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*写真は出口王仁三郎晩年の近影
■引用元:ブログ「月は盈つとも虧くるとも」http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/2100630.html
■最近よく紹介されている「続・瑞能神歌」は出口王仁三郎の著作ではありません。
これははっきりと明言させて頂きますのでお間違え無きよう。
「続・瑞能神歌」は王仁三郎の死後に彼の霊がかかったという人の言葉が口述されたもので王仁三郎の言葉であることは証明されていませんのでお気を付け下さい。
■下記の引用記事にそのあたりが詳しいのでご参照ください。
今日ご紹介する「大本神歌」は王仁三郎が大正6年12月1日に明治〜現代
そして未来を見通して、作った歌であると言われています。
これは「瑞能神歌」という冊子に、「いろは歌」(これも予言歌であると言われ
るもの)と一緒に収蔵された為に「瑞能神歌」とも呼ばれています。
最近、王仁三郎がその後に作った歌であると【間違って】巷間に流布してい
る「続・瑞能神歌」は、『王仁三郎の死後、その霊が広島の某信者に移って
霊言によって著された』ということですが、当ブログの過去記事
「 神がかりは禁止 by 出口王仁三郎」
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/1509623.html
をお読み頂ければ、王仁三郎が
大正10年以降は「神がかり」を禁止していたのに、当の王仁三郎が、しかも
一信者に「かかって」作歌するなど、考えられないと言う事は お分かり頂ける
ことと思います。
王仁三郎は生前、驚嘆すべき数の著作、和歌、芸術作品を残しており
わざわざ、死後、誰かに懸かる必要など一切ないことは明らかです。
王仁三郎は『霊界物語』に自らの全てを注いだ、『霊界物語』に全てを書いた、
ワシが恋しくなったら『霊界物語』を読めと、『霊界物語』こそが王仁三郎自身
であることを、くどい程、弟子、側近、信者に言い残しており、また、【本物の】
遺言にも『霊界物語』の拝読だけは何があっても辞めてはいけないとまで書き
残しているのです。
また、この『瑞能神歌』に収録されている、『大本神歌』は、第二次大戦までの
予言しかしていないとか、それ以降のことは「続・瑞能神歌」や「日月神示」などが
引き継いでいるなどと宣伝している人もいるようですが王仁三郎は弟子、信者に
下記の言葉を残しています。
昭和十九年六月頃、瀬領貞道氏、油谷靖通氏が、師である出口王仁三郎を訪ね、その時の記録が残されています。
(引用開始)
「後の世のために聞かせておく、今度お出ましになるみろく様は
『弥勒最勝如来』である」 と仰せられ、『瑞の神歌』は、今度のこと(第二次世界大戦)と違っておりませんか。と申し上げると
「何が違うか、少しも違っておらん。三番叟が終わって今度の戦争(第二次大戦)が初段で、今からが二段になる。人さえ殺したら戦争と思っているがそうではない。思想戦、経済戦などあらゆる戦争なんだ。今から二段目に入るんだ。三段いよいよ開くとき、みたま集まる大本の、いづのみたまを元帥に、みづのみたまを指揮官に…」
と仰せられ
「これが三段目や。いま二段の最中や。二段目をこまこう書かなんだのは、日本の軍隊はつぶれるぞ。天皇制がつぶれるぞ。そんな阿呆なことを書いたら、わしの首いくらあっても…へんがな。お前たちの首いくらあっても…。やがて今度くるのが三段目や。いよいよ開く時じゃ。その覚悟は充分にしておけよ。」と念入りに申された。
(引用終わり。みいづ舎刊『仏説法滅尽教と弥勒下生 』より)
この「瑞能神歌」が発行された当時(大正6年12月執筆大正7年2月発表)、在日米国大使館が日本の外務省に、アメリカは日本と友好国であり戦争することは絶対にないと強く抗議したという記録が残っているそうです。結果としては皆さんご存知の通りですが…
では、出口王仁三郎【本人による、本物の著作】『瑞能神歌』の中から、『大本神歌』の全文をご紹介します。
大本神歌
(一)
