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別章【竹取物語考】
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れんだいこはこたび、竹取物語かぐや姫譚の読解に向かった。これは国語的な関心からではなく、歴史物語の位置づけで読みとろうとしている。この観点が、既成市井の竹取物語考と違うところである。そうなると、いずれにせよその前に、竹取物語の原文を確定せねばならぬ。世間に知られているかぐや姫譚が正しいとは限らないからである。
これが厄介なことであった。なぜなら、どうやら原文は漢文で、我々が教わった古文のそれは漢文の訳文のようである。その古文を現代文に書き換えねばならない。それは良いとしても、漢文と古文を比較すると、明らかに漢文の方のデキが良い。ということは、古文を現代文に書き換えるより、漢文を書き直した方がより適切と云うことになる。
ここで厄介なことになる。漢文をそのまま現代文に訳せる者はそうは多くはいまい。そうなると、漢文と古文を睨めっこしながら現代文に書き直さねばならない。しかし、これも、れんだいこがいきなり訳すとなると大変なことである。そこで、ネット検索し、それらを参照しながら呻吟せねばならないことになる。
気づいたことは、「共産主義者宣言」の訳の時と同じである。既存の市井のものの訳が拙さすぎる。なぜこのようになるのかは分からない。「共産主義者宣言」の場合には、マルクス主義書発禁の次善策として意図的故意に悪訳にすることによりその価値を損なわせようとする動機が透けて見えてくる。この場合は首肯し難くとも納得できる。しかし、竹取物語かぐや姫譚の場合に、そういう必要があるのだろうか。そういう必要が認められないのに、漢文が古文になり、古文が現代文になるに応じて、その値打ちを下げ、詰まらないものにさせている。その必要が分からない。この言に不審があれば、各自で確かめて見れば良い。
れんだいこは、ふと興味を覚え、竹取物語かぐや姫譚を正確に知ろうと思った。ところが、そういう事情で、既成市井本では我慢できなくなった。そこで急きょ、れんだいこ現代文竹取物語かぐや姫譚を書き起こした。これを公開しておく。この一週間で拵えたので未だ不十分、或いは部分的なところでの読解間違いもあろう。この指摘を受けながら順次そのつど書き直していくことにする。
本来は、歴史物語の位置づけからの関心で取り組んでいるのだが副産物を得た。竹取物語かぐや姫譚が、日本歴史上古代の文学作品の傑作の一つであることが分かった。源氏物語に比して分量がそれほどでもなく、読み終えるのが容易である。そういう意味で必読本とせねばならないと云うことが分かった。日本史古代の情緒や云いまわしを知ることにもなり為になろう。且つかぐや姫に云い寄った六名のそれぞれの求婚の仕方の綾を知ることが、我々の脳を鍛える格好のテキストになっている。ここが絶妙に面白い。
思えば、日本人は今、国際金融資本の脳内ピーマン化政策により脳粗鬆の道に誘われつつある。マスコミがマスゴミと云われる所以である。公共電波を使って、日本人民大衆の愚民化の尖兵の役割を果たしている。れんだいこが思うのに、これを迎撃する格好本の一つとして、竹取物語かぐや姫譚に触れ、何度も読み直すことにより脳筋を鍛えるへきではなかろうか。
今、私の連れ合いに読んで聞かせたところ、初めて知った。こんなに面白いものだったのですかと云っていた。これを多くの家庭でやって貰いたいと思う。今我々は、日本人が営々と気づいてきた読み書きそろばんの術の継承を断ち切られ、精神文化の面でも根無し草にされようとしている。これに抗する為にも、れんだいこ版竹取物語かぐや姫譚をここに公開する。
(今できたばかりなので推敲が足りない。そのうちサイトアップすることにする。これを下敷きに、みんながみんなのかぐや姫譚を持てば良かろう)
以来十日ばかり熱中し、とりあえず、これと思う出来栄えのものができた。恐らく川端康成その他諸氏のそれよりデキが良い筈である。様々な個所での従来の誤訳を訂正しておいた。分かる者には分かるだろう。惜しむらくは、これほどの出来栄えだと云うのにさほど注目されないことだろう。しかし、いずれは「れんだいこ訳竹取物語かぐや姫譚」が定番の位置に据わることになるだろう。なぜなら、食べ物と一緒で口が美味しいものに向かうように頭脳も又向かうから。
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れんだいこ解説
ここに、れんだいこ意訳文の竹取物語かぐや姫譚を世に送ることにする。その意は、あまねく知られている割には全文を読んだことがない者が多過ぎる故にである。れんだいこもその一人であった。最近の或る時、漠然とながらなぜだか急に読みたくなった。その意味する顛末は以下の通り。
竹取物語の作者は不詳である。よほどの文の名人と思われる。文体、語彙、語法、構成、難題の品などから、古代よりの伝承に造詣の深く、且つ和歌に秀で、且つ中国などの仏典、漢籍に深く通じた大陸文化に造詣の深い教養人でもあった文化教養人であると推定できる。
これによると、源順、嵯峨天皇の皇子で臣籍に下った源融、三十六歌仙の一人で古今和歌集の編纂者の一人にして土佐日記の執筆者として知られる紀貫之(きのつらゆき)、今昔物語集の編者である源隆国(みなもとのたかくに)、和歌の六歌仙の一人にしてその作風から僧正遍照(そうじょうへんじょう)、漢文体「竹取物語」の出来栄えから空海(くうかい)、漢学者で大学頭の紀長谷雄などが取り沙汰されてきた。しかしながら確定できない。
いつ頃作品化されたのかも定かではない。但し、紫式部が源氏物語(絵合せの帖)の中で竹取物語に触れ、「物語の出で来はじめの祖(おや)」と述べているとのことである。源氏物語には多くの「かぐや姫」的な女性たちが登場する。してみれば、紫式部の時代に既に読まれていたということになる。原形として万葉集に「竹取翁の物語」があるとのことである。してみれば、相当古くよりの物語り伝承であり、次第に形を整えてきたということになる。通説は、平安時代前期の貞観年間 - 延喜年間、特に890年代後半に書かれたとする。10世紀の大和物語に竹取物語にちなんだ和歌が詠まれて以降、うつほ物語の女主人公「あて宮」の造型に強い影響を与えている。11世紀の栄花物語、狭衣物語、12世紀の今昔物語集などにも竹取物語への言及ないしは影響が認められる。
またこの説話に関連あるものとして丹後国風土記、万葉集巻十六、今昔物語集などの文献、謡曲「羽衣」、昔話「天人女房」、「絵姿女房」、「竹伐爺」、「鳥呑み爺」などが挙げられる。当時の竹取説話群を元にとある人物が創作したものと思われる。
竹取物語かぐや姫譚を評するのに、世の研究者の常として、外国からの輸入品として位置づけ、外国説話との関連を問う癖がある。しかし、れんだいこは違うと思う。関連づけるのは良いとしても、それはそれとして窺うべきであり、基本的には国産オリジナル的なものを嗅ぎとる方が為すべき研究態度ではなかろうかと思っている。似た説話は似た説話どまりであり、一事万事同時並行的に発生することも又よくあることではないかと思っている。
竹取物語かぐや姫譚はいつ頃書かれたものなのだろうか。登場人物から推定するに、7世紀後半の壬申の乱から天武―持統朝の藤原京時代に政治風刺的に作品化されていたように思われる。作中に登場する求婚者は相互に対比的に描かれている。中でも、車持の皇子は藤原不比等をモデルにしている風があり、批判的見地からの辛辣な文意よりして、藤原氏に怨みあるいは反感を持つ作者の眼が感ぜられる。
誰が何故に書き著したのかは分からない。分かるのは、相当な文筆の達者の手になる作品であると云うことである。その後何度か書き換えられているようにも思われる。写本の形で流布され、その際に若干の書き換えが為されている。原典版は存在せず、現存の写本は16世紀頃に書き写されたものがもっとも古いとされている。
この時代には今日と違って著作権などと云うものはない。世の良いことの共通として、現代人のように作品が真似られた、取った取られたなどと自己顕示売りしない。作品が広まり伝わることのみに関心を持ち、人口に膾炙し、より練られることをのみ本望と思っている風が感ぜられる。確かイエスもそういう風なことを云っていた。中山みきも云っている。世の聖人のスタンスは、こういうところが共通している。これを思えば、この善良な伝統に棹差し、万事金権化せんと悪巧みの風潮には逆に棹差し返さねばなるまい。これを推進する例の狂人石工組合の流れの者とは闘うしかあるまい。
もとへ。竹取物語の原文は漢文と思われる。作者がかくも自由闊達に漢文をこなしていたことに感心させられる。恐らく、これを書いたのが漢人と云うのではなく、日本語古語によほど習熟している者が、それを下地にして漢文を咀嚼吸収し、かくなる名文をものしたと窺うべきではなかろうか。その出来栄えは驚くべき技と云う他ない。これを思えば、外国語吸収には、その前提として母国語の習熟が必要であり、日本語は太古の昔よりそれに耐える秀逸な言語足り得ていると思う。
幕末維新期の志士、書生が、現代人の我々よりも欧米語の吸収を能く為し得たのは、母国語の習熟を下地にして外国語である漢文を先行してこなしていたからであり、この能力を欧米語に振り向けたからではないかと思われる。それほど国語を重視する必要があると思う。これを思えば、昨今の英米語の早期学習は、それ自体は悪くないにしても母国語の軽視とセットして行われるべきものではなかろう。母国語の軽視に向かわせるのは、例の狂人石工組合の差し金であろう。
もとへ。竹取物語かぐや姫譚は、そういう名漢文を原典にしていることにより、現代人の我々が、これをそのままに読むのは困難である。そういう訳で、原文たる漢文を日本語古語で和訳した古文の竹取物語を読むことになる。但し、それでさえ、現代人の我々が読むのは困難である。
その困難さには別の理由がある。困ったことに日本語古文は、漢文の竹取物語ほどには情景を生き生きと描写していない。竹取物語のあらましの筋を伝えているが、漢文に読みとれる生き生きとした情意の部分が殺がれている。よって値打ちを損ねており、これが読む人を遠ざけている原因の一つとなっているように思われる。良くできてはいるが漢文には見劣りするという意味である。
更に困ったことがある。実は古文はまだ良い。現代文竹取物語となるともっと酷いものに化けてしまっている。多くの訳者が居るように思われるが、れんだいこの評するところ、伝えるのはあら筋ばかりで、情意の部分は全く殺がれている。よって、読んでも面白さが伝わらない。これが竹取物語を堕作にしてしまっており、特段に読まねばならないほどのものではないものにしているように思われる。実に、竹取物語の面白さは、原文の漢文物語から古文物語、古文物語から現代文物語へと転じるほどに愚作になっている。
このことを知ったので、れんだいこが現代文で竹取物語の粋を再確認することにした。但し、一字一句忠実に訳せないことと、仮に訳してもあまり意味がないと思うことにより、現代感覚に合うように多少意訳した。そのでき栄えは、読まれた方の評に託すしかない。れんだいこ文は今後更に手直しされ、推敲される。永遠の未完になると思う。そういうものであるから著作権には馴染まない。どなたでも良い、自由に活用して下されば良い。
なぜ竹取物語を読むべきなのか。それは、日本人つまり日本文化が過去に於いて生みだした古典文学の傑作品の一つであり、そのやり取りを知ることが現代人の薄っぺらにされた脳を鍛え直してくれると思うからである。こういう優秀作品を知らぬまま死んでいく現代人が多い。これはとても残念なことであると思う。そういうことに気づいたので、れんだいこが、みんなが読み易く、且つ原文に忠実且つ原文通りに面白い竹取物語を創作した。これを天下に公開しておくことにする。
付言すれば、この思いは、「共産主義者の宣言」の時もそうだった。れんだいこは若かりし頃、既存の市井本を幾ら読んでも物足りなかった。重要な個所でピンとこなかった。そういうものを読んで、読んだ気になって来られた共産主義者に脱帽するしかない。れんだいこは、そういう連中に比して頭が良くないので、得心行くよう原文から読み直した。もっとも本当の原文であるドイツ語訳に当たるのは今後の課題として、とりあえず英訳を下敷きとして、その転訳としての日本語訳に取りかかった。マルクス在世中に英訳が出ており、書いた本人が目を通しているはずだから、英訳にはさほど問題がなかろうと思っている。
