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2002年08月09日
イエズス会が『変』に関与した理由と根拠(EJ922号)
イエズス会というのは、世界最大のカトリック修道会の1つで
す。1540年にスペイン人のイグナチオ・ロヨラによって設立
されたのですが、日本にはフランシスコ・ザビエルが1549年
に鹿児島に来ています。当時信長は15歳で、結婚したばかりで
あったのです。
1557年になってマカオがポルトガル領になると、キリスト
教の布教のために多くの宣教師たちが日本にやってくるようにな
ります。彼らは時の権力者に近づき、火薬を武器にして布教の協
力を取り付けることを常套手段としていたようです。
当時の戦いはすでに刀や槍の時代ではなく、鉄砲の数が勝敗を
決めるようになりつつあったのです。その鉄砲にとって不可欠な
火薬をポルトガルの宣教師たちは握っていたのです。日本製の火
薬は質がわるく使い物にならなかったからです。
永禄12年(1569年)の頃、信長とイエズス会とはかなり
仲が良かったのです。天正9年には、イエズス会の巡察師ヴァリ
ニャーノに京で馬揃えを見せたり、彼らが帰国するときは安土城
の天守閣を提灯でライトアップさせて送別会をやったりと、信長
は一貫して宣教師を保護し、理解し、優遇したのです。
イエズス会の方も信長には、鉄砲の技術を教え、貿易で莫大な
利益を与え、宣教師たちが集めた海外情報をふんだんに信長に提
供していたのです。信長軍が当時の戦いに強かったのは、イエズ
ス会の強力な協力があったからといって過言ではないのです。
イエズス会の協力を得て信長は着々と全国制覇事業を進め、遂
に彼らの情報によって、鉄甲船まで作り上げてしまったのです。
当時日本に来ていた宣教師はルイス・フロイスといい、彼はあと
で日本史を書いているのですが、この本は外国人から見た当時の
日本を知るうえでとても興味深いものです。
しかし、信長はこの頃からイエズス会のいうことを聞かなくな
ります。これが本能寺の変の1ヶ月くらい前からかなり露骨にな
るのです。天正10年5月には総見寺を建てて一般公開し、そこ
に信長自身であるという白目石を祀って参拝するよう命じたので
す。これには、イエズス会は態度を硬化させてしまいます。
それは、「天に2つの神なく、地に2つの神なし」とするキリ
スト教に対する挑戦であり、神を冒涜する行為である――きっと
イエズス会はそう考えたのだと思います。それにフロイスらの宣
教師たちは、信長が近くマカオを攻めて火薬の原料である硝石を
押さえるのではないかという情報をキリシタン大名などを通じて
収集していたといわれます。
5月29日になると、信長は本能寺に入るのですが、ちょうど
その頃大阪の住吉の浦の沖合に7隻の鉄甲艦と夥しい軍用船が集
結しつつあったのです。前にも述べたように、信長は少人数であ
らわれると、2〜3日中に黒山のような軍勢を作って、どこかの
戦場に出陣することを宣教師たちは知っていたので、にわかに緊
張します。
というのは、信長のイエズス会に対する態度の急変、夥しい戦
艦の集結、そして黒山のような軍勢――イエズス会の宣教師たち
が、これを「マカオへの出陣」と考えても不思議はない――と例
の八切止夫氏はいっているのです。もちろん、これは四国平定の
ための中国地方出陣の軍勢集結であったのですが、宣教師たちが
勘違いしても不思議はないと思います。
そうなると、6月2日早朝の本能寺の爆発と見られる出火の謎
が少し解けてきます。八切氏がいう「本能寺の出火は、どこかの
キリシタン大名からの鉄砲攻撃によって、地下の火薬庫が爆発し
たもの」という説もあながち荒唐無稽な説ともいい切れなくなっ
てきます。
立花京子氏は、イエズス会が本能寺の変に少なからず関与して
いたとし、その証拠の1つとして、本能寺の変の4ヶ月ほど後の
天正10年10月(日本暦)に、フロイスがイエズス会総会長に
宛てた手紙(報告書)を上げています。
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(フロイスは信長が総見寺で自分を祀り、大勢の人が参拝し
いることを述べたあとで・・・・・)
信長がかくのごとく驕慢となり、世界の創造主であるデウ
スのみに帰すべきものを奪はんとしたため、デウスはかくの
如く大衆の集まるを見て得たる歓喜を長く享楽させ給わず、
安土山においてこの祭りを行った後19日を経て、その体は
塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄に葬られたこ
とはつぎに述ぶるであろう――ルイス・フロイス記
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これはまるで犯行声明そのものではないでしょうか。立花氏は
次のように述べています。
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フロイスが何を言ったかというと、デウスのおかげで信長
は全国制覇をここまで遂げられたのに、自分の力だと錯覚し
て驕慢になった。だからデウスは、信長が自分を拝ませるよ
うになって、命を19日しか与えなかったと記しています。
ということは、フロイスはこの「変」はイエズス会が関与し
ていたと言っているに等しい。
――立花京子 『真説/本能寺の変』(集英社刊)より。
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このことに加えて、立花氏は、細川藤孝の妻はキリシタンであ
り、藤孝自身もそうであったのではないかという事実を指摘して
おり、藤孝自身は朝廷に加えてイエズス会にも働きかける立場に
あったことを述べています。
このように考えると、信長を取り巻くかなり多くの者が信長に
消えてもらいたいと願っていたことになります。
2週間にわたって「本能寺の変」を取り上げてきましたが、あ
とひとつどうしても取りあけたい話があります。したがって、次
回を最終回とします。
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