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*画像は出口王仁三郎作 『天降 天照皇大神聖像』(雨宝童子象)
■引用元:ブログ「月は盈つとも虧くるとも」http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/8495053.html
先ず、本日は久しぶりの王仁三郎の墨画作品の紹介です。
この天照皇大神の神像は雨宝童子(うほうどうじ)とも呼ばれ、密教の両部神道の神の一柱でもあります。
恐らく、殆どの読者の方には、雨宝童子と言っても私同様、聞き慣れない神名(この場合は仏名?)でしょう。
そこで由来を検索してみました。雨宝童子とは、天照大神が16歳のときに九州の日向に降臨されたときのお姿だそうで、宇宙の真理を現す大日如来の化身として、弘法大師空海が朝熊山でのご修行中に霊眼にて感得され、彫られた尊像だと言うことです。
明治維新以前の神仏習合時代、雨宝ほ童子は天照大神と一体と考えられ、維新後の神仏分離までは、全国からのお伊勢参りの参拝者の中には、天照大神のご神体として雨宝童子像を求め、国に持ち帰るというほど有名だったそうです。弘法大師空海との霊的因縁が少なくないと言っていた出口王仁三郎の作品としても重要な大作の一つのようです。(王仁三郎の作品集でも掲載順で、2作品目に配列されているようです。)
通常、神話では女神とされていますが維新前までは男神とされることも多かったこともあるかも知れませんが、雨宝童子は「童女」ではなく「童子」とされており、何故、弘法大師の霊眼には童子と映じられたのかについての疑問が残ります…この事で私が思い出すのは、王仁三郎が『霊界物語』において、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」と、「天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)」ではその神格において異なると述べていることです。
さて、本題に入ります。
普通の勤め人の私が「ライフワーク」等と言って良いのかどうか分かりませんが…
実は、日本の近現代史を読むことは私の、ライフワーク的な趣味なんです。
特に最近の政府や大企業の、多くの人命や健康よりも自分たちの利権を最優先の思想が戦前の一時期の日本に相通ずるものがあり、一層興味が深まっているという次第です。
そんな私が王仁三郎の思想に興味を持った切っ掛けは、やはり20年程前に読んだ、ある問題と戦前の世相について書かれた文章がきっかけでした。
元々、10代の若者にありがちな、社会の歪さに違和感を引きずったまま成長し(ネットの所謂中二病??)、今の日本社会の出発点である敗戦に繋がる歴史の流れに纏わる謎に取り憑かれた、と云った所です。
調べれば調べる程、先の大戦における、今日では必然であり明確であるとされている、日本の敗戦の諸原因の影に隠れ、専門家でも解けない謎が気になり出して止まらなくなしました。
そして、その秘密を一生懸ってでも知りたい、という大仰な欲望の命ずるままに書物や資料、ネット情報等を渉猟して来ました。勿論、素人の物好きの範囲ですが…そんな、私が王仁三郎に引き込まれるのは時間の問題でした。
何故なら、大正デモクラシーからの急激な反動である1.15事件や2.26事件等、「昭和維新」が叫ばれた、歴史の大転換期における、数々の事件の舞台裏には、いつも、この「怪人物」出口王仁三郎の名前が見え隠れしていたからです。
そのような具合に出口王仁三郎に興味を頂き、その思想を調べ始めて見ると、最初は右翼の大物を陰で操っていた怪しい宗教団体の教祖というイメージを抱きましたが、よくよく調べて見ると恐ろしくその予言が的中した大予言者、大霊能者、であったと言う記録に行き着き、とうとう彼の著作を直接、読み始めると、それまでの彼に対して抱いていた右翼的なイメージとは正反対の思想の持ち主であることが判りました。
王仁三郎が「皇道主義」を宣揚していたのも単なる右翼的革命を意図したものではなく、国家神道や近代思想によって抑圧されていた古神道の精神性の復活と、大胆な平和主義、海外との協調主義をも唱えていたという一面まで垣間見えて来ました。
そのような王仁三郎の多面性にますます引き込まれた私は、彼の思想の中心である全81巻83冊の大著、『霊界物語』を読むにつれ、「偉大なる宗教者」であるという王仁三郎の本質に触れることになったのです。
