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いつまでも死なない
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。 ヨハネ11:25〜26
昨年、親しい友人を亡くしました。そして、今また、家内がいつ召されるか分からない状況です。そんな中で、本当に感謝なのは私たちには死なない命があるということです。クリスチャンなら当たり前のことですが、死に対する恐れが全くありません。いつでもどうぞという心境です。家内は「一緒に行こうよ」と言いますが、こればかりはいつと決めることは出来ないし、私のほうが先かもしれないので約束は出来ません。
「おくりびと」という映画で、火葬場のおじさんが「こういう仕事を長くやっていると、死ぬって事は別の世界に行く門だと思いますね」という台詞を言います。クリスチャンでなくてもそう思うのかなと思いましたが、私たちにとって正に死は新しい世界への門です。
主イエスは「わたしを信じるものは、たとえ死んでも生きる、いつまでも死なない」と言われました。ずいぶん思い切った言葉です。どんな宗教家でも言えないでしょう。永遠の命の保障は「わたし」という方なのです。これは神の子だけが言える言葉です。命を作り出した方だけが言えるのです。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。ヨハネ1:1〜4
この方は命を作り出しただけではなく、命というものの根源であるのです。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。14:6
主イエスが、道、真理、命、という言葉で表そうとした真実は「信じる」ことによって与えられます。信じるとは何とすごいことでしょうか。信じるとはどうすることなのでしょう。何でもありません、素直になって受け入れることです。「主イエスを信じます」と口に出して言うことです。たったそれだけです。そんなに簡単なことなのですか??!!
これがつまずきなのです。あまりにも簡単なことなので返って信じられないのです。
恐らくもっと難しくもっと困難なことを要求されれば、信じる人はもっと多いかもしれません。仏教のように、多くの研鑽を積み、長い修行をし、千日回向でもせよといえば、する人は多いかもしれません。人間の努力と苦難によって獲得するものではないのでしょうか。
違います。人間のどんな努力も、神への道を究めることは出来ません。神への道はそんな甘っちょろいものではないからです。人間が汗と涙と苦労によって積み重ねた壮絶な功績が神への道を切り開くものではないのです。人間の努力や苦難には必ずうぬぼれや高慢が付きまとうでしょう。そんな汚れた功績は神の目から見れば醜い汚れた汚物に過ぎません。神への道はただ素直に「信じる」だけです。幼子が母の胸に飛び込むように、何のためらいもなく神のみ胸に飛び込むことだけです。
いつの日か、ある日、私たちは皆、死を迎えるでしょう。しかし、主イエスを信じている人はこのような御言葉の通りになるでしょう。
しかしわたしは義にあって、み顔を見、目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう。詩篇17:15
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(私のコメント)
いつまでも死なないのは良いのですが、いい状態でないと不幸ですよね。キリスト教の天国感がもう一つはっきりしないし、好きになれない。こんな素晴らしい天国ですよ、と誰か具体的に示して欲しいものだ。
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