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(回答先: Re: セックス院参加 投稿者 1984 日時 2011 年 11 月 28 日 13:48:43)
河原敷にセブリを張れる自然環境がなくなってトケコミ化している連中が、現代で
はきわめて多いが、厳密に隠しているので一般には全く知られていないが、唯一つと
いってもよい有名な例がある。
江戸が東京となった時、関西の銀を京の蜷川一族が足利時代から押さえていた如く、
箱根の山から東の金は弾左衛門が掌握。札差、両替もみな浅草新地の弾家の金を資金
に仰ぎ、現代の大蔵省とか日本銀行の役割をしていたので、新しい東京府は弾家(当
時は矢野内記)の協力なしには運営できぬからして、第一助役第二助役として弾家の
手代を頼んでいた。
その時、前名隅田川一郎を、隅田一夫と変えた弾家の土木支配をしていた番頭が、
手代と東京府土木局長と部長になった。彼は弾家に籍をおいても白バケの子孫である。
彼はサンカ社会では「府内族(ふなから)」と呼ばれているが、東京府の指定建築業
者だけでなく、全国の土木関係者を「隠密族(しのがら)」という日本の秘密結社の
ようなグループによって各府県の指定建築業者にしてしまった。
K建設の副社長と某大手建設業者達の入札談合が新聞で大きくとりあげられたが、
一部二部上場の大手はみな、この時の隅田一夫によって呼びかけられ、各国別の国一
(はじめ)の諒承を得て拵えられた同業組合みたいなもので、同じ仲間ゆえ入札談合
は当然な話で、今始まった事ではなく、明治七年から全国的な組織で成り立っていて、
そうでないのは下請けしか許されぬ。
あえて土建業だけではなく、殆ど各種のギルド業者がトケコミ団結なのが日本産業
界である。
牛肉がオーストラリアやアメリカの三倍から四倍で日本では売られる仕組みも、畜
産事業団の仕組みが、理事長には天下りの役人を戴き高級を払っているが、旧源氏系
の白の同族でがっちり内部構造を押さえているからして、大森実が衛星中継でテレビ
東京で訴えてきても駄目である。
なにしろ、大正年間に東宮妃御降嫁が東本願寺からというので、官憲がこぞって反
仏派の退治をやったが、セブリの連中は土葬だけ変えても、葬式は祝宴であって、戒
名も墓もいらない。だから彼らに対してはどうしようもなかったのである。
ただ、この時代には各寺がオカミのおかげで儲かったので、大いに名僧有識伝の作
り話を出版すればみな高価本がよくさばけた。それを間違えて、昔は名僧高知識の偉
い坊さんが多かったなどと作家などはだまされている。
もちろん何百年、何十年も前からトケコミしている連中は、サンカの秘密性で、警
察の言いなりに寺の墓地を購入し、何々家先祖代々之墓とか、何々家墓といったのを
表面上は建立した。
しかしオカミのお達しで自分らの素性を隠す為だから、墓を作った時には怪しまれ
ぬように、「ニクが厚い」と寺側からよばれるように、多額の供養料を納めて寺を喜
ばせはしたが、なにしろ恰好づけゆえ長続きしない。二代目や三代目になると、血の
流れで絶対に詣りにも来ない。
そこで寺では墓地を取り払い、石塔は石屋に表面を削らせて新品にして、次の注文
を待つか、それとも墓地を縮小し、儲かる駐車場や幼稚園経営を始める現世利益なと
ころが、そのために多い。
昔は国ごとに国分寺を作って仏教で一般を洗脳しようとしたが、輸入仏教には原住
民どもは寄りつこうとはせぬ。無理矢理に曳きたててこようとすれば、山へ逃げ込ん
で隠忍(おに)となる。
冬になって山の木の実も囓れる野草もなくなって飢えた隠忍どもが、ひょろひょろ
と下山してくるのへ、コウリャン粥を恵んでやって、「施餓鬼」と呼んで義理かけし
転向させもした。
が、振舞だけよばれておきながら、春になって雪が溶けてくると、また山へ逃げて
しまう食い逃げもいる。いくら捕らえても駄目な連中にてこずって、初めは竹内宿弥
と日本名で呼ばれる者が、ヤマトタケルを息吹山中にて死なせてから、実力つまり大
陸の鉄製武器をもって石斧や貝刀の縄文原住民の反仏教徒を討伐。否応なしに捕虜に
し寺へ寄進し、寺奴隷百姓にした。
それでも、まだ日本原住民は多く、「生まれてきたからには早かれ遅かれ死ぬのは
当たり前の事で、死は栄光である」といった思想に皆が固まっているので、西暦66
3年の世変わりの時、郭ムソウ将軍の日本名であるらしい藤原鎌足によって漢字(則
天唐字)使用令が全国に発布された時の事。福沢諭吉とは反対に、人の下に人を作っ
て先住民を賎とし仏教[への転宗]も命令した。
唐令そのままの大宝律令によって、はっきりした身分制を定め、武力によって討伐
をくり返し、縄文時代の日本列島を弥生時代に変化させてしまった強引すぎる進駐軍
のやり方[?]に反撥し、西暦780年には寒冷な東北に追い詰められていた古代海
人族や、日本海より入って来た騎馬民族、それに彼らよりも古くから漂着して住み着
いていた「エ」の民[苗字の発音がエ行横列といった意味らしい]らが、富士王朝復
活のためにと、彼らはイ、アル、サン、スウの十進法の算数ではなく、アイウエオの
五進法で侵攻。
御所は山背の天険の長岡へ待避。だがその間に岡山へ集団疎開した弁髪軍が、大陸
からどんどん鉄製武器を輸入してきて富士川を渡りかけの原住民の大部分を撃退し、
岩手あたりでは一の戸、ニの戸と次々とバリケードを作って九の戸まで押し込んで行
き、海中へ投身するか、投降して奴隷になるかまで徹底的に復讐した。
この際、脚で歩ける捕虜が何よりの戦利品。どんどん新しく造営された平安京つま
り今の京都に近い大阪の住吉や兵庫へと運ばれた。
が、連れて戻ってもしようもないのは喰わせて歩くだけ無駄だと、街道の分かれ道
へくると、そこで追い払った。だから、<野史辞典>の「追分」の項にあるように悲
しい悲募曲が今も伝わっているが、女かカイトと呼ばれる進駐軍の慰安所、男は奴隷
漁奴塩奴とされた時、
「また男と女を別々にされ、女はやつらの慰みものにされて、弁髪人のアイノコを生
まされてはたまらん」
と、夜陰に乗じて次から次へと逃げ込んだのが、サンカ社会の発生歴史である。
もちろん、竹内宿弥に討伐された際に、既に山へ逃げ込んでセブリを作っていた日
本版ジプシーがいたから、そこへ加わって反体制、反権力で、三角寛が大和民族とは
別個の人種なりと誤ったのも無理はない。
つまり、彼の考えている大和民族、きわめて従順で親方日の丸で、マッカーサー進
駐時代にも一人のレジスタンスを出さぬ万国無比の奴隷国民というのは、原住民の女
が否応なく慰安用にされ混血児を産み、その混血児の男は、<野史辞典>の「庭子」
の項目にあるように生涯センズリで次々と種族が絶えていき、女の産んだ混血児の娘
だけが、また混血児を産んで殖えていった奴隷民族が大半を占めていたのだが、桂女
みたいに御所専用の例すらもある。
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