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全日本同和会(Wikipedia):大阪維新の背景がよく分からないので、調べてみました。
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/833.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2012 年 9 月 15 日 08:30:02: 8rnauVNerwl2s
 

日本維新の背景がよく分からないので、調べてみました・・・


WIKIPEDIAから
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%90%8C%E5%92%8C%E4%BC%9A


全日本同和会(ぜんにほんどうわかい)とは、かつて自民党と連帯していた保守系の同和団体。略称、同和会。全国本部は東京都千代田区永田町2丁目17番地10号に存在する。

概要 [編集]

1951年11月、近畿・中国・四国・九州などの地方公共団体の同和対策関係職員を中心に全日本同和対策協議会が誕生。以後数年間、全日本同和対策協議会は部落解放同盟(略称、解放同盟、同盟)と手を結び、政府に対して同和対策の積極的実施を要請していたが、やがて指導理念の相違から決裂。全日本同和会は、その全日本同和対策協議会の後身として1960年5月に生まれた。

歴史的には解放同盟に次いで古い全国的組織であり、1960年設置の同和対策審議会や1966年設置の同和対策協議会には同盟と共に委員を送るなど、保守系の同和団体として自民党の支持を背景に勢力を伸ばした。公称の組織人員は日本最大を誇り、全国大会などには多くの自民党国会議員や秘書が列席する隆盛ぶりだった。

しかし第19回全国大会で松尾正信を筆頭とする「暴力・利権派」が主導権を握ってから、急速に不法行為が増加[1]。1981年には、松尾会長や大園英彦相談役が部落解放同盟福岡県連合会と共に起こした北九州土地転がし事件が発覚。1983年頃から松尾会長の独裁体制に対して不満が高まり、さらに各地で同和会幹部が利権あさりで逮捕されるなど不祥事が続発(後述)したため組織内部に亀裂が生じ、1986年7月20日、同和会から全国自由同和会(略称、自由同和会、全自同)が分裂。これに伴って同和会は、国や地域改善対策協議会の対応団体から外されると共に、自民党からも連帯関係を全自同に移されたが、自民党タカ派の一部との結合は保たれた。1987年5月の段階では、登録員約35万人、43都道府県に支部を持っていた。

糾弾に関しては、国民に恐怖感を与え、差別意識を温存させるものとしてこれを否定。対話と協調により国民の理解と合意を得ることを謳っている。現在の全国会長・松尾信悟は松尾正信の息子。


主な不祥事 [編集]

1985年5月、遺産を残して多額の納税を迫られている相続人に脱税を指導し、
多額の報酬を受け取ったために、同和会京都府連会長および事務局長が逮捕された。

1985年9月、同和会宮城県連常任理事が部落解放同盟大阪府連荒本支部の書記長
と共に脱税請負で逮捕された。

1985年11月、同和会福岡県連飯塚支部長が暴力行為や石炭鉱害事業団職員
との贈収賄で逮捕された。同支部長はこのとき、鉱害復旧費の詐取で
有罪判決を受け、執行猶予中だった。

1986年10月、同和会副会長・宮崎県連会長が前宮崎県同和対策課長への贈賄
で逮捕された。

1986年11月、同和会群馬県連会長が建設業者への恐喝で逮捕された。

1986年11月、同和会神奈川県連横浜支部が右翼団体構成員2名に支部員の
証明を交付し、同和対策事業による住宅新築資金の不正融資に加担。
同構成員2名は詐欺で逮捕された。

1987年1月、同和会宮崎県連会長が建設業者への恐喝で逮捕された。

1987年1月、同和会の会員10名が建設業者への恐喝で逮捕あるいは指名手配された。

1987年3月、同和会大阪府連岸和田支部長が脱税指南で逮捕された。

2003年5月、同和会神奈川県連会長(横浜支部長兼任)が神奈川県庁
による中小企業向けの融資を仲介し法外な手数料を取ったとして出資法違反
で逮捕された。

2007年9月、福岡県の旧大和町(現・柳川市)が県市町村職員退職手当
組合負担金と使途を偽って、全日本同和会大和支部に補助金を支出
していたことが分かった。その後の調査によれば1978年度から2002年度
までの25カ年分で、毎年約400‐500万円、計約1億1000万円を支出していた。


