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@ 出所不明の日本人のルーツ
日本人のルーツは不明である。誰にも分からない。オロッコだ、ツングースだ、ワジャクだ、ミャオだ、港川人だ、明石原人だ、アラムだ、ユダヤだ。『言った者勝ちの世界』である。
A 古代日本の位置づけ
古代東洋史において、日本は辺境の野蛮人ではなく、堂々たる文明国の一員であった。
B 「天上天下唯我独尊」の中国史 『中国の歴史書は全部、手前勝手である』
『秦の論理』
中国を統一した「秦の始皇帝」は、それ以前の全てを否定して、度量衡を統一し、多くの漢字を統一し、車の車輪の幅まで統一した。全てのものは「秦バージョン・規格」に結集され、規格に合わないものは廃棄された。文句を言った者は直ちに殺された。歴史書も、始皇帝が泰山に登って「封禅の儀」を行ったと書いて、秦の正当性を世界にアピールしただろう。
『史記』・『漢書』
『史記』や『漢書』は、(「劉」一族の)漢帝国に都合の良いことばかりが書かれた。『史記』は前漢の時に司馬遷によって書かれた。異論を唱える者は『焚書坑儒』にされたであろう。
(嬴(えい)氏の)秦の 嬴 政(始皇帝)がいかに悪逆非道であり民を苦しめたか、そのために劉 邦が阿呆の項羽(項 籍)と共に義挙に及んで、中国は平和になったと豪語しただろう。
『隋書』
漢の滅亡後に「三国時代」、「五胡十六国」などの乱世を統一した(匈奴系鮮卑族出身の楊一族の)隋は『隋書』を創作して、隋が中国の正当な王朝だと豪語したことだろう。
『唐書』
(匈奴系鮮卑族出身の隋帝国の家来であった)李氏の一族が唐王朝を打ち立てて『唐書』を創作し、唐こそが天帝から祝福された最高の一族だと豪語したことだろう。
C 歴史に出てこない中国版『海の民』
古代中国に海の話があまり登場しない。しかし黄河は渤海に流れ黄海に続き、朝鮮や日本に繋がっていたから、海上交通があったはずであり、都市の交流もあったはずである。
(晴れた日には朝鮮から対馬が肉眼で見えるから、当然、九州も往来しただろう)。
有名な『三国志』には「赤壁の戦い」があり、曹操軍の大船団が諸葛孔明の策略で「火祭り」にされたことは広く知られる。
また、秦の 嬴 政(始皇帝)と同じ「嬴(えい)一族であった徐福は、始皇帝の命令で3000人の童男童女と百工を引き連れて、日本へ来たことが記録されているし、日本各地には『徐福伝説』も残されている。紀元前200年ごろの話である。
D 倭人の文化圏
倭人は中国では野蛮人とされているが、その定義はよく分からない。しかし、古代の中華文明圏にあって、山東省や遼東半島、あるいは朝鮮半島沿岸部、そして日本の九州・出雲などを含む広大な海上交通で結ばれた水上文化圏の人々のことだろう。
世界史において、紀元前1千年前のソロモン王のイスラエル王国は海上貿易で繁栄したと記されているし、それ以前に『海の民』が地中海地方で暴れていたから、紀元前数百年前の中国文化圏に船の建造技術や海上交通の歴史がなかったとは到底思えない。
中国の歴史は基本的に陸上の歴史であり、騎馬民族の歴史でもあっただろうから、自分たちに関係のない「海の歴史」が闇に封印されたとしても、別段不思議ではないのである。
E 中国王朝の姓の考察
夏の姓は「羌」といわれる(真偽不明)。(太公望の呂 尚(りょ しょう)は姜太公と呼ばれ、姓は姜氏との説がある。
殷の姓は「子」と言われる(真偽不明)。「箕子朝鮮(きしちょうせん)」の始祖の箕子(胥余)は中国の殷王朝の一族といわれる。
周の姓は姫(き)。日本の『木の国・紀伊国』の語源とか、紀氏などの「キ」の付く姓の語源かは不明。(日本の古代の国名の漢字は全て当て字である)。
秦の姓は嬴(えい)。古代朝鮮の『衛氏朝鮮(紀元前195年? - 紀元前108年)』の衛満は「エイ氏」だが秦との関係は分からない。
衛氏朝鮮の南にあった『辰国・辰韓』も「シン」であり、これが一説には秦の亡命一族の国との説があるようだが、真偽不明。
(朝鮮南部の「伽耶諸国」は倭人の文化圏に属していたとの説があるようだ)。
『日本の秦氏はシン・チンではない』
日本に聖徳太子の部下の「秦河勝」が知られる。しかし、秦氏は「ハタ」であり機織(はたおり)であり畑である。(字源は【禾】稲(いね)に関連する農業関連の意味と考えられる)。
京都の秦氏が秦の始皇帝の亡命一族という説はよく分からない。秦の一族なら「嬴(えい)」と名のるのではないか。中国語の発音は「シン・チン」であり「ハタ」ではないだろう。
F 消された日本の文化の可能性
古代の中華皇帝が自分に都合の良い歴史書を作り、以前の歴史書を『焚書』したことは広く知られる。そして、次の王朝も新しく一から自分に都合の良い歴史書を作った。
仮に、日本が文化の進んだ先進国だったとしたら、そんなことを自分の歴史書に記録することはなかっただろう。あくまでも日本は『東夷』でなければならなかったはずである。
G 日ユ同祖論
古代イスラエルの「北朝イスラエル王国」は紀元前722年頃にアッシリアに滅ぼされ、「南朝ユダヤ王国」は紀元前597年頃に新バビロニアに滅ぼされたそうだから、数百年かけて中国に来たとしても春秋戦国時代に参加できたのではないだろうか。
イスラエル・ユダヤの滅亡後にあった紀元前6百年頃のアッシリアや新バビロニアは中国の「春秋」の時代であり、紀元前3百年頃のアレクサンダー大王の時代は中国の「戦国時代」であった。
そして、満を持して中国から日本に渡った可能性は否定出来ないだろう。
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