しかし、「偉大なる宗教者」出口王仁三郎は、自身が出口直教祖と共に育てた、「皇道大本」という宗教教団を当時の日本有数の組織に育て上げ、教団の高殿の奥に澄まし顔で鎮座し説教を垂れるだけの所謂「宗教者」ではありませんでした。
大本神諭に述べられている通りの「大化け物」だったのです。彼が「大化け物」の本領を発揮したのは特に昭和初期のことです。
昭和10年には、外郭団体を含めると800万人に膨れ上がっていた、文化人、企業家、政治家、軍人、さらには皇族にいたる幅広い支持者や崇拝者、支援者に多大な影響力を持っていた王仁三郎ですが、殆ど意図的と判るやり方で自ら政府当局を刺激し、「第二次大本事件」という、一見すると「第二次世界大戦」と見間違えるような、名称がつけられた大事件を引き起こすのです。
事件により未決勾留され、6年8か月後に裁判により殆ど無罪が証明されて保釈した後は、それまでの活躍に比べるとヒッソリと余生を過ごしたように見えることもあり、心無い研究者は彼のことを「挫折した宗教革命家」「弾圧された右翼の影の指導者」などとレッテルを貼って終わりにしようとする始末です。
さらに、王仁三郎の遺した宗教団体や信者の方々でさえ、大部分が「第二次大本事件」の意義を矮小化しているのかのような定義づけをしているように私には見えるのです。
私個人としては、この「第二次大本事件」に対する捉え方の違いが、大本神諭で「艮の金神」が、出口王仁三郎のことを「三千世界の大化け物」「てんのみろくさま」という救世の神業を担うひとであるとの宣言を受入れるかどうかという「踏絵」ではないかと考えています。
「第二次大本事件」の意義については、、私個人としては前回の記事で、以前読んだ資料をご紹介して「第二次大本事件は王仁三郎の計画が大失敗に終わった証拠だ」と断定する心無い人々に対するささやかな抵抗を試みました。(前回記事: http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/8080440.html)
この前回投稿で言及したように、「第二次大本事件」はキリストのゲッセマネの丘からゴルゴだの丘に到る磔と復活の秘跡に匹敵する程の、出口王仁三郎の真価が顕された事績であり、黒住、天理、金光、妙霊、大本という一連の民衆宗教というエネルギーの奔出が型として表現した日本的霊性の高峰であると思います。
今回の投稿では、「第二次大本事件」という型によって引き起こされた(と私は解釈しています)先の大戦における「日本の敗戦」の霊的意義について、以前読んで感動した記事をご紹介し、「日本の霊性の奔出」という「事実」について読者の皆様が思いを馳せる切っ掛けにして頂ければと思います。
「第二次大本事件『十二月八日の仕組み』の謎にせまる」
(佐藤光郎氏著の寄稿文、『いづとみづ』86年9月号、10月号掲載より)
(引用開始。「…」の表記は引用者=ブログ筆者の「てんさん」による省略箇所があることを示しています。)
…しかし、「第二次大本事件」そのものが経綸上、大日本帝国崩壊をもたらしたという奇想天外な真実を内包するものであるなれば、明治王政復古間なしの時点で、既に大東亜戦争(原文ママ)の開戦と敗戦の「月日」を暗示し、そのうえ何故、かかる大戦が生起しなければならぬのかという神意をも開示している「天理教原典」と、「第二次大本事件」とのあいだに、何か特別な経綸上の関連性が存在すると見るのは当然であろう。
また、「大本」的感覚によれば、天理教は元来「先走り」という先駆的な使命を帯びて天保九年十月二十六日、大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市)の中山ミキ(教祖)が「元の神・実の神」の「社」に貰い受けられて開教された天啓の宗教である。
大本神典であり瑞霊(みずのみたま、ずいれい)の御教えである『霊界物語』によると、ミキ教祖は三十五万年前、玉能姫として現れ、出口ナオ開祖の前身である初稚姫と共に素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神業に従仕し大車輪の活躍をしたことが啓(つ)げられている。