その他出来事 [編集]

2008年6月、全日本同和会大阪府連合会理事の男性が妻に拳銃で射殺されるという事件が発生。男性は韓国籍で元暴力団員だった[2]。

・・・・・


<参考リンク>

◆<在日=同和=ヤクザ??>教えて橋下さん!全日本同和会大阪府連合会の役員を在日が務める大阪の不思議
 http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/790.html

◆<マイノリティ支配の現実>大津中学生「殺人」事件と「さいなら原発・びわこ集会」を巡る日本のタブー
 http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/781.html

 

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コメント
 
01. 2012年9月15日 20:26:01 : kFSBHHnrzo

>がよく分からないので、調べて・・・
>いつの世も世界は諸事入り乱れ、大変そう
デーブ・ヴォンクライストの言葉:「陰謀論」と「陰謀」の違いは何か?
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1719919.html
「陰謀説」は2つの言葉でできています。
最初に「陰謀」、2つ目が能動態語の「説」。
「説」の定義は「推測、アイデア、概念、仮定」です。

尖閣諸島問題も、イスラム圏諸国での反米デモの激化も、
 裏で操っている勢力が存在する。 高原レタス
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/419.html
>2012.12.22 あと3ヶ月、どう変わる?
 検索→ 2ch FRB通貨発行権限 終了
 検索→ FRB通貨発行権限終了 その後は
 検索→ FRB エグゼクティブオーダー11110
 検索→ 2012年12月22日、FRBの通貨発行権限切れ
 検索→ FRBの通貨発行権限切れ 2012年12月22日


02. 2012年9月17日 10:31:46 : CoXOAGhaGM
安倍晋三、辛坊治郎、橋下徹。言わずと知れた政界周辺幼児プレイ三人衆である。
日本政府による尖閣諸島国有化も彼等のプレイの一環であり、
鬼っ子石原伸晃に対する嫌がらせでもある。

彼等にとっては国事さえも、単に刺激的なプレイにしか過ぎないのだ。

常に真摯に政治に取り組む小沢氏が憎くてたまらないのだろう。


03. 2012年9月19日 16:35:01 : mTuN9jFjvQ
同和は大和に虐げられた非差別民で
日本人ではないのか?
江戸幕府徳川に分けられた者でも
朝鮮部落でなければ日本人ではないのだろうか?
戦後のどさくさに紛れてぐちゃぐちゃになったようだから
よく分からないが。
在日は戦後の密航のっとり者だから別物だが。

04. 2012年9月20日 01:51:48 : mHY843J0vA

>>03 同和は大和に虐げられた非差別民で日本人ではないのか?

そうでもないようですね

wiki/穢多
wiki/非人
wiki/部落問題
 
 
穢多の明確な基点は明らかになっていない。逃亡農民に由来するという推測、皮革加工などに従事する部民という説、古代の被征服民族とする意見などがあるが、穢多などの被差別民の起源は一様ではなく、雑多な起源を持つ集団であったのかもしれない。
穢多という文字を用いる階層は鎌倉時代に初見されるが、平安時代までには始まったとされ、江戸時代に確立され、呼称は明治時代に廃止された。現代的には「士農工商に分類されない最下層の身分を意味する蔑称」という理解が主流である。
なお、江戸時代における身分は「上から順に士農工商穢多非人」などと理解されてきたが、これを幕府が政治的につくりあげたとする根拠はないとする説がある [1]。「武士」「町民(農工商)」「それ以外(穢多非人のほか、皇族・公家・宗教者を含む葬祭関連職・医者・武士ではない下級官僚・特定手工業者などを含む)」と大別され、穢多は「それ以外」に属するものの[要出典]、「それ以外」に属する身分の呼称は「長吏(ちょうり)」「かわた」などを含め、地域的差異も含めれば100を超えるものがあったとされる。また穢多と非人は一般的に別身分と認識されていたことが多いようだが(脇田修氏の研究などによる)、その相対的上下関係も一定しない。
士と農工商の間に大きな身分的格差があるのであって、農工商の三つについてはほぼ同列だと考えられている[2]。これを平民あるいは平人として一括する意見もある[2]。その下にいわゆる「穢多・非人」と呼ばれた階層があった[2]。大きな線、区別は士と農工商、農工商とその下の「穢多・非人」との間にあった、ということが明らかになってきている[2]。
田中圭一は、「本来、士・農・工・商は職分であり、そのような職分を身分制度として説明すること自体がばかげているのであるが、書物はいまもそれを変えることをしない」と述べている[3]。
語源 [編集]

