★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ60 > 405.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
日本民族の記憶
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/405.html
投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 01 日 21:30:57: 3SipOypTxKjgk
 

記紀に「スメラノミコト」、「スメラノミクニ」という言葉がある。スメラとはスメルのことで、古代シュメールの記憶である。

表日本史:

物部氏(古代神道)が曽我氏(古代仏教)に滅ぼされ、曽我は百済の藤原氏に滅ぼされ、明治維新まで、藤原女系が日本皇族を支配する。明治維新のドサクサの際、南朝の養子・大室天皇が紛れ込む。

天孫降臨をアヌナキ降臨と考えるとおもしろい、がここでは触れないでおく。

裏日本史:

日本列島の南方から海流にのって海人族が北上し、列島に住みつく。(民族色は赤<赤鬼>八つ)。アム―ル川を下り、北方騎馬民族が南下し列島に住みつく。(民族色は白<青鬼>四つ)青い眼のアイヌは赤と青の混血か?

唐を滅ぼしたキッタイ族が11世紀に列島に入ってくる。大陸系の朝廷からみると、キッタイは朝敵。反体制の海人族・騎馬族・キッタイ族が「サンカ」となる。

朝廷勢力に侵略奴隷化されたサンカは混血系の部落民として差別される。

騎馬族<青鬼>がトケコミし、豪族に成りあがったのが武田氏・上杉氏。織田の元は八田(八つ<赤鬼>)。秀吉も家康も「サンカ」。

サンカは反体制・反仏教だが、混血・部落民がカーストを抜け出すひとつの方法が仏門入り。

創価学会発足の大義名分は北朝と南朝を一統化すること。そこに何故か反朝廷のサンカのインテリ衆が数十人創価幹部になる。利害関係の一致か?

独立党・心情党のみなさん、「サンカ」って知っていますか?  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2011年12月02日 17:09:51: S90OPP5zcw
古代史入門  1より:
http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html

 
日本人の九割を占める庶民とは、江戸期亨保時代に部落をば脱出し、寺人別を銀や銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱いで人非人して非人と誤る。破戒僧とか心中し損ないを非人頭へ生涯奴隷として、着のみ着た侭で払い下げ。ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を映画でも見ての連想らしい。彼らの人口が増加というが、明治四年の壬申戸籍に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。
 
明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。
 
が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。
 
国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。
 
江戸時代は大蔵省が国民皆税で片っ端から搾りとるような時代はかつてなかったから、戸籍は坊さんの私有財産を守る為の寺人別帳が主であり、町人別は銭さえ包めばすぐにも認めたから、紀州湯浅の居附地で、死なせてもよい奴隷水夫とし荒天の海へ出す蜜柑船にのせられた文左衛門らだけが沈没しなかったため、船底に繋がれていた者共は命拾い。漂着した相州の浜で蜜柑を売り江戸へ出ると、同じ山者ゆえ各地の材木を後払いで集めたのが大火で大儲け。銭を出し町人別や寺人別も購い、ついでに限定収容で残っている湯浅の者もみな呼び寄せたから、「東京都江東区史」には、「別所文左エ門」の名前で、はっきり今も残っているのである[紀国屋文左衛門の事か]。
 
こうした複合民族の分類がまったく判らずじまいで、七世紀の良賎の大宝律令の侭で解明しようとするから全く学校歴史は、「本当の事を言えば身も蓋もない」こととなってしまう。
 
彼ら歴史家は。崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の「八つ」との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、指が八本との妄説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに、喜田貞吉らは気づかず、「特殊部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。
 
三韓征伐はまったく逆で、馬韓弁韓辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦663年に世変わりした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送り込み徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのがゲットーの居附部落と知らぬらしい。
 
続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ、尽きると自滅させた。日本後紀や続日本紀に記録されている。
 
「八つ」はマレーシア語の黒潮渡来族ゆえ農耕漁業製塩をなし、食料増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王(きみ)に率いられ、中大兄の韓国系に食料確保の政策上から子を生まされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが、終りには岡山のゲットーへ収容、奴可郡の地名を今も残す。
 
「四つ」は崇神御孫景行帝が「八つ」の八坂姫に生ませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。
 
彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山がつ餌取りと差別とされ、特殊部落民とされてゆく。
 
恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が、11世紀は青眼の賊船が次々と来襲。山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛かぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語で「イ」と呼ぶから「刀イ(伊)の乱」。この時、頼光四天王として坂田金時らも現れるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ、従五位止りで昇殿は不許。
 
ようやく文治革命で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条政子の世になると京を征伐し、尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変わりして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に、足利創業時に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。
 
「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。
 
また、イザナギ・イザナミ二神が天の浮橋で互いにみそめられたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多と呼ぶのも語源。
 
また、騎馬民族の蘇我の末裔が「吾こそミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族の「セン」を「千」に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押し込め居附地を呼ぶのとこれまた同じである。
 
俗にいう処の非人とは騎馬民族の末裔。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる「八つ」の民が働くのに、彼ら「四つ」の遊牧民族は違うからとの命令で藤原体制に、北方に追われキタともいう。「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、「八つ」と「四つ」を合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり、人や獣を扱うのが原住系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。
 
「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収穫物にのみ対しではなく土地を私有化にし地租課税。よって河岸や山頂を当てがわれた部落は納税のために貧窮化した。
 
八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上がって住み着いたのが「八つ」の民。今もイランのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。
 
裏日本へベーリング寒流で入ってきたのが騎馬民族で、「四つ」とよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。
 
治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制すで、「八つ」と「四つ」は交互に、互いに監視し牽制しあうように「四つ」の弾左ヱ門家の下に、「八つ」の車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので、共に仲良くしあって、世直しをと煽動された。
 
その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、「八つ」の大井川の赤フン[褌]の川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン[褌]を振りつつ、向こうでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。
 