その英文訳と既存の日本文訳を比べると、明らかに日本文訳の方が見劣りする。意図的故意の改悪訳の箇所が多過ぎる。それを疑問もなしに読み終えることのできた安上がりの共産主義者に脱帽してしまう。それではれんだいこの性が得心できないので、れんだいこ訳を作った。さほど注目されていないが、れんだいこ訳の方がよほど原文に忠実で、原文の意味がより良く通じていることを自負している。これを復読三省するよう期待したい。いつか、既成訳とれんだいこ訳を参照させてみたいと思っているが、本業ではないのでそのままにしている。どなたかやってくれればよい。サイトは次の通りである。
共産主義者の宣言考
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/gensyokenkyuco/kyosansyugisyasengenco/
kyosansyugisyasengenco.htm)
もとへ。竹取物語も同じである。「共産主義者の宣言」は政治もの、竹取物語は文学作品と云う違いはあるが、文量が適当で本来読みやすいにも拘わらず悪訳により価値が殺がれている点で同じである。どちらも読むべき読まれるべき語り継がれるべき名作であるのに、ないがしろにされていると云う点でも共通している。
竹取物語の要旨は次の通りである。竹藪で拾われたかぐや姫がその後すくすく成長し、世に並ぶもののない美人の誉れを噂されるようになる。このかぐや姫に求婚するものが殺到し、最後に五名の貴人が残る。この者たちに結婚の条件としてお題が与えられ、それぞれが悪戦苦闘する。この活劇描写が格段に面白い。最後に帝が登場し、恋愛劇の総まとめに向かう。しかし、帝さえ思うようにならないまま八月十五日の満月の夜に天より迎えの者が来て、かぐや姫も去って行く。この道中での、翁のかぐや姫、五人衆、帝とのやり取りも面白い。全体が政治風刺のパロディーにもなっており、その意味するところは未だ分からない面もあるがとにかく比類なき面白い。
れんだいこ文は、これを現代文で当初の漢文レベルの面白さで再現しようと試みている。繰り返すが、原文に忠実に訳すより、その意味するところを汲みとり意訳した。もし面白くないとしたら、れんだいこの一人豪語ということになる。それでも良いと思っている。これをきっかけに誰かが注目し、別訳のもっと面白いものを生み出してくれれば本望であるからである。その間を惜しみなく貰い、惜しみなく与えようと思う。川端康成氏の訳本があるとのことなので、これを今取り寄せている。読んで更に推敲しようと思っている。
竹取物語考
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html)
2010.3.20日 れんだいこ拝
【竹取物語かぐや姫譚解説その2】
「竹取物語かぐや姫譚解説その2」として、内容に関わる吟味をしておく。「ウィキペディア竹取物語」その他を参照する。
まず、冒頭の「今は昔」とあるが、それがいつの頃を想定しているのだろうか、「竹取の翁」が居たのはどの辺りなのか、翁の名が何故に「讃岐」なのか、疑問を覚えれば次から次へと広がるも、どれもはっきりしない。一見どうでも良い詮索のようにも思われるが、これらはいずれも何か重要なことをメッセージしていると窺いたいので、これらを推理することにする。
まず、「今は昔」の時期について確認しておく。この時期ははっきりしない。単純に「昔」と理解してさほど問題ないように思われるので考察を省くことにする。
次に、竹取物語の舞台につき詮索しておく。翁が居たのはどの辺りだったのだろうか。少なくとも、かぐや姫に求婚をした5名の貴公子が住んでいたと思われる藤原京から近過ぎるでもなく遠過ぎるでもない、それなりに通える距離の地を比定する必要があろう。この条件に合う地域であれば問題はなかろう。
通説は、讃岐国の氏族の斎都氏が移り住んでいた大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現奈良県北葛城郡広陵町三吉、又は散吉郷廃存済恩寺村、現在の北葛城郡広陵町大字三吉の斉音寺集落付近)とする説が有力とのことである。この地は「藪/下」、「藪口」、「竹ヶ原」という地名があり真竹孟宗竹等の竹林が多数残っている。三吉の北部には讃岐神社が鎮座している。「延喜式」に「広瀬郡の讃岐神社」として登場しており、同神社は「竹取物語ゆかりの神社」と称しているとのことである。
京田辺市も比定されている。この地域は、奈良、京都、大阪の中間に位置し、古くから文化が栄えた所である。継体天皇が筒城宮を置き、また仁徳天皇や神功皇后にまつわる話など、様々な伝承や伝説が語りつがれている。他にも比定地は考えられよう。岡山県真備市、京都府向日市、鹿児島県宮之城町、静岡県富士市、香川県長尾町、広島県竹原市などが候補地に挙がっている。
問題は、敢えて何故に「讃岐」の翁を登場させたのかの考察にこそある。従来、このことに言及する面が少ないのではなかろうか。思うに、翁が居た地域の詮索はそれほど重要ではなく、翁が「讃岐の翁」として登場することの意味こそ窺うべきではなかろうか。研究者が、これを問わないのは怠慢と云うより、肝心なことを問わず周辺のことを難しく語りたがるいつもの癖ではなかろうか。私見は、「讃岐の翁」は、竹取物語かぐや姫譚全体の構成に大きく関係していると考える。伯耆、筑紫、吉備等々でない「讃岐の翁」としたことには重要な意味があると考える。ここでは、これぐらいの言及にとどめておくことにする。
ちなみに、「讃岐」なる姓をもった人物は古事記上巻に登場する。第九代開化天皇の項に、天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前を見つけることができる。更にこの讃岐垂根王の姪に「迦具夜比売命」なる名も見つけることができる。
次に、かぐや姫が何故に竹の中で発見されたのかが問われねばならない。桃太郎譚のように桃、あるいはその他その他のように他のものではなぜいけなかったのか、ここにも何らかのメッセージが込められているように思われる。これも推理せねばならない。私見は、古来より竹の子の産地として阿波が有名である。このことと讃岐と合わせて考えると、この説話が四国と大いに関係していると思われるが如何だろうか。ここでは、これぐらいの言及にとどめておくことにする。
次に、「竹取の翁」とは何者か、その素性について詮索しておく。山椒魚先輩の教示によると、「万葉集巻十六の第三七九一歌」には、竹取物語の書き出し同様の「竹取の翁」が登場しており、竹取物語との関連が指摘されている。次のような読み下し文になっている。
「昔、老翁ありき。号(な)を竹取の翁と曰(い)ひき。この翁、季春の月に丘に登り遠く望むや、忽(たちまち)に羹(あつもの)を煮るや九箇(ここのはしら)の女子(おとめ)に値する。(この者ら)百嬌たぐひなく、花容止むことなし。時に、娘子等(をとめら)老翁を呼び嗤(わら)ひて曰く、叔父来るかや、この燭(そく)の火を吹けといふ。これにより翁唯唯(をを)と曰(い)ひて、漸く赴き徐く行きて座の上に接(まじは)る。良久(ややひさ)にして娘子等皆共にえみを含み相推(おし)譲りて曰く、阿誰(だれ)かこの翁を呼べるかな。すなわち竹取翁謝して曰く、非慮之外偶逢神仙 迷惑之心無敢所禁 近狎之罪希贖以歌 即作歌一首[并短歌」。
同書486頁の補注よれば竹取りの訓み方には諸説ある。普通には「タケトリ」と読み、私見もそう解するが、「タカトリ」と読む説もあるようである。精選本に「大和国十市郡に鷹取山あり。昔は竹取と書けりと云えば、この翁彼処に住けるにや」との解説があり、古来よりかなり有力視されている。思うに、、竹取はやはり「タケトリ」と読みべきで、「タカトリ説」は参考程度にとどめるのが良かろう。なぜなら、竹取物語の諸内容と整合しないからである。「タケトリ」の方がよりピッタリするのに敢えてわざわざに「タカトリ」と解する必要はなかろう。他にも、竹を仙人の食するキノコだとする説もある。神仙思想と繋げようとする読みとり方であるが、何でもかんでも外来経由の思想と結びつける必要はなかろう。そういう意味で、ややオーバーランの読み取りではなかろうか。この場合は相応しくないと思う。
次に、「竹取の翁」の正体について詮索しておく。これも諸説ある。普通には、竹を生業とする翁と読み、私見もそう解する。これに対して、竹が上代人にとって神秘力を持っている樹草木であることに注目し、「竹取の翁」を「神仙に近いことをする職の者」と解する説もある。かく解しても特段の問題はないが、そう解する必要もなかろう。他にも、竹取り生業をもっと深く推測して、「サンカ的な竹を生業にしている職業団体にして諸国を渡り歩く説話の語り部とする説」もある。これは微妙である。かく受け取れない訳ではない。しかし、そこまで深読みする必要はないと思う。私見は、当たらずとも遠からずの説と窺う。
次に、「かぐや姫」の正体について詮索しておく。これも諸説ある。架空の人物と考えれば詮索不要であるが、歴史上の人物になぞらえている面がなきにしもあらずと窺うべきではなかろうか。そういう目で見ると、大和の「天の香具山」(奈良県橿原市)との絡みが考えられる。これによると、「香具山の姫即ちかぐや姫」と了解することになる。私見は、こういう受け取りようもあると考える。
あるいは、古事記の垂仁記に妃ととして「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」との記述がある。日本書記では、迦具夜比売命は垂仁天皇の妃となっている。この迦具夜比売命とかぐや姫が同一人なのか偶然一致の架空名称なのかは分からないが、垂仁天皇妃に登場する迦具夜比売との絡みは当然考えられる。更に、赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることからから豊受大神との線が浮かび上がってくる。私見は、これらは無視できないと思う。
瀬織津姫との関連を問う説もある。瀬織津姫は「大祓いのりと」に登場する歴史的に意味を持つ姫である。広瀬神社の祭神は和加宇加之売命他とされるが、地元の古文献には、天照大神の荒魂で瀬織津姫と同体であると記されている。この広瀬の大忌神、天照大神の荒魂瀬織津姫が勧請されて伊勢の荒祭宮に祭られたという説がある。瀬織津姫は、穢れ祓いの神と共に水の神であり桜の神である。瀬織津姫の誕生は、伊邪那岐命が黄泉の国から戻って「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し」と言い放ち、中の瀬に下りたって禊祓いをして初めて誕生したのが八十禍津日神であった。「倭姫命世記」に「荒祭宮一座、皇大神荒魂、伊邪那岐大神所生神、名は八十禍津日神也、一名瀬織津姫神是也」とあり、この神が瀬織津姫とされている。同書では、伊勢神宮に祓戸の大神のうち瀬織津姫尊、速秋津姫尊、気吹戸主尊の三神が祭られているという伝承が載せられている。
これらのうち、どの説を採用すべきかは分からない。了解すべきは、いずれにせよ、「かぐや姫」を架空の人物名と云うより何らかの歴史的に意味ある名として受け取ろうとするのが良いと思われるということであろう。
次に、「かぐや姫」の命名の親である「三室戸の齋部の秋田」について詮索しておく。これにも何らかのメッセージがあるように思われる。「三室戸」、「齋部」、「秋田」には、それぞれ当時に於いては聞く者が聞けば聞くだけでピンと来る筋のものであったと思われる。
次に、かくや姫の求婚者について詮索しておく。求婚者は5名、帝も合わせれば6名登場するが、これらの登場人物も何かの隠喩であろうと思われる。特定の人物なのかどうかは別として、当時の読者にはピンとくるそれぞれの名家を隠喩しており、その御曹司をモデルにしているように思われる。そういうメッセージ性があるように思われる。
解説本によると、石作皇子は右大臣の多治比嶋(多治比真人島、701年没)、車持皇子は朝臣の藤原不比等(720年没)、阿倍右大臣は実在の大納言の阿倍御主人(703年没)、大伴大納言は実在の大伴御行(大伴宿禰御幸、701年年没)、石上中納言は実在の石上麻呂(717年没)と推測されている。いずれも672年の壬申の乱とその後の天武―持統朝廷下で活躍した功臣たちと云うことになる。作者は、この者たちを政治風刺的に戯画化していることになる。この辺りを嗅ぐことがより面白さを増すことになろう。
8世紀のこの時代、他の豪族を押しのけて藤原氏が「我が世の春」を謳歌し始めていた。それは、大和王朝政権下での諸豪族間のめくるめく抗争の最終決着として藤原氏が覇者になったことを意味する。竹取物語かぐや姫譚は、そのことを踏まえており、藤原政権時代の空気を上手に皮肉っている面が感じられる。
