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進化を求める私(その77)・混迷から「動乱」の時代へ
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/388.html
投稿者 元伊勢80社 日時 2011 年 11 月 26 日 09:51:47: QltTAR96mRc1.
 

@ はじめに
 いよいよ押し詰まってきた予感がする。10月に入ってからは、これが最後の投稿記事と思いながら投稿して、何とか2ヶ月が過ぎた。また、これが最後かも知れないと思っている。
 本年4月27日に「進化を求める私」と題して(その1)から投稿をさせて頂いた。今のうちに、『掲示板の管理人様には厚く御礼申し上げます』、と予め御礼を申し上げておきます。

 さて、欧州情勢は予断を許さないところまで来たようである。そんな緊迫感がひしひしと伝わってくる。また、広島や阿蘇の地震など、地震の軸足が東日本から西日本に移動しているような感じを受ける。いよいよ日本列島が動きだす予感がするのだ。

 また、間もなく年末を迎えるせいか、精神的にも慌しさを感じてきたが、これからは各自が思い思いに守備体制に入らなければならないだろう。ネットも何時まで繋がっているのかも分からない。「他力本願」では生き残れない時代に入りそうである。
 
A 歴史は同一ではないが繰り返す性質がある
 歴史は人間心理の営みによって築かれるものであるから、群集心理が過去と類似するなら、過去と似たような軌跡を描くのではないだろうか。

 戦前の歴史を振り返れば、1929年にアメリカ株式が暴落して、世界は金本位制に縛られて身動きがとれず、世界が大不況に突入し、1931年のオーストリアの大銀行の破綻を契機として銀行体制が崩壊し、1933年にはヒトラー内閣が成立して、世界の大動乱に繋がった。

 戦前と今の状況を比較すると、2008年の「リーマンショック」で株式や外国為替が崩れ、IMF体制・BIS規制・ユーロ通貨体制などの制約に縛られて有効な救済が出来ず、世界が不況に陥り、現状はドイツ・フランスなどのEUの大黒柱が軋んでいるような状況ではないか。

 次に来るのは「混迷の時代」であり、「動乱の時代」であるように思われる。

 「世界の警察官」アメリカは自国内の混乱に手一杯となり、もはや世界を保護する体力・気力に欠けるのではないだろうか。中心軸を失った個々の行動が「カオス」を生み出すことは広く知られている。そして同時にカオスは動乱の渦を巻き起こすものである。

B 戦前と異なる天変地異
 確かに、戦前にも気象変動はあったし、「東北の大飢饉」もあっただろう。また、地震もあっただろうし火山噴火もあっただろう。しかし、今のような世界的な「地滑り」があっただろうか。東南アジア、中南米といわず世界的規模の地滑りが発生している。明らかにおかしいといわなければならない。
 広島の地震は珍しいだろう。瀬戸内には地震は少ないはずである。また阿蘇山に近い地震や富士山の地震も単なる地震で片付けられない恐怖感を覚えるのである。

C 「生きながら死ぬ」覚悟
 既に日本に未来はなく夢も希望もないだろう。福島から立ち昇る「神の火」が毎日毎日我々の夢も希望も燃やし続けているからだ。神の火は今後も延々と燃え続けることだろう。

 これからは、一日一日の命を噛み締めて生きてゆくことになるであろう。まさに「生きながら死ぬ」とはそういうことではないだろうか。
 

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コメント
 
01. 2011年11月27日 22:07:27: 2DevaXxRvc
「笑いながら怒る人」というのがありましたね
「生きながら死ぬ」とはどういう事か理解が出来ません
生きるか死ぬか・・人間の概念で言えばどちらか一方の筈ですが
まさか・・ゾンビの事ですか?

02. 元伊勢80社 2011年11月27日 23:06:21: QltTAR96mRc1. : LoLjBka3cY
 「生きながら死ぬ」とは
 ひふみ神示に『死んで生きる人と、生きながら死んだ人』(日月神示・上つ巻・第35帖 )が出てきますが、この場合の「死んで生きる人」は死んだあとで復活するイメージです。「生きながら死んだ人」は魂が腐っていて、死んだら復活できない人を指しているのではないでしょうか。

 仏教的解釈では、出家した生活状態を意味するのではないでしょうか。(出家とは職業としての僧侶ではなく、俗世を離れた世界)。

 本文での意味は、『貴方は癌です。余命6ヶ月です』と告げられた人が、遣り残した仕事を片付けたり、心静かに残された時間を過ごすイメージです。
 欲も未練も何もない、「自我」を捨て去った心境です。あるいは、死刑囚が改心して心静かに死刑執行の日々を待つような心境。

 ゾンビは感情や情緒を持たない機械的生物のイメージがします。 


03. 2011年11月28日 09:15:44: tpETdkXYcw
自我
真我
真我は死なない。

以上。


04. 元伊勢80社 2011年11月28日 10:45:40: QltTAR96mRc1. : zIZPThL9mk
 その通りだ。よく出来た。(爆笑)。。

 次は、『蛸壺解脱亡者』 の狭い了見から抜け出して、今ある人生を「歓喜」することだ。
 神を自覚すれば、神の「祝福」が得られるだろう。


05. 2011年11月29日 05:06:06: 2DevaXxRvc
01です
真摯で適切な解答を素早く頂戴しましたが返事が送れました 
なるほど序段の一文はそのように解釈すれば理解出来ますね
有り難うございます

ここで私はひふみ神示や仏説というものに対して免疫がまったく無い事をお伝えします
よって誤解も含めて失礼な事を訊くことになるかもしれませんが
どうかお赦しいただけますよう前もってお断りさせていただきますと共に
幾つか私の疑問におつき合いいただければと考えます
こうして交わされるやりとりはあなたにとってもまた有意義であることを望んでおります

さて「死んでから復活する」というのはある種状態の変化がそこに描写されている訳ですが
それは何かが果たされる為に「死」という概念的な儀礼的演出を通過することによって
齎される事による (此処で言葉を借りるなら) 心理的な (霊的な?)「進化」であるのだという
メッセージとした印象をここに感じとる事も出来るのですが
死という通過儀礼 (儀礼であるのかに対しても甚だ疑問ですが) に対しては如何がお考えでしょうか

そしてそれが肉体的な状態変化だというのであれば
死は即ち「死」であり「生前」に戻ると云う事は在りません
故に死後を信じないものにとってその復活とは何ら意味を為さないものである筈です
しかし取りあえずここは概念的なものの考えから派生した一つの結論を示すものとして
一旦理解しておく事にいたします

次に何かに応える(反応/呼応)と云う時の我々の在り方についての疑問です
その前に私の考えをもまずは述べて措かなくてはなりませんね

まず始めに我々という社会的な集団に対しての認識を今ここで自身に問わなければなりません
我々はあらゆる決め付けや思い込みに依って物事を洞察することに慣された存在であるということです

観念的に物事を考える社会に於いて我々の在り方が大分傾きかけていた事は理解する所ですが
そうした我々が直接そうした預言に対して反応すると云う事は
少なからず理解へ対する躓きや誤解を当然招いてしまう恐れが在るとみることができます
故に何かしらそうしたものを理解しようと試みる者にとっては解釈がすべてである筈です
まず解釈を試みるには自身が無理解である事を前提にしてそうした学派固有の名詞を理解する所から入り
論考や論証等を研究する所に向かっていきます
しかしその時点での疑問として在るのは
それすら私には増々観念的なものに自ら捕らわれていくような行為に思えて仕方ないということです

私の経験からして物事とは言葉もそうですが自然と実感から産まれて来るものであると考えています
詩や俳句絵画や音楽もすべて身の内から実感するものの表現であり
感性というものを自らに求めるときそれは自然の流れを通して結果として
人々と分かち合える同様の答えとしての「形」がそこに現れるのであると考えています

そこに至るには多分に自分自身の感性というものに対して開かれた
素直な理解を得ていなければなら無いと考えます
慢心はもとより自己否定もそこにはありません
つまりはまず何事も学ぶ前の段階に於いて澄み切った心が求められます
つまりそこに不安や恐怖といった好奇心や動機ではなくして
自己を正当に評価出来るといった捉え方が出来ていなければならないのではないでしょうか
それは何も色がついていないあるがままの「素材」としての自己です
物事の習いはすべて形から入ってもその後実感としてものを得なければ
そこへの理解に到達する事はないと考えます

観念的な理解というものはあり得ますが実際の所そうした言葉の受け渡しでのやりとりは
感覚的になんら理解に通じないものであることは確かです
故に何かを説明する側には意図する事に対し工夫を施す必要が在ります

そもそもこうした預言はある程度予想された反応に対して前向きに(ポジティヴに)
提起されたものである(又そうあらねばならない)と私は判断します
つまり受け手はその素材をきちんと教材としてポジティヴな状態をもって活かす事が出来ます

実際その事に関してはあなたは覚悟という言葉を使って結文とし
人々に「歓喜して日々を送るべし」という事をここに提議されています

私は当然預言に対しては中立です
というより預言の内容自体知りませんので

さてそこで知りうる事は良い事と聞き読破したとします
さて次にどのように影響され(感化され)「歓喜」に至る事になりうるのでしょうか

そうした立場から質問させていただいている訳ですが
つまり預言の内容に対して"前向きに"触れられていることに対して
其処から導き出された解釈がそこに対する反応する者の心として伺い知れるものであります