伊勢神宮を北条政子と思い込んでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭が良い人が昔もいたものであると感心させられる。 ----己が家系のルーツ調べに学校歴史では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。人情として美化したがるのなら別だが、もし真実をと想うなら道標は八切史観だけだろう。


02. 2011年12月02日 18:43:36: S90OPP5zcw
八切日本史  1より:
http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html

それに、いうならば西郷とか大村といった連中は、江戸人にとっては不倶戴天の仇である。なのに上野の山や九段にある二人の銅像が戦争中にも回収されず、マッカーサー進駐のとき、「あの二つは、ミイら進駐の先輩だから構わぬ」と楠木正成らはみな取り払われたのに、西郷と大村の二人の像だけは保護されて残された点、これまで誰も指摘しなかったか不思議である。
 
大村は徳川体制にそむいて革命を成功させた男。西郷ときたら革命して出来た新政府を倒そうとした反乱軍の首領。マッカーサーの立場からみれば危険きわまりない象徴なのに、残したのには残した訳があるのである。なのに江戸ッ子と自称するのがいても、銅像を引っくり返したという話はきかない。逆に有難がっている。「砲火を浴びず無血で占領してくれた恩は忘れてはならぬ」との理由だが、だったらついでにコーンパイプをくわえた銅像さえ作りかねないのが、日本人なのかと考える。広島にさえ、「あやまちはくり返しません」と原爆を落した側みたいな、碑をたてる奴隷精神の発露らしい。
 
が、西郷や大村を、さも東京の恩人のごとく祀りあげてしまったのは、新政府が義務教育として学校をたて、当てがい扶持の教科書を作り、自分らに都合のよい歴史をば、「暗記もの」として集めた児童らに各学校で叩きこんで教えたからである。それに薩摩出身の林房雄や海音寺潮五郎が、まるで大英雄のごとく西郷を書きに書いた。
 
あくまで抗戦すると頑張る西郷をかかずに、もはやかくなる上はショウヨウとして自決したような美談を作りあげた。しかし、そんな善意のかたまりみたいな英雄で、丸紅の大久保専務の祖父の一蔵と組み、岩倉具視を参謀にし、薩摩では疎外されていた土地者の益満休之助や田中新兵衛を、江戸や京へ送りだし、あれだけの大陰謀が出来たであろうか。疑わしいものである。
 
なにしろ皇室典範や日本国憲法を作成する必要上、長州人は陸軍のドイツ教官に頼んで向こうの歴史屋を招いた。きたのが後にベルリン陸大の教授となったリースやアドルフだった。「ゲルマンは優秀な純血民族なり」とカイゼル宣言を金科玉条にした彼らは、それをそのまま日本へもちこんできて、日本列島は西南から黒潮暖流、東北からベーリング海峡が突き当たってくる吹き溜りなり、とは海洋学を知らぬから気づかずに、大和民族は一なりときめてしまった。
 
平家はみな壇の浦の藻屑になったと決めてかかって、その一門の墓が下関にたてられたのは、ラフカディオ・ハーンが、小泉八雲の名で「怪談」の中に、「耳なし抱一」を書いたからであるが、「史学会」が明治22年に彼らドイツ人の指導によって作られ、その教示にとって国定教科書の学校歴史は作られた。だから戦前はタカマが原へ天孫民族として空からきた事になった。
 
が戦後はジェット気流にロケット噴射の巨大機を打ち上げ地球の自転作用で航空となったから、もはや空から舞い下りてきた話も通らず、北東からの騎馬民族の進出までは一般化した。
 
が、黒潮にのってアラブ語の水を「アワ」とか「アマ」といって渡ってきていた今も子孫の多い拝火教の先住民族は解明しようとせず、まだフビライ汗の頃のシルクロードが紀元前からあったごとき幻想にとらわれている。それゆえ大和民族が複合民族とわからず、同和問題など解明しようがなく、彼らこそ白村江のあと進駐してきた公家によって差別された先住民族と知らずか故意に逆にしている。

ごまかしが好きというか、されるのを承知で喜んでいるのか、なんでも良い事にしたがって甘言を好み美化したがるのが、日本人には受けるようだが、そんなことで本当によいのだろうか?
 
道楽をやりとげなくては一人前の芸人にはなれぬと日本でもいっているし、役者は背徳に身を浸さなくては舞台がこなせぬと英国のオリヴィエもいっている。死んだピカソも、「作家も詩人も絵かきも体制に背をむけてこそ存在の価値がある。だから体制によって追放されたり手錠をかけられた者でなくては、真のものはうみ出せぬ。彼らは御用商人ではないからである」という。
 
サルトルも、刑務所からでてきた男に「泥棒日記」をかかせて推薦している。なのに日本では芸者買いしたとかバクチに手を出したとか脱税したのとスキャンダルでタレントをほしてしまう。
 
いくらテレビが各家庭で見られるからといえ、タレントを道徳家にする事はない。
 
殺人といっても見ず知らずの相手ではなく、殺さねばならぬ必然性も彼にはあったのだし、「本当に愛しているのなら、その手にかかって死にたい」のも、一つの願望だということが判っている人も多いのゆえ、出所後には歌手として再出発させる思いやりが、彼にはほしい。
 
演歌と当て字されているが本当は怨歌である。本当に女を殺した男でなければ、女への愛憎は心から唱えない。勲何等かを貰って直立不動での唄い屋よりは、遥かに本物であるといえよう。
 
今でもパリーの市場辺りや裏通りのBALへゆくと、腰の曲ったお婆さんのシャンソン歌手がいて何人も流しに回っている。話をきくと警察に協力しなかったり何かして為に舞台をほされたとか、かって愛人を刺した経歴があるといった女性たちで、温かい拍手に迎えられそして拍手に送られて店から店への流しをしている。本物のシャンソンは挫折した人間共の恨みつらみの歌である。ポルトガルのファードにしても刑務所の囚人の歌からであるし、黒人霊歌にしても奴隷怨歌である。
 
