ果てた。
昨日までまた福島の原発から21キロの地点に弟子たちと自力で作った現地の活動本部に行っていた。名を「学問道場の福島復興活動本部」という。福島の空気を思いっきり吸って、地元の野菜をガブガブ食べて、私はもっともっと元気になる。
私は、「放射能コワイ、コワイ。危険はまだ続いている。原子炉がまた爆発するかも」とアメリカに洗脳され、煽動されているために勝手に脅えているバカたちすべてと、今後も徹底的に闘い続ける気である。私の本の真の読者で、愚かにも「放射能が怖い」と思い込んでいる人はおりますまいな。私がこれほど体を張って福島の原発近くから真実の情報発信を続けたのですから。
こうなったら、お金儲けやら資産防衛もへったくれもあるものか。お金よりも日本国民の体と健康のことのほうが心配だ、と私が書くと、「お前だって放射能がコワイのか」と反論、質問されてしまう。私はこの3カ月、一体、何をそんなに勝手に苦しんで動き回ったのか。
馬鹿じゃなかろうか、と自分で思う。自分にもよく分からない妙な感じが今もつきまとう。みんなもそうだろう。この得体の知れないヌメーッとした分からなさの謎に向かって、さらに一番槍をつけていくのも私の仕事だ。
私は誰にホメられなくても、自分で勝手に動く。誰の言うことも聞かない。どんな勢力にも操られない。ただ、このような私でも唯一、私のこの金融本シリーズを買ってくださって、代金の1割の160円の印税収入を私にW投げ銭≠ナ与えてくださる読者の皆さんにだけは頭を下げる。私が自力で自立して、弟子たちを引き連れて活動できるのは、ひとえに私の金融・経済本を飽きもせず毎回買って読んでくださる、自分のお金のことしか考えない皆様がいてくれるからである。
やっぱりお金(儲け)の話と、原発事故・放射能の話を合体させて書くことは、本当にシンドイ至難の業であった。私にとっては、危険を覚悟で原発の正面玄関まで行って放射能量を測ったことのほうが、この本を書き上げるよりもずっと楽だった。
このキツさを他人も味わってみよ、と言いたいが、人生(人間の生活)はどんな人にとってもキツくてつらくて苦しいものであるから、泣き言は言うまい。
この3カ月、原発事故で血相を変えて走り回っていた私を、真横にいてずっと付き合ってくれたのが、この本の担当編集者である徳間書店出版局長の力石幸一氏である。彼は、私が生きた(死にかかった)この3カ月の生き証人である。記して感謝します。
やっぱりお金の話は大事なのだと、しみじみと思う。
副島隆彦
>私は、「放射能コワイ、コワイ。危険はまだ続いている。原子炉がまた爆発するかも」とアメリカに洗脳され、煽動されているために勝手に脅えているバカたちすべてと、今後も徹底的に闘い続ける気である。私の本の真の読者で、愚かにも「放射能が怖い」と思い込んでいる人はおりますまいな。私がこれほど体を張って福島の原発近くから真実の情報発信を続けたのですから。
副島隆彦よ、あなたは電話で私に何と言ったのか忘れたのか?
「頭をやられたから原発の傍へは行けないんだ」と言っただろうが。
だからできるだけ福島にはいないようにして、代わりの人間を常駐させているのだろうが。
>昨日までまた福島の原発から21キロの地点に弟子たちと自力で作った現地の活動本部に行っていた。
何が昨日までまた行っていただ、たまさか吉見君とカッパすしをつまんだだけだろうが。いつも現地にいるようなフリをするその三文芝居をやめろ。
所詮あなたは自分から「原発のできるだけ近くまで行って殴り合いをしよう」とケンカを売っておきながら、いざ売られたケンカを私が買うと、見苦しい小細工を弄して逃げ回るような卑怯者なのだ。
翌々日、友人の電話でかけたら油断して電話口に出てあなたは何と言ったのだ?
