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Re: 読書の時間: お江の方ときたら憐れである。
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/474.html
投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 18 日 14:47:46: 3SipOypTxKjgk
 

(回答先: 読書の時間: 投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 18 日 09:36:07)

謀殺  3より抜粋:

http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html

しかし、『忠義』などというモラルは、この時代にはまだ発生していない。それは儒学思想で、一般には仁義礼智忠信孝悌の八つの玉を犬がくわえてとんでいく『里見八犬伝』ぐらいからひろまったものであって、なにしろ千姫を大坂城から救出して有名な津和野の城主坂崎出羽守あたりでさえ、他から恩賞が貰えるとなると、その重臣共に突き殺され、その首を取られてしまうような、戦国末期はドライな世の中なのである。何かの行為には必ず後からの果報がつきものの時代で、自分が利得しない事には『一文にもならぬ事を誰がする』という厳しい世のあり方だったとも言えよう。>

そして、エリザベス女王によって、メアリ女王がフェザリンゲー城に幽閉されていた西暦1582年というのは、日本の暦に直すと「天正十年」となる。つまり、これは本能寺が新黒色火薬によってふっとばされて、信長が死んだ年にあたる。そして、メアリ女王が殺されるのも、スペインの開発した新黒色火薬をイングランドのエリザベスが怖れるあまり、スペイン王子ドン・カルロスと縁談のあった事もある彼女を危険視するあまり死罪にしてしまうのである。
 
このすぐ後になって、スペインの無敵艦隊が、エリザベス女王の海軍と決戦するに先立ち、新黒色火薬を山積みに積み込んでいながら颱風にあう。いくら強力な火薬でも、まさか颱風の目は撃破できない。かえって甲板にまで所狭くなるまで積み上げた火薬樽の重みが船の吃水を深くしたので、スペイン艦隊は、エリザベス女王の海軍に新黒色火薬の威力を示す一発だに撃てず、ついに全艦隊が海底へ深く悲しく潜航してしまう。
 
といって、もちろん潜水艦など発明されていない時代なので、沈んだ艦隊は浮上してきっこない。あたら新火薬も、ついに水浸く樽になってしまう。
 
だが、ツヴァイクにしろヨーロピアンの歴史を書く人達は、この新黒色火薬の点に気づかず、もっぱらカトリックとプロテスタントの凄まじい宗教闘争の中においてのみ、メアリ女王殺しを把握して解明しようとしている。しかし宗教戦争という目でみても、当時は日本とて同様だったと云える。
 
もちろん、日本へプロテスタントと呼ばれる新教が入ってきたのは、これは明治になってからであり、当時の日本の中世期の宗教戦争というのは、織田信長の率いる別所出身系の戦国武者(元来は八幡と白山の神徒だが、足利期には大半が東方瑠璃光如来を拝む薬師寺派に入れられている)と、「西方極楽浄土」を唱える今日の浄土宗や真宗のもとである一向門徒の石山本願寺や、それに同調する高野山や延暦寺。そして、それに繋がって大陸から硝石を供給されていた仏教大名達。
 
つまりは、神道派と仏教派の宗教戦争なのである。ただ、キリスト教国では、今でもカトリックとプロテスタントが歴然と二分されているのに比べ、日本列島では家光の子の五代将軍綱吉の時代に「神仏混交」を為されてしまい、そして、「この世には、神も仏もないものか」と、心中ものの中で同一に並べて台詞にしてしまうが、あれは同じ寺社に併祀されていたからの錯覚でしかない。故島崎藤村の「夜明け前」にも現れてくるように、神道派の平田の門人達は幕末になると「打倒仏教」を目指して、討幕の運動にこぞって挺身し、やがて明治新政府ができると、太政官に「神祇省」を設け、「廃仏毀釈」といって、これまで神仏混合で祀られていた寺から、仏像を棄てさせ釈迦や如来、観音の像を毀させてしまう。
 
