10. 2011年12月01日 02:39:46: 2DevaXxRvc
興味をお示しになられた事は私にとって喜びとして感じ受けられるものでありますそうなるように少々書き込んでしまいましたが 前回は(先に言い訳をしておくならば今回もまたそうなのですが)個人的にゆとりの無い中で 書かれたものでもあると云う事があなたにも率直に伝わり感じ取られた事と思います あなた自身が何かに追われているように物事を語られていたこともあり なるべく私もあなたの考えをより短い間に聞きたいとする 意思の現れであったと云う事にしていただければ倖いかと存じます まずはじめに判っていただきたい事がありますが その前に私の素性というものに対しあなたはあらゆる不安や怯えをもつ必要はございません 私はなんら宗教というものにすがる人間ではなく ただ感謝のみを自身の糧として頂戴する存在でありたいと願っています まただからといってあらゆる人々の感性や考えに及んでそこを踏みにじったり 敵対する意識を持つ者でもない事は前文章の中にもお伝えしたつもりであります それは何故なら私自身が現在のあなた方の在り方になんら不安も恐怖をも示していないからです あなたのなんらかの事柄に対する捉え方や考えとしての在り方と それが何故あなたの中に産まれる事になったかの経緯をも踏まえた上で 私はあなたの感性に対しなんら疑うものを持つ事はありません ただただ尊重しつづけるだけです しかし試みとしてあなたに私の個人としての意見を同様に見ていただく事は可能であると判断しました それが何故あなたかという疑問がお有りでしょうがこれは失礼にとられたく無いのですが 別段私は誰でも良いのです 私はあなたの投稿に対する姿勢その在り方そのものに興味やとりわけて関心がある訳でもありません ただ私がこうしたあなたの前に会話するものとして姿を現すのは紛れも無く 私の伝えたい事が他者に伝わる事を望んでいる為にいみじくもあなたが私の前に在るのです その事によって私自身も又どんな影響を受けるかを楽しみにしている訳でもあります それはあなたに対しても悪い影響について望んでいると云う事では在りません 多種多様な現れを見せつづけているこの世界で我々のスタンスとは常に 他者への理解へと向けられた真摯な態度にのみ観る事が出来るのです なにより私が誰であったとしてもあなたになんの影響ももたらさない事が理解出来る訳です(逆も又然り) あなたへ危害を加えようとする意思は自らその同様のエネルギーを自身の中に産むのだということを また同様にあなた自身も又そのような事が起こりえる等と考えれば全く上記と同じ事態に 自分の力で巻き込まれる事もあり得るのだと云う事を私はまず理解していただく事が なにより前提であると考えます それさえも理解すれば誤った人間関係を結ぶと云う事が何故に行われているのかと云う事をも 理解出来る運びとなる筈です 他者の考えの一切をねじ曲げると云うような「影響力」というものは "私一人では産まれることはありません" しかしその言葉の意味する事は二人居れば自動的に何か必然的に影響し合うと云う事ではなく そこでのあらゆるレベル間での双方のやりとり次第なのです それは最も単純な例えをここに出せば架空のレモンを片手にそれにかぶりついた時に 実際食べた時と同様に唾液が口の中いっぱいに広がるということに似ています 双方が意識せずとも片方だけに反応が見られる事もある訳です よって状況へのそこに対するあなたの意味付けや自身の在り方に対する条件付けだけが そこであなたが何を受けとるものになるかを決定づけるのです すべてそうしてその自身の在り方とは他者に委ねられている訳では無いと云う事です 単に言いあらわせる事はあなたの目の前にあるニュートラルな存在であるものに対する あなたの意味付けや 観念的なものに縛られた自身の在り方だけが重要なのだと云えるのです (多くのレベルで意識間のやり取りそれらはすべて同意のもとで交わされている しかしながらそれらは我々が体験及び経験を目的として此処に居る限り それらはリアリティに対する妨げでしかない) そのように私は人々が自身の現実と云うものを時には壮大に時には集団で作っていると云う事に関して 一言で云えば面白いと捉えている訳です それは勿論私自身の捉え方一つである訳ですが