「私はもうダメなんだ、頭をやられたから原発の近くへは行けないんだ、
被災者の何人が原発を怖いと言ったのだ、言え!」と何回も怒鳴ったではないか。
あなたが『怖い』という言葉に奇異なほどこだわる訳が、私はその時ようやく飲み込めた。あなたは実際頭をやられた実感があって恐怖でいっぱいなのだ。だから自分の恐怖感を人になすりつける。騙るに落ちるとはこのことだ。
何が『勝手に脅えているバカたち』だ。
その言葉そっくりそのままあなたにお返しします。
脅えているバカ、それはは副島隆彦・中田安彦・六城雅敦、あなた方犯罪者グループのことである。カルト存続のためには手段を選ばない恥知らず、カルトでメシを食っていくためには、生体実験まがいのことまでやるあなた方犯罪者グループのことである。
以下に安全宣言の欺瞞に捧げられた第二の生贄、吉見君のレポートを転載する。
この期間中、ガダラの豚たちが何回福島復興本部を訪れたか、何日宿泊したか数えてもらいたい。『復興本部』とは安全宣言の欺瞞のために設けられた祭壇であり、常駐させられる若者はカルト教祖の欺瞞に捧げられた生贄であることが歴然とするだろう。
そしてソエジたちも会員も誰も吉見くんに答えようとしない。不気味なまでに吉見くんのモノローグが学問道場で続いていくのだ。
[587]福島から報告します 投稿者:吉見おさむ 投稿日:2011-06-20 16:58:47
6月15日から福島復興活動本部にいる、吉見おさむです。
http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&blockId=9855221&newsMode=article
には瓦職人のニュースが載っています。また、福島にくる途中にも、東北本線が北に向かうに従って、青いビニールシートの数は増えていきます。須賀川や安積永盛の辺りでは、途中から見えただけでも10軒ほど応急修理をした民家があります。
実は私にとっては、これらのことはテレビの中の出来事だったのですが、今となっては他人事ではありません。福島本部の近所にも、青いビニールシートで応急修理をした民家が2軒あるからです。
口幅ったい言い方かとは思いますが、どうか、一度福島を、物見遊山でも冷やかしでも不謹慎でも何でも構いませんので、「その目で見て」下さい。この投稿の続きとして明日にでも投稿したい箇所にもありますが、福島の人たちは「どうやって人を集めたらいいのか」「どうやって人に、特に若い人に戻ってきてもらえばいいのか」悩んでいるからです。
以下にSNSIのMLに以前投稿した内容を貼り付けます。何かを感じていただければ、私にとっては望外の喜びです。
吉見 おさむと申します。
本日より福島復興活動本部の日誌を記録いたします。
宜しくお願いします。
以下が2011年6月15日の日誌です。
朝、プラスチックのゴミと、ペットボトルのゴミが混ざっていたので、一度袋から出して分別しなおしました。
プラスチックのゴミを出しに、検問所そばのゴミ集積所へ行きました。
朝の町の放送があり、最寄の都路行政局は0.53μSvと発表されました。高いところでも1.15μSvでした。
午前9時から午後2時まで椅子と机のホコリ取り、冷蔵庫の上の雑巾掛け、台所の半分を掃除しました。台所は荷物の多さに戸惑って、半分しか掃除できませんでした。
周りを通る車両は「関西電力長浜原発」等と書かれた警察車両が半分を占めていました。先程(午後10時)もパトカーと思われる車両が399号線の方に曲がっていきました。
午後2時にNさんがいらっしゃいました。少しだけお茶を飲んだ後に無線LANの設定をお願いしました。
Nさんの手際は素晴らしく、20分ほどで無線LANが繋がりました。Nさん、有難うございました。
夕食をみやこ旅館で食べました。・・・報告文には余計な記述かとは思いますが、私の思っていたのより素晴らしい旅館と料理で、圧倒されました。
旅館を出ると、周りの家は電気の灯りがついていないのに驚いてしまいました。
吉見 おさむです。
2011年6月16日の日誌です。
朝起きて、燃えるごみをごみ集積場に出しに行きました。
バーベキューセットの後片付けをしました。
駐車場脇のフェンスを一部掃除しました。意外と大変な作業ですが、布団を干せるようになるためにも、小さいスペースだけは早く完了させます。
Sさんに車で渋佐の海岸(原ノ町から東に1キロ)に連れて行って頂きました。制止などはされず、海岸まで行けました。
週刊誌などで現地の写真を見ることは多かったのですが、実際に、堤防が崩れている光景、家のブロック、折れた電柱、大量の石、そしてコンクリートの破片を見て、そしてそれが1キロ以上のを奥の陸地まで続いているのを見て、いまさらですがショックを受けました。
また、ダンプカーと重機で着々と瓦礫が撤去されていました。被害地の重要でないと思われる土地は、電線が切れたままで、まだまだ回復は後回しのようでした。
家が被害を受けたと思われる中年女性が二人来ていました。その家は海の側であり、基礎部分以外は跡形もありませんでした。
今でも漁船が一隻、かなり奥の畑に乗り上げています。
なお、東北や同じ福島の浪江の方がもっとずっと被害が激しいそうです。
瓦礫がかなり撤去された今更になって、ようやく津波の軽い被害を見ることになった私が言えた言葉では無いです。
無いのですが、行ける方は、どうか、一度でもテレビを通してでなく、3Dの自分の眼を通しての映像で、現地をご覧になって下さい。
「見たからといってどうにかなるものではない」と言われてしまえばそれまでかもしれませんが・・・。
吉見 おさむです。
2011年6月17日の日誌です。