「穢多」ということばの文献上の初出は13世紀においてであり、『天狗草紙』(1296年(永仁4年))などに見られる。江戸幕府の公文書には1644年(正保元年)以降に現れる。
935年(承平5年)に編纂された『和名類聚抄』は「屠児」の訓を「恵止利(えとり)」とした上で「牛馬を屠り肉を取り鷹雞の餌とするの義なり」と解説している。また、1275年(建治元年)に北条実時に献上されたとされる『名語記』には「河原の辺に住して牛馬を食する人をゑたとなつく、如何」「ゑたは餌取也。ゑとりをゑたといへる也」と記されており、また同時期の『塵袋』には「根本は餌取と云ふへき歟。餌と云ふは、ししむら鷹の餌を云ふなるへし」とある。つまり、元々は鷹などを飼うための餌を取る職業を意味しており、それが転じて殺生を業とする者全般が穢多と呼ばれるようになった[4]。つまり、「穢多」は、元々「えとり」であり、それが「えた」と呼ばれるようになったというのである。そして、穢れが多い仕事をするとして「穢多」という字をあてたとされる。
他に、蝦夷(えぞ)との関連を指摘する説、掃除人夫を意味する穢手(えて)が訛ったという説など、諸説がある。
時に「エッタ」などとなまって呼ばれることもあり、地域によっては「エッタボシ」(「穢多法師」の読みか)などの呼称もある[5]。
職業と発生史 [編集]

穢多の生業は中世以降徐々に形成されたもので、制度としては江戸幕府のもとで確立した。
タカを使って鳥を捕らえることは仁徳天皇の代からあり、また、大宝令官制に主鷹司の規定があり、これに付随する餌取の由来もまた古く、屠る者がこれに従事した。一方、『延喜式』には猪鹿の肉を天皇に供する規定があったが、仏教の殺生禁止の決まりから肉食を穢れたものと見なす風が広まり、屠者を蔑視する風も広まった。彼らは京都鴨川河原に小屋住まいをし、都の民のために賤業に従事した。いわゆる河原者である。下鴨神社が河原の近くにあったので、その穢れのおよぶことを避けるために『延喜式』には付近に濫僧屠者の居住することを禁じた。濫僧とは、非人法師で、国司の厳しい誅求に耐えかね、地方民が出家して公民籍から離脱したものである。三善清行は「今天下の民三分の二は禿首の徒なり」と述べた(意見封事)ほどで、その一部が京都に来て、屠者とともに河原者になった。当時は両者の区別があったが、のちに同一視され、餌取法師、エタと呼ばれた。その職業には都市清掃もあり、浄人(きよめ)とも呼ばれた。『塵袋』には、キヨメをエタといい、もとは餌取で濫僧とも呼ばれ、旃陀羅のことであるとあり、『壒嚢鈔』には、河原者をエッタというとある。彼らはまたその居住地から、坂の者、散所の者とも呼ばれた。中でも京都の清水坂の坂の者が有名であった。清水坂の坂の者は祇園感受院に属して犬神人と呼ばれ、延喜寺僧兵出兵の際などその先手を務めた。各部落には長がいて、その村落の警護にあたり住民から報酬を受けた。これを長吏法師といった。長吏には縄張りがあり、寛元年間、清水坂の長吏と奈良坂の長吏とがいさかいを起こしたことがある。
江戸時代には、斃牛馬(「屠殺」は禁止されていた)の処理と獣皮の加工やまた革製品の製造販売などの皮革関係の仕事(これらは武士の直属職人という位置づけもあった)、刑吏・捕吏・番太・山番・水番などの下級官僚的な仕事、祭礼などでの「清め」役や各種芸能ものの支配(芸人・芸能人を含む)、草履・雪駄作りとその販売、灯心などの製造販売、筬(高度な専門的技術を要する織機の部品)の製造販売・竹細工の製造販売など、多様な職業を家業として独占していた。また関東では浅草弾左衛門のもとで非人身分を支配していた。一口に穢多といっても日本の東西で違いは大きいので注意が必要である。