とくに、『霊界物語』二十二巻 第二十章712節(王仁三郎生誕の七月十二日の日柄に因む)「三の魂」には三千世界立替え立直しに不可欠なる三個の神宝(黄金の玉、如意宝珠の玉、紫の玉)のうち、「紫の玉」が玉能姫に授かり、あの高姫(註:たかひめ−霊界物語にしばしば登場する反面教師的役柄)をして「思いもよらぬ人たちに、肝腎な一厘の経綸をいいつけるとは…妙な神さまも…いや教主もあるものだ。」と地団駄を踏ませたのである。
それほど、素戔嗚尊の御神業、一厘の経綸に神縁ある玉能姫、即ちミキ教祖であるゆえ大正十四年、綾部天神馬場において、出口王仁三郎はナオ開祖(初稚姫)と共にミキ教祖(玉能姫)を二聖として祭祀した…王仁三郎は「大本神諭と天理神諭」と題して両教神諭の比較対照を試みている。(引用註:神霊界誌大正7年5/15、6/1、6/15号に連載されています。)
…これらの「事実」をもってしても出口王仁三郎は、大本・天理両教が一厘の経綸上、深い関係に結ばれている事を示唆しておられる、と言えまいか。その意味よりして「第二次大本事件」並びに一厘の経綸の謎を解くために、天理教に垂示された「世の立替えのプログラム」を大本経綸に照応させながら、この主題をつきつめるという本稿の立場は極めて意義深く、且つ重要であると言えるわけである。
…(中略)…さて、十億年という歳月を経て「救世」に始動された月日親神は、そのプログラムを明らかにするうえで「にほん」と「から」の問題を極めて重大なこととして取り上げられている。
今日の天理教教学レベルにおいてなお、この問題はいったい何を意味するものなのかはよく判っていないが、お筆先(天理教の)にはこのことが繰り返し啓げられている。
「今までは唐(から)が日本を儘(まま)にした 神の残念何としよやら」
「今までは日本が唐(から)に従ふて 儘(まま)にしられた神の残念」
もちろん神示による「にほん」と「から」の問題は、現界の偏狭なナショナリズムに基づいて解釈されるものでないことは申すまでもない。(引用註:これは大本神諭の「がいこく」「外国」「害国」も同じ)…筆者はこの問題について次の様な見解を持っている。
「にほん」と「から」は、飛躍した論理と受け取られるかもしれないが、現界と「合わせ鏡」にある霊界(天理お筆先における『天』という領域に属する異次元界)という次元から放射されて、この現界の個人・世界に決定的な影響を及ぼし「歴史」をも動かす「霊的支配(活動)原理」であると解釈している。
…「にほん」とは月日親神の人類創造原理を集約した神言にして、その活動力を言い…「から」とは月日祖神をして残念・立腹(りゅうふく)とされる状況を集約した神言にして、その霊的支配力を言い…さらに言えば…(引用註:王仁三郎的表現で言う)霊主体従(れいしゅたいじゅう)は「にほん」の霊的活動原理に当り、体主霊従・力主体霊(たいしゅれいじゅう・りきしゅたいれい)は「から」の霊的支配原理に該当する。
要するに、神幽現三界を貫く善と悪の対立した霊的二大原理を「にほん」と「から」と言うのである。今日まで全人類は「霊界」から放射された「から」の霊的支配原理に圧倒され蹂躙(じゅうりん)されて来たのである。そのために、人類は「生老病死」の苦しみをかこち、或いは地球上のいたるところで「戦争」という力主体霊的殺戮の現場を現出させて来たのである。
人を救い導くべき宗教は、出口王仁三郎がいみじくも喝破したように八重垣的「醜狂(しゅうきょう)」(精神的無形の障壁)と変貌し、そして、祈りよりはより強固な八重垣を築く呪文と化した。(現文ママ)
…しかし月日親神は約十億年に亘(わた)った「陰からの守護」的在り方を根本的に改めて「表の守護」的在り方、つまり世界を一列に救う大乗的救世経綸に始動されるのである。そのことはお筆先において
「この先は日本が唐(から)を儘にする 皆一列は承知していよ」
「今までは唐やと言うて はびかりて 儘にしていた今度返しを」
とされている如く、月日親神は「にほん」の霊的活動原理を封鎖した「から」の霊的支配原理に止めを打ち、再び「にほん」を復活させることが主目的であると啓示されている。その未曾有の構想は究極において
「この道を通り抜けたらその先は 唐は日本の地にしてある」
「唐の地を日本地にしたならば これ末代の生き道理なり」
と確示されたように、実に「生老病死」の「からの世」から「病まず死なず弱らず」の「にほんの世」へと立替え立直し、神幽現三界に亘り「にほん」の霊的活動原理を樹立することにある。
…(中略)…ところで月日親神はある重大な事実を三十一文字に託して吾々に投掛けている。即ち、
「高山の真の柱は唐人(とふじん)や これが大一(だいいち)神の立腹」