一杯のんで唱う鼻歌や学校で習わせる唱歌と、声なき民の抗議と諦めの怨歌とは違うのである。
 
血を吐く想いで涙ながらに叫ぶのが、日本的ごまかしによって美化されたり戯画化される。
 
よく言われて一般大衆の庶民のもの民謡とされ、悪く扱われるとゲスとされるのに、アラエッサッサの安来節と八木節がある。浅草の演芸ホールや木場館で、赤い腰巻が出るのがストリップ以前には広く好色ごのみに流行したからであるし、また盆踊りの櫓で空樽たたいて、博徒国定忠治の一節を語り、ちょいとでました三角野郎がと、片肌ぬきで唸るから野卑であるとされている為らしい。
 
しかし今は漢字のあて字で安来と八木は別個のごとく思われる。が、YASKIとYAGIである。八切とは日本原住民へ公家が課した体内の血が1/3まで流れ出血多量で、のたうちまわって死なねばならぬ割腹のことである。後には故意に美化されて「切腹」となるのである。
 
八付も、ふつうの張付は両手両脚を縛りつけて止めは錆槍でさすのだが、日本原住系に対しては公家と差別して、手は掌を脚は土ふまずから先に釘づけ、つまり残酷にも半殺しにしておいてからである。むごい仕置をされていたのに日本歴史のでっちあげに踊らされて、さも名誉のごとく想うのは、もう大概にしてやめて欲しいものである。
 
さて安来千軒といった歌詞から、その昔は千も民家のあった所と漢字の当て字から誤られているが、これはしいて漢字にあてれば、「千」軒である。つまり先住民族として扱われた日本原住民のタウンのあった個所をさす。つまりセンが千の字になったゆえ今では、出雲大社の神主さまも隠岐の神主さんや茶湯も、その文字を苗字にあてている。千葉や山梨にも千軒の文字で、昔は栄えた土地なりと伝承されているのは間違いで、みな日本原住民系の捕虜収容地の名残りである。
 
八木節とても同様で榛名山系は、天慶の乱で公家に滅ぼされた坂東八ヶ国の、帰順しない原住民系が逃げ込んで住みついた限定地。後には強制的に米作りをさせられ、一粒も残らず供出することで命は助けられていたから、戦国時代までは八木とかいてヨネつまり米という。
 
歴史を収入源の材料に使っている人は、なにしろ原料が限定されているから、本文や読み下しはその侭で使う。しかし出典を一々付けるのは面倒で読みにくかろうと省くのが多い。
 
同業の歴史屋どうしは互いにナアナアで用いあっているくせに、丹羽文雄が<親鸞>をかいた時など盗作よばわりをして抗議までした。私が「*古代資史料大成」を編纂した時も、「平将門の存在は藤家史料には反乱者の代表氏名のごとく書き出されているが、中華の風俗になじまずと大弾圧をされ反乱した坂東八国の日本原住民の中に、そうした個人はいたかどうかさだかでない。物語は里見八犬伝と同じ中国種にすぎぬ」としたら、そうした徒輩からの抗議をうけた。
*『古代争乱資料大成 別巻』の事か?/確定史料保存会・編 日本シェル出版刊。
限定出版 定価3400円(特価2900円)『将門記』などの平将門に関する
史料集。初期の出版なので割と丁寧な造本。

かって書いた「忍術論考」のごとく、「現在でさえ鉄は日本ではとれない。八幡富士でもスクラップまで輸入している。だから採鉱技術の劣っていた昔は鉄は貴重品で、矢の先につける矢尻でさえ米一升に二個。あんな小さな物でも百円以上した。それなのに忍者が、マキビシと称して投げるあれは、どうも当時としては一個千円位なのに、あんなに気前よくパッパと投げられるのは可笑しすぎる」と考え、「甲斐郡志」に「固き菱の棘を刺したる面々あわてふためき逃げ去る」などと出ているから、(まきびし)というのは今いう鉄製の高価なものではなく、沼や沢に自然にはえていた菱の実ではなかろうか。黒い実をゆでて中の白い果実をたべ、殻は鼠よけとか泥棒よけといって塀の上に並べておいたものと違うだろうか。と素直な疑問を持ち、そして、「伊賀者、甲賀者」というのも、「足利年代記」によると鹿伏山の者が山栗のイガを俵へつめてきてまいたのを、当時は裸足か草鞋(ぞうり)だった兵が踏みぬきして迷惑したとあるから、これが栗のイガ者の起りだろうし、「伊賀者」も「和田家記」というのには、「くご(現在のくこ)こご(からたち)をもって敵を防ぐ」とあるから同巧異曲であろうなどとも考えた。
 
こうした話では「続応仁私記」に出てくる、信長から矢銭をいいつけられた堺の町では、入口の堀を深くして、菱の実をまき防御陣地にしたのが有名であるから、今のような消費ブームの時代でなかった昔にあっては、「池をさらえヒシをまき、木のイガを叩き落し、なるべく銭の掛らん方法をとったのではあるまいか」と帰納法をとってみた。
 
次に、いわゆる伝承された忍術は、中国朝鮮の兵書の孫引きに、列子の黄帝篇や周王篇の神仙説を加味したもので、みな当時としては舶来ものだった。だからして、「荒唐無稽という文字をみても、唐国を荒し読まれている伝書だが、稽古しても無駄だぞ」
 
とあるではないか。だが、それにしても、「呪文を唱えればスーパーマンになれる忍術が、もし実在していたものとしたら、なぜあんな便利なものが消え失せてしまったのだろうか?」とも悩んだ。