その預言に対する反応が実際どのように役立てられるのかと言えば
向かう「進化」の為の「死」の儀礼を通過する事に繋がっていくように思われる訳ですが
どうしてそのことがそれを待ちこがれる「歓喜」に繋がっているのかが疑問であるのです
その為にはどの辺りの詩編を読めば理解出来るのでしょうか

そして改めて起こりうる事はすべて預言に基づくものとお考えでしょうか

ならばそれををどのように捉え(又はどのように無視し)どうしたプロセスを経れば
あなたの考えられる歓喜に至る事になりえるのでしょうか
そこに該当しないと考えられる者はどうなれば其処(進化へのプロセス)から
「外れた」と言えるのでしょうか

何かが起こるのだとして皆が当然のように其処に恐怖して(指折り数えるように)日常を過ごす事は
本来の覚悟と称せるものではないような気が致します

我々が考える恐怖というものに対し我々がそこをどう向き合い
何かを覗き見る事を通して「なんだそんな事か」という境地を産む事になり得はしないでしょうか
覚悟としての歓喜というものが芽生るのは
起こりえる物事へ対する不安を持たぬ事であると云う事がいえるように思います
故に事象に対する「自身の在り方次第である」とここで私は考えますが如何でしょうか
それはありのままの自分に対して何を怖れる事が在ろうかと云う事でもあります

それは私の考える覚悟というものが
「枕を高くして寝る」ということであることからなのですが
それはつまり日々に対する在り方を今一度改めて意識すると云う事でありますが
それはあなたの言うニュアンスとは実感としての例えに於いて微妙に異なる訳です
「我に還る」という言葉にも伝えられる心境が何かそれに近いような気もします

ともかくとして総括として判りやすくまとめていただくことは
私のような者への解釈の手助けになるのではないかとも考えますが
無理にご返答いただかずとも此処迄お読みくださる事がなにより幸いに存ずるところであります

多々解み難い文章であるとは思いますが
疑問など在ればまたご返答させていただきたいとも考えます


06. 元伊勢80社 2011年11月29日 09:26:38: QltTAR96mRc1. : PLHvhTAL9s
>死という通過儀礼 (儀礼であるのかに対しても甚だ疑問ですが) に対しては如何がお考えでしょうか

 人生とは終わりのない旅、果てしない旅。それは汽車の旅にたとえられる。

 汽車を降りて散策し、再び汽車にのって旅をする。汽車を降りて散策をするのが「生まれること」。再び汽車に乗って次に向かうのが「死ぬこと」、と私は理解しております。


07. 元伊勢80社 2011年11月29日 10:14:43: QltTAR96mRc1. : PLHvhTAL9s
>・・死後を信じないものにとってその復活とは何ら意味を為さないもの・・
★ 見解の相違、と割り切って頂きたい。

>・・人々に「歓喜して日々を送るべし」という事をここに提議され・・
★ 人は生まれたからには歓喜して生きる権利がある。その歓喜は個別の好みの問題であり、「酒池肉林」の好きな人も「蛸壺解脱亡者」の好きな人もあり自由だが、少なくともその生活の中に歓喜がなければならない。だが天地の律法として『天に背いてはならない。倫理道徳に反してはならない』、と考えます。(長くなりますので中断します)。

>向かう「進化」の為の「死」の儀礼を通過する事に繋がっていくように思われる訳ですが どうしてそのことがそれを待ちこがれる「歓喜」に繋がっているのかが疑問であるのです
★ 「神々の進化論」を信じるか信じないかの問題であり、信じない人は「見解の相違」。夢のお告げで、『知らない人に教えてやれ。教えたあとの判断はその人の自由だ』との御神託。

>何かが起こるのだとして皆が当然のように其処に恐怖して(指折り数えるように)日常を過ごす事は 本来の覚悟と称せるものではないような気が致します
★ 既にタイムオーバーで、他の惑星組から「苦情」が殺到している。『地球を置いてゆけ』との過激論もあるとか。

>それは私の考える覚悟というものが 「枕を高くして寝る」ということであることからなのですが
★ ご自由に。


08. 2011年11月30日 09:21:46: 2DevaXxRvc
ご返答有り難うございました

ひとつめの返答である「人生」というものに対する捉え方はまさに合致する点が見られました
つまりひとつの人生に於ける終着点という区切りこそは
あくまで当人の意識に於いては儀礼たるものでもなんでもないと云う事です
よって生きると云う事を考えるとき別段なに身構えることせずに居るというのが良さそうです

そうしたものは人々の作った概念にそったまさに「作り事」であるということが云えると思います
でありながら我々はそうした人間の一般的な視点で描かれるリアリティというものに没入している間は
それはあくまでその時点で備わる感性を最大限に生かし感じるものがすべてとなりうる訳です
よってそこに当然影響とするようなものを受ける事になります

そうした物質的現実といった枠を意識する中に於いても
そこでは絶えず多種多様な次元間を越えたあらゆる存在レベルとの
意識間のやり取りが為されていると考えて差し支えないと思われます
それは夢見の時に限らず常に我々は自己の在り方に対して相対的にもとれるメッセージとしての
エネルギーを反射的に受けとっているものと考えられるからです
それは休息をとって回復するように心理的なバランスを自然に図ってくれるものとして存在する訳です

そしてそれはまたいくつかの活動の証として現れる夢想時に於ける
見慣れぬ景色といった痕跡にも見る事が出来るのだと考えます

そうした肉体的な媒体としての自己から飛び越えた視点を意識して持ってみた時
そして自分という存在の於かれた環境を非日常的なものとして捉えることが出来ると考えた時
ひとつひとつの人生とは改めて自分の在り方によってより良く動かしていく事が出来るのだと云う事を
実感しうる訳です
其処で産まれる個性によって意味を有する個々の人生の経験及び存在根拠とはまた
壮大なひとつのリアリティの一部として我々が提供することをもって全体をなすと云う事でもあります
故に自身も又そこに帰属するメンバーである事を容認することができる訳です

ひとつの人生といってもそれら各々個性として産まれた限りに於いて
エネルギーは場に持続して残り続けるのであり
個性に留まる限りその存在がそこから消失する事はない筈です

それらは個々に存在根拠を有し無限の中に永遠に存在し
尚も経験をそこに蓄積し続ける事が出来るのであると考えます

当然それぞれの自己にとっては他者と思える「それぞれの存在」が持ち寄った人生経験及び記憶は
すべての自己に対する素材として提供されるものであるが故に
それらは分かち合う事が出来ると云う訳です

私たちは生まれ持った感性というものを他者及び自身にそれを理解するとき
過去世と云った概念によって引き出されたもうひとつの自己を差す事が在りますが
それは何も過去世であるに限った事ではない筈です

神々として我々を今に見守る存在とは未来の我々の姿そのものであるとも考える事が出来るからです
地球という舞台もまたそのように現在の時間軸でいう所の過去現在未来といった姿や意識の変容を
今に全て有しているとも捉える事が出来ます
そこに於いて必要なのはあくまでそこに呼応する意識であると考えます

二つめのご返答ありがとうございます
さて多くの感性というものがこの世界には存在する訳であります
またそれらには我々の一般的な解釈では到底理解のお呼びがつかないものも
含まれている筈ではないかと察する事は当然してよいものである筈ですが
私はそうしてその「ひとつであり全てであるもの」の存在から産まれる
普く多岐に渉った感性と呼べるものはすべて尊重できるものであると認められる点で
その相違のすべてを無条件に受け入れたいと考えます
その事で得するのは何を隠そうこの私自身です
よって当然そこに批判などは一切存在しません

しかしながらそれらは同時に同様の意味に於いてそこに存在するすべてのものは
それら多様な感性より産まれるすべてを共有「せねばならない」
とする訳でもないということがまた理解できる筈です

あなたの言われる通りそれは好みであるからです
そこで思い浮かぶのが他者の自己に対する管理下の影響というものであります
往々にしてこの人の心理的な影響たるものの力強さを日々我々は実感している筈なのですが
真実は本当にそのような力が個々に認められるのかという事への疑問が私には在ります
並びに外環境に因る自他への影響と云ったものについての考察をも少々述べてみたいと考えます

我々は生まれながらに国家に属すものと定められている訳ですが
実質上それらは今や吹けば飛ぶ程に軽いものに聞こえ概念としても揺らいでいると云った感が在ります
社会における制度やルールというものに育まれるようにして我々は其処に育くまれた訳でありますが
我々の生活は何処に於いても常に組織的な枠組みをもってして機能しているように感じられてきました
我々は生まれながらにそうした影響下のもとに
多くの現実的価値観及び認識と云ったものを学ばされていく訳です
それが良いか悪いかはまず置いておく事にします

さてそうしたものが抱える問題点は一旦作られてしまうと
それら組織としての機能を維持する為だけに働き出すと云う所です
それは何故かと云えば維持して「いかねばならない」とした時点で
それらは常に相対的に崩壊へ向けて傾き出すからです