「唐人が日本の地々入込んで 儘(まま)にするのが神の立腹」
(引用註:ブログ筆者は、この二首は維新後の西洋某結社が関与すると噂され続けている孝明天皇、明治天皇暗殺・替え玉説やその後も各地で結社が蔓延り、現在は日本を追い詰めている状況にあることの予言とも取れる内容ではないかとも感じていますが、さて真実はどこにあるのでしょうか…)
このお筆先は、明治王政復古間なしの明治七年頃にしるされたものであるが、お筆先一千七百一首中、「とふじん」とは何者であるか、という事を指示しているお歌はこの一首しかない。
何れにしても判ることは「高山の真の柱」こそは月日親神の「大一(第一)の立腹」と激しく指弾される存在、即ち、「とふじん」である、という事である。
これについて大胆な見解を公表した人物がいる。天理教より分かれた「ほんみち」開祖、大西愛治郎その人である。昭和三年と十三年に全国に発布した「書信」「憂国の志に告ぐ」と題するパンフレットをみると、彼はさきのお筆先を引用しながら、日本国体の要、「天皇」こそが「とふじん」である「高山の真の柱」なのだ、と唱えたのである。
大西のこの見解が真実である証拠に、ミキ教祖五十年の「雛型の道」において終始このことを神意として主張したことにより前後十八回の留置・投獄を経験した。なかでも、十八回目の投獄によって「目は見えず、耳は聞こえず」そして寝がえりもままならぬ姿となった。(中山ミキ天理)教祖八十九歳の時である。
(引用註:類似する王仁三郎の見解についてはこちらの過去記事の中程、王仁三郎夫妻への質問の行をご参照下さい:http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/4233599.html)
…それと呼応するかのように、天理教を「先走り」と宣言した大本の神諭には、天皇制神話をその深部より震撼させるという意味において右の天理神示より、より尖鋭化された告発が投げかけられている。つまり、天皇制神話に対する「対抗神話」として天理教に「泥海古記」がある如く、(王仁三郎の)大本には「国祖隠退・再現」神話を基底音とした驚愕の世界観がある…
「まえの天照大神宮どののおり、岩戸へおはいりになったのを、だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸開くのがうそを申して、だまして無理にひっぱり出して、この世は勇みたらよいものと、それからは天の宇受女(あめのウズメ)どののうそが手柄となりて、この世がうそでつくねた世であるから、神にまことがないゆえに、人民が悪くなるばかり」
つまり、天照大御神の神代における「天の岩戸」事件がそもそも「悪の世」の発端であり、我良し(体主霊従)、強いもの勝ち(力主体霊)の世の発端がここにあると国祖は指弾しているのである…さらにこの「霊的事件」を契機として、素戔嗚尊が天照系の八百万神の謀略により千座の置戸(ちくらのおきど)を背負わされ高天原より放逐(ほうちく)されたわけであるが、その意味する所を読み取れば、追放された素戔嗚尊とはまさしく「押込められた(隠退させられた)」国祖の投影存在であることが判る。
つまり、この「素戔嗚尊追放劇」こそ、紛れもなく国祖引退劇のモチーフを「反復」し「展開」した内容として大本教学上位置づけられるからである。
だからこそ、国祖は「素戔嗚尊追放劇」を自らの引退劇として共感し、天照大御神の「天の岩戸」事件を叱責することとなったのではないか。そして、天照の「一度目の」天の岩戸開きを悪の世の発端として指弾しながら、それに対して今度は「二度目の」天の岩戸開きを救世神・素戔嗚尊が断行し、歓喜に満ちた地上神国を成就する、と国祖は断言するのである。
要するに、幾万もの「神と神との大戦争」によって織りなされて行くのが大本経綸の基本構成であるが、それは、
「押込められた(隠退させられた)側」の神々と「押込めた(隠退させた)側」の神々の二系統に大別されよう。
そして、前者の側につく神々を経綸上、集約し、代表した神名こそが「素戔嗚尊」(引用註:『霊界物語』に記載される神名は、神素戔嗚大神)なのであり、後者の側は、「天照大御神」に現わされていると理解出来るのである。
(中略)…そして、月日親神・素戔嗚尊(国祖)の「残念・立腹」より発せられたこの神の絶叫は、霊界の天照大御神(と、引用註:天照大御神の系統である)現界の現人神天皇が築き上げてきた今日までの「からの霊的支配原理」による霊的ネットワークの解体を急き込んでいるものなのである。だからこそ月日親神は