ダンボールのゴミ出しをしました。
使い捨ての食器類の片付けをしました。それでスペースが出来て、台所の残り半分も掃除できました。
駐車場脇のフェンスを掃除しました。小雨が降っていて、あまり進みませんでしたが、一人分ならば干すことが可能です。
お昼を食べました。どうしてもジャンクフードが欲しくなったので、カップラーメンを食べました。
高カロリーだからなのか、お茶を大量に飲んだからなのか、午後九時現在もお腹は空いていません。
ペットボトルのラベルとキャップを外す作業をしました。毛虫が5匹いて、刺されそうになりました。
東京よりもゴミ捨ての基準が大変に細かいです。↓の3個のpdfファイルをご覧下さい。
http://www.city.tamura.lg.jp/download/4535/kaniposter.pdf
http://www.city.tamura.lg.jp/download/4535/PDF_kubun50.pdf
http://www.city.tamura.lg.jp/download/4535/23miyakoji.pdf
・・・ただ実際に昨日見た感じでは、余り分別をせずに出している家庭の袋もありました。
2階に掃除機をかけました。ですが、ちょっといい加減にやりすぎたので後日やり直します。
やや疲れが溜まってきた影響かもしれません。
吉見 おさむです。
2011年6月18日の日誌です。
今回は長くなるので、前半と後半にわけています。
以下が前半です。
朝起きてトイレにブラシをかけました。
2階の掃除をやりなおしました。未だ不十分で、少し落ち込んでいます。
12時にKさん、Kさんのお父様、Sさんが事務所にいらっしゃいました。
冷蔵庫に残っているやきそばをKさんが調理されました。美味かったです。
お三方が調査等をされるのに私も同行させてもらいました。
この後、なにからなにまで全て、お世話になりました。
Kさん、Kさんのお父様、有難うございました。Sさんにもよろしくお伝えください。
平伏沼という、山の頂上にある沼に向かいました。モリアオガエルという蛙の産卵地です。
http://www.kawauchimura.jp/seeing/showplace/hebusu.html
後で話を聞くと、蛙ではなく、沼が天然記念物なのだそうです。
途中の民家には人がいないようでした。道中の399号線の途中で木が土砂崩れで倒れていました。川内村の途中は0.45μSvでした。
道中、「飯館村の地表では20から30μSvのところがある」とSさんがおっしゃっていました。
平伏沼の手前180メートルまでは車でいけたのですが、それから後は徒歩で細い道を行きました。ここをSさんが測定したところ、1μSvでした。
「パワースポットのよう」「タイムスリップしたよう」と川原さんが仰っていました。
到着してみると、沼がほとんど干上がっていて、果たしてこれで大丈夫なのか?とその時は思いました。後で出てくる蕎麦屋の職人さんは「大丈夫!」と言っていました。
「うまわるや森の?は阿武隈の沼べ水栖のかげ 草野心平」と彫られた石碑がありました。ここをSさんが測定したところ、0.78μSvでした。
帰る途中で落石がありました。
平伏沼から復興活動本部に戻る途中に、行く途中にあった蕎麦屋さんに寄りましたが、午後一時半で昼は終わりでした。
ですが、蕎麦の職人さんから話を聞けました。
職人さんが次のように言いました。
「モリアオ蛙の産卵は午前三時から四時。石碑のあたりで見つかりやすい」
「一時はこのあたりは30人から50人しかいなかったけど、今は170人に戻ってる。生活が大変だから。でも、子供がいる人は一人もいない」
「電力会社から来てるやつらとか、タイベックス着て走り回りやがる。むかついたので、この前ついに電話してしまった」
「一時支払金が払われた。100万+45万で145万円」
「でも、誰だって、金の問題じゃあ結局ないってどうせいつかはわかる」
「子供がいないから、ここで未来が途切れてしまう。ずっと続いてきた今喋ってるこの方言とかも終わってしまうだろう」
「ここは200円で入浴できるし、5部屋まで泊まることも出来る」
レジに置いてあった「かえるかわうち」というシールをKさんが話題に出すと、職人さんは100枚限定のかわうちむらTシャツを持ってきてくれました。
一枚2500円で、一人2枚ずつ購入しました。
職人さんは、福島復興本部の脇の288号線を通るので、学問道場のことを知っていました。
偶然お店にいた朝日新聞の記者さんに、学問道場とは何か訊かれ、6月4日と5日のチラシを一枚渡すように頼まれました。
正直戸惑い、判断に迷いましたが、何か恥ずかしいことをしているのではないと思い、渡しました。
Kさんのお父様が「20キロの一時帰宅が今日だから、記者がいるんじゃないか」とおっしゃっていました。
前半は以上です。
吉見 理です。
2011年6月18日の日誌です。
今回は長くなるので、前半と後半にわけています。
以下が後半です。
都路へ戻る途中の車内で、どうやってこれから復興しようか、人を呼び戻そうか、という話になりました。
私は大した発想を思い浮かべられず、「娯楽を断てるというのは宣伝にならないだろうか」といった具体性の欠片もない事を言っていました。
大家さんのSaさんの所にご挨拶に行きました。奥様がいらっしゃったので、話を聞けました。
奥様が伝えたところによると、今日の新聞に、30キロ圏内の住民は一人あたり月に10万円、体育館などの避難所にいる住民は更に2万円貰えると書いてあり、「みんな喜んじゃってる」そうです。