組織的なものが巨大になればなるほどそのような不安は加速度的に増していく事になります
そもそも組織に属するものの意思は初めから同一のものではない筈です
組織の在り方もがいまここに問題とすることも出来ますがそれもまた置いておきましょう

我々は国家や社会に属すると命じられる事によって
さも当前のように其処に属すものとしての責務を負う事になります
それらは余儀なくそうされてしまっています
多くの国々では軍隊に入隊させられます

そこに於いては人々に対する信頼というものは謂わばすべて取引に成り代わっています
それらは条件づけられた信頼
条件づけられた愛情といったリスクだけが目立った強引な取引であると考えます

そうした場所には集団的な意識レベルというものが存在し
それらは巨大なエネルギーを蓄えるのだと考えます
個人のエネルギーはそこに無視され
同一方向に向けた思念として吸収されてしまっているのです

しかしあくまでそれらも個人が力を取り戻した暁には
それら権力は「人が他者に影響を与える事が出来る」と考える側の持つ「幻想」である
という事が理解出来るようになる筈です
人々が何を信じ何を受け入れ何を利用するかは各々の個人の判断に委ねられます

あくまでも存在するすべては自身が意味付けしなければニュートラルな存在である筈です
視野に入るものに対し中立な立場を取りつつも
他者を同様に中立に捉える努力をせずいつものように不安と嫌悪によりレッテル貼りをすれば
その後の展開も又惰性で産まれる日常と同じ経路を辿ります

よって良い意味付けだけをすればどんな相手からも良い利益だけを得る事は可能です
それを理解せずにそうした自身の在り方が原因であるにもかかわらず
それを脅威と感じて其処からは離れられないと感じているならそれは不幸であると言えるでしょう
その後もその事を理解せずに居つづければやがて
自ら引き金を引くトラブルに発展するものである可能性は高くなると言えます

強権的な色彩を個々に放つ組織に属していながらも実際は個としての力は発揮出来ている筈です
そうした自身が感じ受ける不安と云った影響は事実として自分で受け与えているものなのですから
自身の力でその影響を皆無にする事は出来る筈なのです
ただしその時点でそれが困難と感じるのであれば無理はせずそこから離れていけば良いのです

そして一人一人はそうした意味に於いて誰に対しても影響を及ぼす事は出来ない存在であると云う事です
良い影響だけを他者へ対する無条件の愛や信頼や奉仕に依って
それらを獲得する事が出来るのです

人はそれを「影響を及ぼす/されている」といった言い回しを使ってはいますが
それは客観的にはそう見えていても事実ではないと言えるのです
その事を理解する事から新しい時代は始まりを見せると私は考えています
つまりそこから世界の在り方が変わるのです

私たちがこれ迄不安に思ってきたものとは自分の外側にある脅威であると言えますが
事実は自身の手でそれらを実現させておきながら
それが自身の与り知らぬ所からもたされたもののように考えて反応し怯えるといった事であり
今日迄そうした悪循環を人々は鏡に映した自分に驚く動物のように繰り返して来たのだと言えます

すべてそれらの影響の原因は自分が造り出した心の幻影でありますが
それを利用しようと云う意図があればそれらもまた自身に対して有効的に活用する事は出来るのです

社会に於いて既に存在するあらゆるものを利用するために交わされる取引として認識されています
そこに属せば自身で一から何かを造り出す事をもしなくても良い訳ですから
取引が何か不味い事でもない事は簡単に理解出来ます

ただ其処には他者に対し自らの行為をもって影響を及ぼす事が出来ると考える者
そして他者の行為によって自らが影響を被ってしまうと怖れ戦く者がペアとして組まれているだけです
両者はある意味同一の信念を有するという事に於いて似たもの同士であると言えます

どんな事象であってもそこに人々が不安や怖れといった意味付けを為さない限り
そこには不安や恐怖の対象としての物事は存在し得ません
ニュートラルな状態を常に自身に見出す事が出来れば
其処に1%のポジティヴな意味付けさえも与えれば良いだけです

あるがままに吹く自然の風というものが
そこに凛とした意味付けさえも与えられていれば
それは私たちに良いものであるのではないでしょうか

自然に対し恐れを抱きそれを猛威と感じるのは
其処にそうした意味付けをする人が居るだけである筈です
風は風であり追い風に捉える人逆風に捉える人どちらも同時に同じ風を感じている事だってあるのです

他者が自身にレッテルを貼ったとしてもそれを受け入れて激昂する側にも問題が在ると云う事です
そう捉える一方で双方間の了解のうちにある種の取引が其処に交わされている場合も在ると思います

何をどう捉えるかはその意識する瞬間瞬間の当人の在り方次第であると言えるでしょう
故にそこでの自己の意識が周囲の状況に対する捉え方や態度の変わり方次第で
それまでの起きていた行動パターンの予測からは大きく外れて流れは変えられていく筈です
それまでの幻影とは別のリアリティへと大きく意識がシフトし
昨日迄在ったものが突然無くなったというような大胆な進路変更も可能とする筈です
私は実際そうした体験を持っているのでそうしたエネルギーの性質の働きに対する
力強い幻想の力を理解しようと期待をもって考えるのです
それは単一の意識のエネルギーの変化であって他者のエネルギーをも巻き添えにするものでは在りません
しかしそこに存在するものとしてエネルギーは意識の変化によって変える事が出来たと考えます
それまで継続して来た又はさせて来たと言える
ずっと過去からの予測データも未だ継続されて別次元の自分の居る世界を現在に
あらゆる展開を見せて広がり続けている筈です
つまり現在の自身の置かれた状況に対する捉え方や意味付け次第では一変にすべてを覆す事も出来るのです
それは同様に個々にその個人をして過去をも変える事が出来るという事が出来ます
事実過去へ対する記憶というものは現在の在り方によって状況は完全に切り替わってしまうものと考える事が出来ます
認識によって何を現実とするかすべては変えられるものであるという考えです

波長が合うという関係性は大体に於いてこうしたパターンであり真逆の関係性を結ぶ場合があります
求めている訳ではないのにそれに引き合わされるのもすべて自然界の冥利とする所ですが
不自然にも不安を生じてさせている関係性からは当然ながら不自然な結果しか期待出来ません

故にそうした数々の観点から不安といったものが生み出す影響というものはすべて
自身がそれを同意して受け入れる所から改善に向かうものであると考えるのです
すべてそれらは無知から産まれているものであり
理解せぬままに恐れや不安と云ったものを他者の影響に被せることにより
自らも又他者に影響を与えんとする行為が横行する訳です

他者に与えるものは自らもまた抱え込んでダメージを自身に与えているのだと判断出来ます
世界とはそのようにすべては中立としての在り方をそこに有しているのだという
考え方に気付く事によって平等に作られてるものと理解し判断することができます

そこに存在するものに対しなにかしら意味を見出そうとするのは個々に意識する自分の仕業です
それは意味が無ければ自身の世界にそれを理解し招き入れる事が出来ないからです
理解出来ないものを自身の現実と云う世界に置く事は出来ないからです
つまり外側から来るように思える脅威はすべて自身のネガティヴな心が投影されたものであり
それを理解せずして当たり前のように嫌悪感といった反応を示し
すべては自己の外側から与えられたものとしてそれらを享受していると云う事です
鏡に映る恐ろしい顔はあくまで自分の姿であるということに気付く事が出来ます

それを理解したとき自身の感性に対して絶対的な信頼を持つ事が出来るとともに
それをもって他者をも又同様に信頼に足る存在であるという認識が出来る筈なのです
つまりそのようにして普く全ての物を無条件に信頼できるという考えが
今の私の信念の根本として存在するものであるのです

「歓喜」に関しましては言葉の解釈を抜きにしましても
まさにそのようにして誰もが倖せになる権利同様のものが
個々の自身に潜在的に秘められているものと理解しています

しかしそれは各個人がその自身の価値に気付く事でしか得られないものであるとも考えています
言い換えれば基本的に人々は相対的にすべてを歓喜に変える意識の力を秘めているにも関わらず
自身でそれを許可していないと云う事です
それは個々に於ける感性の違いに依るものでもありますしそれは尊重し認められるものです
しかし先にも申しましたように社会集団的な意識レベルというものが存在しうる為に
実際には人々はその事になかなか気付けないままであるのだという事です

その個人の中でそれらが抗えない程に大きな割合を占めていると感じる間は
そこに見える個々の個性または感性というものは
あのゾンビのように実際単一的な存在としての存在と変わりないものであるでしょう
映画「ゾンビ」は現状の社会の在り方を揶揄した映画であったと考えます
常にその在り方を観念的に外部者に刷り込まれた存在として私の目には映りました
「観念に殺されていく人々」
望まぬ行為を自らに求めて感染して広がりつづける集団
そうした存在はまた悲哀をもって捉える事も出来るのではないでしょうか