「日々に神の心の急き込みは 唐人(とふじん)ころりこれを待つなり」
と筆先にしるし、「世の立替え」の第一着手は「からの世」の霊的中枢体を排除することから開始する、と明治七年に宣言されたのであろう。
もちろん、これまでの経緯よりして「世の立替え」における月日親神の戦略目標は、この地上界のみにとどまらないことが判る…大本神諭にある如く「今まで世に御居(おい)でござりて世を持ち荒らした神」天照大御神がいる。
その神及び眷属(けんぞく)によって「永らくのあいだ世に落とされた神」素戔嗚尊(・国祖)・月日親神は主権回復を賭けてなんとかしてこの悪神(原文ママ)を倒そうと挑み、ここに、神霊界における「神と神との大戦争」が勃発する。まさに神々のハルマゲドンともいうべき善悪二大神系の総力戦が繰りひろげられる訳である。
ところが、神霊界でかかる大戦争がおこると、その写し世である「地上界」にも当然その大変動が移写されることになる。
さきの「唐人ころり」の天理予言は、このような経綸上の脈略よりその真意を読み取らなければなぬ。と、するならば、その刻限(時節)は…
「今日の日は何が見へるやないけれど 八月を見よ皆見えるでな」
「だんだんと十五日より見えかける 善と悪とはみな現れる」
この二首の天理お筆先は昭和二十年八月十五日の終戦の刻限(時節)を指す「月日」の暗号であることは明白である。そしてこれは、天理教原典に確示された「世の立替えのプログラム」の中でも、月日親神の「大望事情」(お指図)と言われるほどの重大なる霊的事件であったわけである。
なぜならば、天理教原典では、この「唐人ころり」によって月日親神の第一の残念立腹を晴らし、その直線的延長線上において全世界の人類の心を勇ませ、真実に世界中を助ける経綸を展開され、
「その後は病まず死なずに弱らずに 心次第に何時までも居よ」
という世界へと「歴史」を神導することが世の立替えの順序として啓(つ)げられているからである。
その意味よりして、この「唐人ころり」は「からの世」から「にほんの世」へと大転換される神の経綸上のキーポイントであったのである。
また、(王仁三郎の)「大本」的感覚からみれば、この終戦の刻限(時節)は神霊界における「神と神との大戦争」のひとつの結末が人類にもたらした最大級の「大橋」であったわけであるが、このような神霊界の様相を知らぬ(引用註:一顧だにしない研究者や)歴史家は、昭和二十年八月十五日を「歴史のターニングポイント」と喧伝するが霊的に見れば、それどころの騒ぎでない…昭和二十年八月十五日の刻限(時節)は「死と生の断絶」にさまよう全人類を「病まず死なず弱らず」の陽気遊山の世界へ転換すべく月日親神・素戔嗚尊がその神扉を押し開かれた一大記念日たる「第二の岩戸開き」(引用註:真の岩戸開き)であったのである。
そして、この輝かしき神の栄光を獲得したのが天理教を先走りとした三千世界の立替え立直しを宣言した大本経綸−第二次大本事件−であったのである。
すなわち、昭和十年十二月八日の大本弾圧、そして六年後の同月同日の大東亜戦争勃発(その結果としての昭和二十年八月十五日の大日本帝国崩壊)という、大本と大日本帝国との間に生起した「型と実地」経綸が、天理教で果たせなかった「唐人ころり」を達成したのである。
しかるに、「唐人ころり」を為し得た大本では「第二次大本事件」より五十年を経過した今日においても、あの犠牲は「三千世界立替え立直し」上いったいいかなる意義があったのか、あの弾圧により神の経綸はいかに展開し、前進したのか、という事が判然とせぬまま放置されて来ている…(引用註:この引用記事の書かれた暫く後に分裂した、大本関連の各三派(教団)によって捉え方や向き合い方が違うようですが…)
…では、何故肝腎の大本においてこれらの事が判然とせぬまま五十年間も放置されて来たのであろうか…弾圧の直接原因となった「昭和神聖会運動」は…昭和十年当時八百万とも言われる協賛者を獲得したが、この白熱した運動は、うなりをあげて渦となりながら、農村の疲弊に立ち上がった軍部の一部青年将校と合流して「昭和維新運動」を唱導し、ここに巨大なる運動体として成長した。
そのために、王仁三郎は「国体変革」を意図しているのではないか、との疑惑を当局より掛けられるに到った。
