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‐海軍士官クラブ水交社とメソニックロッのバトル‐
青木富貴子著 新潮社刊
「『パケナム日記』が語る日本占領」より抜粋
二〇〇七年のある日、わたしはワシントンのある場所で、
この英国特派員パケナムの当時の日記を発見したのである。
わたしを待っていたように手もとへ転がり込んできた日記は、
パケナム手書きの英文日記だった。
そこには、報道関係者の目の届かないところで、
追放中の鳩山を大統領の特使ダレスに会わせる手配のことや、
当日の様子が克明に記されてあるばかりでなく、
その後、音羽の鳩山邸に通った日々がこまかく描写されていた。
几帳面な手書きの日記には、占領時代の特派員生活が
デテイールにいたるまでつづられてあるばかりでなく、
パケナムの人脈が新旧体制の指導部にも、
米国や占領下のGHQ高官のあいだにもどれほど広がっていたか、
そこに居並ぶ姓名をみるだけで頷ける。
吉田茂、白洲次郎、樺山愛輔、野村吉三郎、重光葵(まもる)、
楢橋渡、大来佐武郎(おおきたさぶろう)など当時の日本の指導層や
ジョセフ・グルー、チャールズ・ウイロビー、ジョセフ・キーナン、
ウイリアム・シーボルト、ジョン・アリスンなどアメリカ人高官の名前が
いたるところに飛び出す。
なかでも、宮内府(一九四七年五月、宮内省から宮内府に改称)式部官長、
松平康昌(やすまさ)の名前は頻繁に登場し、松平とパケナムの親交がこと細かに記されてある。
松平康昌とは、幕末の英君といわれた越前・松平春嶽の直系の孫。京都帝大を出ると、妻の徳川家達の次女綾子を連れて英国へ留学、昭和のはじめには宮内省ははいり、戦
時中は内大臣秘書官長をつとめた。昭和天皇はこの占領期に、独自外交を積極的に展開していた。手足となって動き回れる人物が必要であり、なかでも天皇の信頼があつかったのがこの松平である。それだけにこの日記にある松平とパケナムの親交は、昭和天皇がしかけた独自外交を知る大きな手がかりになる。
『先週の水曜日、松平とふたりだけの夕食。松平が緊急の助言を求めてきた。リビスト大佐(GHQモニュメント部門)が天皇をフリーメーソンの会員にするようにといって、松平をおいかけているのである。リビストは明らかに日本のフリーメーソンのトップである』
『少し前、占領軍は日本政府へ、ロシア大使館ちかくの大きな白い建物、あの米海軍クラブではなく、旧日本海軍の水交社を返還すると通告した。しかし、水交社が宿舎としてあつかわれなくなっても返還せず、そのかわり、占領軍のメーソンがここに移動していたのである』
註 『』内はパケナムの日記の記述
実際、占領軍に接収されたあと、日本政府へ返還されるはずだった旧日本海軍の士官クラブ水交社は、フリーメーソンによって占拠され、入り口には「メソニック・ビル」の表示が掲げられた。この年の六月三日には優先的に最低価格の八〇〇〇万円で東京メソニックロッジ協会に売却された。八月には所有権取得登記が行われて、屋上にコンパスと直角定規の大きなシンボルマークが掲げられた時期もあった。
しかし、一九五二(昭和二七)年には、旧海軍士官が集まって「水交会」を発足させ、メソニックロッジ協会への売却は国際法違反であるといって、資産取り戻し訴訟を起こした。以来、一四年後にようやくフリーメーソン側が金一〇〇〇万円を支払うということで和解に持ち込まれ、水交社跡地はフリーメーソンのものになったのである。
『いまや、宮内庁に丁重に扱われながらも相手にされなかったリビスト大佐は、マッカーサーのもう一人の副官であるシド・ハフへ、天皇への謁見のために圧力をかけてくれるようにたのんだ。宮内庁はすばやくこの要求をかわした。軍務にはついているが地位を与えられていない士官には、謁見が許されないという不文律があるためである』
『リビストはマニラへ行き(以下、聞いた話だが)フリーメーソンの大物にメーソンの支部と管轄を日本に拡大するよう求めた。ところが、彼らはリビストにすごい剣幕でくってかかった。』