そのようにして此処に語られる事実は「私にとっての事実」であると考えます 故に真実は人の数だけあると云う事も出来るかもしれません 我々は自分もまた他者とそのように他者の為に使役させられて来たのかと認識する背景といったものを それぞれに共有する時 そこに集団的な現実というものを作る為に一人一人が同様のエネルギーを紡ぎ出すという結果に繋がると 当然ながら考えることが出来ます 情報というものが持つ力が真に発揮される時とは 人々が自身の本当の姿を悟りその力に気付く時である筈です 単純にそうした影響力というものは自身で生み出しているものである事が理解出来る筈です 過去の記憶がいつまでも人をそこに縛り付けるのは 他者による自身への影響が事実としてあったことが原因としていつまでもあり続ける訳ではありません 過去に対する自責の念を絶えず当人が現在に思い起こしている為に引き起こされているだけのものです それは一言で云えば集団的な価値観といった観念的なものに縛られているに過ぎません 常識とはシステム的に答えを導き出す価値判断といったものです そうした発想の上に現在の世界が成り立っているが故に そこに属する身として(それは自分で其処に納まっている) 多くの自身の都合からそれを採用しているに過ぎません しかしそれは時に独自の感性をも押さえ込んでしまう為に働いています 常識や思い込みというものによってそこに無理解のまま 当人の意識を自ら永遠に縛り付けるかのように思えますが それはある意味観念的な自らのエゴによるものでもあるのです つまりこう云う事が言えます 「自身を赦さない」というのは常に変化し続ける万物の在り方に完全に拮抗した姿と捉える事が出来ます それはとどのつまり「私は特別な存在である」と自負しているに過ぎません それが本当の意味での反抗というものです 我々にとって外部と思える現実世界とは 実際は中立の立場として全ての物質が存在しています そして我々が其処に何らかの意味付けを与えるとき すべての起こりうる事象としての動きを其処に与える事が可能です 我々はそうして自己の心が投影された世界に対し 自分が考える通りのあらゆる方向性を通して何かを経験出来る訳です それは個々に於いて自身の内面的なリアリティを見える外部の世界に投射して 楽しんでいると観る事も出来ます その場にあなたが自身で与えたそれら「意味付け」で産まれた「観念的な外部現実」に対する 他者や自身の「在り方」や姿勢といった態度そのものをもまた 単なる反応として楽しむことも怖れると云う事も出来る訳です しかしそうした一方ですっかり「そのこと」を忘れてしまえば 後に残るのは単なる反応で作られた恐怖に捕らわれた世界であると云う事が 理解出来るのではないでしょうか 改めて気付きもせずに我々はまたもや鏡に映った自分の姿に嫌悪し怯え続けている訳です 鏡に向かった自分の顔に向かって先に笑えと憤っていても同じ状況が続くとい事は 笑い話として理解出来ると思います ほぼすべての関係性に於いてそのように理解されぬまま 長らく我々の常識として刷り込まれて来たと云う事は甚だ感慨深い所ではありますが つまり実際は外も内も無く同一の世界に於いての活動であると云う事です 我々はこの肉体的に知覚する五感を通してえた感覚のみを頼りにして来た訳ですが そこに知覚される以外のリアリティに対しても怯える必要は無いのだと云う事です すべては々存在でそこに役割だけもがあるからです 互いに役割を与え続けているだけです 違う人生では師であったものが生徒にもなります 故にすべては無条件に敬うべき存在であると云う事も出来ます つまり今の我々の状況に照らし合わせて考えてみた場合 自身にとって外圧と感じられるものもすべてそこに利用する為にあると考えられるのです あなた自身の中に自ら産みだしたもの(状況への捉え方)が 他者の影響として自身の心理に付け加えている事により結果 そのことで実際心の痛みというものを理解し自分の経験に付け加えます そして自身も他者に対しそうあってはならない事を理解します 思いやりといった他者へ対する理解は経験したものにしか理解出来ないものでもあります ただし同時にそれはそこにもうひとつの方向性を生み出し其処へ向けた 推進力のエネルギーの開発の為にも造り出されるポイントである訳です 他者に好意を持っている場合には人々はその影響は喜んで受けとる訳です