期間は6ヶ月で、奥様は「6ヶ月じゃぁね・・・、副島先生は話半分に聞いといたほうがいいって言ってたし」と仰っていました。
一方、Kさんのお父様は、「いや、もらえるものはもらっておくべきだよ」と仰っていました。
奥様にかわうちむらのTシャツを差し上げました。奥様は「川内村は村長が良くて頑張ってる。だからこういうことができる。田村市は寄せ集めだから、そうならない」と仰っていました。
そしてやはり、どうやって復興しようか、人を呼び戻そうか、という話になりました。
Kさんが「川内村は一緒に復興したい位のいい村だ。住んでみたい」と仰ったところ、奥様が「川内は行政区分が違うから無理だよ」と返されました。
Kさんが「防護服を着て盆踊りとかやったらどうか。それを検問所の前でやって、捕まって連れて行かれるとか・・・。それでも、祭りとかでもなんでもやって区切りつけないと、人が戻ってこない」と仰いました。
事務所に一旦帰って、梅干し、梅、梅ジュースを作る作業を、Sさん指導のもとでやりました。
これらは冷蔵庫とコンロの下に置いてあります。
昼に行けなかった蕎麦屋に午後五時半に行きました。
とろろ蕎麦を頂きました。ツユなしで全部食べられる、美味しい蕎麦でした。
入浴料は200円でした。久しぶりに髭剃りが出来たのが嬉しかったです。
午後7時にお別れした後、妙な興奮状態になりました。
「どうやったら、福島に若い人が自発的に戻ってくるか。この事故を奇貨にして、お勉強を必要最小限の労力と時間に抑えて、ゲームでもなんでもやって顔を広くするのと、一旦立ち止まって物事を考える余裕を作る・・・などと叫び出したら俺は気が触れたと思われるだろうか。でも、お勉強して東京の大学に入っても、合う人は合うんだけど、地方の人たちに良いことがあるとは限らない。先日お話したNさんも、私もそうだった。地元の人が大切にされるのは結局地元であることが多い。東京の大学や大企業は結局地方出身者を大事にしない。それはこの東電の事故が一番象徴的・・・。以前の週刊ポストも、『大企業は最近地方の公立高校出身の有名大学を好んでいる。(なぜなら、言うことを聞かせやすいからだ)』と書いていたし。」
などとずっと考えていました。
そうしたら、いつの間にか午後11時を回っていました。慌ててこの文章を書き出しました。
これを書き始めた午前0時位に大きな余震がありました。最近午後10時から午前0時の2時間の間に余震が起きることが多く、少し気になっています。
この余震は、東京で感じていた余震よりずっと大きな、ちゃんと地震といっていいようなものです。震度4くらいありました。
実際、PCの前から全速力で離れて、建物の外に逃げ出しました。
後半は以上です。
2011年6月19日の日誌です。
午前11時前に石井さんがいらっしゃいました。
石井さんの指導で、大家さんが使っていない田んぼにヒマワリの種を蒔きました。
田んぼの近くの食堂にお願いして、水を使わせてもらいました。
食堂の奥様は、郡山に避難されていて、今日は一時帰宅していた、と言っていました。
学問道場の説明を受けて、「よくわからないけど、偉い先生が偉いことをなさってるんだわな」と言っていました。
午前11時半から午後4時半まで、石井さんとヒマワリの種を蒔きましたが、2割終わりませんでした。
明日の朝にその残りをやることになりました。
石井さん、有難うございました。
・・・何かMLの皆様の興味を引けるような話があるとよかったのですが、ただ単に
「スコップで小さな穴を掘る」→「ヒマワリの種を2粒置く」→「やさしめに土を戻す」→「そこにバケツの水を少し撒く」
という作業の繰り返しです。
この作業を同じ体勢で20分ほど繰り返し、バケツの水が無くなったら補給してはまた同じ作業に戻る、ということの繰り返しでした。
石井さんは慣れたもので、適宜休みを取るようにアドバイスを頂きました。・・・仰った通りでした。無理にやっていたら、明日の朝はへばっていると思います。
無理せずに細く長くやるのがこの作業のコツだと思います。
夕食は船引の中華料理屋で食べました。
2011年6月20日の日誌です。
昨晩は、石井さんが泊まっていきました。
私のお酒の弱さが、石井さんとのお酒のお付き合いを充分なものにさせませんでした。
朝7時半〜9時で、ヒマワリの種蒔きの残りを完成させました。
畑仕事をする際には、大変でも埃を余り吸わないようにマスクを着用するのが良いと思います。
・・・昨日の反省です。
畑の地面は約0.70μSvでした。ヒマワリが集積植物としての役割を果たしてくれることを期待しています。
朝ごはんを頂きました。納豆、目玉焼き、白米、海苔でした。
午前11時に石井さんが帰りました。
大家さんに、ヒマワリを植えたことを報告に行きました。
畑に、ヒマワリを植えたという、プラスチックの印を差しておきました。
石井鮮魚店という、肉や野菜なども売っている雑貨店を見つけました。
価格は定価でした。たとえば、牛乳が256円でした。立地を考えれば仕方のないことだと思います。
また、原子力発電所から21キロの所でも、営業は前からしていたそうです。
夕方の村の放送で、都路行政局は0.59μSvでした。
気になって計ったのですが、福島復興本部の建物内は0.29μSvでした。
昼間に288号線を走る普通の車が、突然増えました。警察車両が少しだけ減りました。
夜はランプをつける分だけ警察車両の方が目立っています。
2011年6月21日の日誌です。
朝食は余りの納豆と、「福島県産の」トマトを食べました。福島県産を食べるなんて、と心配されたとしても、食べるしかないのです。
冷蔵庫の上と裏を掃除しました。おそらく10年以上の汚れが溜まった箇所で、かなりの汚れでした。奥まで手が届きませんでした。