03. 2011年12月02日 20:27:26: S90OPP5zcw
日本意外史  1

[登録日 1996年4月4日  PQA43495 影丸


八切日本史《別巻》「日本意外史」 番町書房

昭和47年6月5日 初版印刷 昭和47年6月15日 初版発行


ヒミコは美女だったのか

「死せる子は眉目(みめ)よかりき」と古来からいわれるせいだろうか。ともそれば
過去の女性はみな美しかったようにされてしまう。
 余りに事故で死ぬのが多いせいか、今でこそそうではなくなったが、かつては夏の
溺死ぐらいしか事故死はなかったので、
「水死美人」といった熟語があった程である。だから、そのせいでもあろう。一生に
一度は美人と呼ばれたいと思う悲しい娘心で、三原山へ行って死ぬようなのもいた。
 さて、歴史という過去の具象の中にあっても、人々は細川ガラシャや於市の方を美
女にしてしまうごとく、「ヤバダイ国」のヒミコをも、近頃ではクレオパトラなみの
美女であったかのように、そう願望するがゆえにか決めてしまいたがる傾向がある。
 というのもなにしろ男は、女といえば美女しか女性でないような考えをもっている
者が多く、それにヒミコのヤバダイ国には、
「トウマ」「フヤ」ら二十八国が従属していたといわれるから、さながら彼女の色香
にひかれ、それらの国々が従っていたような錯覚すらも持つのだろう。
 しかし男王が、そのお妃さまを選ぶのなら、これは自分のために選りすぐりの美女
を探しもしようが、彼女は妃ではなく生涯独身の女王だったといわれる。となると、
「女王」といっても現代のようにコンテスト形式で詮衡されるところの、
「海の女王」や「下着の女王」といった興味本意なものではなかろう。もっと神聖視
され、恐らく神示によったものだから、美しかったかどうかは神のみが知り給うこと
だったろう‥‥
 といって日本には外国のような「愛の女神」など存在せず、みな「山の神」とか、
「さわらぬ神に祟りなし」の方だから、本当は恐い顔をした女だったかも知れぬ。
 それにどんな人種だったかも気に掛かる。

『日本書紀』にでているウケモチノカミ。そして、『古事記』のオオゲツヒメ、とい
った女神たちは、神殿の燃ゆる紅蓮の焔の中から、呪文を唱えつつ生まれでてきて、
やがて、
(一粒の麦、もし死なずば‥‥)といったように神殿の祠の窟内で惨殺されたその身
体を土壌とし、豊かな五穀の実りを産み出してゆくのである。
 さて‥‥これが弥生式土器で知られる紀元一世紀前後の、わが日本列島における水
稲農耕開始時期の、女神のあり方だったとなると、
「ヒミコ」が女王として選ばれていたのも、何も美貌であったからというのが理由で
はなく、死んでからも肥やしがよくきくような、ヒップの大きな、そしてボインも豊
かな女人だったということになる。
 なにしろ、縄文中期にかけての時代にあっては、
「より多くの土毛物(つちけもの‥‥土から生える植物)を、豊かに実らせる」
 ために、産神としての女神は一定の年令になると殺され、土中に埋められて、そこ
で永遠に呪術をかけておらねばならぬ義務を課せられていたのだから、日本の民族学
では、
「地母神」の名をつけるが、ヒミコも今日考えるような、気楽な女王稼業ではなかっ
たろう。
『魏志倭人伝』には彼女の死後の有様を、
「直系百余歩(百四十メートル位か)の塚へ、おさめた」とある。
 だから、ヒミコはヤバダイ国の岡の上に埋められてからも、四方八方に眼をくばり、
休むことなく豊作であれ、との呪文を唱えていた事になるのであろう。
 さて、女王となるべき女神が、紅蓮の焔中から、両手を高くあげ、呪文を唱えつつ
生まれてくるというのは、拝火教信仰である。
 しかし、そうした部族はツングースにもいるが、彼らは男尊女卑の習俗だったから、
女王を立てるような事はなかったろう。
 すると女尊男卑の拝火教徒であったとすると、その種類も限定されてくる。
 となると、これは南インドに住まっていて、インド・アーリア人やギリシャ民族の
進攻に追い散らされる迄は、栄えていたヤバンル族ではあるまいか。
 二十世紀の今日になると、現地では弱小民族とされて、その後裔は、
「ペラマビグラン山脈」の中に匿れ住むプラヤン族と、南インドで貧民、賎民として
扱われているガダル族らに分かれている。
 しかしカルカッタやボンベイでも、この部族の者は、盛り場の雑踏の中で見かけら
れる。私も初めてインドへ行った時は、
(インド人はグルカ兵みたいな巨漢ばかり)と思いこんでいたし、ホテルのボーイも
2メートル近い大男揃いだったので、カルカッタのグランドホテル前の賑やかな通り
で、いきなりズボンを引っ張られたとき、小さいから子供のつもりで振り向いた処、
鼻下に堂々たる八の字髭をつけているのには面喰わされた事がある。
 さて、その小男に引っ張られ連れて行かれた処、これまた小柄な女性がいて、それ
が無言のままで捲くった個所には、身体つきには不似合いな立派な顎髭みたいなのが、
もじゃもじゃ生え茂っていて、さすがに無気味になってこそこそ退散してきた事があ
るが、そのとき、
「Kadar族か、Pulayan族なのか」
 うっかりして聞き漏らしてきたが、そのどちらにしろ紀元一世紀前後は、南インド
から今のマレーシア、そしてベトナムにまで分布し、栄えていたヤバンル族の末裔に
相違ないのだから、異によると、「ヒミコ」というのは、彼女と同じような矮小民族
ということになり、それゆえ、魏国や漢国から、「倭小の国」つまり「倭国」といわ
れていたのではあるまいかとも想像される。それに、
「ギリシャ史」では、
「紀元前521年に生まれたペルシャのアケメネス王朝のダレイオス王が、インダス
河右岸を占領していた頃から、ギリシャとは交易があり、紀元前327年にアレクサ
ンドリア大王が、ギリシャ軍の精鋭を率いてインドへ攻めこんだとき、矮小民族は現
在のベトナムに当るチャムパー(ギリシャ名カテイガラ)へ送ったところ、東方海上
へ筏で逃亡した者が多かった」
 となっていて、明治時代に故木村鷹太郎が、「日本の上代語にギリシャ語が多く混
じっている点、そして、ギリシャ人がヤバンルとよんでいたのが、現代のゲルマン民
族の日本への呼称のヤバンとなっている点‥‥この二つの理由から、日本人というの
は、ギリシャ民族を祖先にするものではあるまいか」
 と発表して明治の学界を沸かせたが、どうもヒミコは、ギリシャ人に追われて日本
列島へ漂着した矮小民族‥‥女神崇拝族の中で、呪術つまりシャーマンにたけた女人
優位のヤバンル族ではなかったかとも、帰納できるようである。
 さて従来の歴史の常識で、
「倭=やまと=大和朝廷」とみてゆくと、ヤバダイ国やヒミコの実像も判らなくなる
が、別個に分けてしまい、
「倭」は文字通り、アフリカのピグミーに比べれば大きいが、それでも平均身長以下
の矮小民族とみれば、後に天孫族と同化混血したとしても、その当初は、後のヤマト
民族とは異質のものと、はっきり区別がついてくる。
 そうなると、私がカルカッタで連れこまれて逢ってきた女性に、かつてのヒミコ女
王も似ていることになるのであろう。
 しかし伴っていった小男の八の字髭と、その女性の小学生のようなあどけない肢体
には、似つかわしくない茂みにばかり気をとられ、どうも肝心な顔の方の記憶が残念
ながらないのである。
 とはいえ、もしもあまり容貌がひどかったら、拡げる前にさっさと退散してきた筈
だから、まあ十人並みというか、眼のぱっちりした、こじんまりとした美少女タイプ
だったような気もする。
 インドのアッサム地方のナガ族の女は、それ程までには色も黒くなく、顔だちも日
本人とそっくりとよくいわれるが、私のみてきた小柄な女性も、そういえば日本人に
似ていた感じもする。だから、
「ヤバダイ国のヒミコ女王」というのは、今でいえば、
「トランジスター・グラマー」といった可愛いスタイルだったらしい。が、それがま
だ紀元の始まる前の未開発時代だったとはいえ、
「地母神」「産神」の名をつけられ、岩戸の中へ閉じこめられ、
「五穀豊穣」の祈願のためにそこで殺され、「呪詛の案山子」みたいに大地へ埋めら
れたのかと想うと、
(いつの時代でも女上位などというのは、うまく女を操り利用するための、男共の策
謀)といったような気がしてならない。
 とはいえ、なんといってもヒミコが吾らにとって、母なる大地のような存在だった
のだから、いくら生涯独身であったと伝えられても、その子宮に吾らの内なるものの
繋がりを見るしかないと想われるのである。