しかし、明治新政府の薩長というのは、もともと大陸系であるし、仏徒派であるから、「走狗は煮られる」というか、もう新政府の土台が固まれば神道派は用なしゆえ、みな追放され、神祇省もできたばかりで廃止されてしまう。
 
これに対して「神風連」の乱なども起きるが、明治政府は神徒仏徒の宗教闘争を押さえ、これを対外戦争に向けさせて、それまで圧迫していた神徒系を、戦争になると、「神州不滅」とか「神兵天下る」とか「神風が吹く」と都合よく美化して利用したから、現代になると、死んで葬式をする時は仏教で、婚礼や地鎮祭や交通安全の御守りを貰う方が神様であるかのように勘違いされ、その結果が、「宗教は阿片なり」と説く共産圏の人民よりも、日本人の方が無宗教者が多いような結果になる。
 
しかし、中世期にあっては、そんな事はない。神道なり仏教なり、みな宗教を持っていた。そして、その宗教闘争の凄まじさは、信長をして比叡山を焼き討ちにさせ、高野山の僧侶を一人残らず殺戮させてしまうのである。だからして、反仏勢力の信長が倒されてしまうと、その翌年には一斉に宗教改革さえも、早々と全国で始められる。これは各地の古い社寺に今でも、「天正十一年裁可状」という名で残されたり伝わっている。
 
つまり、信長の生存中は「修験」と呼ばれた行者によって支配されていた社寺が、天正十年の「本能寺の変」を境にして変り、それまでの神徒系を追放し、改めて一向門徒が京に本山を有する各派や、高野山とか延暦寺といった流れを汲む者を新たに住職に頂いて、その存続を裁許されるように願い出たものに対しての、これは「許可状」なのである。

<『掛川去稿』(「掛川史稿」‥‥静岡県郷土史料)にも、『往昔の延寿院は現今の広安寺なり。昔は「博士小太夫」と呼ぶ修験なりしが、天正十一年の裁許状により(住持が)三宝(仏教)の仏果のところとなる』といった記載さえもみられる。
 
つまり『信長殺し』というのは、『誰々の謀叛』ということより、これは日本という国の中世における『カトリック対プロテスタントならぬ、神仏両派の宗教争い』とする見方も成り立ってくる。
 
なにしろ信長に代わって国家権力を握った仏教派の秀吉は、叡山や高野山を復興させたはよいが、その死後、当時『北の政所』と呼ばれていた寧子(ねね)が、阿弥陀峯の山麓に『豊国神社』として秀吉を祀り、吉田兼右にその神職を司るよう委嘱したところ、次の国家権力を握って交替した徳川家康によって、『仏家のものが、もってのほかである』と、せっかく造営されたばかりの壮麗な神社を、たった一日で跡形もないくらいに破却され、取り片付けさせられてしまったことは有名である。家康と秀忠の父子は、はっきり神道派を自認し、徹底的に仏徒派の弾圧を断行したのである。>

つまり、天正十年六月二日の本能寺の変によって、神道派の信長を、メアリ・スチュアート女王の如く死へ送った新教徒ともいうべき仏徒の豊臣政権は、家康の嫌いな寺の梵鐘に、「国家安康」などと銘を入れたばかりに、大仏殿を再興したり洛中洛北の寺をうるおした仏果が得られず、ついに大坂落城という破局を迎えた。
 
そしてそのあと、家康父子は、また「神徒派の世」に巻き返しをしたように、寺という寺に対して厳しい措置をとった。
 
なのに、神道派の徳川家が三代家光からは、まるで掌を返したように、がらりと変化してしまうのである。「これは‥‥何故であろうか」という疑問が、どうしても起こる。
 
徳川家光が「徳川台記」や、これまでの講談種の俗説のように、「徳川秀忠の長子」であるならば、こんな事は起きるわけはない。また「春日局」が乳母だけならば、あんなに威張って天下の権を握って、死ぬまでに大奥にいられる事もない。
 