七十一番職人歌合36番「穢多」より。「この皮は大まいかな」
穢多の原形は奈良時代にはすでに存在していたようで[要出典]、中世の日本に「穢多」という言葉が既に見られる。この呼称の元になったのは、非人のうち斃牛馬の死体の処理に携わっていた職能集団である。「穢多」の初見である『天狗草紙』(1296年(永仁4年))には四条河原に出て肉食しようとした天狗を穢多童子が捕らえて首をねじり殺したと書かれ、川原で肉を扱い鳥を捕る童形の人物として描かれている[6]。また、天狗の恐れるものの一つとして「穢多のきもきり(肝切?)」を挙げており、天狗に恐れられる存在であった。この集団は室町時代あたりから差別の対象になっていたのだが、その差別は緩やかであり、しかも戦国時代には皮革上納が軍需産業(皮革は鎧や馬具の主材料)であった事から保護もされた。東日本の大名の中には領国に穢多に相当する生業をする者がおらず、軍需生産のために西国から穢多に従事する者を呼び寄せ、領国に定住させ皮革生産に当たらせた例もみられる。1500年(明応9年)頃に成立したとされる『七十一番職人歌合』には三十六番でいたかとともに詠まれ、諸肌脱ぎ、束髪、裸足で皮をなめしている姿が描かれている[7]。江戸時代になり鎖国体制が確立すると、東南アジアからの皮製品の輸入が途絶え、深刻な皮不足が生じた。このため皮革原料としての斃牛馬は一段と重要になり、斃牛馬処理は厳しく統制されるとともに、各農村に穢多が配置されて皮革原料の獲得に当たることになった。
居住していたのは村外れや川の側など、農業に適さない場所であったことが多い。皮なめしなどの仕事が主であったため、当初は「かわた」とも呼ばれていたが、やがて「えた」という卑称が定着化していく。皮なめしなどの仕事はかなりの臭いを発生させるため、その臭いを嫌い、離れた場所に住まわせられる傾向があった。この傾向は中世ヨーロッパにおいても見られる。
日本では殺生を嫌う仏教と、血を穢れとして嫌う神道の両方の影響から、動物の死体を扱う事を忌む思想があった(従って日本独自である。ただし、阿部謹也『刑吏の社会史』によると、中世ヨーロッパでは動物の解体に携わる職業の者はギルドの構成員とはされなかったとされている)。関東に関しては幕府は長吏頭弾左衛門(穢多頭矢野弾左衛門)にその支配権を与え、制度を整備し、穢多および非人身分を間接支配した。皮革の製造加工の権利を独占(実行は非人が独占)していたため、頭の矢野弾左衛門にもなるとかなりの富を得ており、大尽旗本並みの格式と10万石の大名並みの財力と称され、武士や商人への金貸し業にも手を染めた。井原西鶴は『日本永代蔵』の中で「人しらねばとて、えたむらへ腰をかがめ」と皮肉を込めて記している。
町人(商人や職人)は、御家人株の売買などによって身分を変える事が出来たが、穢多の多くが非人身分であったためそのような行為は出来なかった。非人身分とそれ以外では火の貸し借りができない、非人は下駄を履いてはならないなど、社会的な差別も多々あった。穢多は居住地が地図に表示されないなどの差別を受けたとされているが、豊かな穢多村(枝村)では田畑を農民(農奴)同様に耕し年貢も納めている例があるなど一概には語れない。江戸時代を通じて穢多に限定された職種が保証されていたため、経済的にはある程度安定していたと考えられている。
明治時代になって身分解放令により、穢多の公称、非人身分(刑罰:非人手下)が廃止されたが、同時に職業の独占も失ったため経済的困窮に陥った例が多い。なお、解放令は地租改正、徴兵令、学制とともに村請制度が廃止され、当時の民衆からの強い反発を受けた。当時各地で発生した明治政府反対一揆の中で、枝郷(枝村)の打ち壊しを伴うものを解放令反対一揆と呼ばせている。
多方面からの強い反発を背景に、身分解放令による法的な差別解消後も非人身分の者に対する偏見や差別は残った(「五万日の日延べ」として、解放令の発効を認めなかった地域もあった。因みに、2008年(平成20年)7月に解放令公布から50,000日を経過する)。ただ留意すべきなのは、枝郷(枝村)の焼き討ちが多発した筑前竹槍一揆と同様、一揆の参加者には被差別民自身も多くいたという点である。
日本国外 [編集]