駐車場脇のフェンスを掃除しました。まだ不十分です。
珍しいことに、昼頃に品川ナンバーが福島活動本部前をすれ違いました。一台は覆面パトカーでした。
午後2時に立川の事務所のTさんMさんが応援に来てくれました。
福島活動本部2階の、洗面所と、異様な油汚れの所を掃除して貰いました。
特に後者は油ものの調理をしていたのか、物凄い汚れでした。
鉄さびと油汚れの混合物が固まったもの、と言えばわかってもらえると思います。
「削る」→「重曹を撒いてこする」→「お湯をかける」→「雑巾で拭く」
という作業を2回繰り返してやっと、ある程度取れました。
ワイシャツが一枚厳しい状況になりましたが、良い気分でした。
有難うございました。
今は開園中止になっている「ムシムシランド」というテーマパークに行きました。
http://www.mushimushiland.com/
ここの手前の道路は、復旧が遅れても構わないという判断か、被災の跡がまだかなり残っています。
ここは現在、宿泊施設のみの営業となっています。また、受付のおばさんが、被災者の三家族が避難してきている、と説明してくれました。
ここを中心に都路や常葉近辺は回ってきたと聞きました。
このテーマパークもこのまま終わりになってしまうのでしょうか。手入れがされておらず、滑り台に草が生えていました。
いい所なのですが。
ここを離れて288号線に向かっていると、その近くの水田は、田植えがされていました。
288号線に入った後に、外の光景をTさんが見て、「蔵の側面が壊れている・・・」と言っていました。
船引の仮設住宅が建てられた所に行ってみました。
門は一応閉まっていましたが、脇から入れました。
中学生達が元気一杯にテニスをやっていたその脇に、仮設住宅が建っていました。
立て札に書いてあった地図によると、だいたい200室ぐらいの数です。
脇から覗いてみて、2LDK位の間取りだと思いました。防寒の為に2重扉の玄関になっていました。
実は、「どうせ閉まっているだろう」と開けてみたら、どちらの扉も開いていました。流石に中に入るだけの度胸はありませんでした。
正直、プライバシーの関係上、ここに住むのはなかなか辛いと思います。
帰りがけに検問所(外部サイトの画像ですがhttp://livedoor.2.blogimg.jp/mark2mx40/imgs/1/e/1e690e73.jpg)を覗いてみました。
警察官と話していると、前から車が来ました。
「通行許可証があればokなんですか?」とSさんが訊くと「東電の人はokなんですよ」と警察官は応答していました。
つまり、前の車は東電の車なんだと、ボロッと明らかになりました。
夜は、みや古旅館で食べました。
田村市の職員の団体が2階で宴会をやっていたからか、大量の食事が出てきました。
それでも美味しいからか全部食べ切れました。
2011年6月22日の日誌です。
朝6時にプラスチックのゴミだしに行きました。
朝7時に事務所を出発して、皆でいわき市の小名浜港を見て回ることになりました。
最初に春山小学校を車から降りずに覗きました。自衛隊の特殊車両が駐車してありました。
老人達が溜まって生活している様子が見て取れました。
途中の磐越自動車道は、以前と比べて復旧がかなり進んだそうです。
周りの光景は雄大かつ広大なもので、正直、これだけ広ければ原発をやりたくなる気持ちがわかりました。
平地があれば、必ず水田を作っていました。
スパリゾートハワイアンズを車から降りずに見て回りました。
派手に崩れていたらしいのですが、建物にカバーがかけられ、復旧作業の最中でした。途中の道も相当に復旧したそうです。
この近辺では、無理に植えたヤシの木が枯れかけていました。また、がけ崩れや屋根が壊れている家屋がありました。
小名浜港は船が埠頭に戻っていました。以前は船が港に「刺さっていた」そうです。
海辺の倉庫は空になっていました。
港の近くは信号が軒並み故障していました。また、砂が流されたことで地盤が下がった結果、アスファルトが割れて露出していました。
港の側のローソンが開いていました。設備が新品そのもので、大急いで復旧工事をしたものと思われます。
ファミリーマートは閉まっていました。
南相馬市に比べると、被害はかなり軽めに見えました。既に復旧の材料が置いてありました。
とは言うものの、レンガの剥がれ、曲がった手すり、道路の陥没、砂の堆積、芝生に堆積した石は、明らかに津波の被災地のそれでした。
臨海部は工業地域でもあり、一部の工場では白煙が上がっていました。
いわき市では、小学校がやっていました。外で子供達が体育をしていました。
都路もそうなのですが、東京より福島の方が役所や小学校の建物が立派でした。
昼食はサービスエリアで素麺を食べました。
午後2時半に立川事務所組は帰りました。とてもお世話になりました。
村の放送で、都路行政局は0.55μSvでした。だいたいこれくらいの放射線量です。
夕食はラーメンにワカメを突っ込んで食べました。
2011年6月23日の日誌です。
掃除機をかけました。かなり広いですので、もう暫く時間がかかります。
警察車両が検問所の方に5台連なって走っていきました。その後ろに6台連なっていた民間車はすべて、399号線を右折しました。
駐車場に2人組が来ていました。挨拶する前に帰ってしまったのですが、駐車場に立っている電柱の写真を撮るなどしていたので、また、服装が2人とも同じ作業着だったので、どこかの電力会社の人間かもしれません。