戦後、はじめてフリーメーソンのロッジ(支部)が開かれたのは連合国軍の横須賀基地であった。基地司令官のベントン・デッカー大佐はカリフォルニア所属のフリーメーソン会員であったため「グランド・ロッジ・オブ・カリフォルニア」へロッジの新規開発を申請したところ、米国外のロッジ開設は認めないという回答を受け取った。
そこで、デッカー大佐はマニラにある「グランド・ロッジ・オブ・フィリピン」へ開設を申請、正式な認証を得て、「横浜海軍ロッジNo.120」を開いた。つづいて横浜でもフィリピンのロッジから特許状を交付してもらい「極東ロッジNo.124」を開設していた。
東京のロッジ開設に当たって、リビスト大佐もマニラまで足を運び、フィリピンのグランド・ロッジ開設を申請したが、戦争中、日本軍に占領され、苦汁をなめたフィリピン人の対日感情はとても悪く、東京のロッジ開設によい顔をしなかった。
『そこでリビストは「メーソン支部設立許可状をくれれば、天皇を入会させ、天皇が入会する儀式に立ち会わせよう」といいなはった。それはフィリピンのメーソンには断りがたい話だった。こういうわけで東京に支部が設置され、選ばれた日本人が入会させられた。松平は「リビストは日本にもどると再び謁見を要求しだした。もちろん、マッカーサーもメーソン(?)であることだし、こうしたプレッシャーのもとで彼が天皇に愛に来るのを妨げることはできないが、天皇が入会するのは無理だろう」と言った。』
マッカーサーがフリーメーソンであるかどうか、パケナムには確信がなかったとみえてカッコ内に疑問符をつけているが、マッカーサーは最高位である三三位階のフリーメーソンだった。マニラで入会している。さらに、マッカーサーの父であるアーサー・マッカーサー二世もメーソンの会員だった。日記はつづく。
『私は、人柄がよく好かれているばかりでなく、チャーミングでグルメでもある教皇使節マキシミリアン・フルステンベルク大司教に相談してみたかとたずねたところ、松平は不愉快そうに失笑するだけだった。小柄な秩父宮が口をはさんだところによると、英国では王侯がグランド・マスターになるほどフリーメーソンは尊敬されるのにたいし、アメリカにおけるメーソンは、もっと民主的だったり、アルコール依存だったり、好色だったり、セレブだったりするそうだ。もちろん、聞いた話の9割はきわどくて使えないが、天皇を入会させようとしていることは書いてもよいのではないか。ただし、日本人のなかでこれを知っている、あるいは知る立場にあるのは松平と田島(宮内庁のトップであり、私の友人でもある初代宮内庁長官の田島道治)だけだ』
フリーメーソンについては煽動的なものから学術的なものまで、さまざまな本が出版されていて、なかには天皇のフリーメーソン加入についてふれている本もある。リビスト大佐の名前が出てくる書物もあるが、リビスト大佐からさんざん突き上げられた宮内庁の苦悩などは外部にもれるはずもなかった。パケナム日記の面白さというのは思わぬ占領期のこんな逸話が姿をあらわすところであるが、一方で、これが伝聞であるだけに、できることなら、事実の確認を取らなくてはならない。
日本グランドロッジが一九六六年に出した『メーソンリー・イン・ジャパン はじめの100年一八六六年から一九六六年』という英文のぶあつい本がある。これはメーソン日本開設一〇〇年を祝って会員だけに頒布された私家版で、メーソン関係の資料室へ行かないと手に取ることができない。ところが、数年前、幸運なことにわたしは売り出された一冊を古書店で入することができた。
この本には、マッカーサーがメーソンの会合で行った講演録ものっているし、マイケル・A・リビストについても何ヵ所にもわたって彼の功績が記されている。軍服姿のリビストの写真も見ることができる。この本によると、はじめて日本に来たフリーメーソンの会員は日本の門戸開放を要求したコモドア・ペリー提督である。その後、組織としてのフリーメーソンを日本にはめて持ち込んだのは、大英帝国であった。