「穢多」と同じように皮革や死体の処理をさせられる身分として、インドのアウト・カースト(アチュート)が挙げられる。こちらは業種がもっと多岐にわたっている上、現在でも差別が続いており、アウト・カースト集落の襲撃なども起きている。
注釈、出典 [編集]

^ 『新書・江戸時代(2)身分差別社会の真実 斎藤洋一 大石慎三郎 講談社新書』など。
^ a b c d 編者、奈良 人権・部落解放研究所『日本歴史の中の被差別民』100頁
^ 田中圭一『百姓の江戸時代』ちくま新書 58頁
^ 原田信男『歴史の中の米と肉』、1993年(参照したのは1996年の第5刷)、平凡社、ISBN 4-582-84147-3
^ 真宗(仏教)とハンセン病差別問題について
^ 網野善彦“七十一番職人歌合 職種一覧 穢多”in 岩崎佳枝、高橋喜一、網野善彦、塩村耕校注 『七十一番職人歌合・新撰狂歌集・古今夷曲集』、新 日本古典文学大系 61、岩波書店(1993年3月)、p. 523-524. ISBN 978-4002400617
^ 岩崎佳枝、高橋喜一、網野善彦、塩村耕校注 『七十一番職人歌合・新撰狂歌集・古今夷曲集』、新 日本古典文学大系 61、岩波書店(1993年3月)、p. 74-75. ISBN 978-4002400617
参考文献 [編集]

原田伴彦 「被差別部落の歴史」 朝日新聞社 (1973年1月) ISBN 978-4022591340
網野善彦 「東と西の語る日本の歴史」 講談社 (1998年9月) ISBN 978-4061593435


非人という言葉は仏教に由来し、『法華経』「提婆品」にも見られる。日本では平安時代に橘逸勢が842年(承和9年)に反逆罪に問われ、姓・官位を剥奪されて「非人」の姓を天皇から与えられたのが文献上の初例とされる[1]。
非人は、関東では長吏頭・弾左衛門と各地の長吏小頭の支配下にあった[2]。江戸の非人には、抱非人と野非人との別があった[2]。野非人は「無宿」(今日的に考えると路上生活者のような立場の人々)で、飢饉などになると一挙にその数が増えた[2]。抱非人は、非人小屋頭と言われる親方に抱えられ、各地の非人小屋に定住していた[2]。非人小屋は江戸の各地にあった[2]。
非人小屋頭はそれぞれ有力な非人頭の支配を受けており、江戸にはそれは4人(一時期5人になったこともある)いた[2]。この4人の非人頭がそれぞれ弾左衛門の支配下にあった[2]。4人の非人頭の中でも特に有力なのが浅草非人頭・車善七だった[2]。非人の主な生業は「物乞い」だった[2]。街角の清掃、「門付(かどづけ)」などの「清め」にかかわる芸能、長吏の下役として警備や刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話などにも従事した[2]。
時代や地域によって言葉が指す内容(社会関係上の立場や就業形態や排他的業務など)は大きく異なる。また、非人という語義は、広義の非人と狭義の非人に分けられる。広義の非人とは、犬神人(いぬじにん)・墓守・河原者・放免(ほうめん)・乞胸(ごうむね)・猿飼・八瀬童子等々の生業からくる総称である。狭義の非人に関しては諸説多数あり、さらなる調査研究が必要とされる。
変遷 [編集]