日本人の原点は‥‥

 日本列島とよばれる地帯に住む吾らは、日本人とよばれ、何処の土地へ行っても、
その日本人という肩書きからのがれられないのは、立場を置き換えれば、さながら猫
に生まれたのが、いくら顔を尖らせてみても、犬とは認められないように、ひとつの
定まった宿命的なものでもあるらしい。つまり、「脱・日本」はできえたにしても、
「脱・日本人」というわけにゆかぬのである。
 そこで海外へ出ると、どうしても、日本人とは何かと考えさせられてしまう。
 何故かといえばヨーロッパの国々は陸続きのせいか、スイスなんか国民の半分以上
がドイツ系で、別国人といってもそうはっきりした見分けはつけにくい。が日本人と
きたら中国人と間違えられはするが、吾ら自身においては、あくまでも日本人以外の
何物でもないでのである。
 つまり時には同じような黄色人種だというので、同一視されることがあっても、
「ウイ」とか「ヤア」とそれに対し面倒くさいからと、答える日本人はいない。
 行きずりの異邦人に間違えられたとて、格別どうという事はないのだが、誰もがむ
きになって日本人であることを主張したがる。
 潔癖といってしまえばそれまでだし、日本人としての自負や誇りからだという人も
あるだろうが、どうもそうではないらしく、もっと内なるものの反撥によるのでは有
るまいか。
 それは愛国心にも結びつくものだろうが、日本人は日本人であることに時には勇み
たち、また時には悲しがったりもする。
 となると、その原点は何にもとづき、それは何に由来するのかといった疑念さえも
浮かぶ。
 吾々はそうしたとき、それへの解明に、
『古事記』をひもといたりする。もちろん、それはいわゆる神話の世界である。
 イザナギ、イザナミの男女二神が、
「この漂える国をおさめ作り固めをなせ」
 と大詔を拝して天降ってきたという物語に対し、同じ神話でも、
(アダムが肋骨の一本をとってイブをこしらえた)とする、なんか不自然な人間第一
号よりも、同伴で空から舞いおりてこられた方に、身びいきであろうが親しみをもつ。
 蛇に教わって林檎の実をかじってから、さながらプレイのように男女の営みを始め
るのよりも、そうした行為は、お国の為であり、「人的資源」を確保する報国作業で
あるのだと、きわめて愛国的に、かつて教え込まれた私どもには、
「わが身はなりなりて成りたらざる所が一処あり」と、受け入れ体勢をとられる女神
の方が遥かに日本的であり、そして、その意味をすばやく汲みとって共に協力して人
的資源の増産に励まんと、雄々しくも男神もそれにうなずかれたまいて、
「わが身はなりなりて成り余れる処、一所あり、その余れる処もて、その余りたらざ
る処をおぎない、埋め合せを致さん」
 きわめて論理的に考えられ、人的資源開発よりも領土拡張と先に大八州(おおやし
ま)をその行為によって産み出されるのだが、これの方が情緒がある。さて、とはい
うものの、
「女人が先に口をきくは良からず」と男神が咎められ、その最中にできた第一子は葦
船へ入れ流してしまい、産児制限の皮切りになされたというのは、どうみても男尊女
卑思考である。
 となるとヒミコが君臨していた頃の耶馬台国八幡国家群とは、まったく違った大陸
系の男権国家がそれにとって代わってから、これは作られた神話ということになるの
でもあろうか。
 そして、それらの人々は何処から移住してきたか、北方説や南方説がいりまじって
いるが、そちらをとるべきであろうか迷わされる。
 早大の水野裕教授は、栃木県葛生町で発見された葛生原人や、豊橋市牛川で見つか
った牛川原人、そして静岡三ヶ日町で発掘された三ヶ日原人らの骨にもとづく旧石器
時代人が、日本列島の地質学上では、洪積世の後期に当るから、それらの原人を、
「約十万年前か、もうしこし古いもの」とみなし、そこでこれを、
「ヨーロッパ旧石器時代人の一種ネアンダルタール人に、それら日本原人は類似して
いる」ととき、
「血液型でみると、南方民族系のO型が日本列島には一番多く、ツングース系のB型
が北海道から東北、特に裏日本から中部山岳地帯に多く、それに朝鮮型A型が中国や
四国、九州に分布しているから、日本人というのは、原(土着)日本人に、アイヌ、
ツングース、インド、インドネシア、苗族などが、新石器時代からの長い期間に、局
地的に断続的に混血をくり返しつつ合成されたものであろう」
 と、日本人が混血人なのを明らかにしている。が、それに対して、
「日本人は純血な単一民族である」としたがる傾向が、戦争中などは露骨で、挙国一
致体制といった掛け声から、すべての日本人は、
「源平藤橘」の四姓によって構成され、根本においては、その発生源は唯一つである、
と歴史家もとき、そして、
「われら日本人はみな純粋に神の子である」と教えられていたものである。
 しかるに敗戦となってGIが続々と入ってきて、各地の日本女性から、眼色毛色の
変わった赤ん坊が次々と生まれだすと、話はまた違ってきてしまい、
「混血こそ優良人種を生むのである。かつて明治の先覚者森有礼は、日本女性をヨー
ロッパへ送って種つけして貰い、日本民族の改良を計ろうとした程である」
 とまでいわれるようになって、巷ではジュースまでが当時は、
「ミックス・ジュースもできます」と喫茶店の看板になった程である。しかし一般の
心情としては、
「うちの娘が混血児をうんでくれて、めでたい」という改良思想家ばかりではなく、
大磯の沢田美喜女史の手を煩わすようなものも多かった。
 つまり一般の日本人は戦前のごとく、まだ、「まじりっけなしの大和民族」であり
たい願望からか、心情的に日本人単一民族説をとく者もいるようである。
 もちろん、これは江戸時代からも、林羅山によって、
「中国の史書に、呉の太伯の後裔が日本人という説があるから、われらは南支那から
集団できたのである」といわれたり、
「秦の始皇帝のとき、不老長寿の妙薬を求めにきた除福の子孫が吾々なり」と云いふ