あくまで影響とは全て其処で自身が受け入れるかどうかの判断を自身に求められます そこで一旦受けとったとしてもそれはのちに見直す事も出来ます 各々の方向性として定義される道や神とはあくまで個々に求める自身の在り方であって 自身を特定の存在として設定した時に相対的に其処に生み出される畏敬や憧れの対象である筈なのです 我々はそれを正しく理解していないが為に常に不安に晒されています 常に他者からの外圧に合いダメージを負ったとすることにより 多くの争いを生み出しては他者の判断に委ねるといったことも平然と行われています 癒しや施し同情や憐れみといった周囲の理解に依存しようとする働きが 更に自身を小さなものとして感じる事に繋げています そして人間関係は信頼であるとしながらそれらは互いの条件づけられた取引であり 条件づけがなされなければ人は信用出来ないとします 愛情も又同じで「これだけ愛しているのだ」と心配になるのは当然であるという論理展開をしますが それは又自らをも愛してくれと言うメッセージとしての理解を他に求めてしまう結果となっているのです 求め合うのは当然すばらしいことだとすれば又そこには 「欠落」といった状態を相対的に自らに造り出している事に気付いていることが肝心です 我々は基本的な在り方として個々に愛に満たされた存在であり故にただ互いに与え合うだけの存在です それを理解すれば我々の世界に何一つ欠けるものは見当たらないのです そうした中に於いて他者との比較に因る自己の進み具合というものも なんら意味を為さないものである筈です そうした理解の中にこそあなたの求める真の世界へのアセンションの切符は 手渡されるのではないでしょうか 何もその時期とは各々の理解の中にいつだってあると言えます あなたの意識する今が何処にあるかが問題です それさえ理解出来れば然るべき判断をもって それはいつだって実現可能であるでしょう 周囲に起こりえている事をどのように捉えるのも 現在のあなた方の在り方がそこに現れるのです もっともこうした考え方は単にひとつの捉え方によるものです 例えば何処かの宗教的儀礼を通過し試験にパスしなければならないと信じるものは そのようにしてやっと自身が到達し得る彼岸を見出せると頑な迄に信じています 故にそれは聳えるような難関をくぐり抜けて大変な思いをした後到達していくのです そして彼らは彼らの信念体系に寄り添っていく事になります 修験者らが自ら設定した術や能力に開眼していく時にも それらはそのようにして会得していく事が出来る訳です すべては信念の強さをどのように設定していくか そしてそれを信じ続けられるかどうか そのリアリティに於ける体験がすべてである筈なのです しかし何をも通らずすっと飛んでいくと考えれば それが紛れも無く信念としてあればそのようになるでしょう しかしあなたも思う所であるようにすべては体験がすべてなのです 実在するかどうかの歓喜とは体験を経た後に因る確証なのです それらは永遠であるのです すばらしいものである筈なのです 「あるがままなすがまま観自在である」 あなたの意識するリアリティの「体験」だけがあなたの持ち得るものであり "存在しえぬもの"に対する"存在そのもの"としてのあなた方の役割とはそのようなものでしかない訳です しかしそうしたあなた方をして「ただ其処に在る」という事の「歓喜」を身に受くことになります それが自身の確かな「実在としての存在」を其処に表すことを示す唯一の確証と言えるものです 故に自ら感性の赴くままにあらゆるリアリティの場を通じて 教えるものは同時に其処に教わりて 又教わりて教える立場として我々は存在し続けます あらゆる道には師があり憧れがあり体験があります あなたが何になりたいかはそれはあなたが体験していく事柄の中で 気付いていくものでもあるからです どんな体験を求めてその容姿を選んだのか すべてあなた方にはマッチしている環境であると感じられるのではないでしょうか 常に其処に於いて判断はその時点でのあなたに全て委ねられています あらゆる場に於ける自身の立場を正確に認識すれば その認識により受けたものを更により良い自身の在り方に換えられるように 努力していこうと考えるかもしれません 周囲に馴染まないのであれば馴染むように 常に自身の変化を厭わずよりよくある為に必要と思われるものを 