ブラインドの使い方を調べました。http://www.yuusai.co.jp/blind/toso/sousa.htmlの一番上にあるマルチポール式というものでした。
最初から下げられるだけ下げてありました。また、下げるのが大変に面倒くさいです。
Iさんに教えてもらった、いがらし商店に行きました。みや古旅館から寺に渡る道を、もう少し奥にいった所にあります。
雑貨類と食品類が、僅かですが置いてあります。
物によってはスーパーの2倍と、かなり割高ですが、いがらし商店と石井鮮魚店で、大体のものは揃えられます。
村の放送があり、6月21日にあった水道水の水質検査の結果が報告されました。放射性のヨウ素、セシウム、ともに検出されなかったそうです。
夜は残っている焼きそばにタマネギ、人参、もやしを入れて食べました。まだまだ焼きそばは残っています。
2011年6月24日の日誌です。
駐車場のフェンスを掃除しました。
午前中から午後2時まで一番大きい部屋に掃除機をかけました。細かいところが出来ていないので、明日やります。
かけた後に、虫、クワガタムシ、蛙が入ってくるので、疲労感を感じました。
この一番大きい部屋は、スーパー展示用の大型冷蔵庫と大型冷凍庫が動いている関係で、冷房をつけなくてもやや涼しめです。
Hさんが来ました。一緒に神田の湯と船引の中華料理屋に行きました。大変お世話になりました。
有難うございました。
2011年6月25日の日誌です。
一番大きい部屋にずっと掃除機をかけました。
村の放送があり、今日も水道水の水質検査の結果が報告されました。放射性のヨウ素、セシウム、ともに検出されなかったそうです。
横浜から来た車に道を聞かれました。飯館村に向かうと言っていました。学問道場という看板を見て、いったい何事かと思っていたそうです。
観光用バスが2台通りました。私が見た限りでは初めてです。
余震が夜から今まで3回ありました。この建物は一階でもかなり揺れるので怖いです。
2011年6月26日の日誌です。
今日は雨の影響もあり、気温の日較差を体感する一日でした。
体温調節のために、家から持ってきた薄がけの布団を利用しています。
午前7時半にYさんと男性一人が来ました。小さなテレビを持ってきてくれました。
午前8時半に古道小学校前に集合されるというので、2人はすぐに車に乗りました。お茶も出せませんでした。
正午に会員のNさんが、いわき市から来ました。いわき市で会社を経営しているそうです。そして地震の影響は大きいそうです。
松原照子のサイト、幸福への近道(http://shohweb.com/)について言及し、「6月25日の『デビル』とはガイトナーのことではないか」と言っていました。
午後3時に会員のIさんたち4人が来ました。
Iさん達は気を使ってはいたのですが、それでも作業用靴についた土がカーペットに入ってきてしまいました。
帰った後の土の掃除に手間取りました。それでもここに来て貰えて有難かったです。
今日はずっと警視庁のパトカーが行きかっていました。
午後7時にKさんの知り合いというYさんご夫妻が来ました。浪江町への一時帰宅の人で、会員ではないと言っていました。
「よくわからないけど、とりあえず場所を確認しに来てみたんですが・・・」と言っていました。
学問道場の説明をしてみましたが、わかってもらえたかどうか微妙なところです。
頂いたラスクは先生がとても気に入っていました。
福島復興本部を訪れた人たちと、共通して話題になったのは、「福島の大きな地図と原発からの距離」、「防護服」、「武田邦彦とのケンカ対談」、「検問所」でした。
2011年6月27日の日誌です。
朝起きて、燃えるごみを捨てに行きました。検問所がゴミ捨て場前まで来ていました。
「ゴミ捨てですか?」と声をかけられました。
午後は、船引までの23キロを自転車で行ってみました。大変ですが、雨でもなんとか往復可能です。
但し、片道2時間かかること、高低差が大きいこと、288号線には信号が殆ど無いので休憩が取れないこと、等を考えると、余り良い移動手段ではありません。
途中に郵便局が2つありました。都路もそうなのですが、住民が避難していても、郵便局はやっています。
郵便局は、こんなとき「だからこそ」やっているのかもしれないと思いました。
帰りは福島交通の路線バスと同じ経路(http://www.fukushima-koutu.co.jp/bus/map/03ono_02.html)で、旧街道を帰ってみました。
高低差は小さいのですが、人気の少ない怖い道でした。普通に288号線を直進した方がよかったです。
午後9時に、水道が止まっているのに気付きました。
明日、急いで問い合わせます。
2011年6月28日の日誌です。
今日は、夜が18度、昼が32度でした。体温調節が難しいです。
水道はとりあえず復旧しました。明日、都路行政局へ行って説明を受けます。
掃除機を少しだけかけました。
布団を干そうと思ったのですが、突然雨が降ることが多く、断念しました。
外のトイレにブラシをかけました。トイレの便器自体はまだです。
午後4時半に、副島先生とTさんが着ました。
Tさんが無線LANの設定を訂正してくれました。ダイヤルアップ無しで自動的にネットに繋がるようになりました。
その他、先生の原稿へのペン入れを、画像データにして出版社に送信してもらいました。
有難うございました。
船引に、買出しと食事に行きました。
スーパーで食料を積み込んだ後、扇風機と洗濯機を購入しました。
洗濯機の到着は少し遅れます。
食事はかっぱ寿司で食べました。3人で3255円でした。
Iさんと行った時のように、満員で待ち時間がかかるほどではありませんでした。
それでも普通に家族連れで賑わっていました。
