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金徳煥はいい人だと思う。正直に生野の、在日の歴史を話しているのが伝わってくる。
4.3事件を逃れて、命からがら、密航してきた人たち。
日本で成功した親戚縁者を頼って来た人々。
帰りたくても帰れない・・・。そんな人々の悲哀も感じられる。
明博にしても、似非右翼、極左にしても、今、日韓関係を壊す奴らは、アメリカや北朝鮮に飼われた豚だということ。東アジア共同体を潰し、東アジア諸国をアメリカに隷属させるため雇われた豚。金のためなら何でもする。僕が憎むのはそういう奴らです。
「生野の街と在日朝鮮人」から
http://kangaerukai.net/150kim.htm
生野の街と在日朝鮮人
生野区聖和社会館館長(当時) 金徳煥
「・・・・聖和社会館で噺家のみなさんを招いて寄席を開いたりしているのですが、その中の桂米之助という噺家が、私たち在日朝鮮人にふれた落語をしておられます。
実は、この話の背景は、済州島(チェジュド)から来た人たちの生活の話であるわけです。ようするに「済州島にいる妹さんを招び寄せたいのだけれども、その渡航証明書を書いてくれ」。ところが、渡航証明書を書いてもらうためにはいろんな手続きがあって、籍の問題とかいろいろしていますと最終的に裁判所に罰金を払わんといかん。それなら「もう、いらんわ」ということになってしまうのです。
この米之助という人が、こういう話をする中で、当時の朝鮮人のおかれていた状況をあらわしながら、一方そういう厳しい中で生きている人たちの生活というものを、落語という場に反映したというのは、貴重な話だなあと思っているわけです。こういった事柄が、日本の社会の中で、大阪の事柄としての話の中に出てくるには、それなりの背景というものがあるわけです・・・・
<戦前の生野の街>
今、生野の人口が約15万人そこそこです。そのうちの3万8000人が韓国・朝鮮人、他の外国人も含まれます。4人に1人という割合です。中川小学校・御幸森(みゆきもり)小学校校区いわゆる旧猪飼野(いかいの)地域では60%ぐらい。聖和社会館の周辺では、80%が韓国・朝鮮人という多住地域になっているわけです。
しかし、戦前のことを言いますと、確かに多住ではありますが、決して、生野だけが突出した多住であったわけではないのです。大阪市内の人口の分布を見ますと、1942年ぐらいの警察統計局の資料では、東成区(当時生野区はない)9万人、旭区2.5万人、西成区3.4万人、東淀川区3.2万人、西淀川区3.1万人というふうに結構多住地域というのは多かった。1942年といえば戦争も激しくなり、いよいよ強制連行といったものが現実化してくる。ですから、市内にあります軍需工場中心に、朝鮮の人たちが徴用なりいろんなかたちで働かされた時代であります。
戦争が終わりますと、こういった居住状況というのは一変してしまうのです。何故かと言いますと、解放されましたから祖国に帰っていくのです。生野区だけが、その後も朝鮮人の多住する地域として残っていくわけです。じゃあなんで生野区だけが、朝鮮人の多住地域として残っていったのか、というところがこれから言う生野区の戦前のようす、そしてそれは、ひいては戦後の生野の在日朝鮮人の歴史に深くつながっていくということになるわけです。
いったいいつぐらいから朝鮮人がこの地域に住み始めたのかということです。今のKCC会館の裏に在日大韓キリスト教大阪教会というのがあります。これは、昔は鶴橋教会と言われていたのです。正確な資料によりますと、その鶴橋教会の創設が1921年です。当時そこに教会があったということは、集落があったということになるわけです。じゃあ何故1921年、そんな時代にこの地域に朝鮮人が住み始めたのか。当時の人口の比較を見てみますと大阪では朝鮮人が7000人ぐらいしか住んでないわけです。そんな時代にここに集落があった。
1910年に朝鮮が日本の植民地支配を受けるといういわゆる「日韓併合」があるわけですけれども、当時の社会的な状況をこの地域を中心に考えてみましたときに、ご存知のように1905年に日露戦争が終わります。みなさんは、私もそうでしたが、歴史の中で、日本がロシアに勝ったように学んで来たのですが、実は、確かに形式的にはそうですが、実態としては大変な日本の状況で、それ以上戦争を続けたら日本はもうどうしようもないぐらいに経済が疲弊して、大変な状況だったのです。それが反映して、反戦運動、社会主義運動などがさかんになるわけです。それに対抗する形で、当時の内務省を中心に、あるいは、国粋主義的な立場をもった人たちが、その立場からの社会改革運動を興していく。その中心的な役割を、この生野という地域で始めていくわけです。
・・・・