石作皇子と車持皇子の二人の皇子、阿部家の安倍右大臣、大伴家の大伴大納言、石上家の石上中納言を登場させている裏には、藤原政権の主流派の面々を列挙しているメッセージが込められているのではなかろうかと思われる。しかも、そのどれもが求婚に失敗するが、その失敗よりも失敗の様をからかっている風がある。滑稽にしてブザマに設定しており、このことは藤原政権主流派の人物識見の貧相さをからかっているように思われる。竹取物語かぐや姫譚が、文学を通じての巧みな政治風刺になっている面を見なければなるまい。
次に、帝の詮索をしておく。5名の求婚者が歴史上の人物になぞらえられるのに比して、帝の比定は難しい。つまり、5名の求婚者時代の帝ではない人物像が描かれているということになる。かぐや姫と契るには至らなかったが、こまやかな情を通わせた帝という想定になっている。この辺りは文学作品故と受け止めて良いように思われる。
次に、「月の都の人」を詮索せねばならない。かぐや姫が月の都の人であることが知らされるが、この場合の月は、天空の日月の月と受け取るのは自然過ぎよう。月も何らかの隠喩であるとも考えるべきではなかろうか。私見は、渡来系大和王朝前の支配政権者であった旧王朝政権を表象しているのではなかろうかと窺う。これには「記紀」の記す国譲り譚が関係していると思われる。或いは讃岐―阿波の四国が関係しているように思われる。ここでは、これ以上は問わないことにする。
こう窺うと、「都の人」とは、出雲―三輪王朝又は讃岐―阿波の旧王朝政権の政権中枢の人と云うことになる。つまり、かぐや姫は、旧王朝政権中枢の皇族の由緒正しき身分の末裔の娘にして「わけあって」讃岐の翁に預けられたと云うことになる。文中に「翁がその子を得た頃より不思議なことに、山へ上り竹を取るのに、筒の中に黄金(こがね)の有るのがしばしばとなった。翁の暮らしは次第に裕福になっていった」とある裏の意味は、相応の養育費が賄われたと云うことであろう。
これが如何に重要な推測であるかは、邪馬台国論に関係する故にということになる。邪馬台国は「幻の邪馬台国」となっているが、大和王朝に接続しない日本史上の真の初王朝という意味においてこれからの探索課題である。従来、邪馬台国を畿内説、九州説、その他説の三すくみで議論百出させているが、その多くはいずれも大和王朝に陸続させての比定地論争となっている。そうではなく、大和王朝に陸続しない、むしろ意図的故意に痕跡を消された、その故の幻の邪馬台国論と座標を定めねば真相が見えてこないのではなかろうか。竹取物語かぐや姫譚は、このことをメッセージしているのではなかろうか。
ということは、帝も含めた6名の求婚者とは、かぐや姫に邪馬台国時代の旧王朝政権の皇室香気を嗅いで群がり、契りを得ようとしたことになる。それは、単に契り目当てというより、新王朝と旧王朝の和睦同盟化を意味する。しかし、それはできなかった。なぜなら、月の都の人が迎えに来たからである。こう拝察すれば、かぐや姫譚はなかなかに味わい深い物語になる。
次に、かぐや姫が月の都から下界して来た理由を詮索せねばならない。文中では、かぐや姫は「訳あってこの世に下り」と述べ、月の都の迎えの主は「かぐや姫は罪をつくったので、かく賤しきおのれが許にしばしの間居ることになった。しかし今罪の期限が来たので迎えに来ている」と述べている。どういう訳なのか、罪を為したのかは語られていない。これは単なる文学的筋書きなのか、深い意味があるのかは分からない。
次に、「月の都の人」が常用する不老不死薬を考察せねばならない。物語の設定では、「月の都の人」は、不老不死薬を服用することにより不老不死もしくは長命であることが知らされる。文中では、「月の都の人は容貌端麗にして不老不死、憂苦がありません」とある。これを架空と受け止めても良いが、旧王朝時代の特質として「容貌端麗にして不老不死、憂苦がない」社会であったことを暗示していると思えないこともない。
次に、「月の都の人」が、この世を「きたなきところ」と蔑視している様が伝えられる。これも詮索せねばなるまい。この世を「きたなきところ」とする事情として、自然現象的なものを指しているのか政治的な意味合いで述べているのかまでは分からないが、恐らく藤原氏により支配されてしまった世の常態が旧王朝時代のそれと悉く劣化しているという認識の下で、更に政治的権謀術数渦巻く藤原時代に対する間接的な批判の意が込められているのではなかろうか。
次に、「天の羽衣」について考察せねばならない。推測するのに、旧王朝時代の重要な政治的儀式として「天の羽衣」の着用があったのではなかろうか。これについては、大和王朝以降の皇室も、この伝統を受け継ぎ、天皇の即位後に行う大嘗祭で、沐浴時に「天の羽衣」を着る儀礼習慣があるとのことである。文中では、かぐや姫をして「羽衣を着てしまうと、人の心が消えてしまう」と語らせている。「天の羽衣」には、そういう神秘力が宿されているということになる。「天の羽衣伝説」は近江国風土記、丹波国風土記などに数多くあり、いずれも旧王朝時代の伝説であり、それぞれ何らかのメッセージが宿されているように思われる。
次に、駿河の国の不死の山即ち後の富士山を登場させている。富士山は単なる「天に一番近い山はどの山か」から導き出された山なのか、何らかの重要な裏メッセージが込められているのかどうか分からない。私見は、後者の意味にとる。具体的には分からない。云えることは、富士山は古代に於いても日本随一の霊峰であり尊崇されていたということであろう。
最後に、文中多用されている和歌について考察せねばならない。思うに、和歌は、大和王朝前の旧王朝時代からの伝統的な嗜みであり、竹取物語かぐや姫譚の作者が旧王朝時代の能吏であることを問わず語りしているのではあるまいか。ならば作者は誰かということになるが、昔の人は慎み深く「我が作者である。著作権料出せ」とは云わないので分からない。れんだいこが感じるのは、旧王朝時代の能吏の確かな眼、文章力である。日本古典作品の名作足り得ている。凄いと云わざるを得ない。
補足として、海外の類話を確認しておく。竹取物語に似た民間伝承は諸外国にも見られる。例えば中華人民共和国四川省のアバ・チベット族に伝わる「斑竹姑娘」(はんちくこしょう)物語の内容は、竹の中から生まれた少女が、領主の息子たち5名から求婚を受けたが難題をつけて退け、かねてより想いを寄せていた男性と結ばれるという筋書きになており、中でも求婚の部分は宝物の数、内容、男性側のやりとりや結末などが非常に酷似していると云う。
これを踏まえて、伊藤清司氏は、「かぐや姫の誕生―古代説話の起源」(講談社、1973年)で、原説話が日本とアバ・チベット族に別個に伝播翻案され「竹取物語」と「斑竹姑娘」になったと推測しているとのことである。れんだいこは、「斑竹姑娘」の研究に着手しておらぬ為、後日に言及したいと思う。
他にも、中国の後漢書には竹の中から人が生まれるという内容が記されている。思うに、これらは意識の共有化事象として了解すべきで、ルーツを訪ねる関心まで寄せる必要はないのではなかろうか。そういう作法がまま見られるが、訪ねねばならない場合もあるし不要の場合もある。のべつくまなく外来化させるのではなく逐一判断が問われていると思う。
*
ここで、竹取物語かぐや姫譚を確認しておくことにする。既存の訳が味もそっけもないので、れんだいこが訳し直しておく。できるだけ原文の意に即して訳し、現代文に書き直してみた。原文が如何に味わい深いか知るが良い。これを逆に云えば、既成の訳文のお粗末さが知れよう。なぜこのように愚劣に訳すのかが分からない。
ここで、れんだいこ現代文による竹取物語かぐや姫譚をサイトアップしておくことにする。一々採り上げないがネット検索で多くのサイトから学び、どれも気に食わなかったので、れんだいこ訳を拵えた。しかしながら前作があればこそなので謝しておく。れんだいこ訳も又当然にそのように待遇されるべきだろう。
れんだいこが竹取物語を公開するのは、既に簡単に述べたが、ネオシオニズムの意図的故意の愚民化政策により現代日本人の脳のピーマン化が仕掛けられているとする危惧による。これに対抗せんが為に良き教材を市井に提供する。これを、日本人民大衆が自由自主自律的に学ぶことで祖先の知恵レベルを回復蘇生されんことを願っている。時間があれば、諺、和歌等々の収集にも向かいたい。現代政治の貧困も根本的には能力の低下に起因していると思われるので、基礎から鍛え直す必要があると考えている。一朝一夕にはできないので、牛乳のように毎日飲むことからは始めねばなるまい。
今後はこれを共同作業でやりたいと思う。その際の障害は決まって例の著作権である。著作権が、ネオシオニズムの意図的故意の愚民化政策に密接不可分に関係していることが分かろう。著作権の本質はここにありとみなすべきで、金儲けの手段としてのよろづ金権化の動きは不随のものであろう。しかしながら、この白アリに取りつかれると中身が次第にカスカスにされてしまう。
そういう眼で見ると、著作権狂に限ってホロコーストだのアンネの日記だのに口角泡を飛ばして語り、反戦平和を唱える割には現在進行形のパレスチナにおけるイスラエルの蛮行に関心を持たない癖が認められる。相当にオツムがヤラレテイルとしか思えないが、当人は至極正義ぶって人を説教することを好む手合いが多い。お笑いである。
おっと、こういうことを云いたいのではない。れんだいこ訳により竹取物語かぐや姫譚の現代文ができたので、これをサイトアップしておく。恐らく骨格はもう変わらない。今後は部分的な面での言い回しが変わるとは思う。特に和歌の訳については直訳過ぎており、今後どう書き替えようかと思案している。そういう道中の者であるが、これがプリントされ読み合わせ賜わらんことを願う。
2010.4.6日、「川端康成訳の竹取物語」を手に入れた。なかなかデキが良いので、これを参考にして少々書き換えることにする。
2010.03.27日 2010.04.06日再編集 れんだいこ拝
【竹取物語かぐや姫譚れんだいこ現代文訳】
一、かぐや姫のおいたちの巻(竹の中のかぐや姫)
二、つまどひの巻(求婚者ら、難題を与えられる)
三、石作皇子の巻(鉢を拾ってきて仏鉢だと云うも見破られる)
四、車持皇子の巻(ニセの玉を造り玉枝とする)
五、安倍右大臣の巻(火鼠の袋のてんまつ)
六、大伴大納言の巻(龍の首の玉を取りに行くも)
七、石上中納言の巻(燕の子安貝を取らんとすれども)
八、御帝とかぐや姫の巻
九、天に舞い上る明月のかぐや姫の巻
十、不死の山の富士の岳の巻
一、かぐや姫のおいたちの巻
(竹の中のかぐや姫)
今は昔、竹取の翁と申す者が居た。野山に分け入りて竹を取り、細工物を拵(こしら)えて暮らしていた。名を讚岐(さぬき)の造麿(みやっこまろ)と云った。
(「今は昔」がいつ頃なのか、竹取の翁が居たのはどの辺りなのかはっきりしない。翁の名が何故「讃岐」なのか、その裏意味も分からない。いずれも何かメッセージ性があるように思われる)
或る日のこと、翁は、竹林の中が華やかに明るく彩(いろど)りしているのを見つけた。訝(いぶか)りながら近寄り、筒の中を覗(のぞ)くと光を放っていた。よくよく見れば身の丈(たけ)三寸ばかりの美しい女性が居た。翁曰く、「この子は私が朝に夕に取るところの竹の中に居た。子のないままに老いた私どもに天祖が賜われたものであり、我が子にせよとのお告げであろう」。翁は、懷(ふところ)に抱いて連れ帰った。
(かぐや姫は何故に竹の中で発見されたのか、桃太郎の桃の中のように他のものではなぜいけなかったのか、ここにも何らかのメッセージが込められているように思われる。ちなみに竹の子の産地は古来より阿波が有名である。讃岐と合わせて考えると、この説話が四国と大いに関係していると云うことになるように思われる)
嫗も喜び、ゆくゆくは人が羨む娘に手塩にかけて育てあげ、立派な人に貰(もら)ってもらおう、老いての楽しみができたことよと頷(うなず)き合った。体が殊更(ことさら)に小さいので籠(かご)の中で養うことにした。翁がその子を得た頃より不思議なことに、山へ上り竹を取るのに、筒の中に黄金(こがね)の有るのがしばしばとなった。翁の暮らしは次第に裕福になっていった。
幼児(おさなご)は日毎にすくすくと成長し大きくなっていった。三月ばかり経つと妙齡の乙女子(おとめご)になった。結髮(ゆいがみ)させ裳(も)を着せたところ、玉のように立派な出で立ちになった。翁と嫗の寵愛(ちょうあい)はさらに深まり、養育の楽しみを増した。その間、御簾(みす)の帳(ちょう)の内より出さなかった。乙女子の容姿の清らかなることこの世になく、家の中は常に光に満ち溢(あふ)れ暗きところがなかった。翁は、幾ら世事に忙しくともその子を見れば疲れが取れ、疎(うとま)しいことがあってもその子を見れば苦しさが止み、腹立たしきこともその子を見れば慰められた。