非人の形成期には、検非違使管轄下で「囚人の世話・死刑囚の処刑・罪人宅の破却・死者の埋葬・死牛馬の解体処理・街路の清掃・井戸掘り・造園・街の警備」などを排他的特権的に従事した。また悲田院や非人宿に収容されたことから、病者[3]や障害者[4]の世話といった仕事も引き受けていた地域・集団もあった。また芸能に従事する者もおり、芸能史の一翼を担ってきた。
中世前期は人々が畏れ忌避した業務に携わっていた非人であるが、中世後期に人々の感覚が次第に「畏れの忌避」から「穢れ(触穢)の忌避」に変遷すると共に、非人に対する捉え方も畏怖視から卑賤視へと変遷していったとされる。
鎌倉時代には叡尊や忍性による悲田院の再興を受けて西大寺真言律宗の元に組織化されたり、一遍の時宗とともに遊行する者もいた。中世の非人の多くは異形(蓬髪・顎鬚・童姿等)の者であった。やがて河原者・無宿者などを指すようになった。江戸時代には身分や居住地域・従事職能等が固定化された。
江戸時代 [編集]

非人とは [編集]
非人は、
代々の「非人素性」の者 (憑きもの筋) 
非人手下(ひにんてか)という刑罰で非人になる者
野非人(無宿非人)
の違いがある。このうち(1)(2)を抱非人(かかえひにん)と呼び、(3)と区別する。
一般の非人は、非人頭(悲田院年寄・祇園社・興福寺・南宮大社など)が支配する非人小屋に属し、小屋主(非人小頭・非人小屋頭)の配下に編成された。この頭や小屋主の名称は地域よって異なる。非人は小屋に属して人別把握され、正式な非人となる。
犯罪による非人への身分移動を伴う刑罰を非人手下という。この刑罰は兄弟姉妹同士などの近親相姦的密通者等に適用される。刑の執行は、非人頭に身柄が引き渡されることで完了する。人別把握され、非人となる。刑罰の一覧参照。
野非人・無宿非人は、非人の組織に属さないまま、浮浪状態にある者である。追放刑に処せられた者や経済的困窮などによって欠落(かけおち)し無宿となり浮浪状態となる。取締の対象であり、捕まった野非人は元の居所に返されるか、抱非人に編入された。この脱走が3回に及ぶと死罪にされた(1790年(寛政2年))。
近世の非人の発生は、江戸時代の町と村の成立過程と不即不離の関係にある。村においては地方知行制から俸禄制へと移行する中で、村に対する武士の直接的関与が薄れ、年貢の村請けが進行するに伴い、病気や災害などにより年貢を皆済できない百姓が村の根帳(人別帳)から外れ、町へ流入。町においては城下町整備に伴う治安・防火対策の一環として、里帰し政策を取り続けるが、一方ではこれを保護の対象として捕捉し、抱非人として野非人を取り締まった。場合によっては元の身分に復帰することもできたという(足洗い・足抜き)。
非人手下 [編集]
生まれながらの非人のほかに、刑罰として、平人から非人へ身分を切りかえられるものがあった[5]。それを非人手下といった[5]。
「御定書百箇条」にはになる犯科として次のようなものを挙げてある[6]。
一、姉妹伯母姪と密通したもの[6]。 - 男女共遠国非人手下[6]。
一、相対(心中)死を企てて双方存命のとき[6]。 - 三日晒(さらし)の上非人手下[6]。
一、主人と下女と相対死を企てて仕損じ、主人が存命のとき[6]。 - 三日晒(さらし)の上非人手下[6]。
一、三笠附(みかさづけ)博奕の句拾いをしたもの、ならびに取退無尽の札売りをしたもの[6]。 - 家財取上げの上非人手下[7]。
一、離別した妻に傷を負わせたもの[7]。 - 入墨の上遠国非人手下[6]。
一、十五歳以下の無宿で、途中小盗などしたもの[7]。
生業と役負担 [編集]
非人の生活を支えた生業は勧進である。小屋ごとに勧進場というテリトリーがあり、小屋ごとに勧進権を独占した。非人の課役は、行刑下役・警察役などである。本来町や村は、共同体を維持するため、よそ者や乞食を排除する目的で番人を雇っていたが、非人はこの役を務めた(番非人、非人番)。番太郎・番太とも呼ばれた。
死牛馬解体処理や皮革処理は、時代や地域により穢多(長吏・かわた等)との分業が行われていたこともあるが、概ね独占もしくは排他的に従事していたといえる。ただしそれらの権利は穢多に帰属した。
町方と在方 [編集]
町方と在方の非人の異同
関東 [編集]
江戸においては、近世中期に穢多頭の浅草矢野弾左衛門の支配下に入った。弾左衛門の支配下には各地域ごとに非人頭がおり、非人を管理下に置いた。江戸の他においても弾左衛門の支配は、関八州(水戸藩・日光神領)、伊豆国、陸奥国の南端、甲斐国・駿河国の一部に及び、当該地域の非人は弾左衛門の配下となった。
関西 [編集]
畿内においては、中世以来有力寺社との結びつきが強く、多くが各寺社の管理下に置かれた。しかし制度として整備された関東の弾左衛門による組織的な集中支配下に置かれた関係とは異なる。そのためか京都や大阪の町奉行で解決できなかった例が多く残る。時代・地域によっても多様であり、未だ解明されていない部分が多い。
その他 [編集]
有名な例として、太平の世で注文が激減、ついには非人小屋入りしたことから「非人清光」と呼ばれた刀鍛冶、加州清光などもいた。穢多と異なり脇差は禁止され、穢多と同様に傘は禁止された。
感染症との関連 [編集]