2011年6月29日の日誌です。
昨晩、音楽をかなりの音量でかけた車が、復興本部後ろの路肩にしばらく停まっていました。
朝起きて、プラスチックのゴミ出しに行きました。
「燃えるゴミの袋で燃えないゴミを出している家庭がある」
「プラスチックとペットボトルの分類が全くされていない」
「月一回のみ回収の缶類が一週間前からずっと置いてある」
など、結構いい加減なゴミ捨て場になっています。
避難者の一時帰宅などを考えると、これも止むを得ないのかもしれません。
ご飯を炊き、味噌汁を作りました。
Kさんが事務所に来ました。
冷蔵庫にあった納豆で朝食を食べました。
Kさんの車で大家さんの家に行きました。既にKさんのお父様がいました。
大家さんの家の犬二匹を、犬の運動も兼ねて、事務所まで連れて歩きました。
大人しい素敵な犬でした。
KさんとKさんのお父様は、事務所に一回戻ってお茶を飲んだ後、午後1時半に帰りました。
午後2時に都路行政局に水道の手続きに行きました。
担当した職員によると、学問道場は、塾かヤクザかと思っていたそうです。
Suさんが事務所に到着しました。
一緒に大家さんに犬を返しにいきました。
副島先生が、お手洗いへの案内の張り紙を作りました。妙に味があって良い感じです。
夕食は、余っていたご飯と味噌汁、麻婆豆腐でした。
夕食を食べていると、午後7時にSさんが事務所に来ました。
昨日の日誌の続きになりますが、現金を隠していた町長はさらにもう一つ金庫を持っており、そちらは見つかっていないそうです。
悪酔いするビールを、雰囲気のままに大量に飲むことになってしまいました。大失敗でした。
Sさんが帰った後、悪酔いした勢いのまま、冷凍庫を止めました。
後部の上にある冷凍庫のコンセントを外したら、止まりました。
・・・酔ったままではかなり危険な作業だったと、今はカッとなってやったことを反省しています。
ただ、暫く続いていた懸案が解決して、嬉しかったです。
酔った勢いのまま、かなり生意気な口を色々な人にきいていたような覚えがあります。
顔から火が出そうです。
さらに酔った勢いのまま、日本に留学中の中国人で、一番の友人を、福島復興活動本部に一回来るようにチャットで誘いました。
ほぼ二つ返事でOKでした。寧ろ、福島に行ってみたいと言っていました。とても堂々とした態度の取り方で、羨ましく思いました。
彼は7月9日か10日に来る予定です。
クワガタムシを見かけました。これで室内で見るのは6匹目です。
ガスが止まっているようです。明日対処します。
2011年6月30日の日誌です。
朝、燃えるごみのゴミ出しをしました。
検問所は再び後ろに下がっていました。大分県警や神奈川県警など、地方ごとによって考え方が違うのかもしれません。
他の家庭のごみを見ていて、
「燃えるごみとプラスチックごみは、厳密に分別しなくていい」
「事務所でたまりやすい、缶・ペットボトルごみは、第一金曜日以外に出されたものも意外と収集されている」
のだとわかりました。個人的には役立つ知識です。使わずに済ませたいですが。
ご飯を炊いて、トマト、もやしとチンゲンサイを炒めたもの、揚げ出し豆腐、野菜ジュースで朝食にしました。
ガスについて電話しました。午後3時に交換に来ました。
学問道場について、何をやるのか尋ねられました。
明日、集金に来るといわれました。
外の草抜きをしました。燃えるごみ一袋ぶんになりました。
都路に人が戻ってきました。床屋が2軒あるのですが、どちらも店が開いていました。
その他にも人がいる民家が多くなりました。
ただし、子供の姿はありません。
昼の放送で、都路行政局は0.43μSvでした。以前より0.1μSvほど低くなっています。
今日再び都路行政局の建物に入ったのですが、ペットボトルの飲料水など、避難時のものと思われる物資が山積みになっていました。
夕食は余っている焼きそばにしました。遂に、焼きそばの余りを、二人前にまで漕ぎ付けました。
2週間の間に一人で11人前食べたことで、流石に飽きてしまいました。
5日ぶりのシャワーのために、みや古旅館に行きました。
帰り道の民家に4軒、灯がついていました。なぜだかわからないのですが、安心しました。
2階に掃除機を軽くかけました。
2011年7月1日の日誌です。
ペットボトルのごみを3袋、缶のごみを4袋、ごみ捨てに行きました。
事務所開きの時以来一ヶ月間置いておくしかなかったものなので、捨てられてほっとしました。
朝食をとりました。ご飯、納豆、ネギ、漬物でいただきました。
今朝は検問所の方に直進する車がとても多かったです。
立派な車が一台、乗用車が2台で、あとはバンとワゴン車でした。
その後2時間経ったのですが、やたら警察の車両と護送車が多いです。
10時半に古道公民館に置いてあったバスが検問所に向かったので、一時帰宅のバスなのだと思います。
気になったので、11時半に古道体育館に行ってみました。大熊町へのバスが8台並んでいました。
体育館内では、ずっとマイクで説明がされていました。
東京電力の作業着を着た人が5人、県や市の職員と思われる人が10人、館外にいました。
中にも入ってみたかったのですが、声をかけられたので断念して、地元の者だと言って帰りました。
電気料金を支払いにいきました。郵便局が500メートル先にあって本当によかったです。
郵便局に行く途中で、大熊町へのバスとすれ違いました。
運転手も含めて、乗っている人は細菌防護服(http://item.rakuten.co.jp/shoei-masuku/10000275/)に見えるものを着ていました。
果たしてあれで放射性物質に効果があるのでしょうか。