たとえば、外国人労働者が日本に出稼ぎに来る。その際にどこに行くかというと、だいたいそういった地域に行って住むわけですけれども、まさしく、時代背景の違いはあれ、今日の情勢と共通した部分で朝鮮からたくさんの人たちが、ここに生活の糧を求めてやって来る。いったんそういうものが始まりますと、そこには、人の居住している生活空間というものは、だんだん広がっていくということ、これはどこでも当たり前のことです。
よく、朝鮮半島から労働力としてたくさんの人々が強制的に連れてこられた云々の話があるのですけれども、ちょっと、それだけですっと言ってしまうのはどうでしょうか。確かに埴民地支配と戦争、日本と朝鮮との歴史の中にそのことは重大な問題として忘れることは出来ないのですが、全て一括りにして、強制連行・強制徴用ということにしてしまうと、そこでは人の生活とか、人の生きる息吹とか、そういったものをなかなか感じとることができない。もうちょっと、そういう意味では、在日朝鮮人がこの地域でどういうふうに生きてきたのかということを見ていくべきだし、そこからこの地域社会を知っていくと いうことは、これは在日朝鮮人自身にとりましてもそうですし、日本人にとっても重要なことではないかなあと思っているわけです。
この地域は済州島(チェジュド)の人たちの街だと言われます。戦前から済州島の人たちがたくさん住んでいたように言われているのですが、実は最初にこの地域に住み始めたのは、済州島の人たちと言うよりも、慶尚道(キョンサンド)の人たちだったのです。慶尚道というのは韓国の南東部にあたりますがそこの人たちが生野に住み始めた。その人たちが1920〜30年と経ていくうちに割合が少なくなっているのです。その理由はよくわかりません。
わたしは忠清道(チュンチョンド)出身です。長屋にして20〜30軒、周りはみんな忠清道の人たちでした。今は一人も忠清道の人はいなくなって、みんな済州島の人が住んでいます。この地域でも、それぞれの地域出身の人たちが集まって住んでいた、いわゆる“朝鮮人部落”と言われる地域がありました。1920年代に入ってきまして、ここで平野運河の開鑿工事なんかが始まったり、それにともなって、猫間川の水を全部出してしまわなければいけない。実は、猫間川というのは、山から流れてくる川とか、寝屋川から流れてくる川ではないのです。川というよりも、どっちかというと堀のようなものだった。その水を、全部出してしまわなければいけない。湧き水が出てきたりする川でしたから、それを全部汲み出してしまわなければいけないということで、最初に平野川を今のようなまっすぐにする工事をして、そして猫間川から平野川まで通じる暗渠をつくって、いったん猫間川の水を全部出して、埋め立てて(今の桃谷商店街の真ん中あたりです)、それから暗渠をつくって、護岸工事をしていく。そういう工事をしたのです。
そこに済州島の人たちがたくさん来るということになるわけです。最初は女性がたくさん来ました。なぜ女性がということですが、これは生野に来たわけではないのです。どこに来たかというと、岸和田にたくさん来た。岸和田と言えば、在日朝鮮人女性史に欠かせない地名でありますが、ここには紡績工場がたくさんありました。岸和田の女工さんとして、朝鮮の若い女性が働いていました。岸和田紡績の労働運動では中心的な役割を担います。女性はそこに来て、男性は生野に来て、土木工事や家内工業に従事するわけです。そうした男女が、昔は結婚というのは間に立つ人がいて、その人が二人を連れ添わせるというのが私たちの問では普通だったのですが、そうしてこの生野に朝鮮人が家庭をもっていくということになるのです。このようにしてこの地域が朝鮮人社会として形づくられていったのです。
<“三多”の島=済州島>
1945年に戦争が終わりました。当時、200〜230万人の朝鮮人が日本に住んでいた。これは強制連行も含めて、日本に渡ってきた人々です。戦争が終わりますと、どっと祖国に帰っていって、最終的には60万人ぐらい残ります。大阪でも先程数字をあげて言いましたが、多住していた地域のほとんどの人たちは祖国に帰っていきます。では、なぜこの生野だけがたくさん残ることになったのか。それは明らかに生活の基盤の違いなのです。1910年代の半ばぐらいから住み始めた朝鮮の人たちは、45年の当時で言いますと、もうすでに3世が生まれるような状況で、そこでの生活の基盤というものが存在していたわけです。ところが他の地域に住んでいる朝鮮の人たちの居住区というのは、多くの場合、軍需工場とか、徴用であるとか、それも戦争が激しくなってきて、いわゆる強制的に徴用なり、連行なりされてきた人たちが住んでいる。ですから、戦争が終われば自分の田舎に帰る、ということになるわけです。ここの人たちは、生活の基盤というのはある程度できていた。