また、死に際して、代官町の春日局の枕許へ尾張、水戸、紀伊の御三家はつきっきりで奉仕。家光将軍も千代田城を出て三度も訪ねているが、世子の家綱までが何度も行っている。畏れ多くも京の御所より、女官右衛門佐の局が、わざわざ見舞いに下向までしてきている。
 
これは、(春日局が徳川家で大切にされていたから)という事実より、春日局自体に対して御所は、何か感謝すべきことがあったようにも拝される。
 
ということは、春日局の実父が「本能寺の信長殺しの斎藤内蔵介だった」という点も、併せて考えさせられる問題である。
 
しかし、春日局と家光の間柄を、これまでの俗説のように乳母とみてゆくと、おかしすぎる事が多いから、故三田村鳶魚などは、その著の「徳川の家督争い」では、明白に、「徳川家光は精神薄弱者である」と決めつけている。また、「空印言行録」などには、「ただのひとにはおわせず、辻斬りなどもなせりといわれる」と精神病者に扱っているし、「徳川実紀」という徳川史料でさえ、「小心」であると評し、「粗暴」ともいう。
 
つまり講談本の「家光と彦左」や「家光と一心太助」そして「徳川の夫人たち」のようなものの中では、思いやりのある貴公子となって出てくる徳川家光も、こうした資料ものにかかると、まことアブノーマルな変質者で、しかも「低能」という事にされている。しかし、この説の根拠は、まんざらでもない。


ハムレット家光

十六世紀の末の英国において、旧教のスコットランド女王メアリ・スチュアートと、新教のイングランド女王のエリザベス一世が、「両虎相戦わねば」といった具合に睨み合いしていた頃、海を越えた日本列島の江戸千代田城においても、やはり二人の女王が互いに睨み合っていた。
 
云わずと知れた片や神道派の、織田信長の姪で「ごう」ともいうが、江与の方。それに対するのは仏徒派で、その信長殺しの娘である「於福」こと春日局である。
 
この二人の対峙は十七世紀に入った1626年にようやく終止符が打たれた。というのは、その寛永三年九月十五日に、江与の方が死んで「崇源院」と名が改まったからである。
 
メアリのように断頭台で首を切られたわけではないが、メアリと同じ様に四度の結婚をした於市御前の三女は、その晩年は春日局に苛められて、この高貴な女王は泣き明かして死んだという。
 
もちろん俗書の「大奥秘伝」などによると、春日局の差し向けた者によって砒毒をかわれて、髪の毛もみな抜け落ち、顔中を腫れ上がらせて非業の死を遂げたという。しかし、「徳川台記」などには、死因には一切ふれず、「よって普請奉行八木勘十郎は大命を仰せつかり、棟梁鈴木遠江守をもって、芝増上寺境内にその御霊屋を翌月から着工し、まる三年の歳月をもって寛永五年九月落成」とのみある。
 
メアリ・スチュアート女王だって、その死後は、ひとまずは、淋しいピータロバ墓地に埋められていたが、やがて盛大な松明行列に囲まれて掘り起こされ、そのまま堂々と死の行進をロンドンに向け、テムズ川を舟で上って、歴代の王や女王の納骨堂であるウェストミンスター寺院へと葬られ、今では大理石像となって、まるで、モナリザの微笑みたいな静かな容貌をいつもみせている。
 
さて、崇源院が亡くなってから四年目の寛永九年の正月。先に家光に将軍職を譲っていた二代将軍の徳川秀忠が風邪をひいた。が、息を引取る間際に気がかりらしく、「徳川の家は神徒なり、墓や廟所はいらぬぞよ」と遺言した。
 