東雲(しののめ)の空に輝く天津日(あまつひ)の、豊栄昇る神の国、四方に周(めぐ)らす和田の原、外国軍(とつくにいくさ)の攻難き 、神の造りし細矛(くわしほこ)、千足(ちたる)の国と称えしは、昔の夢と成りにけり。今の世界の国々は、御国に勝りて軍器(つわもの)を、海の底にも大空も、地上地中の選み無く、備へ足らはし間配りつ、やがては降らす雨利加(アメリカ)の、数より多き迦具槌(かぐづち)に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬(うきせ)を渡る国民(くにたみ)の、行く末深く憐れみて、明治の二十五年より、露の玉散る刃(やいば)にも、向かいて勝を取らせつつ、猶(なお)外国(とつくに)の襲来を、戒め諭し様々と、神の出口の口開き、詔らせ給(たま)へど常闇の、心の空の仇曇り(あだぐもり)、磯吹く風と聞き流し、今の今まで馬の耳、風吹く如き人心、アァ如何にせん戊(つちのゑ)の、午の春夏秋に懸け、心落ち居ぬ荒浪(あらなみ)の、中に漂ふ苦しみは、神ならぬ身の知る由も、なく泣く縋る神の前、水底潜(くぐ)る仇艦(あだぶね)と、御空に轟く鳥船の、醜(しこ)の荒(すさ)びに悩まされ、皆散り散りに散り惑ふ、木の葉の末ぞ哀れなる。
(二)
聯合(れんごう)の国の味方と今迄は、成りてつくせしカラ国の、悪魔邪神(まがつのかみ)が九分九厘、モウ一厘の瀬戸際に、旗を返すと白露の、其振舞(そのふるまい)の非義非道(ひぎひどう)は、凡(すべ)ての計画(しぐみ)を狂わせて、勝つ可き戦争の負け始め、永びき渡る西の空、黒雲晴るる暇も無く、独り気儘(きまま)の仕放題 、印度の海も掠め取り、茲にも深き経綸(しくみ)為し、次いて浦鹽(ウラジオ)日本海、我物顔に跳梁し、トントン拍子に乗り出して、神の御国を脅迫(おびやか)し、モウ一と息と鳴戸灘、渦巻き猛る荒浪に、大艦小艦残り無く、底の藻屑と亡ぶるも、綾の高天(たかま)に最(い)と高く、空に聳えし言霊閣(ことたまや)、天火水地と結びたる、五重(いづえ)の殿に駆け登り、力の限り聲(こえ)限り、鳴る言霊の勲功(いさおし)に、醜(しこ)の鳥船軍艦(とりふねいくさぶね)水底潜(みなそこくぐ)る仇艇(あだぶね)も、皆夫々に亡び失せ、影をも止めぬ惨状(みじめさ)に、曲津軍(まがついくさ)も慄きて、従ひ仕へ来る世を、松と梅との大本に世界を救う艮(うしとら)の、神の稜威(みいづ)ぞ尊とけれ。
(三)
綾の高天に顕れし、国常立(くにとこたち)の大神の、神諭(みこと)畏(かし)こみ謹みて、厳(いづ)の御魂と現はれし、教御親の神勅(かみこと)に、日清間の戦ひは、演劇(しばい)に譬えて一番叟、日露戦争が二番叟、三番叟は此度の、五年に亙りし世界戦、龍虎相打つ戊の、午の年より本舞台、いよいよ初段と相成れば、西伯利亜(シベリア)線 を花道と、定めて攻め来る曲津神。力の限り手を盡し、工夫を凝らし神国を、併呑(ひとのみ)せんと寄せ来たり、天の鳥船(とりふね)天(そら)を蔽ひ、東の空に舞い狂ひ、茲(ここ)に二段目幕が開(あ)く。三段いよいよ開く時、三千餘年の昔より、国の御祖(みおや)の選まれし、身魂(みたま)集る大本の、神に仕えし神人が、御祖の神の給ひたる、日本心(やまとごころ)を振り起し、厳(いづ)の雄猛(おたけ)び踏み猛び、厳の身魂を元帥に、瑞の身魂を指揮官に、直日の身魂を楯と為し、何の猶予も荒身魂、爆裂弾の勇(いさぎ)能く、神の軍(いくさ)の奇魂(くしみたま)、奇しき勲功(いさお)は言霊の、天照る国の幸魂(さきみたま)、言平和(ことむけやわ)す和魂(にぎみたま)、魂の助けの著るく、轟く御代を松の代の、四十有八(よそまりやつ)の生御魂、言霊閣(ことたまのや)に鎮まりて、四方の国々天の下、治めて茲に千早振、神代ながらの祭政一致(まつりごと)、開き始めて日の本の、現津御神(あきつみかみ)に奉る、常盤の御代ぞ楽しけれ。
(四)