それからもう1つ、帰れない理由というのがありました。それは済州島という島のことについて、ふれておかねばなりません。済州島というのは小さな島です。今は快速艇が出ていますが、以前は木浦(モッポ)というところまで6時間ぐらいかかりました。昔は済州島は耽羅(タムナ)の国と言われていました。沖縄(琉球王国)を想像していただけばいいと思います。独立した国だったのです。朝鮮が中国を宗主国としていたのと同じように、耽羅も中国を宗主国として独立して存在していたのです。
・・・・
それから次に李朝時代。この頃になりますと、済州島に政治犯などの人たちが島流しにされる。このことが後に、済州島に対する本土からの差別視というものが生まれてくる背景にもなるのです。反逆者とか、政治的に左遷されたり、そういった人たちがこの島に住むようになった。
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男が漁船で出かける。ところが、この風のためによく遭難します。男は死にます。どんどん少なくなっていきます。出稼ぎにも行きます。そういうことで、誰がこの島の生活を支えたかと言いますと、女なのです。済州島の女の人たちは、私たちの間ではとても強いと言われます。男はいつもぷらぷらしていて、女の人がメシを食わす。「男にメシを食わすのが女のかいしょや」と言われるような雰囲気が、今もこの地域の韓国人の生活に色濃く残っています。保護者会活動などをすれば、すぐにそういう雰囲気が伝わってくると思います。
こういう歴史の中で、日本に経済的な糧を求めて出稼ぎに来るというのは、ある意味では自然なのです。植民地支配を受けて非常に厳しい状況があり、今まで出稼ぎに行っていた本土も収奪を受けている。だから、日本に来ることになったわけです。
<済州島4−3事件>
戦争が終わりました。他の地域の人たちは国へ帰ります。ところが帰ってどうするか。帰っても生活ができない。そんなことであれば、生野のここに経済的な基盤、家族もある。だから、ここでの生活を続ける。ということで、生野が戦後の朝鮮人の多住地域となっていくわけです。
済州島をめぐる出来事で欠かすことのできないことがあります。歴史の話をしましたので、戦後史に関わる部分も続けます。1947年4月3日、この日は済州島にとりまして、ほんとに悲しい歴史の日なのです。戦争が終わり、南北が分断占領されます。南に米軍が来ます。李承晩(イ・スンマン)政権ができまして、反共政策が徹底的にとられます。それはこの済州島と全羅道(チョルラド)中心に民族解放闘争が激しく起こったからです。先生方は、韓国は自由主義の国、北朝鮮は社会主義の国といったイメージを持っておられるでしょう。ところが、もともと戦前のようすでは、南朝鮮というのは農村なのです。今、北朝鮮が食料危機など、いろいろ大変な状況になっていますが戦前はこちらは工業地域だった。その時代では近代的な産業地域、また中国や西欧との文化的・政治的交流などの中心地域だったのです。南は農村地域で、土着の保守的な、非常に古い価値観を持った儒教的な地域だった。たとえばキリスト教で言いますと、キリスト教の中心は北、ピョンヤンを中心とした北朝鮮だった。この南では古い儒教的なシャーマニズムの地域。そこに、植民地時代の抵抗闘争を闘った地下の社会主義運動がずっと行われてきた。ですから、戦争が終わったときはちょっと今と状況が逆だった。どこと結びつく雰囲気だったかというと、アメリカの雰囲気を持っているのは北の方で、社会主義的な雰囲気を持っているのは南。運動の基盤があったのはね。ですから、互いに分断されたときに、北ではキリスト者たちは帝国主義的であるということで弾圧される。南では、民族解放闘争とか社会主義運動などがやはり弾圧される。というようなことで、1940年代末近くまで、韓国全土でパルチザン闘争が起こるわけです。それを米軍と初期のイ・スンマン政権がいっしょになって弾圧する。
その最も悲惨な事件がこの済州島で起こったのです。本土から差別を受けている地域、より厳しい状況におかれます。当時の島民の3分の1が虐殺されるという大変な事件。4-3事件と言われています。韓国ではこの事件はタブーです。ようやくこの数年の間に若い人たちを中心に、主義的なものによる真相究明ではなく、まだまだそういう立場からは今の韓国では無理ですので、事実だけははっきりさせようではないかという動きが出てきています。そのときに親類縁者を頼って、政治亡命的に猪飼野に逃れてきたのです。その人たちは、今でもそのことについては口を閉ざして言いません。何故か。猪飼野にも、済州島にも、家族兄妹がたくさん住んでいるからです。非常に悲しい歴史として“4・3事件”はあったのです。
<ムラ社会と済州島>