古いものを吐き出し新しいもの吸収しようとするのは万物と同じ流れです求めていく事です それは適応性や順応性と呼ばれるものですが それらは目に見えた単なるバランスの現れに過ぎないことが判るでしょう 我々は老いていくと感じた時点から老いていきます と同時に好きな事をやっている間は老けていきません 好きな事をやっている間は時間が早く過ぎるように感じられます 経ていく何かを得ていくという意味付けを自身に与えつづけることで どうした変化が得られるかということを研究するのも面白いかもしれません 実際長生きで若く元気な人は自身に常にどうした意味付けを与えているか聞いてみれば 多くの理解を得られる事でしょう すべて自身がそこに意味付けした時に同時に相対的な意味合いをも状況に付け加える事になります それらはちゃんと目に見えて現れ始めます
常に確定的な状況というもの(万物は変化し続ける性質の為)は自然界にはないと言えます 周囲の変化に応じて既にある物事は常に改善が求められます 我々は自ら望んで変化を求め続ける存在でもあります 故に既存社会に一つの共有する価値を通じて人々をそこに統治するようなやり方は いくら一時完璧なシステムを構築できたとしても維持するという試みは続かないということが言えます そうではなく常に多様に変化し続ける個の為の新たな政府の在り方を 模索すると云う事が正しい秩序の諮り方と言えるのだと考えます 常にその全体的な人々の意識の向上に対して誰であっても歯止めを利かせる事は出来ません 縛る事を前提とした組織の在り方を見直すべき時期を迎えています そうした社会の歯車に成れずに引きこもり続ける事や 他者に怖れを抱き続ける事もまたあなた方独自の在り方として誤った方向に 自らを誘っているのだと考えます 何かを拒否し抵抗を続けると云った事は自ら望む進路といった自己の在り方への方向性に対し 自ら道を塞ぐ事になります ただしストレスもポジティヴに捉えて利用する個性も存在します 山に登りたいと考えたり何かに打ち込むという人は 我慢に我慢を重ねてやっと達成感を得られるといったタイプでありますし それまで自身にネガティヴな状況を作り込んでそれを利用するといった 経験の仕方もある訳です 一概にすべてが一つの考え方に縛られる事はありません 何ものをも素材として捉えてそこにポジティヴな意味付けをして それを利用して自身の在り方を変える手だてとする事も可能である訳です 例えて塗り絵はすごく個性が現れます 丁寧さもそうですが何処から塗りつぶすかもどれだけこだわるかも個性が現れます それはそこに対する意味付けとしての自己の在り方がすべて現れる事に成ります 全てそれぞれにそうした自身の個性として培われ続ける事になります 社会とせしものが産まれる限りはそこにあらゆる演者が必要とされると云う事が理解出来るでしょう そこには相互間の人間的な援助としての働きだけもが望まれると当然ながら考えられる訳ですが それは現代において鑑みてみればすぐに理解に至るようにネガティヴなしがらみと看て取れます そうした部分に我々は人間的な手本習いとしてのドラマを通して大いに慣されて来てはいる筈ですが 俄然として本来の自身を其の影に包み隠してしまっている事にも気付いていなくてはなりません 本来社会にに望まれる援助としてあるべき 無償の慈しみや思いやりといったものの在り方そのものが 本来の人の仕事すべきものである事を忘れることになってしまうでしょう 「ネガティヴな干渉」といった条件取引によるしがらみだけでは 人の社会は望むように機能していきません 不安に因る心配やおせっかいをまた時に押し付け合うのも仕方が無いとは言えますが それが何故起きているかを理解するものが行動を起こせるものである筈です ネガティヴな影響に反発せず緩和してみせる事が何より 世の在り方を変える力に成るのだと考えます でもそれは当然ながら既存の社会の在り方として 我々はそこに属すものとして捉えられないかもしれません それでいいのです そうでなければ思ったような互いの在り方をそこに齎す事はできないでしょう 故に私は今此処にあります それを理解するものは全て同一の存在です 我々は無条件に愛をただそのままに 出会う存在全てに与え合う立場としての 基本的な在り方をその身に赦し続けると考えれば 外側から与えられる事だけを求めている存在でも