らす者もあり、「萩生徂来」の名を、あちら風に、「物徂来」とかえてしまう学者す
らもいた。また、明治になってからも、
「義経はジンギスカンなり」を発表して一世を風靡した有名な小谷部全一郎も、日本
人はユダヤ人なりと、東北八郎潟湖畔の遺跡をもってして、そこに残されている十字
架の墓碑や、ヤコブとかヨハネといったユダヤ系の名に、今も発音が似通っている人
名をもって、その裏書として発表した。
 しかし、そうした用語の発音の類似という点で、大和民族が他から一括導入された
という説をたてた者には、明治時代に、
「ギリシャ語」の日本語の共通点の多さから、日本人はギリシャ民族が東行したもの
だと、木村鷹太郎が提出し、大正時代にはアナーキストの石川三四郎が、今のイラク
に当るメソポタミア人をもってする「シュメール起源説」をとなえた。
(これは今でも一部の研究者の手によって、菊の十六枚の花弁は、イラクにだけかつ
て有ったものであると、日本イラン文化研究会の手で、現地でいろいろ調査が続行さ
れている)
『万葉集の謎』という本をもって、昭和に入ると安田徳太郎が、
「ヒマラヤ奥地のレプチャ人こそ、古代日本人である」
 と、『万葉集」に残された日本古語とレプチャ語の比較研究を発表して、おおいに
世評にのぼったのも、まだ記憶に新しい。
 他に、目ぼしい説をピックアップすれば、
田口卯吉の「古代日本人匈奴起源説」堀岡文吉の「天孫族マライ渡来説」がある。
 これは、日本人の常食の米は世界各地で産するが、その稲の品種がみな違い、日本
稲と交配し実を結ぶ稲の原産地は、南方シナからインドシナ半島方面、つまり現在の
マレーシアに限られている点からして考究されたもので、
(吾々の食する米の原産地がマライ半島なら、その稲を日本列島へもちこんで来た人
種も、またマライ系でなくてはならぬ)
 とする説で、これに関しては、
「古代人種にとって、もちろん動物においてもそうであるが、塩は欠くことのできぬ
必需品であった、だから各々その伝えている製塩技術をみると、民族の根源が判る。
さて日本式と同じような製塩技術方法をとっている所は、世界中何処を探しても南シ
ナ海沿岸だけで他にはないのである」
 と、海水学の権威、杉ニ郎は、この日本人マライ説に賛成し、言語学専門の大野晋
は、やはり日本人の原点に関し、
「指示代名詞コ・ソ・カ(またはア)が配列正しく順をおって応答される言語、つま
り日本語と同じ文法のもとにある言語は、インドシナのベトナムから、マレーへかけ
て住む人種のみ、限定され今なお使われている用語法なのである」
 と、やはりこれを裏書きしている。そして彼は、
『日本語の起源』の著において、
「琉球の方言、なかんずく首都那覇の方言の母音たるや、これは本土の共通語母音と、
明白な対応関係をもっている。この点から考察すると、那覇語こそ日本語の母胎をな
すものともいえるのである」
 といった意味のことをのべ、
「沖縄・高天原説」のような思考を展開させているが、学界からは黙殺の態度をとら
れているらしい。
 しかし、これは別に飛躍した説でもなんでもない。妥当と考えられもする。
 なにしろ、その那覇周辺には、
「久米部族」とよばれるのが明治までは住みつき親衛隊となり、
「鎖(さし)の側(かわ)」とよばれて、中山王宮を取り巻き、守護していたのであ
る。(サンケイ刊「サムライ無宿」に詳しく書いたが)彼らこそ、『古事記』や『日
本書紀』に多少の字句の相違はあるにせよ、はっきりと、
「みつみつし久米が子らが、根もとに植えしハジカミ口ひくく(辛く)吾は忘れじ、
撃ちてしやまむ」
 とでてくる久米の子の末裔でないなどと、いいきれないからである。なにぶんにも
本土の方では、その久米の子らは、どうしたことかその後は何も現れてこず、ただ、
「そらを飛んでいた久米の仙人なるものが、たまたま川で洗濯中の女人の胯間が水面
に映るのを見かけ、それと女の脛の白さに眼がくらみ、あっという間もなく神通力を
失い落下してきた」
 といった艶笑小噺の中でしか伝わっていないのである。が、
「唐栄」ともよばれた鎖の側の久米部三十六姓の者達は、
「尽忠」をその部族の掟としていた。だから、明治十年五月、当時病臥中の尚泰王が、
明治政府の手によって東京へ運び去られようとすると、
「尊王の大儀」に彼らは一斉に蹶起した。
 これまでは王家の安泰のためには、薩人の横暴にも堪えていたが、もはや我慢はな
らないと、「勤王攘夷」のむしろ旗をたて、久米の者らは見を挺して王宮の周りに、
今でいうピケをはった。そして部落から荒れ狂う南支那海を山原(やんばる)船で、
当時の清国へ助けを求めに出かけた。
 もちろん内海外海日本の警察隊が包囲していて、彼らは次々と沈められた。それで
も尊王の大儀に殉ぜんと久米の子らは死を覚悟で密航した。
 彼らが清国へ救いを求めに、悲惨な脱出行をしたのには、それなり理由がある。
 なにしろ彼らにしてみればクマソ同様にみていたハヤト族のサツマ人に慶長十四年
に攻撃され、そきの中山王尚寧が捕われたあと、島津家の占領下におかれ苦しめられ
たので、その後は、いわゆる、「やまとぶり(日本風)は一切せず、「唐栄」とよば
れていたごとく、中国語しかしゃべっていなかったからでもある。
 ということはまた、取りも直さず後述する崇神朝の騎馬民族は、ツングース系で朝
鮮経由で馬をもってきたものならば、この久米の子の沖縄とは無関係になる。つまり、
「久米の子ら」が守り奉った天孫系の方たちは、陸路をあまり通らず東支那海を春か
ら夏に吹く風にのって、つまり貿易風の黒潮暖流にのって日本列島の九州へ渡られた
ことになる。そしてそこから内海を大和に向かい、熊野、伊勢へ御東征の軍を進めら
れたものである。となると騎馬民族でない唐ぶりの王朝系にとっては、やはり沖縄こ
そ、それら日本人の原点ということに間違いなくなる。