ハンセン病 [編集]
中世にはハンセン病は仏罰・神罰の現れと考えられており、発症した者は非人であるという不文律があった。鎌倉時代の文献によると、患者と家族が相談し、相当の金品を添えて非人宿にひきとられ、非人長吏(穢多)の統率下におかれた、とある[8]。これにより、都市では重病者が悲田院や北山十八間戸、極楽寺などに収容された例もある。江戸時代にはこの病になると家族が患者を四国八十八ヶ所や熊本の加藤清正公祠などの霊場へ巡礼に旅立たせた。このためこれらの場所に患者が多く物乞をして定住することになった[9]。旅費が無い場合は単に集団から追放され、死ぬまで乞食をしながら付近の霊場巡礼をしたり、患者のみで集落を成して勧進などで生活した。貧民の間に住むこともあり、その場合は差別は少なかった。患者が漁にでるとマグロがよく獲れるという迷信が各地にあり、漁業に携わる者もいた。
参考文献・注釈 [編集]

根岸鎮衛 『耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。非人についての逸話を収録。
^ 高柳金芳『非人の生活』雄山閣、1974年、p11-12。
^ a b c d e f g h i j 非人について
^ 癩病(ハンセン病)等の忌避された病に罹患した者。
^ 次第に病者や障害者ごと非人と呼ばれるようになった。
^ a b 森永種夫『流人と非人』(岩波新書の江戸時代)17頁
^ a b c d e f g h i 森永種夫『流人と非人』(岩波新書の江戸時代)19頁
^ a b c 森永種夫『流人と非人』(岩波新書の江戸時代)20頁
^ 横井清:中世民衆の生活文化,東京大学出版会
^ 山本成之助『川柳医療風俗史』1972年参照