翁夫婦はいつしか大きな家屋敷を構え、使用人も抱える身代(しんだい)になり、近隣で分限者(ぶげんしゃ)と云われる長者になった。乙女子は更に長じて一人前の身になった。三室戸の齋部(いんべ)の秋田を呼んで名を請けさせることにした。秋田は、なよ竹(しなやかな竹)のかぐや姫(輝夜姫、赫夜姫)と名付けた。
(この三室戸の齋部の秋田にも何らかのメッセージがあるように思われる。三室戸、齋部、秋田は、それぞれ当時に於いては聞くだけでピンと来る筋のものがあったと思われる。かぐや姫も然りで、大和の天の香具山との絡みが考えられる。古事記の垂仁記に「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」との記述がある。日本書記では、迦具夜比売命は垂仁天皇の妃となっている。この迦具夜比売命とかぐや姫が同一人なのか偶然一致の架空名称なのかは分からない)
或る時、翁は盛大な宴席を催(もよお)した。貴賤を問わず男女を招き入れ、三日に亘って歌舞、神楽、和歌、音曲に耽(ふけ)り贅沢(ぜいたく)三昧(ざんまい)に興じた。
二、つまどひの巻
(求婚者ら、難題を与えられる)
かぐや姫の噂(うわさ)が噂を呼び、聞きつけた世間の男子(をのこ)が、高貴な者も賤しき者も、かぐや姫をめとることを夢見て色めき惑い始めた。かぐや姫に逢わんとして翁の家の周りをうろつき始めた。夜というのにろくろく眠らず闇に出て、ここかしこに仮の宿の穴を掘り、垣根の中を窺って垣間見(かいまみ)などしてはため息をついていた。これにより今日、結婚せんとして夜に徘徊(はいかい)するのを「よばひ(夜這い)」と云う。
男子どもは、近隣の者は無論、家人でも容易(たやす)くは見られないのを知らずか、家人に様子を尋ねては空振りばかりしていた。それでも翁の家の辺りを始終(しじゅう)彷徨(ほうこう)し、夜を明かし日を暮す者が多かった。あきらめの早い者から順に、「わが思い届かず。骨折り損のくたびれ儲(もう)けなり」と云って来なくなった。そういう中でもとどまり続ける粋(いき、すい)の者が居た。世評で指折りの色好みと云われる皇子、貴人等(ども)五人衆が最後に残った。
この公家(きんだち)達はかぐや姫に対する思いを捨てきれず、昼夜問わず来ていた。その人の名は、石作(いしづくり)の皇子(みこ)、車持(くらもち)の皇子、右大臣の阿倍の御主人(みうし)、大納言の大伴の御行(みゆき)、中納言の石上(いそのかみ)の麿足(まろたり)であった。
(これらの登場人物も何かの隠喩であろうと思われる。特定の人物なのかどうかは別として、当時の読者にはピンとくるそれぞれの名家を隠喩しており、その御曹司をモデルにしているように思われる。そういうメッセージ性があるように思われる。解説本によると、石作皇子は右大臣の多治比嶋(多治比真人島、701年没)、車持皇子は朝臣の藤原不比等(720年没)、阿倍右大臣は実在の大納言の阿倍御主人(703年没)、大伴大納言は実在の大伴御行(大伴宿禰御幸、701年年没)、石上中納言は実在の石上麻呂 (717年没)と推測されている。推定するに、いずれも672年の壬申の乱とその後の天武―持統朝廷下で活躍した功臣たちと云うことになる。作者は、この者たちを政治風刺的に戯画化していることになる。この辺りを嗅ぐことがより面白さを増すことになろう)
この五人衆は、この世をば我が世とぞ思う何の不足もない身分にして、世に少しでも美人ありと聞けば色めき立つ質(たち)の御方であった。かぐや姫を思い焦がれる情止み難く、せめて一目なりともその美貌を見ん、あわよくばかぐや姫と契りたいとの虚仮(こけ)の一念で寝食忘れ、家の周りを行き来し続けていた。或る者は手紙を認(したため)め送れども返事はなかった。或る者は和歌を遣(や)れども返しがなかった。甲斐のないまま霜月(十一月)を過ぎ、師走(十二月)の厳寒を迎え、季節は廻り水無月(六月)の夏の盛りの酷暑にも拘わらず足繁(しげ)く通い詰めていた。
翁に、「どうか私にこそ見合わせさせてください」と揉み手で伏し拜むものの、翁は、「私の一存ではどうすることもできない」とあしらっていた。日が経ち月が変わり、光陰矢のように飛んで行った。五人衆のかぐや姫詣(もう)では続き、或る者は家に帰って願立てし、或いは祈祷(いのり)などしていた。このうちの或る者はもはやこれまでと、かぐや姫に寄せる思いを止(や)めようともしてみたが、それもままにならなかった。翁は、これを見て気の毒になり、「こうなっては見合いさせずにはなるまい」と心定めし、かぐや姫に問うことにした。
翁曰く、「姫よ。そなたがこの世の者ではないことは存じている。転じてこの世の人となった不思議の方だと承知しているが聞き分けてくれ。ここまで育て養ってきた私どもの恩を疎(おろそか)にしてはなるまい。どうかこれから云う翁の言を聞き届けてくれ」。かぐや姫曰く、「勿体ないことを云われます。何なりと云いつけてください。私は化生の身の者ですが、この世の父母に育てていただき本当の親と思って慕っております。何事も承(うけたまわ)ります」。
翁曰く、「嬉しいことを云ってくれたことよ。ならば云わせて貰(もら)うぞ。翁もいつのまにか年を経てしまい古稀(ななそぢ)を越してしまった。今日とも明日とも知らず命の身になった。この際一言云っておきたい。凡そこの世の人は成人すると契りをすることになっておる。男は結婚を望む、女も嫁ぐことを望む。このようにして家門が広がるのじゃ。これが自然なのじゃ。この道に背くことは良くないのじゃ」。かぐや姫曰く、「何故に拒むことができないのですか」。翁曰く、「不思議の人と云えども、そなたは女の身なり。翁の老い先は短い。いつまでも求婚を拒み続けてはなるまい。ここに残った人たちは長年月をひたすらお前を恋い焦がれ、遠来をものともせず一念を通し続けてきた者たちばかりじゃ。いまさら証する必要もなかろう。願わくば、そのうちの一人を選び契り給え」。
かぐや姫曰く、「それがこの世の慣(なら)わしとならば仰せに従うことと致します。但し思いますのに、人の心は移ろい易いものですので後悔しないようにしたいと思います。世に敬われ畏れ多い御方でありましても、選ぶとすれば私に最も深く思いをかけてくださるお方にしたいと思います。気持ちが通わないようでは辛(つろ)うございます」。
翁曰く、「そなたが、そなたへの思いをそれほど大事にしている以上、結婚の条件として相手の思いの深さを見ることにしよう。それにしても、ここに居る人達は皆非凡の志の持主ばかりじゃ。どうやって見極めようぞ」。かぐや姫曰く、「私を慕う気持ちの強さはいずれも優劣つけ難(がた)い者ばかりです。そこで申し上げます。口先の求婚の強さによるのではなく、奥ゆかしきことを試して見とうございます」。翁曰く、「それは妙案(グッドアイデア)じゃ」。
日が暮れて行くうちに、いつものように五人衆が集った。或る者は笛を吹き、或る者は和歌を詠(うた)い、詩を吟じ、唱歌を奏でたり、扇子(せんす)を鳴らすなどしていた。翁曰く、「かくも辺鄙(へんぴ)なるところに長年月に亘りご足労賜わりかたじけのうございます。私も次第に年を取り、今日とも明日とも知らぬ命になりました。故に、我が子に世間の道を勧め、あなたがたの中から婿(むこ)を選べと申しましたところ、御心の深さ次第と申します。それもなるほどの道理かと思われます。但し、思いの深さの優劣を判別しようがありません。そこで、ゆかしきもの見せ給われた方に御志の強さのほどを見てお仕えすることに致します。このように取り決め致しとうございます」。これを聞いた五人衆は口々に曰く、「異存ありません」。
翁は部屋へ入って、そのことを伝えた。かぐや姫、翁に曰く、「石作の皇子様におかれましては、天竺に有るという仏の御鉢(はち)を取って来てください」。「車持の皇子様におかれましては、東(ひんがし)の海に蓬莱の山があり、白銀を根とし、黄金を莖とし、白玉を実の宝としている木があると聞きます。それを一枝折って持ってきてください」。「阿倍の右大臣様におかれましては、唐土にあるという火鼠の袋を取ってきてください」。「大伴の大納言様におかれましては、龍の首に五色の輝やく玉があると聞きます。それを取ってきてください」。「石上の中納言様におかれましては、燕(つばくらめ)が持っているという子安貝を一つ取ってきてください」。翁曰く、「どれもこれもハードルの高いことばかり云うものじゃ。難題過ぎようぞ」。かぐや姫曰く、「それほど難しいとは思いません。思いやりが深ければ叶(かな)うことばかりです」。
(このお題に挙げられたものにもそれぞれ隠喩的な意味があるように思われる。詳しいことは分からない)
翁曰く、「とにもかくにも伝えてみませう」。部屋より出でて翁曰く、「まことに難しいことばかりですが、この願いを聞き届けてくれた方の願いが叶うことに致します」。これを聞いて五人衆曰く、「了解しました。申し出を違うことなく実現するのは私でせう。かぐや姫様の願いを叶えられなかった者は今後はここへ来てはいけないことにしませう」。かく話が纏(まと)まった。難問を与えられた五人衆はそれぞれに思案しながら帰って行った。
三、石作皇子の巻
(鉢を拾ってきて仏鉢だと云うも見破られる)
石作の皇子には、天竺に有るという仏の御鉢(はち)を取るようにとのお題が与えられた。この人は思い立ったら吉日ですぐに取りかかる機敏にして気の早い、加えてずるいしかも粗雑なところのある御方であった。
(石作の皇子は、皇子とあるから帝の御子ということになる。石作りとあるからには建築土木関係に関係していたことになる。これにどういう意味が隠喩されているのかは分からないが以下の如く描写している)
皇子は、「かぐや姫の望むこの世に二つとない仏の御鉢が天竺にあると云うのなら、百千万里の道を訪ねてでも取ってみせよう。姫契らずには生きても甲斐がない。手に入れるまで帰らないぞ」と云い聞かせ、善は急げとばかりにあちこちに聞き取りし始めた。早くも願いを果たした暁に思いを馳せ、「今日、天竺から鉢を取り寄せて参りました。これがまさにその物です」とかぐや姫に迫り、そのまま契る姿を夢想していた。
早速かぐや姫の許へ行き、「今日これから天竺へ行き石の鉢を取る為に参ります」と伝えた。しかし、当初の威勢は良かったものの、どこからも色よい報せがなかった。音沙汰なしの三年ばかりがまたたく間に過ぎてしまった。石作の皇子は焦ったか、不意に大和国の十市郡にある山寺に行き、賓頭盧(びんづる)さまの前にあったまっ黒に煤(すす)けた鉢を取り、それを錦の袋に入れ、これに造花の枝をつけて翁の屋敷に向かった。
(大和国の十市郡にある山寺も、隠喩的な意味があるように思われるが詳しいことは分からない。「賓頭盧(びんづる)」とは、仏法に帰依した聖者である十六羅漢の第一番目の賓頭盧の尊者を指す)
これを見たかぐや姫は怪しがった。鉢の中に文があり、これを拡げて見れば次のように認(したた)めていた。
「海を渡り山を越え 無辺の道を心尽くし 石鉢を取りに来て長るる」
(「渡海亦越山 無邊之道心盡之 取來石缽長流」)
(「海山の路に心を盡くし果て御石の鉢の涙流れき」)
かぐや姫が光り具合を見るに、蛍(ほたる)の明かりほどの光さえなかった。そこで故歌を引いて次のように返歌した。
「真物(まもの)ならば光あるというのに 置くものに露の光も見えぬとは 小倉山にて何求めけむ」(「真物當有光 置而露光亦不見 小倉山上何求耶」)(「おく露の光をだにぞやどさまし小倉山にて何もとめけむ」)
返歌を聞いた皇子は、鉢がニセモノであることがバレタと知って門に棄てた。しかるに求婚の思いは捨てず次のように返歌した。
「白山の如き輝きも 美人に会えば光失するかと 鉢を棄てても汝は捨てられぬ」
(「輝本如白山 今會美人光自失 吾今棄缽不捨汝」)
(「白山に逢へば光の失するかと 鉢を棄てても頼まるゝかな」)
姫は返しをしなくなった。石作の皇子は、かぐや姫の素っ気ない態度に取りつくしまもなく寂しく帰って行った。こうして石作の皇子が一番乗りにして最初の撃沈者となった。皇子が鉢を棄ててもなお言い寄って妻ごいしたことから、面目を捨ててずうずうしいことをば、「はぢを棄てる」と云うようになった。
(石作の皇子は、ニセモノを俄か拵えして見抜かれ、思いを遂げなかったことになる。このことにどういう寓意があるのかは分からない)
四、車持皇子の巻
(ニセの玉を造り玉枝とする)
車持の皇子には、蓬莱山の宝の木を一枝折って持って来るようにとのお題が与えられた。この人は深謀遠慮と云えば聞こえが良いようなものの、目的のためには手段を選ばずの謀(はか)りごとを好む、加えて口八丁手八丁の饒舌多弁な御方であった。
(車持皇子も皇子とあるから帝の御子ということになる。車持ちとあるからには運輸流通関係に関係していたことになる。これにどういう意味が隠喩されているのかは分からないが以下の如く描写している)