日本武尊妃は朝鮮美人

 景行帝の第二皇子で西暦前八十二年に御誕生、十六歳で九州へ熊襲征伐に向かった
際、単身女装して敵の巣窟へのりこみ、
「オウスノミコト」という名前だったのを、そのとき仕止めた敵の首領が、苦しい断
末魔の息の下から、
「オウスとかチャウスというのは何ですから、これからは、どうか、ヤマトタケルと、
お名のりくださいますよう」
 と頼まれて、その名にかえて大和へ戻った処、またしても、すぐ東征の命をうけた
ので伊勢へ途中立ち寄られて、伯母の、
「ヤマトヒメノミコト」から剣を貰った。
 おかげで隠れていた敵に荒野で包囲され野火をつけられ、危うく焼死しかけた時も、
「おのれッ」と、その宝剣で草を薙ぐと、火勢はあべこべに敵の方へと向かってゆき、
これには向こうが逆に周章狼狽してしまい、
「あつい、あつい」と降参し、めでたく彼らをみな帰順させる事に成功したので、そ
の時よりこの宝剣に、「草薙剣」と命名したが、相模の国から海上へ東征の舟旅を進
めると、折りから一天俄かにかき曇り大暴風雨となった。そして、「もはや舟は沈ま
んとす」という有様に荒れ狂ってきた。
 見かねた御妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が、夫のみことを救い奉らんとして、
「さねさし相模の、小野にもゆる火の、ほなかに立ちて呼びし君はも」
 の詠草を残され、怒涛さかまく大海原へ身を挺し、
「海神の怒りをしずめん」と、飛びこまれ海の藻屑とならせられたもうた話は、
「日本女性婦徳の鑑(かがみ)」として今も広く知れ渡っている。なのに、その弟橘
媛が朝鮮の御方であったとか、また、
『フロイス日本史』によれば、安芸の宮島の祭神である女神三柱も朝鮮の御方だとい
われるのも、みな結びつきあって、どうもそこにはやはり繋りがあるのではなかろう
か。

