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横山やすし暴行事件以来の登場、チベットよわーです。
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この話については私の投稿から数ヶ月して、吉本興業の月亭可朝さんのほうから真相が語られました。
さて、今回は1986・4・8に大手芸能事務所のビル屋上より投身自殺した有名アイドル、岡田有希子さんについて投稿します。アインシュタインとか地球連邦だとかいう素敵な言葉がとびかっているところで昭和芸能の風呂敷を広げても読むに忍びないかもしれませんが、まあ内容はそれなり(キリリッ!)なのでお許しください。
1961年にジェームス・ディーンが交通事故で他界した際、真っ先に「自殺である」という断言をしたのが日本の文壇のエース三島由紀夫だった。それは事実の認識の仕方としては誤りであるが、「全く違う」とはいいきれないというのが真実である。ディーンの起こした衝突事故は厳密にいうのであれば「半意図的な」ものだったからである。どういうことかといえば、ディーンは事故を起こす前にスピード違反の切符を切られており、それへとった「理由ありの」反抗的反応がさらなる暴走につながり致命傷の事故を巻き起こしたのである。もしその日、ディーンが違反切符を切られていなければ十字路での無謀な加速をすることもなかった。あくまで二段階の反抗劇が招いたのがディーンの末路だったのである。
前置きが長くなるようだが、上の横山やすし親子が起こしたタクシー運転手暴行事件でも似たような要素がみてとれる。やはりこれらも一次的な直接起因による傷害事件ではなく、2度連続した因果によってもたらされたものだったからこそ加減が利かなくなり自分でもわけのわからぬまま怒りに乗っ取られて事件を起こしたのである。横山は、まず一般乗用車と接触事故を起こした後、屈辱のあまり「今度同じことがあったらキレてやる」ときめた。その怒気による精神の高揚がさらなる事故を招き、今度は罪無き相手に襲い掛かったのが横山の華やかな芸人人生をかえた例の事件であった。息子の起こした六本木の事件もやはり二部構成。はじめに侮辱され因縁を抱いたタクシーを憎むがあまり、無関係な二台目のタクシー相手に残虐な暴行を働いたのだ。
どちらにしても、いつかは彼らのココロの引き金がひかれて同じような事故を起こしたにきまってるのではないか、といわれればそうかもしれないが、人間、そういうニアミスをかいくぐりながら生存して、徐々に難点を克服してくものではないだろうか。
岡田有希子は丁度高校を卒業し、社会人アイドルとして不安や迷いの中踏み出した一歩が死へと誘った。この時期を乗り越えればまた芸能活動に取り組む意志を持ち直したかもしれないし、又別の世界でのスタートをきっていけたかもしれない。顛末だけを聞けば、誰も止めることのできない必然の自殺だったようであるが、実はそうではない。岡田有希子の自殺は死ぬ気のあまりない「狂言自殺」(狂気の発散行為である)が先にあり、そこで終わっていれば年頃の過敏な女の感傷で起きた未遂だということで片付いたはずなのだ(中森明菜の場合でもいい休息と新たなプロモにつながっただけである)。サン・ミュージックがまともなマネージメントなら究極の手段で現実逃避をしたばかりのティーンを職場に呼び出して現実に直面させるような処置をとらなかったであろうが、いかんせん鬼畜の芸能界。{第一部}「自宅での狂言自殺」でおわるはずであった有希子の4月8日は、{第二部}「会社篇」にて本当の自殺に変更させられることとなった。
高校デビューの岡田有希子は、名古屋の進学校から東京の堀越学園に転校しアイドルらしく全国ネットの芸能生活をスタートさせた。(岡田という芸名は、前世代からすれば美少女アイドルの代名詞「岡田奈々」を彷彿とさせるということでOKなんだろうが、私たち関西地方の小学生は岡田というと阪神タイガースの主砲しか思い浮かばず、どうもアイドルのイメージを持つには最適の苗字ではなかった)順調にヒット曲を出し、CMにはひっぱりだこでポスト聖子といわれるトップアイドルに成長する岡田。(名古屋出身の岡田はやはり、首都圏や近畿圏出身者の持つ鋭敏な感覚もなければ地方出身者のもつ反骨心もない、少し間延びしたような優等生で、今でいうような天然という慈しみ方もない時代では少しズレがあったと思う。しかし別格的な人気があったことは確かである)。しかし、そんな輝く時期も3年目には限界が見え出す。