この皇子は、端から蓬莱山の宝の木を取りに行く気はなく、精巧な宝木作りの工作に知恵を廻らせ始め、謀議成った。或る時、周りには「筑紫の国に湯治(とうじ)に行くために暫(しばら)くお暇(いとま)します」と公言し、翁には「これから玉の枝取りに行って参ります」と伝えて大勢(おおぜい)の従者を連れて都を下った。人々が難波津まで見送った。港に着くと、「これからはお忍びで参ることにする」と宣(の)べ、側(そば)仕えの供のみを引き連れて出帆した。三日許(ばか)りして密(ひそか)に帰り、かねての打ち合わせ通り家を作って、釜(かまど)を拵(こしら)え、構を三重に張り巡らし人が近づけないようにして、召し抱えた当代一流の鍛冶工匠(かじたくみ)六名と共に引き籠り、玉の枝を作り始めた。皇子の知行地十六ケ所の荘園を神社に寄進するほどの入れ込みようであった。
漸(ようや)く、これなら寸分も違わないと人が云うであろうと思われる玉ができあがった。密に難波津に出向き、皇子が船に乗って帰って来ることになったと告げさせた。大勢の者が迎えに出向いて来た。港に着くや皇子は、さも苦労して帰って来たばかりの苦しげなる様子で現れ、玉の枝を入れ覆(おお)いを被(かぶ)せた長櫃(ながひつ)を運び出し、大声で叫んで曰く、「皆の者聞いてくれ。車持の皇子が遂に優曇華(うどんげ)の花を持ち帰ったぞ」。この報(しら)せが翁の屋敷に伝えられた。これを聞いたかぐや姫は胸潰(つぶ)れる思いになり、不安で堪(たま)らなくなった。
暫くして皇子が翁の門を叩いて曰く、「車持皇子只今参上しました。取り急ぎ旅の姿のままにやって参りました」。出迎えた翁に曰く、「命がけでかの玉の枝を持って参りました。かぐや姫様に見て貰いとうございます」。翁は、その由(よし)をかぐや姫に伝えに部屋へ入った。玉の枝には文籤(矢)が付けられていた。
「征(ゆ)く路万里に長く 例えこの身を葬すとも 玉の枝手折らで帰らじと誓う」
(「萬里長征路 便是此身葬徒然 不折玉枝誓不歸」)
(「徒らに身はなしつとも玉の枝を手折らで更に歸らざらまし」)
皇子の命懸(が)けのご苦労を見てとった翁は急いで部屋に行き、かくや姫に向かって曰く、「車持の皇子が申し伝えた通りの、只の一ケ所も怪しげのない蓬莱の玉の枝を持って参りました。こうなってはかくや姫よ、疑ってかかるようなことを申すべきではない。旅の御姿のまま我家へも寄らずやって参ったのじゃ。皇子の真心(まごころ)のほどを汲み取り、契りの支度をしなさい」。かぐや姫は、ものも云わず頬杖をついて、嘆かしげな素振りを見せた。これを見て皇子曰く、「今さら話を違えてはいけません」と云ううちに遠慮なく縁に這(は)ひ上って来た。翁曰く、「約束通りのこの国に見えぬ玉の枝を持って来られた以上、今更(いまさら)拒むことはできませんぞ。幸いにして人柄も良いお方に見えますぞな」。かぐや姫曰く、「親の仰(おお)せを拒むのは辛(つろ)うございます。得難きものを本当に持って来られましたので困っております」。これを聞き翁は、いそいそと閨房(ねや)に入り、新婚の契りの準備に取り掛かった。
支度を整えた翁が皇子に尋(たず)ねて曰く、「いかなる所にこの木はありましたか。怪しくも麗しくめでたきものでございます」。皇子は、とうとうと語り始めて曰く、「前一昨年(さをとゝし)の二月(きさらぎ)の十日頃でしたか、難波より船に乘りて、海中にいでて、行方も分からぬまま船を漕ぎ出ました。不安ではありましたが、『この願い叶えぬようでは生きても甲斐がない。かぐや姫に寄せる我が愛の深さを試さん』と云い聞かせ風のまにまに任せておりました。道中、万が一の死をも覚悟しておりましたが必ずや蓬莱と云う山に出逢えますようにと念じ続け、漕ぎ続け浪に漂いました。
国の内を離れて外へ出ますと、或る時は浪が高く荒れ、海の底に沈むかと思うような目にも遭いました。或る時は風に吹かれて知らぬ国に吹き寄せられて、鬼のような者が出て来て殺されるかと思うような目にも遭いました。或る時にはどこを進んでいるのかも分からぬまま海を漂っておりました。或る時には食糧が尽き、草の根を食べて飢えを凌ぎました。或る時は例えようのないほど恐ろしいものがやって来て、食いかかられそうになりました。或る時には海の貝を取って命を繋ぎました。旅の空のことゆえ助けてくれる人もいない所で、いろいろの病をしました。もはやどこへ居るのか分からぬまま船の行くに任せて海を漂っておりました。
五百日ほど過ぎた辰の時の頃、海の向こう遙かに山が見えました。舟を近づけますと、海の上に漂う非常に大きな山でございました。高くそびえ立つ威容は見事な麗しさでした。これこそ私が夢見てきた山ではなかろうかと思いましたが、いざその山に逢うと恐れ多く、山の周囲を二三日(ふつかみか)ばかり見廻り続けました。化粧した天人(あまびと)女が山の中より出て来て、金銀の椀を持って水を汲みに参りました。これを見て船より降り、『この山の名は何と云うのですか』と問いましたところ、女答えて曰く、『蓬莱の山と申します』。これを聞いた時の嬉しさよ、感極まりました。女に、『かく云うあなたはどなたさまですか』と問うと、『我が名はほうかんるり』と云い、そのまま山の中に入って行きました。
山を見るに険しくとても登ることができません。山裾辺りを廻るうち、世の中にこれほどのものはないと思われる美しい花をつけた木々が立っていました。金銀瑠璃色の水が流れていました。あちこちに玉の橋も架けられておりました。辺り一面に照り輝く木々が立っていました。山全体が奥ゆかしく世に譬(たと)えようがありませんでした。その中に、仰せられたものに違いない花が咲いておりました。仰せの通り、これを一枝取って参りました。
枝を折りて以降も帰りの道中が不安で一杯でしたが、船に乘ると不思議や不思議に追風が吹いて四百余日で帰って参りました。これこそ大願の力でせう。昨日、難波に着きました。潮に濡れた衣を脱ぎ替える暇(いとま)もないままやって参りました」云々(うんぬん)。
これを聞いて翁、感嘆して次の歌を詠(よ)んだ。
「新竹常竹取り為し野山に入る苦労知るも かくなる艱難辛苦 我知らず」
(竹新竹常為取 平生每每入野山 卻是未歷此艱辛)
(「呉竹のよゝの竹取る野山にも さやは侘(わび)しき節(ふし)をのみ見し」)
返歌して皇子曰く、
「潮に湿(しめ)る我が袂(たもと) 今日は功成り乾き始めつる 数々の辛酸忘れ晴れの心なり」
(潮淚濕吾袂 今日功成衫始乾 數數心酸當不覺)
(「ここらの日頃思ひわび侍りつる心は、今日なん落ちゐぬる」)
そうこうしているうちに、男ども六人が連なって庭にやって来た。そのうちの一人の男が文挾(ふばさみ)に文を挟んで言った。「私は、作物所(つくもどころ)の寮(つかさ)の工(たくみ)の漢部(あやべ)の内麿と申します。仰せのままに心を碎いて千余日、身を粉にして玉の木を作って仕えて参りましたが、未だに碌(ろく)を頂いておりません。早く碌を頂き家の子に分ねばなりません」。翁が皇子に尋ねて曰く、「この者どもが申すことはどういう意味か」。皇子はあわてふためき茫然自失の態となった。
かぐや姫は、この遣り取りを聞ききながら文に目を通した。次のように認められていた。「皇子の君は、千余日に亘って私どもと共に同じ所に隱れて、『上手くでき上がったら給金はもちろん官(つかさ)をも授けよう』と云って細工物を作るよう命じました。こうして玉の枝を作りました。しかしながら碌をいただいておりません。どうやらこれは、かぐや姫様の云いつけによるものであることが分かり、本日やって参りました。碌を賜わりたく存じます」。
姫は、先ほどまでの憂鬱な気持ちを和(なご)ませ、笑みを浮かべながら翁を呼んで曰く、「誠に蓬莱の木かと思っておりましたが、あさましきニセモノのようです。早く返してください」。頷(うなず)き翁曰く、「何と細工物であったとは。合点承知の介(すけ)であります」。かぐや姫はあきれて、玉の枝に文をつけて返歌した。
「眞誠(まこと)と聞きて見れば 偽物なること明けらけく 言葉巧みに飾れる玉の枝にぞありける」
(聞而似真誠 見則偽物事自明 飾玉枝葉實巧言)
(「眞かと聞きて見つれば言の葉を飾れる玉の枝にぞありける」)
翁は、決まりが悪くなった為か狸(たぬき)眠りし始めた。皇子は立つ瀬もなく居心地悪くなり、逃げるようにして帰ってしまわれた。かぐや姫は、訴えにやって来た工匠等を呼び、「あっ晴なる忠言でございました。お陰で窮地を救われました。褒(ほ)めて遣わしませう」と云って祿を多めにお渡しされた。工匠曰く、「思いがけぬ碌を賜わり、伺わせていただいた甲斐がありました」。工匠等は大いに喜んで辞去したものの、その帰り道で皇子により血が流れるほど打ち据えられ、せっかくいただいた祿をも取り捨てて逃げ帰ったと云う。こうして車持の皇子が二番目の撃沈者となった。
皇子曰く、「かぐや姫の代わりに一生の恥を得た。このままおめおめ生き恥を晒すのが辛い」と云って、山奥深くへ一人で入ってしまわれた。宮司らが総出で手分けして探したが見つからなかった。身を隠したと思われ長年出てこなかった。今日世間で、人がびっくりしてしょげかえる様を称して「魂消(たまげ)る」と云うようになったのは、これよりのことである。
(車持の皇子は、ニセモノを用意周到に拵えたものの思わぬ形で見抜かれ、思いを遂げなかったことになる。このことにどういう寓意があるのかは分からない)
五、安倍右大臣の巻
(火鼠の袋のてんまつ)
阿倍の御主人には、唐土にあるという火鼠の袋を取るようにとのお題が与えられた。この人は右大臣(おとゞ)の大金持ちで、大きな家屋敷を持ち、多くの使用人が仕えていた。何事も官吏を使って用を足し金の力で何でも解決しようとなされる方であった。
(阿部家は歴代政務を司どっている。阿倍の御主人は右大臣とあるので、律令制太政官(だいじょうかん)の最高役職になる。左大臣、内大臣と並びあるいはそれを凌ぐ筆頭大臣ということになる。これにどういう意味が隠喩されているのかは分からないが以下の如く描写している)
唐土(もろこし)から行き来している船主の王卿という方が津の浦に居た。阿倍の大臣は、使用人の中でもしっかり者であった小野房守を選び、彼に書を持たせて王卿の下へ遣わせた。文を覧じて王卿曰く、「火鼠の袋というものを買って貰いたいとの要望ですが、これは大変難しい無理な依頼です。世にあるものならば必ずや貴国にお届け致しませうが我が国にはないものです。その名を聞いたことはありますが、私はまだ見たことがありません。そうではありますが、天竺に出向き、その国の長者辺りに問うて確かめればひょっとして手に入るかもしれません。あれば良いのですが保証の限りではありません。いずれにせよ着手金が必要です」。大臣は、着手金を渡した。
それから数カ月後して、かの唐土船が筑紫に入船して来た。大臣はこれを聞くや、即座に早馬を手配させ小野房守を迎えに行かせた。小野房守は馬を乗り継ぎ、七日の速足で船主の下へやって来た。船主曰く、「火鼠の袋を得るのは今の世にも昔の世にも難しい。ご要望を受けて以来、八方手を尽くして探して見ました。その昔に天竺の聖僧が中国に持って来ており、今は西の山寺にあることを聞き出しました。国司に当たりをつけましたところ、尋常では手に入らないのですが、それなりの金を積めば何とかなることが分かりました。当方の申し出では価の金が少し足りないと申しますものですから、我が主人の王卿が少し上積みして金五十両で話を付けました。船が帰るまでに追加金を送ってくだされば必ず手に入れて見せませうとのことです」。
大臣は、小野房守の文を見て喜んで曰く、「これぐらいのことで何を難しく云うか。金の支度(したく)の方は任せなさい。必ず送ろう。それより何よりぜひとも火鼠の袋を持って来てくだされ」。大臣は居ても立っても居られず、わざわざに唐土船を訪ね、早く送って下さるように船主に拝して頼み込んだ。
かくて、念願の袋が送られてきた。袋の入った箱を見れば、種々のきらびやかな瑠璃(るり)で作られていた。袋を見れば紺青(こんじやう)の色で、毛の末は金の光で輝いていた。まさに宝物と見え、清らかで麗(うるわ)しく、世に比べようのない立派なものであった。大臣曰く、「この世の最高のものじゃわい。かぐや姫がこれを欲しがったのも無理はない。めでたしめでたし、でかしたでかした」。大臣は早速、御身の化粧をし始めた。既に意識がかぐや姫に飛んでおり、舞い上がり始めていた。曰く、「今日これで遂にかぐや姫と契りを得ることなった。その後は邸へ呼び寄せ囲むことにしよう」。やおら詩を詠み、袋と共に箱の中に入れた。歌曰く、
「情(こころ)は火の如く尽きぬとも この袋は火に燃えぬのものと思ふ 今日は晴々(はればれ)袂(たもと)乾きて着らめ」
(無盡情如火 此裘思火不得燃 今日方能著乾袂)
(「限りなき思ひに燒けぬ裘 袂乾きて今日こそは見め」)