『記紀』にみえる「日本武尊」は、今では歴史家も公然と、
「神話の中の架空の武人である」と定義している。
 だから架空の方の御妃が、日本人でも朝鮮人でもまたはインド人でも差し支えない
ようなものだ。
 が、そうした説が生まれてきたのは、なんといっても、
「さねさし」という相模にかけた御歌の枕詞が、はっきりした朝鮮語だったせいでは
あるまいかと想われる。
「さね」は「中心」の意の朝鮮語で、後には日本語の核という字にあてられ、女性自
身の中心部のことをいうようにもなるが、だからといって、
「さねを指し」という淫らな意味ではなく、この「さし」は「城」の意味である。
 後には今の東京都と埼玉県を併せた地域を、「武蔵(むさし)」というようになっ
たが、初めは、そうよばれたのは『国造本紀』によれば、今の埼玉県であり、「胸刺
(むねさし)」と東京都の方は区別して呼ばれていた。
「むねさし」「むさし」共に「宗城」「主城」の意味だが、「むね」も後には日本語
となって、戦記物などにはよく、
「宗徒(むねと)の面々、集まり候え」などと出てくるものだし、また、
「徒然草」の中などでは、「家の作り方は夏むきを、むねとすべし」などと出ている。
 が、朝鮮語でもなにしろそちらが原語ゆえ、宗(むね)であるのが正しかろう。
「む」一字きりの方も、三省堂『古語辞典』などでは、
「上代語・『み』が他の語と合して熟語を作る時の形」
 となっているが、朝鮮語では、「正しい、正真正銘」の意である。
 ‥‥ということは、日本武尊や弟橘媛の話は、神話の中の架空のヒーローやヒロイ
ンであったにせよ、その当時の東国は、
 さねさし(中心城)と称する神奈川県
 むうさし(正真城)と名のる東京都
 むねさし(主たる城)という埼玉県
 の三つが並んでいたことになる。つまり三つの地域が、
(自分の所こそ、正真正銘の宗城である)と、いわば本家争いを、互いにしていたの
が証明される。
 こういう例は、たとえば越(こし)の国が、
「越前、越中、越後」と三分されて併立したように、吉備の国が、
「備前、備中、備後」となり、他にも、「陸前、陸中、陸後」といった例も今に伝わ
っている。
 では、なぜ三分されて名づけられているかを推理すると、これは、かつての朝鮮が、
「馬韓」「弁韓」「辰韓」と、三韓になっていたり、後にも、『新羅(しらぎ)』
『高句麗(こうくり)』『百済(くだら)』と三つになっていたから、その三方面よ
り渡航してきた者らが、「当方の出張所のある地域こそ、本当の正しい土地である」
と競合して、そうした呼称をしあっていたのではあるまいか。
 というのは、わけがあるのである。
 なにしろ、それまでの日本は倭国とよばれたごとく、女王をたてて小さく各地に群
居し、実際の戦いよりも悪霊を押しつけあう呪詛であけくれしていた。
 だから騎馬民族が大挙して攻めこんでくると、彼らは驚き、
「大変だ。身体の大きなのが、四つ足に跨って攻めてきたぞ」
 というだけで、すぐさま騎馬民族に対し、
「恐れ入りました」と帰順してしまったものらしい。しかし、その後か、はたまた、
その前に久米の子らを従えて、海路進攻してきた天孫族が既にいたものなら、
「おのれ、くるか、いざまいれ」と抗戦したものの、船できて馬のない彼らは戦い利
なく破れて、また船にのって沖縄の方へ戻ってしまったものなのか‥‥
 もはや今となっては判りようもないが、西暦紀元前から一、二世紀の間に、船にの
って逃げもできず踏み止まった久米の子らの残党や、倭人たちは、一応はみな騎馬民
族によって征服されたのだろう。
 処が、その混乱に乗じて、この時、海の彼方の三韓が、
「日本よい国」とばかりに兵をむけ、部分的に占領して、各自勝手にコロニーをひら
き、関東を例に引けば、
「むさし国」は大宮の氷川神社が、彼らの持ちこんできた祖神。
「むねさし国」は、多摩郡八王子日野の大国魂神社がそれで、
「さねさし国」は、後の箱根権現を、その祖神を祀る神廟として、勧請してきて祀り、
信仰していたのである。
「青丹よし奈良の都は咲く花の」とよばれる「ナラ」の言葉が、朝鮮語の「国」を意
味するという程だから、日本へ渡ってきて落着いてしまった朝鮮人の勢力は、侮り難
いものがあったのだろう。
「人皇五十代光仁天皇は、四十七代の女帝孝謙帝御妹君の井上内親王の御聟であらせ
られたが、当時河内の平野郷に住まっていた朝鮮系の高野新笠がうみ奉った桓武帝が、
その死後に代られると、未亡人の井上皇后は太子と共に吉野の山寺へ押しこめられ、
そこで食を絶たれたもうて餓死させられた」
 と、久米邦武は、この時代のことをかいている。
 そして桓武帝をかつぎあげた朝鮮系が、宮中をすっかり押さえてしまったので、帝
の後宮は、女御として、
「クダラ王教法媛」「クダラ王永継媛」
 そして女官長に当る尚侍(ないしのかみ)に、「クダラ王の娘教信」、その次長に
「クダラ王明信の娘」「クダラ王教仁姫」「クダラ王貞香娘」
 さながら今日のキイサンクラブのごとく、クダラの女官が御所の後宮を取りしきり、
この後の嵯峨天皇の御代も、
「女御はクダラ王媛貴命」「尚侍はクダラ王慶命媛」と変らず、人皇五十五代の仁明
帝の代でも、クダラ王永慶媛があがっていた。
 帝の御側近が朝鮮の百済の姫たちばかりゆえ、御政務を補助する文武百官もこれみ
なクダラ人が、その重要なポストを占めていたことはいうまでもなく、桓武帝延暦十
年の、「官符」の冒頭に、
「正月十八日、百済王御哲、坂上田村麿をもって東海道に遣しぬ」
 の個所さえみられる。坂上田村麿も、父は参議をつとめていた外来人の当麿の子で
あるというから、この部隊はクダラや東南アジア系の人たちの集りだったらしい。つ
まり、この時代は、
「朝鮮のクダラ人にあらざれば、人にあらず」
 といった様相さえ示していたのだろう。そこで、
「彼奴はクダラでない」というのは、取るにたらない存在だったものらしい。これは
西暦八世紀の話だが、今でもよく、
「彼奴はクダラでねえ‥‥くだらねえ」と、吾々が人をこきおろす時に用いるのも、
その頃の名乗りの用語法なのであろう。えらいものである。
 だから、よし架空のヒロインであれ、オトタチバナヒメも、クダラでなくては話に
ならぬし、クダラないから、朝鮮の女性として伝わってきたらしい。


  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ60掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ60掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