済州島というのはいわゆるムラ社会です。○○のムラ、××のムラと、典型的なムラ社会をつくっているのです。ちょっとたとえが悪いのですが、アメリカのマフィアを想像してください。マフィアはどこから来ているか。イタリアのシシリー島です。よく似ていますね、朝鮮半島と。あの長靴の先にある火山島なんです。シシリー島も火山島です。出稼ぎにアメリカへ行く。アメリカに行ったシシリー島の○○の村の出身の人たちが、シンジケートをつくって、マフィアの親分になり、村同士で殺し合いをするのです。そういうふうに似ている背景はあるのです。もちろん、済州島の人たちが日本に来て殺し合うわけでは決してないのですが……。
ですから、ムラ単位の結びつきは非常に強いのです。私たちも済州島の人たちと親しくしていますが、もともと韓国人というのは家族の関係・兄妹の関係はとても濃いのです。従兄弟ぐらいというのは、ほんとに親子兄妹ぐらいです。ところが、済州島の場合は、8親等ぐらいまでは、ほんとに親しい兄妹、身内なのです。そういった人たちが日本に住んでいる親類縁者を頼って、1960年ぐらいからどんどん来たわけです。そのような家族とかムラとか、いろんなつながりがあるわけです。ところが、ムラ単位の共同体社会はできるのですが、島全体の共同体はどうかということになりますと、非常に難しい。そこが済州島の難しさであり、実は、その難しさが、この生野に住んでいる在日朝鮮人社会の難しさであるわけです。あんまり言い過ぎますと、ちょっと齟齬があるかもしれません。録音テープも回っていることですし……。
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<生野の街の”三多”>
1965年の日韓条約の締結は、当然のことですが、在日朝鮮人の生活に大きく影響を与えました。朝鮮半島の南の半分だけと日本との国交回復という、その是非は別としまして、国交回復が行われるということは、人の行き来やいろんな意味で影響を及ぼしていくわけです。ご存知のように、この当時というのは日本は東京オリンピックを前にして、高度経済成長へ向け突っ走っている時代でした。
その経済成長政策が行われているときに、生野で大産業が興るわけです。もともと、小さな家内工業が営まれていたところへ、爆発的に興ったものは何かといいますと、ゴムのサンダル、ケミカルサンダル、いわゆるヘップサンダルの産業なのです。
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こうして産業が興ってきたときにどうしたかと言いますと、さっきの話ですが、済州島にいる人たちを、親戚関係・ムラ社会を通じて、どんどん招ぶわけです。「日本に来て働かんか。金儲けになるで。」というわけで、たくさんの人たちが日本にやって来ます。ただし、パスポートはありません。いわゆるドンドコ船と言いましたが、1週間、2週間、飲まず食わずで、漁船の底に潜んで日本に来るのです。日本に来て、親類の人の所へ着けば、それでもうなんとか匿われるわけですから、どんどん密航という形で、大阪へ、生野へやって来るわけです。もちろん当時の入管警察は、形の上で摘発はするのですが、適当で、ほっとくわけです。何故かというと、働き手が必要なのです。それが日本の経済発展にとって必要なものなんです。それでどんどん人が来ます。
・・・・
引用以上
<参考>
済州島四・三事件(WIKIPEDIA)
済州島四・三事件(さいしゅうとうよんさんじけん)は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[2]。
韓国政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された[3]。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた[3]。また、この事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。
・・・・
1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国(本土)に侵攻(朝鮮戦争)すると、朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、韓国本土で保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された[4]。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている[5]。
・・・・
歴史的に流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した。済州島では事件前(1948年)に28万人[6]いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる[7]
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