自身の感性のすべてに自分さえもが絶対の信頼を寄せていれば
他者の存在を脅威と感じたり嫌悪したりする必要は全く無いと考えます
つまりそこに対する気付きに依って自己の本当の姿というものを素直に捉える事が出来ると私は考えます
本来絶対的に安堵出来る筈のものが
その自分をも信頼出来ていないとする状態に置き換えられてしまっているとき
それは何者かによる影響下に自分が支配されているといった感情にはまり込むのではないでしょうか
そしてそれに慣れる頃にはすっかり疲れ果ててしまっている可能性があります
それは「陥穽の牢獄」とも呼べる今日まで継続して来れた観念的枠組みとしての
孤高の現実なる各国の組織社会を指しています

「そうあらねばならない」といった主張はすべて幻です
相対的にそうした場所には無益なものを組み立てる恐れや不安も生み出します
あらゆる条件づけによって生まれた世界には愛情や信頼もまた取引でしか無く
不安がその基礎と成ってそれらを支えています
反対に無条件の愛に支えられた世界とはどうしたものであると感じられるでしょうか

こう云った表現はどうかとも考えますが「自己を極限迄削ぎ落とす」状態において
それは単純にあるがままの存在としての自身が其処に浮かび上がる事が理解出来ると思います
それは誰に対してもネガティヴな意味付けを為さない存在であるからです
あくまでそうした存在はどこまでも純粋な存在として
誰に対してもオープンでニュートラルな素材としてそこに際立つ筈です

一旦そのような自分自身の在り方がすべての自己の中に在るのだと云う事に気付けば
私は本来の価値としての自己の力を呼び起こす事が出来ると考えます
つまり其処で何をそぎ落としているかと云えば
それは自己や他者に対する一切のレッテルかもしれませんし
また「私の望みを形作るのはこれである」といった観念や思い込みといった
諸々の条件付けだけであるのです

普段から我々はものごとに対して見るもの触れられるものすべてに
第一印象といったレッテルを貼りまくる癖といえる習性があります
その素材としての意味する所をなんら悟る前におかまいなしに貼付けてしまうのです

全ての事象や状況に対して自ら先入観をもって
パターン化された感情のレッテルを貼ること程
あらゆる方向性の間違いを生み出す原因は他に無いと考えられます
そうした自分の存在を理解していない事がすべての原因であると思います

自分に価値を見出せないと考えてしまう人は
既にあるものにすがろうとしてリスクある取引にも簡単に応じてしまいます
しかし実際誰しもが例えどんなに大勢の人々に嫌悪される存在であっても
万物の長と称せしものに我々は一人も漏れる事無く無条件で愛されている存在と考えるべきです
私はそのように考えます
そうした存在はけして我々のように
条件づけた取引で愛を交わしたり不安による憐れみや心配といった「ネガティブな干渉」をしてきません
あくまで一人一人に価値がありそれは無条件にその価値を見出されているのです
つまり私たち一人一人がそのように愛されている事を
それぞれに自身に赦し与えさえもすれば良いと云う事になります
どんな影響であってもどんな場合でも自分が自分に与えるものなのです

神々の進化論というものは初耳ですが
神々とする存在の定義付けがまず観念的なものとしてしか聞こえてきません
そもそも神に対し神の代わりとしての我々が個々の体験を提供している存在であると云う事は
理解されているでしょうか
その為に我々は無条件にすべてを望む事が赦されていますし愛されていると考えられます
そう考える事が出来ると思いますが如何でしょう
それは人々の信念の度合いによりそこに意味するものも又そこに比例して現れるものと考えます

タイムオーバーというのも時間の概念がそもそも人間の作り物であると判断する為に
この場合の時間というものへの対応をどのように理解していいか判断出来ません
あなたが聞いた事はあなたがその答えを求めたからである筈ですが
それが何を意味する事かはそのあなたをしてあなたの解釈に判断されるものが正解である筈です
それはあなただけが理解するリアリティとして世界のものとして
あなたにしか意味を齎さないものと判断できるものでもあるのです

すべては同時に起きています
現在を意識する時あなたの中に内在する自己の世界でそれらは起きている事であり
人類の集合意識というものへの認識やリアリティに対する理解が我々に不足している事により
数多の概念はインスピレーションを経て当時の人間の手によって産みだされました
それは過去世と我々が考える自己の分身においても同じです
すべては自身である内在する神との協力をもって我々の経験は生み出す事が出来ていると考えます
その内在する神の事ですがそれは外在神というものを人間がその存在を造り出した時点で
自動的に産まれた概念です
更にはもともと内在していたものが外に置かれればそこに在ったとする空きのポストが産まれます
そこに代わりに存在しはじめたものが自我という捉え方です
その自我はあくまで新進気鋭の独立独歩の存在として気高い存在でありましたが
産まれた経緯を同時にそこに理解していた為にそれは同時に人々が
そうしたゲームに気付いた時に消される事を理解していたが為にその事への恐怖を生み出しました
然し乍ら自我も又順応性に長けた自分自身の一部である事には代わりが在りません
自我は文字通り自分の心次第であるものです
捨て去ると言った類いのものである筈が在りません
それらによって我々はそれまであった価値に対する新たな気付きやそれ迄無かった視点と云ったものを
改めて実体験によって神に付与する事が出来ているのです
そこに神も又価値あるものと捉えて求めに応じた協力を提供してくれているのです

我々もまた経験が無ければ何も意味をそこに持つ事は出来ません
数多の神々は人々の熱望に対する現れとして個々に於いてまたは集団に対するものとして
生み出された概念化された存在でありましょう
当然神は人々と同体であるが故にその求めに対して応化して現れるものである筈です
それらを信仰する人々の思いによって力を与えられ
また人々はそれらを堅く信じる事によってその神の力の恩恵としての「影響力」を受けていた筈です
あくまで人々の概念を通じて神々は人の前にその求めに対する様々な姿をして現れます
それは求め訴える人々の信念と個性によって様々な形態をとりますが
それらはすべて人々の持つ心をして投影された形であると言えるでしょう

自然を怖れた人々はその外敵としての自然に人格を与え人類に敵対する神々を見出せば
一方にはそれらに怖れる人々を守る絶対的な力を持つ破壊神としての従える神を望みましたでしょう
また自然すべてに精霊を見出した人々は温和な性格の神を其処に見た事でしょう
静かな安らぎを与える神の相対として攻撃的な性質の神がそこに産みだされた訳でしょう

リアリティとは相対的にひとつの物事をそこに生み出すとき
もう一方の性質のものも同様に生み出すと云う事であります
それは自然のあらゆる環境がそのようにして存在するが為に
そうしたひとつの意味付けに対してもあらゆるエネルギーが同時に産まれ発生している訳です
結局自身の在り方を介してそこに一気に爆発するように
世界は次々と産まれているのだとする解釈は妥当なものとして考えられます
あくまで意識する物質的な世界は限定された知覚に依る幻影であります
我々は万物の在り方に対し外観だけを覗き観る事をしない
もっと意識的に深い理解を通じて繋がりを持って共鳴する必要性があるものと考えます

一気に書き上げた所為で少々ちぐはぐなまとまりの無い感じのままですが
終わりにさせていただきます
読んだ感想などは敢えて必要ではありませんので
どうか私のあなた方に対する幾許かの想いとしてのものをご参考迄に


09. 元伊勢80社 2011年11月30日 13:51:31: QltTAR96mRc1. : UjdRsHPEBw
 長々と論文有難うございました。(これは嫌味です。)

 2回読み直したが、よく分からない。なるほど、高尚な文章、難しい表現などは読者を圧倒させ、おおいに権威を高めるでありましょう。
 しかし、専門知識や単語に慣れていないものにとっては集中力を欠いて、発せられる意味、真意が伝わらないものです。法律界で「観念的競合」「未必の故意」などは誰でも分かる単語であり、電気界において「電圧の印加」「励磁コイル」などは日常会話でありましょう。しかし通常人にとっては一々辞書を開かなければならない難解な文章となるでありましょう。
 さらに、長文と分かっていると、読む気力も失せるものでしょう。

 今度からは、一問一答の短文でお願いしたいものです。

 せっかくの御縁ですから、一つ質問させて頂きたい。(貴方が05. において 、『その為にはどの辺りの詩編を読めば理解出来るのでしょうか』、「詩編」という単語を用いられたので、そちらの方面の方と推測します)。
 『神ヤハウェは、なぜ、パレスチナの先住民を皆殺しにせよと命じたのでしょうか。元々、パレスチナの先住民も神の子であり、神ヤハウェにより生み出されて「祝福」を受けたのではありませんか。』。
 (貴方の回答をいただいた後に、私の見解を述べさせていただきたいと思っております)。


10. 2011年12月01日 02:39:46: 2DevaXxRvc
興味をお示しになられた事は私にとって喜びとして感じ受けられるものであります

そうなるように少々書き込んでしまいましたが
前回は(先に言い訳をしておくならば今回もまたそうなのですが)個人的にゆとりの無い中で
書かれたものでもあると云う事があなたにも率直に伝わり感じ取られた事と思います

あなた自身が何かに追われているように物事を語られていたこともあり
なるべく私もあなたの考えをより短い間に聞きたいとする
意思の現れであったと云う事にしていただければ倖いかと存じます