自殺の前年にあたる1985年、高校三年次の岡田は徐々に精神的な調子を崩していく。それは北海道に修学旅行した際の手記「1人でいると気が狂いそうになるくらい情緒不安定の私にとって癒しになります」でも顕著である。そして決定的なのは年末に出演したスーパージョッキーでの放送事故であった。歌の途中で急に笑い出した岡田はそのあとのトークでビートたけしとガダルカナルタカに詰め寄られるや、「頭の中で声がした」といったのだ。生放送ならではのアクシデントであり、全国テレビにおいて人気アイドルが行った精神異常(プッツン)の告白であったが、ビートたけしは決して見逃してはくれなかった。「誰かが、お前は神だ、とか言ってるの?」と完全に統失の方向に話をすすめるタケシ。あげくには「包丁持ってふりまわさないでね」と、後のことを考えるとジョークにさえならないオチまでつける。もしかして岡田の奇妙な言動はもうすでに業界では知る人ぞ知る、といった段階だったのかもしれない。現在と違って天然キャラという慈しみ方が芸能人に施されていなかった時代である(二回目)ので、こういうシチュエーションは岡田をさらに追い詰めるだけであった。
そしてきたるは、1986年4月8日。高校卒業して寮をはなれ1人暮らしをはじめて5日目のことである。岡田は遺書をしたためるとガスを開けたまま手首を切った。この行為が現実逃避の狂言であり自分の中に押し殺した狂気を発散させる芝居であったと断言する一番の理由とは、その前日にやはりガスを意図的に漏洩させて騒動を起こしていることである。ガスでは死ねない、その前に通報されて助かる、ということは予行によって理解済みであった。そして手首のカット。死ぬ気があるなら脈を分断すれば女子の体力でも簡単に用を達せれる。たった4針の縫合手術で病院からリリースされる見せ掛けの執刀であった。遺書はどうだろうか。年末年始に放送されたドラマで共演した年配の俳優(峰岸徹)との恋愛の行き詰まりに悲嘆した、とは言っているものの、実際には事実無根であり、交際する関係でさえなかったことが判明している。つまり・・・・岡田のでっちあげによる恋愛挫折のドラマだったのである。岡田によって峰岸とは、どんどん乖離していく現実をつなぎとめる接点のようなものであった。
こういった背景の事件について、周囲が下せる対処はどうあるべきだっただろう?狂言は狂言なりに、フィクションの中で始末させてやることができればそれにこしたことはなかっただろう。ココロを病んだ岡田が現実から自分を守る保護を必要として幻想の世界に駆け込んだ。そこまで追い込まれたことを鑑みるなら、しばらく自己完結するまでそのストーリーを放っておいたらどうだろう。非常事態を収拾するにはそれなりに時間がかかるのは当然のことではないか。この会社がやったように当人を無理矢理そこから現実に引き戻すことが最善だったとは思えない。現実に復帰するだけの精神を育てるためには、3年かかってできた心の闇をなんとかするのが先決だ。なにごともなかったように職場に呼んで我に返させるほど杜撰な采配はない、自殺未遂で折角一時停止にした現実の重みを一気に停止ボタンを解除して背中にのせてしまったようなものだ。そして狂言の自殺は、第二部のホンモノの自殺に発展するのだ。
二部構成ゆえの自殺。心を病んでいた岡田に、生を絶ってしまいたい衝動があったのは事実だろう。しかし、それはなにがなんでも遂げてしまわなければいけない是非たる欲求ではなく、どうにかして心労を軽減して打開していく手段を摸索していたからこそ狂言自殺という形に及んだのである。しかし、その行為を会社の采配によって完全否定され現実に引き戻されてしまった岡田が直面したのは、最初の狂言によってさらに数段高まった重圧であった。これが飛び降り自殺の最大の原因である。狂言自殺は騒動を起こしただけでなく、岡田の世界の崩壊をもたらすだけの力を持っていた。それが峰岸との不倫という想像上のアングルを意味することはいうまでもない。この嘘がばれることだけはなんとしても避けたかった。しかし自宅で鬱状態のときに書いたことが、どうやら世間にさらされ峰岸にも伝わる。この恥辱から逃れるにはもう即身成仏への駒を進めるしかない。捨て身のフィクションが無残に音をたてて弾け、幻想への逃げ道が封鎖され、そして現実のセンセーションに飲まれていく刹那の中で、岡田有希子18歳は正午過ぎこの世から旅立った。
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