大臣は翁の家へ向かった。家の門に立つと翁が出迎え中へ招かれた。姫に袋を見せた。かぐや姫曰く、「何と見事なまでに麗しき皮でせう。しかし、この火鼠の皮が本物なのかどうかが分かりません」。翁曰く、「とにかくまずは入室して貰いませう。世の中に見えぬ袋のようですので本物かどうか確かめようもありません。こたびは三度目になり、もうこれ以上疑うものではありますまい。徒に人を侘(わ)びしくさせるものではありませんぞ」。
翁も嫗も、この度こそは必ず契らせようと思った。これまで、かぐや姫が長年一人身(やもめ)なのを気に病み、何とかして良い人に見合わせようと思い詰めてきた。しかるに、姫がいつも強く断りばかりしてきた。強いることもできずやきもきしてきたが、今日こそは思いが叶うことになったやれやれと安堵し始めた。
かぐや姫、翁に曰く、「世になきものなれば宝と思いませう。但し、本物かどうか確かめさせて下さい。この袋を火に燒いてください。燒けなければ本物の袋ということになります。焼けなければ、仰せに従います」。翁曰く、「云われてみれば、それもなるほどではある」。大臣に向かって翁曰く、「焼いてみてください」。答えて大臣曰く、「この皮は唐土にもなかったものを苦労して求め手に入れたものです。疑われるとは心外。それほど云うのなら燒いてみませう」。言い終わるや火の中にくべた。袋はめらめらと燒けて灰になってしまった。大臣は顔面蒼白になってしまった。かぐや姫曰く、「あなうれしや」。続いて曰く、「こうなってしまってはニセモノの袋と云うことになります」。かの詠み歌の返しを箱に入れて返した。
「跡方(あとかた)留めず燃え尽きて 凡庸物(ニセモノ)なると知りせばこの袋 あらかじめ気遣うものを」
(盡燒痕不留 早知此裘凡庸物 何勞先前枉費心)
(「名殘なく燃ゆと知りせばかは衣 おもひの外に置きて見ましを」)
大臣は何も云えなくなり黙ったまま帰ってしまった。こうして阿倍の大臣が三番目の撃沈者となった。世の人々曰く、「安倍大臣は火鼠の袋を持って来たまでは良かったが、かぐや姫に炭にされてしまったとな。遂に逢えなかったとな」。又或る人の曰く、「袋を火にくべたところ、めらめらと燒けてしまったとな。かぐや姫に逢えずお終い」。これより以後、逢いたい思いを遂げないことをば、「あへ(阿部)なし」と云うようになった。
(阿倍の御主人は、大金を払って本物を手にしたつもりがニセモノであることを判明させられ、思いを遂げなかったことになる。このことにどういう寓意があるのかは分からない)
六、大伴大納言の巻
(龍の首の玉を取りに行くも)
大伴の大納言様には、龍の首の玉を取るようにとのお題が与えられた。この方は司令官タイプで、加えて直情型の少々そそっかしいところもある御方であった。
(大伴家は歴代軍務を司どっている。この時の大伴氏は大納言として登場している。大納言とは、律令制で太政官(だいじょうかん)の役職のひとつ。長官(かみ)にあたる左大臣、右大臣、内大臣に次ぐ次官(すけ)の役職である。主と家来の結束が強い様子が垣間見える。これにどういう意味が隠喩されているのかは分からないが以下の如く描写している)
大納言も多くの従者を抱えておられた。或る日、屋敷の者全員を召し集めて曰く、「龍(たつ)の首に五色の光を放つ玉があるとのことである。これを取って来た者には願いごとを叶えよう」。聞かされた男(をのこ)ども曰く、「仰せは有り難い話ですが、龍の首の玉は容易には手に入らないものです。どうやって取ればよいのか皆目見当もつきません」。大納言曰く、「いわゆる家来(けらい)と云う者は理屈を云わず、主の仰せを命を捨てても叶えんとするのが務めというもの。天竺唐土の物にあらず、龍は我が国の海山に出没しておる。何でこれしきのことが難しいと申すのか」。男ども曰く、「特段の策がありません。とはいえ了解しました。主がそれほどまでに云われるのでしたら仰せの通りに従います」。喜んで大納言曰く、「汝ら、私の家来の名に恥じぬよう、主の願いが叶うよう全力でことに当たれ.。お前たちが龍の首の玉を取るのに要す道中の糧(かて)、食物については、今から殿中の絹、綿、錢を望むだけ支給しよう。お前らが帰って来るまで私は日々潔(みそぎ)して待つことにする。龍の首の玉を取るまで帰って来るな」。
召し人等は、主の仰せを訝(いぶか)りながらも賜わり物を分け、各々が足の向く方へ出向いた。声を潜(ひそ)めて互いに曰く、「幾ら何でもバカげた仰せである。適当にお茶を濁しませうや」。或る者は出かけたように装いつつそのまま家の中に籠ってしまった。或る者は当てもないままあちこちに赴いた。
大納言は、召し人の気持ちも分からぬまま早くも、かぐや姫を迎えた時に、どこに住まいしていただこうかと思案し始めていた。舘の造りがかぐや姫を迎えるには古臭いと感じ始め、急きょ部屋の改造を命じた。漆を塗り、蒔繪(まきえ)や色彩を施し、天井を綾織糸でしつらえた。檜の壁を葺(ふ)き、閨房(ねや)の中を飾らせた。妻どもはあきれて去って行った。一人身暮しになったものの、かぐや姫を迎える準備に余念がなかった。
こうして、日日夜夜をいつ召し人が帰って来るかと待ち続けたが、待てど暮らせど音沙汰なしであった。大納言は次第に焦り始めた。そこで、舍人(とねり)二名を呼びつけ、難波津へ様子を訊ねに行かせた。船人に問いて曰く、「大伴納言様の召し人が船に乗って出航した筈であるが、龍の首の玉を取ったという噂を聞かなかったか」。笑いながら船人答えて曰く、「オカシナことを云うものだ。そもそも大金持って出船した者はいない」。この報告を聞いて大納言曰く、「こやつらは元々聞きわけのない猫に小判の類の者でしかない。大伴の権勢をもってすれば何事も叶うということを見せつけてやろう。しかしながらもはや余裕がない。我が弓の力で龍を見つけ次第に射殺してしまおう。龍の首の玉を取るのが何でそんなに難しかろう。召し人の帰りが遅い。ええぃもう待てない。もはや私が見事取ってみせようぞ。他の者が後で取って来ても遅いわ」。かく述べて、自ら船に乗り込み、海中を巡遊することになった。
大納言を乗せた船は波のまにまに漂い遠出し、筑紫の海に漕ぎ出でた。この時、俄かに早風が吹き始めるや天地が暗くなり、船が揺られ傾き始めた。為す術(すべ)もなく大海の中をぐるぐる廻り始めた。大浪が船を直撃し、神鳴(かみなり)、落雷(らくらい)、雷鳴(らいめい)が閃(ひらめ)きやまずとなった。困惑して嘆いて大納言曰く、「こんな目に逢ったのは初めてだ。我が命が危ない。助けて下され」。
泣きながら答へて舵取り曰く、「長年船に乘って居りますが、こんな酷い嵐は経験がありません。この船は今まさに沈没し海底に沈もうとしております。神の助けをいただければともかくも神助なければ海の藻屑になってしまうでせう。嗚呼(ああ)この主の仰せを引き受けたばかりにこんな酷い破目に遭ってしまった」。これを聞いて大納言曰く、「乘船した時、お前は、この船は高山を崇める如く丈(たけ)高く、何の心配もいらないと太鼓判を押していたではないか。今になって何を云うか。デマカセ云うにもほどがある」。
かく云ううちにも船酔いが始まり、大納言は反吐(へど)を吐き始めた。舵取り曰く、「私は神ではないので手に負えません。この荒れ狂う風波を鎮めようにも奇策はありません。神鳴落雷雷鳴様、どうかお助け下さい。そもそもあなたが龍を殺そうなどと云いだしたから狂風暴雨となったのです。これは龍神の祟りです。神様に祈り助けてもらうしかありません」。
大納言曰く、「舵取の云う通りだ。今や一刻を争う。神よ聞いてくだされ。私が愚かだった。我欲で龍を殺そうと望んだことを後悔しております。今より後は龍の毛、髪一筋をも傷つけようとは思いません。謹んでお約束いたします。二言ありません、お助け下さい」。かく述べて、大声で泣き喚(わめ)き始めた。起ったり坐ったり落ち着かなかった。急に祝詞(のりと)を唱え始め、必至の形相(ぎょうそう)で千篇繰り返し始めた。
この効あってか神鳴がようやく止まり天が明るくなった。ただ風はなお吹き止まなかった。舵取曰く、「この風は龍神の祟りに違いありません。更に祈りませう。風よ去れ」。続いて曰く、「おや、この風は逆風ではありません。次第に治まりつつあるようにも思われます」。大納言は既に肝を冷やしており、舵取りの言にも上の空になっていた。
三四日(みかよか)経って吹き返しがあり、浜を見れば播磨の明石の浜に辿りついていた。大納言は、「南海の浜辺に吹き寄せられたのだろう」と思って、疲労が極度に達し船中に伏してしまった。船乗りが国府に告げ、国司が慰問にやって来た。大納言は起き上がる力もなかった。仕方なく松原の地面にむしろを敷き、うつ伏せしている大納言をその上に寝かせた。この時、大納言は、南海ではないことが分かり辛うじて起き上った。腹が張り、目も李(すもも)を二つつけたように膨れていた。国司がこれを見て、にんまりと笑った。国司に命じて腰輿(たごし)を作らせ、屋敷に連れ帰った。
大納言の噂を聞き、召し人が屋敷に帰って来て曰く、「未だに龍の首の玉を取れません。しかし主も玉を取れなかったことを聞きました。取らぬままに帰って参りましたが、どうかお許しください」。身を起して大納言曰く、「汝らが取りそこなったことを詫びなくても良い。龍は鳴神の類なり。龍を捕獲し玉をとらんとすれば汝らの命が取られるところだった。捕えそこなったからこそ命があるのだ。取れなかったことを幸いとせよ。私は、かぐや姫の言を真に受け危うく命を失うところだった。今後は二度とかぐや姫の家には訪ねないことにする。お前らも行ってはならない」。こうして、殿中の殘り物を、龍の玉を取りそこなった召し人らに支給した。
これを聞いて、既に離れていた妻等は腹を抱えて笑い転げた。糸を染めて意匠を凝らした家屋は、そのまま鳥たちの巣になってしまった。こうして大伴の大納言が四番目の撃沈者となった。これにより世間の人の云うのには、「大伴の大納言は、龍の首の玉を取りに行ったが取れなかった。取れたのは、両目の上に李のように膨れた玉だとさ」。又、おもしろおかしく混ぜて曰く、「嗟、難以嚥」(おぅ嚥(とも→堪え)難し)。これにより世間では、堪え難きを堪えることを「嗟、難以嚥」(おぉ堪え難し)と云うようになった。これが、この言い回しの始めである。
(大伴の大納言は、前三者と違い自ら本物を得に出向いたことになる。しかし、手に入れる事ができず、自ら求婚を断念したことになる。このことにどういう寓意があるのかは分からない)
七、石上中納言の巻
(燕の子安貝を取らんとすれども)
石上の中納言様には、燕(つばくらめ)の子安貝を取るようにとのお題が与えられた。この人は、自分で決めることができぬ右顧左眄型の優柔不断な質(たち)にして、加えて人の云うことを真に受けては失敗する癖がある御方であった。
(石上家は歴代神事を司どっている名家の一つである。中納言とあるから大納言よりは下位の身分と云うことになる。これにどういう意味が隠喩されているのかは分からないが以下の如く描写している)
或る時、屋敷の使用人の許(もと)へ行き曰く、「燕(つばくらめ)が巣を作るのを見つけたら直ぐに知らせよ」。使用人曰く、「なぜそんなことを望むのですか」。中納言曰く、「燕が持つ子安貝を取りたいのじゃ」。使用人曰く、「これまでに燕をたくさん殺して見ましたが、腹の中にもそのようなものを見たことはありません。ひょっとして、燕が子を産む時に出るのかも知れません。しかれども、人が燕を見てしまうと飛び去ってしまうやに聞いております。どうやって取れば良いのでせう」。
こうして、どうやって取るべきかの談議が始まったが、そうこうしているうちに或る人がやって来て曰く、「大炊寮の飯炊屋の棟の上の穴に燕の巣があります。壯夫(ますらお)に命じて梯子(はしご)を架けて子燕を窺わせませう。この時に上手に取るのです」。これを聞いて悦び中納言曰く、「これは妙案じゃ。私は気がつかなかったが、汝の提言はもっともなことと思う」。そこで、壯夫(ますらお)廿(二十)人ばかりが集められ、高い梯子を架け登り、燕の巣の中を窺わせた。中納言見守り、しばしば訊(たず)ねて曰く、「子安貝取れたかや」、「何か探り当てたかや」。巣の中には何もなかった。,燕は恐れて近寄らなくなった。
ここに翁が登場して来た。寮官人の倉津麿と云う。曰く、「子安貝を取るには計略が必要ぞな.」。 中納言の御前に進み出でて、額を寄せて密談する。倉津麿曰く、「燕の子安貝を取るのに、そのようなやり方では拙(まず)い。結果は非を見るより明らか。梯子を架けるようでは驚くばかり。大勢の者が巣に近づけば燕が寄りつかなくなるでせう。高架を毀(こわ)し人を退けなさい。熟練の男子を一人荒籠に乗せ、綱で縛(しば)って掛けるのが良い。その上で、燕が子を産む間際に綱を引き釣り上げるじゃ。そうすれば子安貝を見事に取れるというものじゃ」。中納言曰く、「なるほど」。そこで、高架を毀し人払いを命じた。しかる後、倉津麿に訊ねて中納言曰く、「しかし、燕が子を産まんとするそのタイミングをどう計るのじゃ」。倉津麿曰く、「燕が子を産む時、必らずその尾を七度振ります。燕が尾を七度振った時に綱を引き揚げるのじゃ。そうすれば、籠の中に子安貝が取れようというもの」。中納言曰く、「なるほどなるほど」。