なにも吝をしたり、来るべき不況に備えて冗費を慎めと遺言したのではない。カトリックとプロテスタントでは教義が違うように、神徒と仏教もやはり違う。

<当時の仏教はみな土葬だから、寺には墓地という死体格納のガレージがあったが、神徒は火葬で、その骨壷を各自の神棚に置いた。だから神社には『泰安殿』はあるが、墓地はついていない。だが明治末から大正にかけて伝染病が流行し官営の火葬場ができた時、その事業利益をあげるために市町村条例で土葬を禁じ火葬を奨励した。しかし、だからといって各自が、その骨壷を自宅保管してしまっては、それでは寺が儲からぬからと、一斉に『埋葬許可令』を施行し、『焼いて粉にして埋めろ』という事になった。そこで、これまで墓地や石碑のなかった神徒系も、やむなく寺へ頼んで墓地を分けてもらい、これまで墓はなかったのだから、『何々家先祖代々の墓』というのを一斉に作った。現在、墓地へ行くと、こういう代々の墓が多く見られるのは、この時のブームの結果に他ならない。>

さて、その時家光は、秀忠の遺言どおりにしようと思ったらしいが、生き残ってまだピンピンしていた和製エリザベス女王の春日局は、仏教興隆の好機と思ったのであろう。「構わぬ。建てませい。早うせいやい」と下知をした。なにしろ、この頃の日本版エリザベスの権勢が当るべからざる有様だった事は、「寛政十年二月の鳴海史料」にもあり、原文通りに引用すれば、「鳴海刑部六代目兵庫賢信の寛永丙子の年、時の政所春日局さまよりとの仰せにて、天海僧正さまの御使いを賜り、その御考判を下しおかれ候むねを洩れ承る。よって兵庫謹んで伺侯せしところ種々の御下問ありて後、畏れ多くも御局さまにおいては、土居甚三郎利勝さま初め家老一同を呼びつけなされ、その立会いのもとに、新銭鋳造の儀を鳴海兵庫に一任の儀仰せ付けられ候いぬ」
 
これは、寛政十三年六月から鋳造された「寛永通宝」の穴あき銭を、鳴海兵庫に下命した時の経過模様であるが、時の幕閣の老中筆頭土井利勝ら以下が、さながら春日局の家老ぐらいにしか見えなかったという点において、このエリザベス女王の春日局の当時の権勢は偲ばれる。

だから、土井利勝は、(家光公が何と仰せられようとも、お局様の命令とあれば、突貫工事をせねばなるまい)と自分が総奉行となって、とうとう年内の十月には秀忠の廟を落成させてしまった。「参拝にゆかれるがよい」と、家光は春日局に云われて芝の増上寺へ行くと、「あ、あれは何じゃ」と、秀忠の「台徳廟」の他に別個にある建物をみて指差して尋ねた。「はあっ、あれなるは七年前に亡くなられましたる崇源院さまの御霊屋でござりまするが‥‥」と、土井利勝が畏まって答えたところ、家光は不快そうに睨みつけていたが、また吃って、「め、目障りじゃ‥‥すぐ、叩き壊してしまえ」と唇を震わせて云いつけたという。
 
メアリ・スチュアート女王は、生きて居るうちこそ苛められはしたが、死後はウェストミンスター寺院で、いつも微笑をたたえておられるというのに、江与の方ときたら、その廟所さえ、さっさと壊してしまえと云われているのだから、これは比較できぬぐらいに憐れである。
 
さて、この時は千代田城の一室だけではなく増上寺山内という野外ページェントだったから、お伴の幕臣の他に寺僧共も、咳払(しわぶき)ひとつせずみな静まり返っていたので、この家光の罵りの怒号は、多くの者の耳に、青天の霹靂のごとく響き渡ったらしい。だから、(家光が、秀忠と江与の方の子供である)などと思い込んでいる者は、びっくりしてしまい、(死んだ親父様のお参りに来て怒鳴るとは‥‥不謹慎な)と愕いたり、(己れのお袋さまの御廟所がここにあるのを‥‥七年間も知らずだったとは、呆れたことではある)ということになって話が広まり、ついに徳川家光という人は、「あれは暗愚である」「ばかである」「精神異常か、精薄である」という事になってしまったらしい。  

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コメント
 
01. 2011年12月19日 03:10:25 : cPIJgl1gMc
家光は春日局と家康の子供だったとテレビでやってたが。まあ本当のことは隠してるよね家康さんは。徳川家はそうだわ。

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