ただそれを待っているだけの立場でもないと云う事です 自身を取り巻く現状へ常に向き合いそれら自身が外圧と感じる状況に対し その意味付けを取り払う事が出来れば そこには不安を一切感じないただ微笑む中立の立場としてのあなたが存在するだけです 自身に対し与える意味付けはそれは同時に受けとることであると考えられます ですからどんなに長い間自身の状況に対する反応に依って 辛い影響のみを自らに受けとり続けていたとしてもそれは 自らを変えると云う自身へのチャレンジの意思と共に変える事が出来ます それは過去の在り方も事実とする幻影の有無さえも変えられると云う事です 肉体の一時的な喪失をもって新たな生を理解するといった時にも 「忘れていたものに対する理解」は必ず「思い出された理解」になります ですからどんな状況に際してもあなたの在り方だけが自身にとって其処に問われているのであり それがあなたのすべてであり 何の不安も最初から持たなくて良いと捉える事ができます さて長々と繰り返しお伝えして来た事はあなただけではなく ついにここを覗く人すべてにとって有益である事を望みます 途中「あなた」と表記してある部分は特定の個人を差さずに 一部全ての方々に捧げさせていただいたメッセージであると云う事になります さて有り難くご質問を頂きましたのでお答えさせていただきます ですがその前に誤解を与えてしまっていると考えられる部分についてお断りさせてさせていただきます 私はかろうじて知り得て居る単語をにわかに使い"詩編"と表現しましたが それは意図してあなたに私がキリスト教の聖書の類いを片手に信奉している者であるような事を 仄めかしている訳でもなんでもありません しかしここに私はあらゆる感性の在り方はそのままに否定したり 反発する立場のものではないということをも 同時に伝えるものであります さて逆にご質問となってしまうのですが "これは神の意思である"という確証らしき文章があなたから訊ねられた言葉の何処にも見あたら無いと いうことをまず指摘させていただきます ということから察するにある見解をもって先に答えるならば 私はどのような宗教の類のどの宗派にも属している訳でもなければ 特定のものに関心を寄せている訳でも在りません 私は感謝出来る事柄に感謝し その在り方を自身に求め赦すものです 私は私の声にだけに忠実であります その声は二十代も半ばのとき私に「この力で人を救う事が出来る」という声を聞きました それは私の声であった筈です そこに同時にビジョンも見せられました それは私が見せたと判断します 私が何をしたいのか何を経験したいと考える存在なのか それ以上の答えはその後の私の歩みにあります それは私自身の歩みです さてご質問の内容に触れる事にしましょう ヤハウェという名の人格的肉体を有する神自体は 当時の人々の外部種族に対する強烈な恐れへの意識が与えた神の性格であると考えます 我々は今ではあらゆる土台を持ってあらゆる理解に向けられたデータを持ち合わせています あらゆる年代に生きた人々 其処に描かれた歴史や顛末 あらゆる象徴とそのイメージ 実際の神の性質はそこに信奉する人々の力を持って存在しうるものであると云う事は 私のこれ迄の文章の流れからしても其処に読み解く事は出来ると思います あくまで我々はそうした「存在としての立場」を通してあらゆる存在のベースに神として観る事が (そのような理解により)出来ています ですがそれは其処に居る人間を通して見えるものがひとりひとり違っていると云う事をも 理解するべきです 人を通してそこに在るのは悪魔としての存在であるかもしれませんし 又は人々の罪を罰する神々としての存在として描かれるのであるからです それはその浮かび上がる神々の在り方をして其処に集う人々すべてに影響している訳です 当然自身が思い浮かべ求め訴え好きに神々を定義しています それを我々が改めて理解に及んだ時 其処に何があるのかと目を凝らした時 あるがままのものとして捉えられるものとは其処に在る人々の心のみである筈です 同様に歴史の中に何を見るのかと言えばそこに存在した人々の心の中に住むもののみであり 更にはそれを観察する者に於いてもまた個々の在り方としての「物の見方(捉え方)」のみであります 故に他者になんの疑念も持たぬ存在が(相対的に同時に何の信念も持たずして) 