そこで、寮の男を物色し、昼夜なく貝を取るに相応しい者を探し始めた。倉津麿のアイデアがよほど気に入ったと見え、褒めて曰く、「汝は私の使用人ではないが、我が願いめでたしの暁には望みのものを与えよう。しばし協力せよ」。こう云って、とりあえず中納言が着ていた羽織を与えた。倉津麿、これを貰って曰く、「有り難いお言葉です。お任せください。今夜必ず寮に参るつもりです」。こう述べて帰って行った。
日が暮れた時分になって子安貝取り作戦を開始した。中納言と倉津麿は使用人に指示した。下から見上げながら曰く、「燕が尾を振る時、荒籠を引き綱を釣り上げる。その時、手をすっと伸ばして巣の中の子安貝を探すのじゃ」。使用人はその時を待った。燕が尾を振ったのを合図に、さっと巣の中に手をれた。しかしながら曰く、「それらしいものが見当たりません」.。これを聞いて怒って中納言曰く、「汝の探し方が下手なのじゃ」。人を替えて試したが、これも失敗した。改めて曰く、「このへたくそめが。私が登って探そう」。
そこで籠に乘り登って穴を窺った。その時、燕が尾を振り廻り始めた。その刹那(せつな)、手を差し伸べると平たいものに触れた。喜んで曰く、「握ったぞ。さぁ私を降ろせ。倉津麿よ、遂に子安貝を取ったぞ」。大声で使用人を呼び寄せ曰く、「早く私を下せ」。使用人が籠を降ろそうとして綱を引いたが、大慌てで引き過ぎたためプツンと切れてしまった。中納言はそのまま八島鼎(かなえ)の上に落下した。.驚いた使用人急ぎ抱きかかえて曰く、「大丈夫ですか。お気を確かになされませ」。中納言は両の白目をくるくると廻していた。水を口にふくませると漸(ようや)く正気(しょうき)に戻った。幾分か苦しそうにしていたので、鼎の上で手足を揉みさすった。
少々息を荒げながら中納言曰く、「降りるときに失敗した。腰が痛くて動けない。しかし痛さもなんのその子安貝を握っているのでこれに勝る悦びはない。心配ない。それより私が握っている貝を早く見たい。が、起き上がれない。みんなで確認してくれ」。中納言が手を開くと、使用人どもが見たのは何と燕の古糞(ふるくそ)だった。これを見て嘆じて曰く、「ああ、貝を取るのにこんなに苦労したと云うのに」。これより世人、願い事違う時には、「貝なし(甲斐なし)」と云うようになった。
子安貝を取り損ない、唐櫃に入れてかぐや姫に見せに行く夢を叶えられなかった中納言は、腰を痛めて立つこともできぬようになり、氣病みも加わった。弱った両目は相変わらず貝を取りそこなったことを恨んでいるようだった。世人の笑いを懼(おそ)れ、日々鬱々になりとうとう病死してしまった。
(石上の中納言のみ気弱になり日日鬱々のまま死んでしまったとあるのも何らかの裏意味があると窺うべきであろう。中納言は他の方に較べて物入りしなかったが一番慘(むご)い目に遭ったことになる。中納言の様は石上家のそれでもあるように思われる。そういう隠喩が込められているように思われる)
かぐや姫、このことを聞いて慰め歌って曰く、
「年を經て浪立たず 住江(すみのえ)の松は何処にあらむ 子安貝得ずと聞き思う」
(經年浪不立 訊杳住江松不待 聞是不得子安貝)
(「年を經て浪立たちよらぬ住江(すみのえ)の 末(まつ)貝無しと聞くは真ことか」)
かぐや姫の慰めを聞いた中納言は、身体(からだ)は弱り床に伏し頭を上げるのも難しかったが、紙を取れと命じ、心中の苦悶を詠んで曰く、
「労したものの貝を得ず 今かぐや姫の一言を得 慰みの良薬とぞ けだし身の救い難しのみ恨み残る」
(徒勞不得貝 得汝一言如良藥 只恨殘身難為救)
(「かひは斯くありけるものを侘び果てて死ぬる命を救ひやはせぬ」)
中納言は、書き終えるやそのまま死んでしまった。こうして石上の中納言が五番目の撃沈者となった。これにより五人衆は皆思いを遂げられなかったことになる。かぐや姫は、これを聞き少し哀しんだ。かぐや姫の哀しみを貰った中納言は甲斐を得た。これにより歓びごとを甲斐有りと云うようになった。
(石上の中納言は、前四者と違い自ら本物を得んとして危険を冒し、転落して腰の骨を折り、これが元で病に伏し、未練のまま病没したことになる。このことにどういう寓意があるのかは分からない)
八、御帝とかぐや姫の巻
御帝は、かぐや姫が世に並ぶもののない傾国の美人であるとの噂を聞き、内侍(ないし)の中臣の房子に詔して曰く、「多くのそれなりの男たる者を慕わせた挙句に惑わし狂わせたかぐや姫の話を聞いた。誰も結婚することができないと云う。いかなる姫なるか見てきて欲しい」。
(内侍は、後宮十二司のひとつである内侍司(ないしつかさ)に所属する女官を指す。従五位相当の掌侍(ないしのじょう)(官職は上から「かみ→すけ→じょう→さかん」)ではないかとされる)
内侍は承りて辞去し翁の屋敷に出向いた。翁は、畏(かしこ)まって請じ入れた。内侍、嫗に曰く、「御帝が、かぐや姫の容姿(みめかたち)をこと細かく見て参れとの仰せです。こういう次第でやって参りました」。嫗曰く、「暫しお待ちください。その由を伝えて参ります」。嫗はかぐや姫に向かって曰く、「急いで御使いの方と対面しなさい」。かぐや姫曰く、「私の容姿は品定めされるほどのものではありません。器量比較されるなど嫌でございます」。嫗が怒って曰く、「失礼なことを云いなさんな。帝の御使いが来ておられるのですぞ。疎かにするものではありません」。かぐや姫曰く、「帝が召しておられるような御方とお会いするのは恐れ多いことです」。こうして、どうしても会見に出向こうとしなかった。
嫗が内侍に曰く、「長年養って参りましたが、未だ外へ出たことがなく、今も催促しましたが恥ずかしげにしております。嫗が強く責め立てましたが、恥ずかしいなどと申して出て参りません。この乙女子は少し変わったところがあり世間の常識を知りません。そういう訳ですのであきらめてくださりますか」。内侍曰く、「御帝がわざわざ必ず見て參れとの仰せです。見ぬままに帰る訳には参りません。国主の命令に従わないとはあまりにもな不心得というものです」。続けて曰く、「国主の令に逆らえば命がなくなることもお覚悟しておいてください。すぐに帰って顛末(てんまつ)を奏上致します。追って沙汰があるでせう」。
内侍の報告を受けた御帝曰く、「許し難い。こういう態度は死刑に値しようぞ。但し、今しばらくの間は措置をせずそのままにしておく」。御帝は、かぐや姫が何を考えているのか、何か謀(はか)りごとがあるのか、逆にこのことが気に掛かり始めた。竹取の翁を召して曰く、「汝が抱えているかぐや姫をつれて来い。みめ形良いと聞き御使いを遣わしたが、会うことさえできなかった。無礼にもほどがある。どういう育て方をしているのか」。
畏まりながら翁曰く、「この乙女子は、みんなが憧れる宮仕えを願わず、そういう気持ちさえないようです。私も持て余しております。帰ってもう一度強く勧めてみませう」。御帝曰く、「翁が手塩にかけて育てたと云うのに、汝の言うことをきかないとは親知らずなことよ。しかしながら云い置く。この女をもし宮仕えさせたことならば、翁に冠位を授けよう。何とかせよ」。翁は喜んで家に帰り、かぐや姫に曰く、「ここに御帝の詔が下った。宮仕えの儀承知か否か」。かぐや姫曰く、「私は、宮仕えさせて貰う気持ちはありません。これを強いて勧めるのならば居なくなりませう。或いは、父上が冠を頂いた後に死んでしまいませう」。
翁は慌(あわ)てて曰く、「滅相(めっそう)もないことを云いなさんな。冠位と引き替えに我が子を失うのでは貰っても意味がない。それにしても、なぜそんなに宮仕えを嫌がるのじゃ。どうしても死ぬほど嫌なのか」。かぐや姫曰く、「もし私の云うことに疑いあれば、宮仕えの後、私の生死がはっきりするでせう。その昔、日々私を求める者が居ましたが、結局は願い叶わぬことになりました。御帝の詔に靡(なび)くとならば、今までの方に申し訳ありません。辻褄が合わなくなります。天下の笑い物になるでせう」。翁曰く、「朕の命令は天下の大事。翁には恐れ多い。お前の命が危ないのじゃ。これから再び参り、お前が頑(かたく)なに宮仕え願わぬ気持ちをよしなに伝えよう」。
御帝の前に参り翁曰く、「詔をいただき大変恐縮しております。しかれども、この年寄りがしばしば勧めてみましたが、乙女子は宮仕えしようとしません。『宮仕えするぐらいなら、いっそのこと死んでしまいます』とまで云います。この子、実は私のところで生まれたのではありません。その昔、山中に見出した者で、どこの生まれの者か定かには分かりません。そういう訳で世離れしております」。御帝曰く、「造麿(みやっこまろ)の家は山麓に近いという。ならば朕が狩りに行くことにしよう。そこで偶然に出会うことにしたらどうだろう」。造麿曰く、「それは妙案です。乙女子が気づかないように居宅の間に居らせませう。陛下が行幸なされ、お逢いするのが良いでせう。そうすれば自然とお会いできるというものです」。
こうして、御帝は俄(にわ)かに狩りに出向くことになった。そこで、かぐや姫の屋敷に入った。屋敷は光に満ちていた。その中に乙女子一人居た。御帝はたちまちその容姿に惑い、姿をもっとつぶさに見たいと思った。御帝曰く、「これこの者よ、もっと近う寄れ」。乙女子は身を起こして逃げた。御帝は衣の袖を捕え、乙女子は袖で顔を隠した。御帝曰く、「放すものか。入宮して我に仕えよ」。かぐや姫曰く、「私の身がこの国のものならば宮仕えせよとあらば致しませう。しかれども、かりそめの身です。私を強く率いる者が居り、それ故に難しいのです」。御帝曰く、「この世に私の詔より強いものがあると云うか。ならぬならぬ、お前を連れて帰ることにする」。御帝が御輿(みこし)を寄せようとした時、かぐや姫の姿がすっと消えてしまった。
御帝は夢か幻を見ているような気持ちになった。御帝曰く、「そなたが誠に常の人ではないことが分かった。このようにされるのでは、そなたを宮中へ連れて帰ることもできぬ。ただ願わくば朕にもう一度姿を見せてくれ。そなたをもう一度見てから帰ることにしよう。朕の約束じゃ」。かぐや姫は元の姿に戻った。かぐや姫が世の常の人ではないことを知った御帝の心中は、思慕の情を更に募らせることになった。しかし、欲すれば消えるのではどうしようもなかった。この間、翁は盛大に宴を催し、御帝に仕える百官の供奉(ぐぶ)の人をもてなしていた。
御帝は約束通り去ることにした。御輿に乗った時、詩を作りかぐや姫に贈って曰く、
「帰る路の哀しさよ 空しく帰る愁い止まず かぐや姫留まり我に来ぬ故になり」
(歸道是憂愁 空歸徒駕愁不止 只故姫留君不來)
(「歸るさのみゆき物うく思ほえて 背きて留まるかぐや姫ゆゑ」)
かぐや姫、返歌して曰く、
「葎(むぐら)が地下深く年を経て往(とどま)るように この身は已(すで)に鄙(ひな)びた陋宅に慣れおりて 金殿玉樓の居を憧れず」
(葎下經年住 此身已慣鄙陋宅 金殿玉樓不冀居)
(「葎はふ下にも年は經ぬる身の何かは玉の臺をも見む」)
御帝、かぐや姫の返歌に感じ入り引き返そうかと思った。その心は宮中に戻る気をなくしていた。しかしながら、近く寄せようとすると消えてしまうので、どうしようもなかった。既に夜を明しつつあった。今更引き返すこともできず、名残惜しく思いながら宮中に戻った。それからも左右の仕えの者を見にやらせたが、かぐや姫に出会える者はいなかった。
御帝はかぐや姫に恋をした。宮中の女官と比べるのに、それぞれそれなりのものとはいえ、かぐや姫と比べられるものはいなかった。心にかかり思うのはかぐや姫のことばかりとなった。御帝は一人で過しはじめ、よほどの用事でもない限り后妃とも会わなくなった。ひたすらかぐや姫に文を書き、募る思いを伝えた。かぐや姫も、御帝の思いに応え始め歌を返した。この間、魚が泳ぎ行き、燕が往復した。御帝は四季の移り変わりのまにまに季節の趣の詩を作り歌を詠みて、かぐや姫の許へつかはした。
九、天に舞い上る明月のかぐや姫の巻
このように互いの情を慰め合ううちに三年が過ぎ、春の初め頃より、かぐや姫が美しく出ている月を仰いでは、悲しそうに物思いに耽るようになった。或る人曰く、「月の顔を見るのは忌むべきことです」。家中の者がやめさせようとしたが、ともすれば一人で眺めてはすすり泣きし始めた。
かくて七月(ふみづき)になった。かぐや姫は、十五夜の満月を見て殊更に物思いに耽っていた。近従の使用人が翁に告げて曰く、「これまでにも月の明かりに悲嘆する時がありましたが、この頃更に激しくなっております。注意して見守った方が良いですよ」。これを聞いた翁、姫に曰く、「何で物憂げに月を見るのかや。この世はこの世で素晴らしいのに、何が足りないのかや」。答えてかぐや姫曰く、「月を眺めますと、我が身と人の世の悲しさを感じ入るのです。嘆息しておりますが憂鬱と云うようなものではないのです」。
