http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/494.html
Tweet |
@ アマテラスとスサノオ解釈の基礎的根拠
『旧約聖書の元伊勢流解釈』
初めに、アブラハムがカルデアのウルに生まれ、家族を連れてパレスチナに移住し、子孫がエジプトに移住して部族を膨張させ、機を見て『出エジプト』してシナイ半島に隠れ住んで兵を養い、一気にヨルダン川を渡って『約束の地』に入り、拠点を確保した時点で十二部族に『嗣業』としての土地を分配し、各部族がそれぞれの土地に去って行った。
これを日本版に当てはめると、北朝イスラエルと南朝ユダヤのごく少数の遺民が一度は日本に来たが倭人の中で安住できず、中国に入って人口を増やし、中国の動乱を避けるために朝鮮半島に移動して兵を養い、一気に北九州を襲い、領地の分配を行って、アマテラスの南朝ユダ族グループとスサノオの北朝イスラエルグループに分かれて旅立った。
『記紀神話の元伊勢流解釈』
イザナギとイザナミが『黄泉比良坂の戦い』の激突のあとで、イザナギが九州に下ってアマテラスやスサノオを産んだ後に、隠れた。(その後どういうわけか)高天原にアマテラスが現れ、そこにスサノオが乱入して暴れまわり、そのためにアマテラスが『天の岩戸隠れ』して、その後にスサノオが追放になって出雲に流れ着いて出雲の大王になった。
これを拡大解釈すると、イザナギ大王グループが、取り決めであった「黒潮ルートに限定された領地」から膨張して、イザナミ女王グループの北九州や出雲を襲って、敗退して北九州に引き上げて、戦線が膠着した状態で幕引きになって第一話が終了した。
第二話は、朝鮮半島に出現したアマテラスグループが第一陣として北九州を襲って地盤を確保した。その後、別の地域にいたスサノオグループが北九州に到着してアマテラスグループとの間で混乱が生じて、アマテラスとスサノオのトップ会談が行われて、卜占による神の御託宣により、南九州と黒潮ラインを(覇権競争に負けた)アマテラスの領地に、北九州と対馬海流ラインを(覇権競争に勝った)スサノオの領地と定められて、それぞれが分かれて旅立った。
『高天原』とは北九州であり、『天の岩戸隠れ』とは北九州から日向に下る「都落ち」である。
太占(ふとまに・マニトウ・卜占)による『尊き神の御託宣』の要旨
糸魚川静岡構造線と新発田小出構造線と柏崎千葉構造線にある『フォッサマグナ』を結界として、それより東はアイヌなどの領地とし、西側をイスラエルの遺民の領地と定める。
阿蘇山から鹿島に至る『中央構造線』の南側の旧イザナギの遺領をユダ族のアマテラス女王が承継し、北側の旧イザナミの遺領をイスラエルの十部族のスサノオ大王が承継する。
A アマテラスとスサノオの年代測定
『卑弥呼より後で、高句麗より前である』
『魏志倭人伝』の卑弥呼が事実なら250年頃より後世である。卑弥呼の時代には大小さまざまな村落国家に分かれており、軍制や統一的王政を執っていたアマテラスとスサノオのイメージが思い浮かばない。(天孫降臨の描写には統一的軍制がイメージされる)。
また、朝鮮半島に高句麗が侵入したのは、記録によれば313年に楽浪郡が高句麗に滅ぼされたそうだから、その頃より以前にアマテラスとスサノオが日本に来ていると考えられる。
『アマテラスとスサノオは騎馬民族ではない』
騎馬民族は草原を馬で疾走する民族であり、朝鮮や日本は山岳が多く馬で行軍できる道はない。また、大規模集団で行動する民族が少数で日本に来るのは良策とはいえない。
日本で騎馬民族の馬の骨が見つかっていないし、日本の野生の馬はポニー程度の小型種であり重武装の兵士を乗せる力はなく、速く走る種類ではなく山岳部を頑丈な足腰で移動する種類の馬だった。(古墳時代以降に大陸の馬が輸入されて軍馬用に改良された)。
記紀神話には、馬で移動する記述が見られず、人は徒歩で行動している。
B 朝鮮半島の事情とアマテラスとスサノオの所在
漢の時代に朝鮮に楽浪郡などが設置され、漢の系統である魏や西晋が承継したが、「八王の乱」以後は衰退し、313年に高句麗に滅ぼされてしまった。
しかし、帯方郡より南にあった馬韓・弁韓・辰韓などの韓諸国は直接支配できず、詳しい記録がない。したがって、ここにアマテラスとスサノオのイスラエルの遺民が兵を養っていたと考える。
『アマテラスとスサノオは別々に住んでいた』
記紀神話のスサノオに「曾尸茂梨(そしもり)」の記述が見られ、交流をもっていたらしいから、新羅の曾尸茂梨が朝鮮時代の根拠地の可能性があり、日本移住後も交流を保っていたものと考えられる。(新羅の前は辰韓であった)。
すると、天智天皇が百済と親交を持っていたから、その祖先であるアマテラスが百済以前の馬韓に居た可能性がある。(百済は馬韓人を皆殺しにしなかったので馬韓・百済との交流が残った)。
C アマテラスとスサノオが日本に来たのは民族大移動が原因である
ヨーロッパの民族大移動は、375年にフン族に押されたゲルマン人のゴート族が南下してローマ帝国に進入したのが始まりとされ、およそ450年頃まで断続的に続いたが、原因は北半球の寒冷化による食糧不足とされている。
中国では五胡十六国時代が対比され、304年頃から439年頃までをいうらしいが、南シベリアの寒冷化により草原民族が南下して、大挙して中国に入り騎馬民族の国家を打ち立てたが、その一部が朝鮮半島に侵入し高句麗や百済を建国した。(半島南部の韓諸国は逃げたか同化された)。
朝鮮南部にいたアマテラスとスサノオは、温和な農耕系の漢民族に比べて、異民族を平気で殺戮する騎馬民族の下では部族を保てないとして、急遽、日本への脱出に追われた。
最初に、百済の南下に脅えた馬韓(百済)にいたアマテラスが北九州に上陸し倭人を蹴散らした。スサノオは、その成功を見届けてからアマテラス以上の大群で遅れて九州に到着した。(人口の上ではアマテラス勢力よりも多かったので、最後はアマテラスを日向に追いやった)。
D アマテラスとスサノオの日本経営
アマテラスは日向を根拠地として、薩摩や大隈を手に入れた。配下に収めた阿多隼人の族長の娘の「阿多都比売」は神武天皇の祖父となるホホデミ(山幸彦)を産んだ。
スサノオは九州で胸形族との間に「宗像三神」をもうけ、出雲では櫛名田比売を娶ったが、丹後や北陸などの征服は子孫に持ち越された。(だが子孫は征服というよりは倭人たちと融合した)。
★ 旧約聖書の気になる一文
列王紀上・・19:18 『また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である』。
北朝イスラエルが滅んでも、神ヤハウェは7千人を選民した。アブラハムの子孫がイスラエルを建国したように、この7千人を核心として再びイスラエルを建国するという裁きである。この7千人が鼠算式に人口を増やしたら数百年で何百万人に増えるものだろうか。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ60掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。