まずはじめに判っていただきたい事がありますが
その前に私の素性というものに対しあなたはあらゆる不安や怯えをもつ必要はございません
私はなんら宗教というものにすがる人間ではなく
ただ感謝のみを自身の糧として頂戴する存在でありたいと願っています

まただからといってあらゆる人々の感性や考えに及んでそこを踏みにじったり
敵対する意識を持つ者でもない事は前文章の中にもお伝えしたつもりであります
それは何故なら私自身が現在のあなた方の在り方になんら不安も恐怖をも示していないからです

あなたのなんらかの事柄に対する捉え方や考えとしての在り方と
それが何故あなたの中に産まれる事になったかの経緯をも踏まえた上で
私はあなたの感性に対しなんら疑うものを持つ事はありません
ただただ尊重しつづけるだけです
しかし試みとしてあなたに私の個人としての意見を同様に見ていただく事は可能であると判断しました
それが何故あなたかという疑問がお有りでしょうがこれは失礼にとられたく無いのですが
別段私は誰でも良いのです
私はあなたの投稿に対する姿勢その在り方そのものに興味やとりわけて関心がある訳でもありません
ただ私がこうしたあなたの前に会話するものとして姿を現すのは紛れも無く
私の伝えたい事が他者に伝わる事を望んでいる為にいみじくもあなたが私の前に在るのです

その事によって私自身も又どんな影響を受けるかを楽しみにしている訳でもあります
それはあなたに対しても悪い影響について望んでいると云う事では在りません
多種多様な現れを見せつづけているこの世界で我々のスタンスとは常に
他者への理解へと向けられた真摯な態度にのみ観る事が出来るのです

なにより私が誰であったとしてもあなたになんの影響ももたらさない事が理解出来る訳です(逆も又然り)
あなたへ危害を加えようとする意思は自らその同様のエネルギーを自身の中に産むのだということを
また同様にあなた自身も又そのような事が起こりえる等と考えれば全く上記と同じ事態に
自分の力で巻き込まれる事もあり得るのだと云う事を私はまず理解していただく事が
なにより前提であると考えます
それさえも理解すれば誤った人間関係を結ぶと云う事が何故に行われているのかと云う事をも
理解出来る運びとなる筈です
他者の考えの一切をねじ曲げると云うような「影響力」というものは
"私一人では産まれることはありません"
しかしその言葉の意味する事は二人居れば自動的に何か必然的に影響し合うと云う事ではなく
そこでのあらゆるレベル間での双方のやりとり次第なのです
それは最も単純な例えをここに出せば架空のレモンを片手にそれにかぶりついた時に
実際食べた時と同様に唾液が口の中いっぱいに広がるということに似ています
双方が意識せずとも片方だけに反応が見られる事もある訳です
よって状況へのそこに対するあなたの意味付けや自身の在り方に対する条件付けだけが
そこであなたが何を受けとるものになるかを決定づけるのです
すべてそうしてその自身の在り方とは他者に委ねられている訳では無いと云う事です
単に言いあらわせる事はあなたの目の前にあるニュートラルな存在であるものに対する
あなたの意味付けや
観念的なものに縛られた自身の在り方だけが重要なのだと云えるのです
(多くのレベルで意識間のやり取りそれらはすべて同意のもとで交わされている
しかしながらそれらは我々が体験及び経験を目的として此処に居る限り
それらはリアリティに対する妨げでしかない)

そのように私は人々が自身の現実と云うものを時には壮大に時には集団で作っていると云う事に関して
一言で云えば面白いと捉えている訳です

それは勿論私自身の捉え方一つである訳ですが
そのようにして此処に語られる事実は「私にとっての事実」であると考えます
故に真実は人の数だけあると云う事も出来るかもしれません

我々は自分もまた他者とそのように他者の為に使役させられて来たのかと認識する背景といったものを
それぞれに共有する時
そこに集団的な現実というものを作る為に一人一人が同様のエネルギーを紡ぎ出すという結果に繋がると
当然ながら考えることが出来ます

情報というものが持つ力が真に発揮される時とは
人々が自身の本当の姿を悟りその力に気付く時である筈です

単純にそうした影響力というものは自身で生み出しているものである事が理解出来る筈です
過去の記憶がいつまでも人をそこに縛り付けるのは
他者による自身への影響が事実としてあったことが原因としていつまでもあり続ける訳ではありません
過去に対する自責の念を絶えず当人が現在に思い起こしている為に引き起こされているだけのものです
それは一言で云えば集団的な価値観といった観念的なものに縛られているに過ぎません
常識とはシステム的に答えを導き出す価値判断といったものです
そうした発想の上に現在の世界が成り立っているが故に
そこに属する身として(それは自分で其処に納まっている)
多くの自身の都合からそれを採用しているに過ぎません
しかしそれは時に独自の感性をも押さえ込んでしまう為に働いています

常識や思い込みというものによってそこに無理解のまま
当人の意識を自ら永遠に縛り付けるかのように思えますが
それはある意味観念的な自らのエゴによるものでもあるのです
つまりこう云う事が言えます
「自身を赦さない」というのは常に変化し続ける万物の在り方に完全に拮抗した姿と捉える事が出来ます
それはとどのつまり「私は特別な存在である」と自負しているに過ぎません
それが本当の意味での反抗というものです

我々にとって外部と思える現実世界とは
実際は中立の立場として全ての物質が存在しています
そして我々が其処に何らかの意味付けを与えるとき
すべての起こりうる事象としての動きを其処に与える事が可能です
我々はそうして自己の心が投影された世界に対し
自分が考える通りのあらゆる方向性を通して何かを経験出来る訳です
それは個々に於いて自身の内面的なリアリティを見える外部の世界に投射して
楽しんでいると観る事も出来ます

その場にあなたが自身で与えたそれら「意味付け」で産まれた「観念的な外部現実」に対する
他者や自身の「在り方」や姿勢といった態度そのものをもまた
単なる反応として楽しむことも怖れると云う事も出来る訳です
しかしそうした一方ですっかり「そのこと」を忘れてしまえば
後に残るのは単なる反応で作られた恐怖に捕らわれた世界であると云う事が
理解出来るのではないでしょうか
改めて気付きもせずに我々はまたもや鏡に映った自分の姿に嫌悪し怯え続けている訳です

鏡に向かった自分の顔に向かって先に笑えと憤っていても同じ状況が続くとい事は
笑い話として理解出来ると思います
ほぼすべての関係性に於いてそのように理解されぬまま
長らく我々の常識として刷り込まれて来たと云う事は甚だ感慨深い所ではありますが
つまり実際は外も内も無く同一の世界に於いての活動であると云う事です

我々はこの肉体的に知覚する五感を通してえた感覚のみを頼りにして来た訳ですが
そこに知覚される以外のリアリティに対しても怯える必要は無いのだと云う事です
すべては々存在でそこに役割だけもがあるからです
互いに役割を与え続けているだけです
違う人生では師であったものが生徒にもなります
故にすべては無条件に敬うべき存在であると云う事も出来ます

つまり今の我々の状況に照らし合わせて考えてみた場合
自身にとって外圧と感じられるものもすべてそこに利用する為にあると考えられるのです
あなた自身の中に自ら産みだしたもの(状況への捉え方)が
他者の影響として自身の心理に付け加えている事により結果
そのことで実際心の痛みというものを理解し自分の経験に付け加えます
そして自身も他者に対しそうあってはならない事を理解します
思いやりといった他者へ対する理解は経験したものにしか理解出来ないものでもあります
ただし同時にそれはそこにもうひとつの方向性を生み出し其処へ向けた
推進力のエネルギーの開発の為にも造り出されるポイントである訳です

他者に好意を持っている場合には人々はその影響は喜んで受けとる訳です
あくまで影響とは全て其処で自身が受け入れるかどうかの判断を自身に求められます
そこで一旦受けとったとしてもそれはのちに見直す事も出来ます
各々の方向性として定義される道や神とはあくまで個々に求める自身の在り方であって
自身を特定の存在として設定した時に相対的に其処に生み出される畏敬や憧れの対象である筈なのです

我々はそれを正しく理解していないが為に常に不安に晒されています
常に他者からの外圧に合いダメージを負ったとすることにより
多くの争いを生み出しては他者の判断に委ねるといったことも平然と行われています

癒しや施し同情や憐れみといった周囲の理解に依存しようとする働きが
更に自身を小さなものとして感じる事に繋げています

そして人間関係は信頼であるとしながらそれらは互いの条件づけられた取引であり
条件づけがなされなければ人は信用出来ないとします

愛情も又同じで「これだけ愛しているのだ」と心配になるのは当然であるという論理展開をしますが
それは又自らをも愛してくれと言うメッセージとしての理解を他に求めてしまう結果となっているのです
求め合うのは当然すばらしいことだとすれば又そこには
「欠落」といった状態を相対的に自らに造り出している事に気付いていることが肝心です
我々は基本的な在り方として個々に愛に満たされた存在であり故にただ互いに与え合うだけの存在です
それを理解すれば我々の世界に何一つ欠けるものは見当たらないのです