その後も、姫は月を眺めては眉をひそめ愁(うれ)いていた。これを見て翁、悩みがあるのなら、この翁に相談してみたらどうかと尋ねて曰く、「私は、そなたをいとしく思っている。そなたが痛々しく物思いに沈んでいるのを見るのが辛い」。かぐや姫曰く、「翁や世に対する憂いや患いではないのです。世の定めに思いを寄せ、寂しさのような心細さを覺えております」。翁曰く、「もはや月を見てはいけない。見るから悲しくなるのじゃ」。かぐや姫曰く、「申し訳ありませんが、月の方を眺めずにはおれません」。こうして、月が昇れば縁に出て憂いていた。夕闇の日には憂いの息はなく、臨月の月の宵には必ずすすり泣きするようになった。仕えの者が声を細めて云い合い曰く、「こうも憂い悩むからには何かあるに違いない」。けれども、両親を始めとしてその由を知らぬ者ばかりであった。
八月(はつき)が近づくようになると、姫は人目も気にせず大泣きするようになった。これを見て慌てて翁と嫗曰く、「何事ぞ」。泣き泣きかぐや姫曰く、「これまでに伝えておこうと思っておりましたが、ご両親さまが悲しむだろうと思い語ることができませんでした。今日伝えなくても、必ずその時が来ますのでお知らせします。今日という今日はすべてをお打ち明け申します。私の身はこの世のものではありません。実は月の都の人です。昔の契りによってこの世に降りて参りました。しかし今、帰る時に至りました。この月の十五夜の日に、かの国の人たちが迎えに来ます。このことだけは避け難いのです。ご両親様の悲嘆を思って、この春から憂いております。嘆きを止めようがないのです」。そう云って、更に泣きじゃくり始めた。
(ここで、かぐや姫が月の都の人であることが知らされる。この場合の月は、天空の日月の月と受け取るのが自然であるが、月も何らかの隠喩であるとも考えられよう)
翁曰く、「お前の云うことがさっぱり分からない。お前は、私が竹藪の中から見つけ出し、拾った時には僅かに菜種(なたね)ほどであった。それを養育し今日まで丈夫に育てて来た。何人(なにびと)が来ると云うのじゃ。誰が迎えに来ようと渡せるものか」。更に号泣し曰く、「お前がそんなに悲しむのなら、翁が死んで代われるものなら死んで見せようぞ」。このやり取りの情景は悲しく堪え難いものであった。かぐや姫曰く、「月の都にも父母がおります。月の国を離れ、片時の間をこの世の人となりました。とはいえつい長の年月になつてしまいました。今、千秋の思いで月の国の父母が待ちわびております。月の都の人は容貌端麗にして不老不死、憂苦がありません。訳あってこの世に下り、親を知り、大切に育てられ、情けを通わせていただきました。まもなく故国へ帰りますが後ろ髪引かれる思いです。しかし帰ることになります。これは、どうにもならない定めなのです」。こう言って涙を流し続けた。使用人等も数年共に暮らし、既にかぐや姫と情を通わせており、その美しさ、気品、心根の優しさを敬愛していた。今別離の時となるや悲しみ抑え難く、翁嫗と同じ気持ちで悲嘆した。
御帝が、これを聞きつけ、使いの者を遣わして来た。翁が出迎えた。御帝の詔を伝えて使いの者曰く、「聞くところによると憂いの極みということになるがまことか」。翁は、かぐや姫から聞かされた由(よし)を伝えた。使いの者はこれを聞き、共に泣きやむことができなかった。翁は余りにも哀嘆していたのでまたたく間に老け、髮が真っ白になり、腰が屈み、目がただれ、老人そのままの格好になっていた。泣く泣く翁曰く、「今月十五夜の日、月の都の使いがかぐや姫を迎えにやって来ます。こうなったら、皇尊に助けてもらうしかありません。兵馬を差し向けていただき、十五夜の日に来ると云う月の都の人を捕まえるしかありません」。
使いの者は帰参し、御帝に翁の要請を伝えた。これを聞いて御帝曰く、「朕唯うに、一度の面識でしかないのに、あれ以来かぐや姫の事が忘れられない。こたび翁が朝な夕なに、かぐや姫が月の都に取られてしまうことを嘆いている。かく知った以上、居ても立ってもおられない」。十五夜の月、御帝詔して、敕使として高野大国為近衛少將を派遣し、六衛の司を合わせて二千人を竹取の翁邸に遣わした。屋敷に陣地を作り、築地の上に千人、屋の上に千人を配置した。家の中の使用人等もひとまとめにさせ輪番にさせた。守備を厳重にし、要所要所に守人として弓矢持ちを配置した。嫗はかぐや姫を擁し、身を塗り籠に隱した。翁が籠に鎖をして閉じ込めた。
翁曰く、「これほどに厳重に守備した以上、天の人に負けることはなかろう」。屋の上に居る守人に曰く、「空を翔(かけ)るものを見たら、大小に関わりなく射殺してしまえ」。守人等曰く、「これほど厳重に守っているからには、蝙蝠(こうもり)一匹さえ見つけ次第に射殺して見せませう。ご心配ご無用です」。これを聞いて翁は頼もしく思い心安らかになった。しかし、かぐや姫曰く、「例えどんなに厳重にしても、幾ら謀りごとをしても、月の国の人と戦って勝つことはできません。弓矢を射ても当たらず、深き鎖に閉じ込めても錠を開けることになるでせう。戦(いくさ)しようとしても月の国の勇者が気圧して戦にならないでせう。挑む人は居なくなるでせう」。
これを聞いて翁憤って曰く、「迎えの人が来れば、私の長い爪でその両目を掻きむしってやる。その髪を取って宙に舞わせ、その尻を晒して皆の者どもに見せて恥さらしさせようぞ」。かぐや姫曰く、「そのようなはしたないことを云われませぬよう。屋の上に居る人にも聞こえてしまいます。それはそれとして、養育賜わりました恩を報わぬまま突然帰ることになりますが残念でたまりません。今日まで長らくお育ていただきましたが、愉(たの)しかったうたかたの日々を忘れません。私は、日が出る頃にはお暇することになるでせう。ご両親様は穏やかでは居られないでせうが、それを思うと私も辛いです。お世話になった御両親様への御恩返しもせぬまま衰老の両親の下を去りますことがとても悲しいのですが、両親さまにおかれましては、別離の悲しみをいつまでも引きずられませぬように」。起ちて憤慨して翁曰く、「胸が痛くなるようなことを二度と云うな。迎えの使いが来ても、それがどうした。何の関係もない」。
かゝるうちに宵の刻が過ぎ、子(ね)の時ばかりになった時、家の周りに光が発し昼の明るさになった。望月の明るさを十合せたようになり人の毛の穴さえ見えるほどになった。大空より、人が雲に乗りて降り来て、地より五尺ばかりあがったところに立ち連なった。内外(うちそと)に詰めていた兵士等の心は、ものに襲われたかのようになり、戦う気持ちを失ってしまった。一刻後、思い直して弓矢を射ようとしたが、手に力がなくなり痿(な)え屈(かがま)ってしまった。剛の者が射たが的をはずれ、あらぬ方向へ飛んで行ってまった。何とも戦するどころではなく皆正気を失い、恍惚の様子で言葉を失ったまま天人(あまびと)たちの様子を見ていた。
天人の立てる人どもの裝束は清らで、この世のどんな物にも似ていなかった。飛ぶ車を一つ具していた。その上に絹の羅蓋を掛けていた。天人の中の王者と思われる容貌の人が前に進み出て曰く、「この家に居る造麿、出て来てくだされ」。それまで意気軒昂に猛っていた造麿は、ものに醉うたような気持ちになり、うつぶせに地に伏し拝した。天人宣りて曰く、「愚かなるかな翁、弁(わきま)えよ、翁が功徳の人であるのを見染め、かぐや姫を片時の程降らせた。この間の数年、汝には黄金を与えて財産とさせた。これにより汝の境遇は変わり豊かに恵まれたはずである。かぐや姫は罪をつくったので、かく賤しきおのれが許にしばしの間居ることになった。しかし今罪の期限が来たので迎えに来ている。翁が泣きわめけどもどうしようもないことである。早く返すように」。
応えて翁申す、「私は、かぐや姫を養ひ奉ること二十年余りになっております。片時と仰せなされるが、そうではありません。ひょっとしてよそにもかぐや姫と申す者がおるのではないでせうか。ここに居るかぐや姫は今重き病をしており、出てくることはできません」。天人答えず、屋の上に飛ぶ車を寄せて曰く、「いざ、かぐや姫、穢(きたな)き所に何で久しく居ようとするのか」。
立て籠めたる戸が自然に開き、人の手を借りぬのに格子が開いた。嫗が抱いていたかぐや姫がすっと外に出た。嫗は、止めることができなかったので天を仰いで泣いた。翁も何もできず地面に泣き伏せていた。かぐや姫、翁の傍に寄りて曰く、「不本意でありますが帰ります。せめて天に昇るところでも見送ってください」。翁、泣き続けたまま曰く、「こんなに悲しいのに何で見送りなぞできようぞ。私をなぜこのように捨てて昇りなされるのか。いっそのこと一緒に連れて参ってくれぬか」。かぐや姫曰く、「文を書き遺して辞去します。私を恋しくなった折々に取りだしてお読みくださいませ」。泣きながら書く言葉は、「私は、この世に生を受ける身ならば嫌と云うまで一緒に居りますものを、途中でお別れすることが返す返すも残念です。私が脱ぎ置きます衣を形見と思ってください。月の出た夜に御覧下さいませ。親を見捨てて辞去する空より落ちて参ろうかという気持ちになると思います」。
天人の中に持たせていた箱があり、天の羽衣を入れた。それに加えて不死の薬も入れた。天人曰く、「壺の中の御薬をいただきなさい。きたなき所のもの食べていたので心地が良くなかろうぞ」。そう云って薬の壺を差しだした。かぐや姫、少し嘗(な)めて、形見として脱ぎおいた衣に包もうとした。天人包ませず御衣をとり出でて着せようとした。その時にかぐや姫曰く、「しばしお待ちくだされ。衣を着てしまうと心が別なものになります。一言云い置きたいことがあります」。文を書き始めた。天人、「遅い」と催促し始めた。かぐや姫曰く、「もの分かりのないことを云われますな」。
こうして、靜かに落ちついて御帝に御文を書き始めた。認めた文に曰く、「このように数多くの兵士を警護していただきましたが、どうにもならない迎えが来ましたので、とり急ぎ罷ることになりましたことを残念に思います。結局、宮仕えできませんでしたのも、こういう複雑な身の上によるからです。そういう事情が分からぬまま私を慕っていただきましたが、お断りしました非礼をお詫び申し上げます。このことが心残りです」。和歌を一首付けて曰く、
「人の世を久しく待てず 月に昇らんとして天の羽衣著る折ぞ 帝君憶(おも)えば心哀しきばかりなり」
(人世不久待 著天羽衣將昇月 憶及帝君心可哀)
(「今はとて天の羽衣著るをりぞ 君を哀れと思ひ出でぬる」)
壺の藥を添えて、書信を中に置いた。天人受取り、頭中將を呼び寄せて渡した。中將受け取りの後、天人はかぐや姫の身を羽衣でおおった。かぐや姫、これを着る。翁は悲しく泣き喚いた。かぐや姫は車に乗り、天人百名と共に天に昇った。虹を道として月の都へ帰って行った。
十、不死の山の富士の岳の巻
その後、老翁と老嫗は血の涙を流して悲嘆にくれた。かぐや姫の書信を聞いて曰く、「何も手につかない。命も惜しくない。誰にも用もない。何もかも意味がなく生きる気力がなくなってしまった」。二人は、これ以上生きることを求めず、薬も飲まず、やがて病み伏せるようになってしまった。中将は、兵士どもを引き連れて内裏へ帰参し、戦をせずしてかぐや姫を留めることができなかった顛末(てんまつ)をるる言い訳した。不死の薬の壺に書信を添えて、御帝に差し上げた。御帝は、文を御覧になって、しみじみと泣いて悲しみ、お食事も召し上がらず、管弦のお遊びなどもなさらなくなった。
或る日、御帝は、大臣、顯達部(上達部、かんだちめ)をお召しになり曰く、「天に一番近い山はどの山か」。或る人申して曰く、「駿河の国にある山が、この都からも近く、天にも近うございます」。これを聞き、御帝、嘆息して詠んだ。
「佳(よ)き人に二度と逢えず 断腸の涙に浮かぶ我身には 不死の藥も何の益あらむ」
(佳人不復逢 我身斷腸淚涕下 不死之藥焉何益)
(「逢ふことも涙に浮ぶ我が身には死なぬ藥も何にかはせむ」)
御帝、調岩笠(つきのいはかさ)と云う人を勅使に召して、駿河の国にあるという山の巓(いただき)に向かうよう命じられた。かぐや姫から貰った不死の藥の壺に御文を添えて渡し、峰にてすべき次第を教え、御文、不死の薬の壺を並べて火をつけてもやすべき旨を詔(みことのり)した。勅使これを承(うけたまわ)り、大勢の兵士(つはものども)を連れて山へ登った。山頂で教えられた通りの行事を執り行った。これにより、この山は不死の山と名づけられ、後に富士の名となる。その煙は今でも雲の中に天まで立ち上り、永遠にやむことなしと云う。
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