05. 2012年9月21日 13:09:26 : mTuN9jFjvQ
>04
03です、ご指摘ありがとうございます。
とりあえず、大和に虐げられた者という意味とは限らない
という事は分かりました。
自分が気にしているのは
大和に虐げられただけの者で無くても
火病持ちの菅や狂人野田より同和の方がマシか?という事なので
自分の疑問の解決にはなりませんが
橋下=はししたで同和の穢多なら
朝鮮人よりまともな日本人だと良いのですが、
国政を任せるのは無理ですかね。

06. 2012年9月24日 02:24:45 : BnZEbGDBC6
>>03
日本人系もいたかもしれないけど左翼運動や全国水平社でのドサクサによる内ゲバで
朝鮮系が日本人系をコ口して成済ました為におかしな組織と化してしまったわけで♪


あとは察しのとおり似非同和行為が横行で
捕まえてみれば韓国籍とか♪

そんなもんですよ。

今いるとすれば共産系だったり猿使いの人くらいじゃないですか?


07. 2012年9月25日 01:52:26 : TvGRkXl8k6
水平社の「人権のふるさと」の歌って知ってます?
“ルシファーの星がきらめいている・・・♪”だって。これじゃまるで悪魔崇拝。
http://www1.mahoroba.ne.jp/~suihei/j_f_uta00.html

08. 2012年9月25日 14:45:33 : mTuN9jFjvQ
>07
同和は完全に偽ユダヤ系ですか?
本物の日本人だとしても同和自体が目を覚まさないと
駄目ですね。

09. 2012年10月22日 23:07:27 : 6uLIOJrS2w
>ルシファーの星〜

とは「明けの明星」金星のことです。これから明るい朝がやってくる喜びを言いたいのでしょう。
宵の明星がヴィーナス。ユダヤ・フリーメンソン等とは関係ありません。


10. 2012年10月24日 21:07:07 : 8rNCXQYiW2
07さん.ありがとう。初めて知りました。つまり水平社は結成時から偽ユダヤ・フリーメンソン系団体なのですね。09さん「ルシファーの星」とは「明けの明星」金星のことですと? 説得力ないですね。09さんは辞典引いて自分の間違いを確認してみよう。 たしかに聖書の比喩の例がありますが、ルシファーの星=明けの明星ではないですね。

11. 2012年10月25日 18:30:04 : 6uLIOJrS2w
>10

ルシファーと聞けば「ユダヤ・フリーメンソン」という単純・幼稚な思考回路を指摘しただけだ。

Lucifer:明けの明星・金星 と講談社英和辞典にはちゃんと載ってるが。


12. 2012年12月03日 02:06:39 : AiChp2veWo
人は、勉強の成績、有名校で、何かの価値を感じる。人はりっぱな体格やきれいな女性やきれいな物に何かの価値を感じる。しかし、会ってみて話してみて、人柄が良いのが一番価値が高い。低いとその心に卑しさを感じる、と、嫌いになる。差別でなく好悪の感情を持つ。この好き嫌いは仕方がない、差別だと言って、好悪の感情を他から批判はできない。他人の心中まで批判し責めを与えるのは独裁暴力である。普通、人が信頼や安心、尊敬や親しみの良い感情を誰かから受ける理由は難しいことではない。穏やかでしっかりとして、温かく、強くても武張らずつつしみがあり、立ち居振る舞いに品があり言葉や行動にやさしさがある・・・などなど、で決まる。その家の家系的遺伝子的の質はある。明治維新前後、日本を奪取するためにマイノリティーに手を伸ばした。世界中同じ手を使う。自由・平等・博愛という標語はみんながそれはそうだと協賛しやすい。だが、生き物も植物も、全く同じものは一つもない。自由と言っても、社会の中では限られているし、おのずと範というものがある。博愛友愛はよろしいが、個人も国もみな善人ばかりなら良いがそうではない。太陽を中心に恒星が回っているし銀河にも中心がある。上司がいれば親もいる。平等だったら統制もとれない。星も回らない。

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