そうした中に於いて他者との比較に因る自己の進み具合というものも
なんら意味を為さないものである筈です
そうした理解の中にこそあなたの求める真の世界へのアセンションの切符は
手渡されるのではないでしょうか
何もその時期とは各々の理解の中にいつだってあると言えます
あなたの意識する今が何処にあるかが問題です
それさえ理解出来れば然るべき判断をもって
それはいつだって実現可能であるでしょう
周囲に起こりえている事をどのように捉えるのも
現在のあなた方の在り方がそこに現れるのです

もっともこうした考え方は単にひとつの捉え方によるものです
例えば何処かの宗教的儀礼を通過し試験にパスしなければならないと信じるものは
そのようにしてやっと自身が到達し得る彼岸を見出せると頑な迄に信じています
故にそれは聳えるような難関をくぐり抜けて大変な思いをした後到達していくのです
そして彼らは彼らの信念体系に寄り添っていく事になります

修験者らが自ら設定した術や能力に開眼していく時にも
それらはそのようにして会得していく事が出来る訳です
すべては信念の強さをどのように設定していくか
そしてそれを信じ続けられるかどうか
そのリアリティに於ける体験がすべてである筈なのです

しかし何をも通らずすっと飛んでいくと考えれば
それが紛れも無く信念としてあればそのようになるでしょう

しかしあなたも思う所であるようにすべては体験がすべてなのです
実在するかどうかの歓喜とは体験を経た後に因る確証なのです
それらは永遠であるのです
すばらしいものである筈なのです

「あるがままなすがまま観自在である」

あなたの意識するリアリティの「体験」だけがあなたの持ち得るものであり
"存在しえぬもの"に対する"存在そのもの"としてのあなた方の役割とはそのようなものでしかない訳です
しかしそうしたあなた方をして「ただ其処に在る」という事の「歓喜」を身に受くことになります
それが自身の確かな「実在としての存在」を其処に表すことを示す唯一の確証と言えるものです

故に自ら感性の赴くままにあらゆるリアリティの場を通じて
教えるものは同時に其処に教わりて
又教わりて教える立場として我々は存在し続けます
あらゆる道には師があり憧れがあり体験があります

あなたが何になりたいかはそれはあなたが体験していく事柄の中で
気付いていくものでもあるからです
どんな体験を求めてその容姿を選んだのか
すべてあなた方にはマッチしている環境であると感じられるのではないでしょうか
常に其処に於いて判断はその時点でのあなたに全て委ねられています

あらゆる場に於ける自身の立場を正確に認識すれば
その認識により受けたものを更により良い自身の在り方に換えられるように
努力していこうと考えるかもしれません
周囲に馴染まないのであれば馴染むように
常に自身の変化を厭わずよりよくある為に必要と思われるものを
古いものを吐き出し新しいもの吸収しようとするのは万物と同じ流れです求めていく事です
それは適応性や順応性と呼ばれるものですが
それらは目に見えた単なるバランスの現れに過ぎないことが判るでしょう


我々は老いていくと感じた時点から老いていきます
と同時に好きな事をやっている間は老けていきません
好きな事をやっている間は時間が早く過ぎるように感じられます
経ていく何かを得ていくという意味付けを自身に与えつづけることで
どうした変化が得られるかということを研究するのも面白いかもしれません
実際長生きで若く元気な人は自身に常にどうした意味付けを与えているか聞いてみれば
多くの理解を得られる事でしょう
すべて自身がそこに意味付けした時に同時に相対的な意味合いをも状況に付け加える事になります
それらはちゃんと目に見えて現れ始めます

常に確定的な状況というもの(万物は変化し続ける性質の為)は自然界にはないと言えます
周囲の変化に応じて既にある物事は常に改善が求められます
我々は自ら望んで変化を求め続ける存在でもあります
故に既存社会に一つの共有する価値を通じて人々をそこに統治するようなやり方は
いくら一時完璧なシステムを構築できたとしても維持するという試みは続かないということが言えます
そうではなく常に多様に変化し続ける個の為の新たな政府の在り方を
模索すると云う事が正しい秩序の諮り方と言えるのだと考えます

常にその全体的な人々の意識の向上に対して誰であっても歯止めを利かせる事は出来ません
縛る事を前提とした組織の在り方を見直すべき時期を迎えています

そうした社会の歯車に成れずに引きこもり続ける事や
他者に怖れを抱き続ける事もまたあなた方独自の在り方として誤った方向に
自らを誘っているのだと考えます
何かを拒否し抵抗を続けると云った事は自ら望む進路といった自己の在り方への方向性に対し
自ら道を塞ぐ事になります

ただしストレスもポジティヴに捉えて利用する個性も存在します
山に登りたいと考えたり何かに打ち込むという人は
我慢に我慢を重ねてやっと達成感を得られるといったタイプでありますし
それまで自身にネガティヴな状況を作り込んでそれを利用するといった
経験の仕方もある訳です
一概にすべてが一つの考え方に縛られる事はありません
何ものをも素材として捉えてそこにポジティヴな意味付けをして
それを利用して自身の在り方を変える手だてとする事も可能である訳です
例えて塗り絵はすごく個性が現れます
丁寧さもそうですが何処から塗りつぶすかもどれだけこだわるかも個性が現れます
それはそこに対する意味付けとしての自己の在り方がすべて現れる事に成ります
全てそれぞれにそうした自身の個性として培われ続ける事になります

社会とせしものが産まれる限りはそこにあらゆる演者が必要とされると云う事が理解出来るでしょう
そこには相互間の人間的な援助としての働きだけもが望まれると当然ながら考えられる訳ですが
それは現代において鑑みてみればすぐに理解に至るようにネガティヴなしがらみと看て取れます
そうした部分に我々は人間的な手本習いとしてのドラマを通して大いに慣されて来てはいる筈ですが
俄然として本来の自身を其の影に包み隠してしまっている事にも気付いていなくてはなりません
本来社会にに望まれる援助としてあるべき
無償の慈しみや思いやりといったものの在り方そのものが
本来の人の仕事すべきものである事を忘れることになってしまうでしょう

「ネガティヴな干渉」といった条件取引によるしがらみだけでは
人の社会は望むように機能していきません
不安に因る心配やおせっかいをまた時に押し付け合うのも仕方が無いとは言えますが
それが何故起きているかを理解するものが行動を起こせるものである筈です
ネガティヴな影響に反発せず緩和してみせる事が何より
世の在り方を変える力に成るのだと考えます

でもそれは当然ながら既存の社会の在り方として
我々はそこに属すものとして捉えられないかもしれません
それでいいのです
そうでなければ思ったような互いの在り方をそこに齎す事はできないでしょう

故に私は今此処にあります
それを理解するものは全て同一の存在です

我々は無条件に愛をただそのままに
出会う存在全てに与え合う立場としての
基本的な在り方をその身に赦し続けると考えれば
外側から与えられる事だけを求めている存在でも
ただそれを待っているだけの立場でもないと云う事です

自身を取り巻く現状へ常に向き合いそれら自身が外圧と感じる状況に対し
その意味付けを取り払う事が出来れば
そこには不安を一切感じないただ微笑む中立の立場としてのあなたが存在するだけです

自身に対し与える意味付けはそれは同時に受けとることであると考えられます
ですからどんなに長い間自身の状況に対する反応に依って
辛い影響のみを自らに受けとり続けていたとしてもそれは
自らを変えると云う自身へのチャレンジの意思と共に変える事が出来ます
それは過去の在り方も事実とする幻影の有無さえも変えられると云う事です

肉体の一時的な喪失をもって新たな生を理解するといった時にも
「忘れていたものに対する理解」は必ず「思い出された理解」になります
ですからどんな状況に際してもあなたの在り方だけが自身にとって其処に問われているのであり
それがあなたのすべてであり
何の不安も最初から持たなくて良いと捉える事ができます

さて長々と繰り返しお伝えして来た事はあなただけではなく
ついにここを覗く人すべてにとって有益である事を望みます
途中「あなた」と表記してある部分は特定の個人を差さずに
一部全ての方々に捧げさせていただいたメッセージであると云う事になります

さて有り難くご質問を頂きましたのでお答えさせていただきます

ですがその前に誤解を与えてしまっていると考えられる部分についてお断りさせてさせていただきます
私はかろうじて知り得て居る単語をにわかに使い"詩編"と表現しましたが
それは意図してあなたに私がキリスト教の聖書の類いを片手に信奉している者であるような事を
仄めかしている訳でもなんでもありません
しかしここに私はあらゆる感性の在り方はそのままに否定したり
反発する立場のものではないということをも
同時に伝えるものであります

さて逆にご質問となってしまうのですが
"これは神の意思である"という確証らしき文章があなたから訊ねられた言葉の何処にも見あたら無いと
いうことをまず指摘させていただきます
ということから察するにある見解をもって先に答えるならば
私はどのような宗教の類のどの宗派にも属している訳でもなければ
特定のものに関心を寄せている訳でも在りません

私は感謝出来る事柄に感謝し
その在り方を自身に求め赦すものです

私は私の声にだけに忠実であります
その声は二十代も半ばのとき私に「この力で人を救う事が出来る」という声を聞きました
それは私の声であった筈です
そこに同時にビジョンも見せられました
それは私が見せたと判断します