帰宅者を「もう家には帰れないぞ」と覚悟させるために着せる、仰々しいコスプレに見えました。
ガスの集金が来ました。
冷蔵庫の左側半分が止まっていました。コンセントを入れなおしたら、なぜか直りました。
おそらくコンセントの接触不良だと思います。
2時に昼食をとりました。
焼きそばの残り、茄子と油揚げを炒めたもの、を頂きました。
不味かったです。どうして私はこんなに料理が下手なんでしょうか。
眠くなって一時間弱の仮眠を机の上で取りました。
午後5時半、観光バスで288号線を大熊町の人たちが帰っていきました。
午後6時には福島県庁行きのバスが2台通りました。
午後8時に、全く掃除をしていないことに気付き、あわてて、冷蔵庫裏、冷蔵庫裏の上、大広間の半分、奥の部屋に掃除機をかけました。
掃除機自体に大量の虫の遺体、埃、小石が溜まっていました。
2011年7月2日の日誌です。
朝8時に起きたら、福島交通の観光用バスが、おそらく古道体育館に行きました。
12時にいってみると、今日も大熊町への一時帰宅がされていました。
古道小学校と都路行政局は車で一杯でした。
朝食は昨日の夕食の残りを食べました。
布団を2個干しました。フェンスまで持っていくのが大変でした。
駐車場の草取りをしました。時間をかけたのに、ごみ袋の半分にもなりませんでした。
アスファルトの隙間から生えているので、手強かったです。もう一度やり直します。
洗濯のついでに、もってきたバリカンで頭を丸坊主にしました。
その後にホースで水浴びをして、体を石鹸で洗ってみました。
室内は35℃なのに、体が冷え切りました。
明日は会員のNさんが来るので髭をそりたかったのですが、断念しました。
布団を干す際に邪魔になっていた、小さな崖側の雑草を、邪魔にならない程度に刈り取りました。
雑草というよりは、木に近いようなしっかりした根のものが大きかったです。
汗だくになって、水浴びをした意味がなくなってしまいました。
ただ、体は温かくなりました。正直、体を温めるのが目的だったはずなのに、どうしてこうなった、という感じです・・・。
詳しい方ならば「草刈り機を使ってしまえば何の手間も無いのに」と言われるのでしょうが、鍬一つでやるのは結構大変でした。
裏の出口から割りと近いところに、見た目は地味ですが、ゴム手袋を貫通する棘が危険で、且つ、水道管などが入り組んでいて、除去できていない草があります。
できるだけ除去しましたが、一部残ってしまっています。
夕食「も」、昨日の夕食の残りを食べました。
以前に冷蔵庫の接触の不具合があるかもしれないと書きました。
ですが、二日ほど観察した感じでは、冷やし過ぎを防止するために自動停止する機能が、左側に働いているのかもしれません。
少し様子を見てみます。
ここに書くのが適切なのかわかりませんが・・・、7月3日に福島事務所までお越し頂いた皆様方、有難うございました。本当は皆様それぞれにメールを差し上げるのが筋かとは思いましたが、連絡先がわかりませんでしたので、こちらで失礼します。
いわき市からお越しになられたN様、お茶がぬるかったと思います。どうかご寛恕下さい・・・。若輩者の私にお付き合いいただきまして有難うございました。
I様達4名様、防護服やガイガーカウンターくらいしかお見せできませんでしたが、ご満足頂けましたでしょうか。「応援してます」という言葉を下さいまして、本当に嬉しかったです。
「会員ではないけれど・・・」と仰っておられたY様ご夫妻、頂いたラスクは先生がとても喜んでいました。「頑張れ」などと軽々しく私が申し上げられる状況ではないと思いますので、どうかせめて、ご自愛ください。
[617]福島本部活動日誌です6 投稿者:吉見おさむ 投稿日:2011-06-30 11:53:24
福島本部活動日誌です。今後、この名前で統一します。
正直、これをここに書いていいのか、今でも躊躇しています。それでも、暴き系の端くれとして、知ったことは書かざるを得ない、そう思います。
「この町長なんて単なる可愛い笑い話じゃないか!本当にこの場合悪いのは、贈った側と見て見ぬ振りした税務署、警察じゃないか。それで贈った側は誰だよ!こっちが国家暴力団じゃないか!裏は本当きったないんだよこいつら!」
と、副島先生はしみじみ語っていました。
2011年6月28日の日誌にひとつ追加します。
今でも内網とはいえ、これを書いていいのかわかりません。
かっぱ寿司で食べている時に先生から教えてもらいました。
津波で家が丸ごと流されたある町長は、流された後の家から5億円見つかったそうです。
警官がその場で確認の為に、金庫開けろ、と言ったことから明らかになったそうです。
そして何より、このことは福島民報には載っていないそうです。
町民も隠すはずです。
帰りの車で先生が「法律やる人間は皆知ってるんだが、騒ぐ人がいなければ犯罪にはならない」と言っていました。
万一誰かが義憤に駆られたとします。
一体どうやって封鎖された20キロ圏内の証拠を集めればいいのでしょうか。
また、何処の誰に話を持っていけばいいのでしょうか。税務署やその場にいた警察官でしょうか。
昨日の話から、原発をやりたくなる気持ちが本当によくわかりました。
今からでも酒かっくらって不貞寝したいです。
以上、吉見君の日誌より。
吉見君、ソエジは自分のことを人になすりつけて悪口言うのが得意なんだよ。
>裏は本当きったないんだよこいつら!」と、副島先生はしみじみ語っていました。
裏は本当きったないガダラの豚たちから、今すぐ逃げろ、吉見君!!!
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。