其処に無償の愛を示す事が出来ているように見える通りのことが 純粋な存在の中には起こるべくして起こると観る事が出来るものであります あくまで我々の認識の範囲内としてそれは他者に対する人間性の向上心というものに (端からすれば)見られることになるのではないでしょうか 信念や或いは信仰を持たぬ存在が如何に其処に個性を必要としないか それ以上の進化を期待しないかというのもまた理解出来るものでありましょう 我々が今理解せぬ事は後に理解する事でもあります しかし今理解する事を赦せばそれは今に知っている事になります 万物にはあらゆる波長レベルに意味される意識の状態があります 山の頂きにあった小石が其処に外部からなんらかの影響を受けて転がり落ちて衝撃を受けたとします その時点で石は石ながらに衝撃を記憶する訳です それは樹木にしろ石にしろ人形にしろ意識がなんらかの影響を受け入れる時 そこにはなんらかの気付きを受けとる事になります また生き霊と呼ばれるものが何かと云えば それは我々が本来どうした存在であるかをその能力の一端に例として垣間見る事もできるのです 我々は元々一つの存在の中にあって其処から生み出された個性をもった存在であると云う事ができます それはそのまま分身としての我々はその本体と同様の能力を兼ね備えているとなぞらえた時に 理解に到達出来ます 命は個々に於いて我々も又単独につくり出す力を有していると考えられる事です それはそこに自らの分身をもうひとつのリアリティの中に造り出していると云う事になります 強烈に一つの事を憶い続けた結果物質的に現れる次元にまでそのまま顕現化させる力があると云う事です そうした第三者から捉えられた自己の分身はまた本体としての自己から独立した存在として 我々とは違ったリアリティの中で生き続ける事になります ありえないような昔話に語られる事はすべてそうしたリアリティの在り方を 今に伝える真実のドラマとしてみることができますがそれこそは語り継がれるべき 教えであった筈なのです つまり宗教と言った形式化された組織としての在り方は過去に於いても必要なかったということです 個々にそうした事を理解している事が重要です もうひとつの例としてペットが人間と同じ個性を付け加えられて かわいがられた場合の事を書きたいと思います 動物そのものは集団生活が基本でありそこには集合意識としての共有化された自我しかなく 個々に個性を有する必要性がありません(個々が自己である事を理解している為) カラスが道路上に胡桃の実を落とし自動車に轢かせて割るという知恵をご存知かと思いますが そうした知恵が今や日本全域のカラス達が有しているように感じられるのは そうした意識間のコミュニケーションによる情報のやり取りで彼らは種の 独自に全体の進化に個々が貢献しています 彼らにも率先して何かを経験して他に与えると云ったリーダー的存在が居るのです ペットは人間と一緒に暮らす事で人間的な暮らしや個性を其処で学ぶ事になります それはまた種としてではなく独自に存在としての気付きを受けて 彼らの進化路に新たな道を切り開く事になります そこに於いて人間はそうした他の種への新たな意識への気付きと云う ボランティア活動が出来ている訳です そしてまた同時に人も其処に他の種への理解を教わる機会を得ているのです 人間も又悠久の時代に於いてはそのように夢見の状態において すべての人類に於ける意識を変革するような世界的なドラマはテレパシーで伝えられていたのです 宗教的な(事実はともかく)意味のあるドラマというものは我々に伝えられていたのです 我々は互いにすべての万物の意識の側面に 新たな気付きを与える事が出来る存在としての能力を見ている訳です しかし今やどうでしょう 我々はすべての意味付けに於いてどのような意識のやり取りを果たして居ると言えるのでしょうか あらゆる学びに対する準備は我々に常に出来ているものと考えれば其処に何の恐れも必要とせず また純粋な存在のままである事が如何にすばらしいと言えるのかが理解出来るのではないでしょうか 暫く時間を他の事に生み出さなければなりませんので期待に応えられるようなものではありませんが 時間が赦せばまたお会いしたいと考えます それでは
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