カラ国の天に漲る叢雲(むらくも)も、砲煙弾雨も晴渡り、日の出の守護と成るなれば、斯上無(こよな)き御国の幸なれど、十重(とえ)に二十重(はたえ)に累(かさ)なりし、糸のもつれの彌繁(いやしげ)く、解くる由なき小田巻の、繰り返しつつ行く程に、東の空にもつれ来て、退くに退かれぬ破目と成り、 彌々(いよいよ)出師(いくさ)と成る時は、五十餘億の軍資をば、一年経(たた)ぬ束の間に、烟散霧消(えんさんむしょう)の大惨事、巨万の生霊土と化し、農工商の国本も、次第次第に衰ろえて、青菜に塩の其の如く、彼方此方に溜息を、つくづく思案に暮れの鐘。進退茲に谷(きわ)まりて、天(あめ)を拝し地に伏し、狼狽えさわぐ弱虫の、カラの身魂は自から、現はれ狂ふ憐れさよ。然れど日本は千早振、神の守りし常盤国、国の真秀国(まほくに)珍の国(うづのくに)、神が表面(おもて)に現れまして、御国を守り給いつつ、世界を救ひ玉へども、未だ未だ心許されぬ、一つの国の御空より、降る雨里迦(あめりか)の一時雨、木枯さへも加わりて、山の尾の上(へ)の紅葉(もみぢば)も、果敢なく散りて小男鹿(さおしか)の、泣く聲(こえ)四方に龍田山、神のまにまに四ツの尾の、山の麓の龍館(たつやかた)、集り居ます神々の、厚き恵みに照り返す、紅(からくれない)の楓葉(もみじば)の元の姿ぞ目出度(めでた)けれ。
(大正六年十二月一日)
(引用終わり。出口王仁三郎著 『王仁文庫』第三篇「瑞能神歌」より「大本神歌」全文引用)
*旧漢字、旧仮名遣いを引用者の随意で数か所現代用法に改めています。
また、原文は総ルビですが引用時随意でルビを省略。
引用前の王仁三郎が弟子に語った部分は上記(三)の歌が該当します。
全文を繰り返し、味わって頂ければ、予言の内容のみならず、歌の音韻や流れなど 「似たり八合」の他の文章では及ばない、美しさや洗練さがあると思います。やはり、何事も「本物」を知り、味わう必要があると思うのですが如何でしょうか。
さて、王仁三郎は昭和十九年に今が二段目が始まった所だと述べた上で、「人さえ殺したら戦争と思っているがそうではない。思想戦、経済戦などあらゆる戦争なんだ」
と終戦間際から、「二段目」が始まり思想戦、経済戦などがそれ(二段目)に含まれていると説明していました。
現人神天皇制が終わり、軍隊が解散させられ、欧米や近隣諸国との、思想戦、経済戦が、今も続いている戦後〜現代史の史実と現実が、そのまま、王仁三郎の予言の正確さを証言しているかのように見えます。
しかし、永らく平和が続いた『第二次世界大戦後後の時代』も、昨年三月の大震災、津波、そして原発事故と政府の棄民政策によって終わりが告げられたかのようです。
まるで「三段目」が始まろうとしているかのようではありませんか?
王仁三郎は「大本神歌」の中では、『三段目』について詳しい描写を避けていますが、「霊界物語には(50世紀の先までのことさえ)全部書いてある」と明言し、弟子や側近には断片的ではありますが、はっきりと分かり易い言葉で、幾つかのヒントを与えています。
(当ブログの過去記事をご参照下さい☞ http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/1212179.html )
さて、(上記URLの過去記事でご紹介しましたが)王仁三郎は「日本人が神に目覚めなければ…」こうなる、といった予言を残しいますが、これは逆に考えると「真っ暗な新月の欠け」からの光のような、小さいけれど、希望の光でもあります。
我々、一人ひとりが、神に目覚め(「宗教心や慈悲心、善心を取り戻す」と言い換えられるのはないでしょうか?)慈悲や愛の心で行動し、我々一人一人が心から「我良し、強いもの勝ち」の「行き過ぎた個人主義や、資本至上主義、拝金主義」を改めることができれば、最悪の事態「三段目」をも避けられる可能性や、「大難は小難に、小難は無難に」繰り合わせされることもある、ということでは無いでしょうか?
福島第一事故後の政府や東電の隠ぺい体質や、被害者への補償よりも利権の絡んだ「除染事業」を優先するなどという事態は、我々一人一人の心の中にある「行き過ぎた資本至上主義や拝金主義」や「自分の生活さえ確保できれば良い」と言った「我良し、強いもの勝ち」の心が無くならない限りは、変わらないのでしょう。
一見、回り道で時間も懸かりそうですが、我々一人一人が着実に、自らを「立替え、立直し」一人でも多くの人の心と行動を自ら変えて行くことが先決なのだろうと、今更ながら自らも思いを新たにしております。
今日も最後までお読み頂きまして有難うございました。
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