このような巨大な運動体の中枢にいる王仁三郎に対して側近の大本幹部たちは、当局の弾圧の用意ある旨を告げて運動の手を緩める事を再三再四、王仁三郎に勧告したこともある。しかし王仁三郎は頑として受け入れず、むしろ加速度的に運動を推進した。
困惑する幹部たちを前にして、王仁三郎はこう絶叫した。
「ワシは大本教の出口王仁三郎ではないんだ。世界を救うために出て来たんだ。世界さえ良くなったら大本教なんか潰れてもいいんだ」
そして、王仁三郎はこの言葉通り昭和十年十二月八日未明、島根別院三六亭において当局により検挙され、以後六年八ヶ月の未決入りとなり、全国を席巻した神聖会運動機関は即時、解散。大本も近代宗教史上類を見ぬ凄惨な弾圧の嵐を迎えることとなった。(引用者:大弾圧による被害者とその遺族の皆様に最大の弔意と敬意を捧げずにはおられません…)
そのために、弾圧から五十年を経過せし今日(引用註:佐藤氏がこの原稿を執筆した1986年)に至るも、当時を知る人々は「弾圧が来ることは誰の目にも明らかな状況であったにも拘らず、何故王仁三郎は幹部の制止を振り切ってまで、昭和神聖会運動を推進したのであろうか。そして『第二次大本事件』とはそもそもなんであったのか?」という深刻な疑問を自らに問い続けて来た。
それは心ある人々にとって常に議論の焦点となり、そのあげく、「当局の誤解説」、「神の経綸説」、「必然説」、「出口王仁三郎の贖罪説」、「出口王仁三郎の故意説」が飛び交い今日に到るもその結論は下されていない。
…(中略)…ところが筆者にしてみれば、かかる不毛の議論が今もってなされていること、それ自体が不思議なのである…天理教原典に垂示された世の立替えのプログラムを基本とすれば、天理教を先走りとしたその瞬間から大本は、神国完成という大使命上どうしても「唐人ころりこれを待つなり」という神の大望を達成せねばならぬ責務を負うこととなり、これを遂行するために出口王仁三郎は、意図的に昭和神聖会運動を組織し、強力にこれを推進することにより当局を刺激し、そして、わざと大本を弾圧させるべく当局を追込んだ、ということが明白に確認し得るからである。
まさに、「世界さえ良くなったら大本教なんか潰れてもいいんだ。」と獅子吼した王仁三郎の言葉通り大本は弾圧を受けた。そして、それにより型と実地の「鏡像現象」を生起させ、…「唐人ころり」を−その代償は実に大きかったが−果たし、神国完成に到るおおいなる神扉を押し開いたという、神の栄光を…(王仁三郎は)勝ちえたのである。
…王仁三郎は大日本帝国敗戦(唐人ころり)を「実地」に達成する目的のために、経綸神則上、大本を「型」として必然的に弾圧させなければならず、またその通り大本を追込んで行った。そして、王仁三郎は…天理教原典に確示された、昭和二十年八月十五日という神定の日柄に「唐人ころり」を成就したのである。
かかる王仁三郎の経綸上の足跡をたどって行けば、三千世界立替え立直し上に於けるこれら一連の経綸は、見事というほかないほどパーフェクトに成就された訳であり、そこには、【水も漏らさぬ神の経綸】が実施されたことが確認さればこそすれ…「霊的革命の挫折」などということは断じてないのである。
(以上、引用終わり)
文中の「水も漏らさぬ仕組み」については過去記事
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/7669086.html
や、前回の記事にも関連の投稿をしましたのでご参照下さい。
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/8080440.html
さて、いかがでしょうか?
前回の記事で、キリストの最後の晩餐に比較するような投稿をしましたが、今回ご紹介の文章を通じ、日本にも、昭和十年十二月八日、かような凄惨な試練を事前に承知しながら自己犠牲をも厭わず、神の計画をそのまま実施した出口王仁三郎という偉大な人物が存在したということに認識を新たにして頂ければ幸甚です。
また、天理、金光、大本と続く、神の経綸が「水も漏らさず」成就されていることにお気づき頂き、王仁三郎の後継者云々という人物や書物には、クレグレもお気を付け下さいませ。
では、今日も最後に王仁三郎の歌をご紹介します。
治安維持法違反容疑者としてけいさつへ 拘留されたる師走の八日
日地月星の団子も食ひあきて今は宇宙の天界を呑む
今日も最後までお読み頂きまして有難うございました。
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