私が何をしたいのか何を経験したいと考える存在なのか
それ以上の答えはその後の私の歩みにあります
それは私自身の歩みです

さてご質問の内容に触れる事にしましょう

ヤハウェという名の人格的肉体を有する神自体は
当時の人々の外部種族に対する強烈な恐れへの意識が与えた神の性格であると考えます
我々は今ではあらゆる土台を持ってあらゆる理解に向けられたデータを持ち合わせています
あらゆる年代に生きた人々
其処に描かれた歴史や顛末
あらゆる象徴とそのイメージ
実際の神の性質はそこに信奉する人々の力を持って存在しうるものであると云う事は
私のこれ迄の文章の流れからしても其処に読み解く事は出来ると思います

あくまで我々はそうした「存在としての立場」を通してあらゆる存在のベースに神として観る事が
(そのような理解により)出来ています
ですがそれは其処に居る人間を通して見えるものがひとりひとり違っていると云う事をも
理解するべきです
人を通してそこに在るのは悪魔としての存在であるかもしれませんし
又は人々の罪を罰する神々としての存在として描かれるのであるからです
それはその浮かび上がる神々の在り方をして其処に集う人々すべてに影響している訳です
当然自身が思い浮かべ求め訴え好きに神々を定義しています
それを我々が改めて理解に及んだ時
其処に何があるのかと目を凝らした時
あるがままのものとして捉えられるものとは其処に在る人々の心のみである筈です

同様に歴史の中に何を見るのかと言えばそこに存在した人々の心の中に住むもののみであり
更にはそれを観察する者に於いてもまた個々の在り方としての「物の見方(捉え方)」のみであります

故に他者になんの疑念も持たぬ存在が(相対的に同時に何の信念も持たずして)
其処に無償の愛を示す事が出来ているように見える通りのことが
純粋な存在の中には起こるべくして起こると観る事が出来るものであります

あくまで我々の認識の範囲内としてそれは他者に対する人間性の向上心というものに
(端からすれば)見られることになるのではないでしょうか

信念や或いは信仰を持たぬ存在が如何に其処に個性を必要としないか
それ以上の進化を期待しないかというのもまた理解出来るものでありましょう

我々が今理解せぬ事は後に理解する事でもあります
しかし今理解する事を赦せばそれは今に知っている事になります

万物にはあらゆる波長レベルに意味される意識の状態があります
山の頂きにあった小石が其処に外部からなんらかの影響を受けて転がり落ちて衝撃を受けたとします
その時点で石は石ながらに衝撃を記憶する訳です
それは樹木にしろ石にしろ人形にしろ意識がなんらかの影響を受け入れる時
そこにはなんらかの気付きを受けとる事になります

また生き霊と呼ばれるものが何かと云えば
それは我々が本来どうした存在であるかをその能力の一端に例として垣間見る事もできるのです
我々は元々一つの存在の中にあって其処から生み出された個性をもった存在であると云う事ができます
それはそのまま分身としての我々はその本体と同様の能力を兼ね備えているとなぞらえた時に
理解に到達出来ます
命は個々に於いて我々も又単独につくり出す力を有していると考えられる事です
それはそこに自らの分身をもうひとつのリアリティの中に造り出していると云う事になります
強烈に一つの事を憶い続けた結果物質的に現れる次元にまでそのまま顕現化させる力があると云う事です
そうした第三者から捉えられた自己の分身はまた本体としての自己から独立した存在として
我々とは違ったリアリティの中で生き続ける事になります

ありえないような昔話に語られる事はすべてそうしたリアリティの在り方を
今に伝える真実のドラマとしてみることができますがそれこそは語り継がれるべき
教えであった筈なのです
つまり宗教と言った形式化された組織としての在り方は過去に於いても必要なかったということです
個々にそうした事を理解している事が重要です

もうひとつの例としてペットが人間と同じ個性を付け加えられて
かわいがられた場合の事を書きたいと思います
動物そのものは集団生活が基本でありそこには集合意識としての共有化された自我しかなく
個々に個性を有する必要性がありません(個々が自己である事を理解している為)

カラスが道路上に胡桃の実を落とし自動車に轢かせて割るという知恵をご存知かと思いますが
そうした知恵が今や日本全域のカラス達が有しているように感じられるのは
そうした意識間のコミュニケーションによる情報のやり取りで彼らは種の
独自に全体の進化に個々が貢献しています
彼らにも率先して何かを経験して他に与えると云ったリーダー的存在が居るのです

ペットは人間と一緒に暮らす事で人間的な暮らしや個性を其処で学ぶ事になります
それはまた種としてではなく独自に存在としての気付きを受けて
彼らの進化路に新たな道を切り開く事になります
そこに於いて人間はそうした他の種への新たな意識への気付きと云う
ボランティア活動が出来ている訳です
そしてまた同時に人も其処に他の種への理解を教わる機会を得ているのです

人間も又悠久の時代に於いてはそのように夢見の状態において
すべての人類に於ける意識を変革するような世界的なドラマはテレパシーで伝えられていたのです
宗教的な(事実はともかく)意味のあるドラマというものは我々に伝えられていたのです

我々は互いにすべての万物の意識の側面に
新たな気付きを与える事が出来る存在としての能力を見ている訳です
しかし今やどうでしょう
我々はすべての意味付けに於いてどのような意識のやり取りを果たして居ると言えるのでしょうか

あらゆる学びに対する準備は我々に常に出来ているものと考えれば其処に何の恐れも必要とせず
また純粋な存在のままである事が如何にすばらしいと言えるのかが理解出来るのではないでしょうか

暫く時間を他の事に生み出さなければなりませんので期待に応えられるようなものではありませんが
時間が赦せばまたお会いしたいと考えます
それでは


11. 元伊勢80社 2011年12月01日 10:35:14: QltTAR96mRc1. : vTldSTdXlo
>01. 2011年11月27日 22:07:27: 2DevaXxRvc
>05. 2011年11月29日 05:06:06: 2DevaXxRvc
>08. 2011年11月30日 09:21:46: 2DevaXxRvc
>10. 2011年12月01日 02:39:46: 2DevaXxRvc

@ 貴方の論文は読むに値しない。一応、流し読みはしたが、読んでいない。

A 私は言ったはずです。
  >09. 元伊勢80社 2011年11月30日 13:51:31:  ・・・長々と論文有難うございました。(これは嫌味です。)・・・・・・今度からは、一問一答の短文でお願いしたいものです。・・・

 貴方は自説を一方的に長々と展開するだけで、他人の「意識」を理解しようとしていない。
 ここは私の投稿枠であり、私が主人であり、貴方は「客人」に過ぎない。長々と自説を論説したいのなら自分で投稿者になって、新たに一から投稿し、好きなだけ論説を謳歌すべきです。

B 貴方は、神ヤハウェについて、何も述べていない。(貴方の環境上述べられないであろうことは、最初から分かっていた)。だから、私も回答を述べないことにします。

 神ヤハウェについては、申命記・第20章・17節に明記されている。貴方とは、創世記・申命記・ヨシュア記・サムエル記などの解読の前提となる「根本的な世界観」が異なる。貴方とは意見が相容れない。

C ★ 貴方の長論文は迷惑です。今後は私のコメント欄への書き込みを御遠慮願いたい。また、この返事は必要ありません。

貴方の前途に幸多からんことを。


12. 2011年12月01日 10:49:59: 2DevaXxRvc
付け加えます
改めて見直すと非常に機械的もしくは奇怪な文章である事に自らぞっとしてしまう程ですが
それは一つの効用を齎す事にもなるかもしれません
誤字脱字もまた見受けられますが意味が通っていれば敢えて手直す必要もございません

さて何故残忍な性格の神(宗派)が産まれたかと云う事については
それは当然そこには求めるものに対すしての相対的に対極に位置する信奉者の存在をして
理解する事に成りますが
それはその民があまりにも長い期間その種の保存に多くの悩みを抱いて来たからです
それは他種からの攻撃に対してあまりにも攻撃性が欠けていたからであり
身を隠すように生活していたと考えられます
それが講じて民衆のリーダー的存在を筆頭に
非常に鋭い知覚を有する事にも成っていったとも考えられます

根本的に比較的攻撃的だと感じられる民に対しては相対的に反省を促す穏やかな神が
そのように穏やかな性格の民には攻撃性を兼ね備えた神が求めに応じて必要だとされた訳です
しかしそれらはあくまで人の心の反映であったに過ぎません
根本的に神の姿は自然のまま誰に対してもニュートラルです

勉学が苦手だとすれば学問の神が
その身の先を案ずれば豊穣の神が
自分たちの日々に情けないと感じれば叱咤激励する神が
求めに応じて現れていたものと考える事は容易です
又はそれ自身として自らの中に沸き起こります
それが自然のパランスです
私自身は無粋で身支度が下手な性格であると考えています
まあそれに成れてしまえばそれもまた良いとただ居りますが
そうした目で見たとき
一番バランスが採れていたと考えられるのは日本と言えるのかもしれません
若しくは聖地と云われる場所に見られた清楚で厳かなる人々の姿はすべてです
単一的に一つの国の人々がその国のシステマティックな思想に支配されていれば
其処には単一的性格の神しか受け入れられて居なかったと言えるでしょう
また不思議な事に人々は宗教観の争いにより戦争に発展したとき
敵国の神をも非常に怖れるということです
恐らくそれは自国の神と対立させたときその力を上回ると感じるからかもしれません
確かに相手側の国の神をも同時に強さという観点から憧れを持ち
怖れ信奉すると云った傾向も見られる事です
しかし本来神とは全てを受け入れる中立で単一的なものであるとも言えます