「七つの海に日の沈むことなし」といわれ世界中に植民地を持っていた大英帝国の英国軍のなかには「ミリタリーロッジ」といって、正規軍のなかにフリーメーソンとして活動する部隊があった。一八六四年、英国は自国民保護のため「横浜居留地」に歩兵第二十連隊を駐屯させたが、この部隊がアイルランド系の認証状をもった「スフィンクス・ロッジNo.263」だったのである。
「スフィンクス・ロッジ」は横浜で日本初のロッジ集会を開催したが、しばらくして香港に移動になったため、地元横浜でこのロッジ集会に入会したものが一八六六年、「横浜ロッジNo.1092」を開き、横浜居留地大通り七二番地で集会を開いた。一八六八年、二番目のロッジとして登場したのが「オテントサマ・ロッジNo.1263」である。
三番目のロッジは神戸に開かれたスコットランド系「兵庫・大阪ロッジNo.498」であった。日本各地に広がったこれらのロッジはすべて外国人による外国人だけのフリーメーソンであった。日本人が会員として迎えられるようになったのは八十年以上たった第二次世界大戦後のこと。天皇の加入が求められたのはこのときのことである。
同著には、一九四九年、フィリピンのグランドマスターが来日したときの報告もある。グランドマスターは、既に開かれていた横須賀と横浜のロッジを視察したのち、東京でも大歓迎をうけ、それまでリビスト大佐が交渉していた「東京メソニックロッジ」の開設が決まったと記されてある。「われわれは東京で、親愛なる同士マッカーサー元帥の歓迎を受けることができた。貴重な時間を割いてくれた元帥は、日本中にフリーメーソンの信条がひろまり、それによって日本人の考え方が新しくなる必要性をといたのである」とフィリピン・グランドマスターの言葉が記されている。
マッカーサーが厚木に降り立った日から、それまで禁止されていたフリーメーソン活動の再開を推進し、各地のロッジ開設を進め、日本人のあいだにもフリーメーソンの活動が広まることをのぞんだ。彼がリビストを後押しして「東京メソニックロッジ」を開設させると、日本人の入会をすすめた。
同書によると「前首相の東久邇宮(天皇の叔父)が友愛組織の真の重要性を学ぶために、フリーメーソンの忠実な奉仕者となることを表明した。彼はほかの日本人希望者とともに加入申請書を提出したはじめての日本人になったのである。
その後、加入申請書を出して認められた日本人の入会式が一九五〇年一月五日にひらかれた。メンバーになったのは、佐藤尚武(参議院議長)、高橋龍太郎(参議院議員)、上原悦二郎(元国務大臣)、三島通陽(参議院議員・日本ボーイスカウト総長)、芝均平(ジャパン・タイムズ編集長)、村山有(ジャパン・タイムズ社会部長)など。
フリーメーソンがはじめて日本にも門戸を開いたことはニュースとして各紙で報道され、朝日新聞(一月八日付)は新会員のほかに入会を申し込んでいる日本人が二十数名あると伝えている。「メーソンリー・イン・ジャパン」には翌年の「一九五一年の報告」のなかに、天皇の入会について次のように記されている。
「エンペラー・ヒロヒトは、興味をもたれ、三三階位の同志マイケル・A・リビストに皇居へきて、フリーメーソンについて説明をするようにもとめたが、残念なことに、同志リビストが評判を落としたため、招待を辞退した」
これはなんとGHQ外交局長のウイリアム・シーボルトが書いたものである。シーボルトはこの先、とくに講和条約の締結に至るまで、重要な働きをする外交官である。私は彼もまたフリーメーソンだったとは知らなかっただけに、この記述にはおどろいた。そのシーボルトが、天皇の方からリビストを皇居に招いたが、リビストが辞退したと書いているのである。パケナム日記の内容とはまったく正反対ではないか。
ちなみに、フリーメーソンであった占領軍高官のなかには、チャールズ・ウイロビー少将や第八軍司令官のロバート・アイケルバーガー、マッカーサーの後任として第二代連合国軍最高司令官になるマシュー・リッジウエイ大将など多数が名前をつらねている。
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