僅かにもご参考に成れば倖いです



13. 元伊勢80社 2011年12月01日 11:31:04: QltTAR96mRc1. : vTldSTdXlo
我がまま、自己中。こんな人間が世の中に充満している。嫌な世の中だ。

14. 2011年12月01日 19:32:53: 2DevaXxRvc
あなたのご返答としてのご感想もまた
無理なく一般的に通用し理解される通りです
あなたの感性も至極当然のものと理解されます

しかし想像に難しく無く
今あなたがたが於かれている情況とは
基本的にひとりひとりの在り方で産まれています
なんら自分が理解するまでも無く
謂わば与えられた外部のシステムに沿って
「反射的に」あなたの抱く当然の感想として
認識され周囲に解き放たれているのです

それは基本的に存在の在り方とはあなたの嫌悪されている通り
"自己中心的に"すべてのものごとは(ありとあらゆる行為は)
同様にそのようにして産まれている訳であるのです

逆を言えばそれは(あり得ないものですが)「他者中心的」な
物事の考えや在り方を自らの思考とその口で語り告げ合っていると云う事になります

その感想はとても良い方向性を私にお与えいただきました

そもそも「自己中心的」という言葉の意味を"レッテル"として見るとき
そこで思考がフリーズしていることに気がついてほしいと思います

私は多分あなたがその"不味い"とする考えを
人々へ対する「懸念」という形で抱いている事と理解したいと考えます
しかしそれはあなた方の社会へ対する最も"不味い"在り方として「ものの見方」であります
あなたの見る社会への不信感とはつまりそうした自身に対する脅威といった
観念的に齎された「意味付け」であると私は考えています

すべて比較によって動いていると云った原理に基づき
不快度を常に周囲への自らの意味付けによって測っています

弱者強者
静かだ煩い
不味い美味しい
優しい粗雑だ
しかし我々はそうしたどちらの素材にも
その組み合わせで産まれる差異によって途方もなく恩恵を受けている訳です
ですからすべて感謝の対象と言えるでしょう
あなたがもしその立場として比べられたとしても
あなたはその役割に満足していい筈です
あなたが人にしていることは自身に対してもそれを赦せる為のものである筈ですから
それよりもまずあなたはあなたに自己中心的に満足していられる筈でしょう
当然良いライバルをもって向上していく事を目指す事は良い事です
それは神や恩師といった存在同様に良い方向性をあなたに齎す良い関係性の存在であるからです

今はそれとは逆の立場をもって互いに競合し合うと云う事について話していた訳ですが
その意味付けによって人々へ対して抑制し合うと云った
「不信感」そのものが「蔓延」していると考えます

その為にあなた方は自分に「大きな力」は持てないと考えてしまっています

「他者に依存した形態」がそこに産まれてしまってそれを変えられないから
あなたがたは苛立っている訳です
組織的なものに属する動物の形態同様のものに意識的な進化というものは見られません

それは遡れば過去に於いて人々に対して人々の在り方を諭す目的の為に
「外部の神」というものが必要され導入が齎された時
そこへの信仰の必要性とは別に「組織的な」宗教というものが
"意図"することとは別に「産まれてしまった」事が
現時点まで長き道のりを産んでしまった「誤り」であったと解釈する事も出来ます

あなたが今外見上のあなたとして漏らした「嫌な世の中」といった周囲への意味付けさえもが
あなた及び人々の周囲に見える景色をすべて灰色に染めている事はお気づきになられているでしょう

あなた自身はその事を理解しているのです
そもそも同じ考えの人間が集まって何か出来る筈のものですが
それはみなすべて組織ありきとした云った当然のような概念の枠に縛られているが為に
悉く打ち消されているように思えます

普通であるということが普通でないのです
普通の在り方が理解出来ていないのです
あなたがたにとって普通の状態普通の在り方とは
常に状態として平穏であり倖せであるとしてその在り方であるでしょう
誰に対しても自身を装うことなくありのままで接する事が出来る事
それがあなた方にとっての普通です
駅のホームの待ち合いでカメレオンのように景色に溶け込み
私は普通であるように装うと云った事ではありません
一人で居ても多人数と居てもあなたはあなたであることの喜びを
同様の存在として多くの存在と分かち合うと云う事です

国家や共有認識といった組織そのものがあるべきなのではなく
同様の考えの人間が集まってグループとして互いに自身の在り方を活かせれば
決め事の必要がない訳です
違う考えが産まれれば其処から自然とはなれて別のグループとくっつけばいいだけです
理解し合っていれば主張し合う事も無い訳です
基本的に愛を与え続ける事に不安といった"枷"をつけなければ世の中は上手く行きます
小さな子供たちを見ていれば理解出来ます
其処に不安と云った影響を大人達が教え込まなければ良いだけです

それは多種多様な感性が認められる社会に於いてそれぞれに本来の個性の在り方である
"自己の中心的な力"が発揮されるべく新たな意識の土台づくりが
そうした意識のもと急速に産まれていくだろうと予測しています

あなた自身もまたその本来の在り方は
既存の組織ありきと云った枠組みから一切を切り離された所での活動である筈です
それはそのように"自己中心的"にされているように見えますが
単に原動力として其処にあるのが「不安」か「愛そのもの」かの違いだけです

あなた自身でそれ迄のあなたそのものによって意味付けされて来た「影」は
しばらくあなたに付きまとうでしょうが是非それに怖れずに
本当の人の在り方というものに目を向けてほしいと考えます

それは「自我を捨てなさい」と言ったようなメッセージではないのです
むしろ無理やりに既存社会を維持する為に
「自己を型に填めて生きなさい」と云ったメッセージこそは
自分を無きものにしなさいと云った脅迫のようにも受け止められます
しかしその声もまた現時点での自我の作り上げた幻想の声である筈なのです

自我とは又あなたが成長し続けることで共に状況に慣されていくものではないでしょうか?

ともかく"観念的にすべてが構築されてしまった世の中"に於いて
自分らしさを貫くと云った行為は"そうした"他者をして
「気分のいいものでは無い」と云う事は理解出来ます
しかし互いの節度といったものは本来
すべてが「そのまま在る」中で確かな自己としてに磨かれていくものである筈です

観念に縛られて「長く」生きて来たと自身で感じられる方々にとってみれば
こうした発言はあまり良い響きのものではないかもしれません
しかしそう思うのもまた観念や決めつけによって巨大化して来た
自分以外の何ものかの感情なのです

最初から型にはめる為の厳罰ルールをちらつかせて恐怖で押し込んでいくという教育は
恐怖や支配される事の柔軟性を其処に擦り込んでいく為だけのものです

しかしそれらも私たちひとりひとりが自覚した自己をきちんと持っているとき
なんら其処に恐怖するものでは無いと云う事です

それは何かを打開しなければならない壁を感じる事も無いまま
すべてに信頼の置ける社会を気づき上げる為に何一つ自身の中に競いあうことなく
しかし乍ら慈しみ励まし合いながら
喜びの中で共に何かを達成していくと云う事が出来るだろうと考えます

それには当然ポジティヴなバランスを自身に常に意識していかねばなら無い事は事実です

もしあなたがそれを実践する時
それ迄築き上げたパーソナリティーの崩壊を怖れてしまうことも
それはアイデンティティーといった国家へ対する愛着も
すべてが失われていくと感じていく筈でしょう

しかし実際の所あなたの中で確実に「愛」と云うものが真実である限り
そのようなことはありえません

さてもうひとりのあなたへ

「日本は結局変わらない」といった感想の類いは
結局自分自身に向けられて放っている言葉そのものであるということに気付いてほしいのです
そのような自身の置かれた「状況」へ対する意味付けが
その人をして自身を含む世界を作り上げているのです
「日本は変わらない」では何を変えれば良いのでしょうか?
「日本は変わらない」故に同様に変わらないものは何であるというのでしょうか?
自ら与えた意味付けに意識を依っていくことで
自身の環境を変える力を与えても居るし奪ってもいるのです

あなたが意味付けを明るいものに替えた時
それはすべての環境がそこで変わっているのだと言えます
そこに明るい力が流れて来るのを感じると思います

すべては変わる必要などありません
「変える必要性」を訴えつづける間はいつまでもそうして変わらず
其処に相対的に「何か変わらなければならない状況」ただ産み出していくに過ぎないのです

さて捨てられないと考える事は其処に怖れがあるからですが
捨てられない限り新しい物事への捉え方は流入してはきません

よって世代が変わると一気に物事の様相が変わり始めます
今はそのような時期である筈です

今後私の都合で現れるように致します
どうぞご理解ください
けして私はあなたに執拗に付きまとう存在でもなんでもありません

あなたが私に何か望むときは素直なあなたでどうぞ居られますように


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