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(回答先: ドクター中松さん 藤原五攝家の爲の大東亞戰爭を再開する積もりですか? 投稿者 不動明 日時 2011 年 11 月 18 日 02:53:10)
あんた等こそ天皇と云ふ存在を尤も敬つてゐない存在、
尤も不敬な存在ですよ。
じっさい、「天皇」は、藤原氏の権勢を保持するための
道具であった時代が、長く続いたのだ。
ちなみに、なぜ権力を持たない「天皇」が
政争の道具になり得たかといえば、八世紀に整備された
律令という法制度の元で、「天皇」から
超法規的な命令を引き出すことによって
(正確には引き出すのではなく、言わせるのだが)、
政敵を倒すことができたからである。
すなわち藤原氏にとって、法治国家にありながら、
法を曲解、無視することのできる魔法が、
「天皇」の存在だったわけである。
現代日本の閏閥(けいばつ)を牛耳る藤原氏
『日本書紀』は、蘇我入鹿こそが、天皇家をないがしろにした、という。しかし、中
臣鎌足が天皇家のために身を粉にしたかというと、大きな疑問符がつきまとう。
藤原氏は中臣鎌足以来、つねに日本の頂点に君臨しつづけた。しかもそれは、一貫
して、「天皇家のため」ではなく、自家の繁栄のためだったように思えてならない。
それは、この一族の生まれつきの習性であったようにも思えるのだ。
その習性、伝統は、古代から近代、現代にいたっても、まったく変わっていないの
である。そして、藤原氏にとって「天皇」とは、自家の繁栄を継続するための道具に
すぎなかったのではなかったか。
じっさい、現代に至っても、藤原氏は「天皇にもっとも近い一族」という立場を利
用し、目に見えない閨閥を作り上げてしまっているのである。
そこでこのあたりの事情を、現代史に焦点を移してすこし説明しよう。
太平洋戦争の戦前戦中、三度総理大臣の座に就いた近衞文麿は、昭和天皇に政務を
上奏するとき、椅子に座り、足を組んだままで、涼しい顔をしていたという。
もちろん周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買ったが、このような不謹慎が許されたのにはわけがある。
近衞氏が藤原五摂家の筆頭だったからにほかならない。
五摂家は七世紀の大物政治家・藤原不比等の四人の男子、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、
麻呂(まろ)のなかの、房前の末裔、藤原北家(ほっけ)が五つの家に別れ(近衞、九条、二条、一条、
鷹司[たかつかさ])、平安時代以来、明治にいたるまで、代々摂政と関白を輩出する一族として、
貴族社会の頂点に君臨してきたのである。
これは余談ながら、藤原五摂家の末裔は、現代社会にも、大きな影響力をもってい
る。
例えば、近衞文麿は戦時中、陸軍の暴走をおさえようと東条英機暗殺計画を練り、
これを「大化改新」になぞらえ、悦に入っていたという。計画は未遂に終わったが、
藤原の末裔であることを、文麿はつよく意識していたわけである。
この近衞文麿の祖父・忠熙(ただひろ)は左大臣として朝廷の頂点にあって公武合体を推進した
人物だった。この忠熙の夫人は島津藩主の娘で、さらに忠煕の子・篤麿(あつまろ)の夫人は加賀
藩前田家の女人と、近衞家は当時の有力氏族との間に、さかんに門閥(もんばつ)を形成していた
のである。
文麿の夫人は豊後佐伯(ぶんごさいき)藩主家の千代子で、千代子との間の二女・温子(よしこ)が細川護貞(もりさだ)に
嫁いだ。細川は、熊本藩主の流れであり、細川ガラシャで名高い。護貞と温子の間に
生まれた子が、元首相・細川護熙(もりひろ)で、さらにその弟の護輝(もりてる)が、近衞家に養子に入って
いる。
このように、近衞家の織りなした閨閥は、旧華族を中心にくり広げられ、華麗なる
一族を形成する。
藤原氏の末裔氏族の中で、近衞家以上に幅広い閨閥を作り上げたのは、西園寺(さいおんじ)家で
ある。
西園寺家は五摂家の一ランク下の清華(せいか)家に当たる。それにもかかわらず西園寺家が
名を馳せたのは、公望(きんもち)の活躍に負うところが大きい。
西園寺公望は勤王公卿(くぎょう)として華々しくデビューし、その後自由民権運動を展開、さ
らには、最後の元老として名高く、軍部の暴走、ファシズム化に最後まで抵抗した人
物として知られる。
西園寺公望には一人娘の新がいて、毛利家の八郎が婿入りした。
二人の間に六人の子が生まれ、西園寺家の閨閥を形づくっていくこととなる。
代表的なのは二女春子が住友財閥家に嫁いだもので、それ以前、住友家は徳大寺(とくだいじ)家
とも姻戚関係を結んでおり、藤原の血をつよく引き入れたのである。この住友財閥家
と西園寺の間の子たちが広く閨閥を形成していき、
西園寺家はまさに、我が国の代表的支配階層の家系を横断的に綱羅している(『門
閥』佐藤朝泰 立風書房)
というほどの、強固な網の目を、現代社会に張り巡らしていったのである。
昭和天皇の前で足を組んだ近衞文麿
それにしても、藤原氏という存在は、いかにして古代から現代にいたるまで、日本
のエスタブリッシュメントの地位を占めつづけてこられたのであろう。
彼らの「権威・権力」は、天皇に女(むすめ)を入れ、皇后とすることによって保たれてきた
ものだ。奈良時代よりこのかた、皇后のほとんどは藤原系に牛耳られ、天皇家の血は、
藤原で塗りつぶされたといっても過言ではないほどなのである。したがって、近衞文
麿の胸中に、「天皇」は「藤原の子」に過ぎないという意識がなかったといえば嘘に
なろう。
じっさい、「天皇」は、藤原氏の権勢を保持するための道具であった時代が、長く
続いたのだ。
ちなみに、なぜ権力を持たない「天皇」が政争の道具になり得たかといえば、八世
紀に整備された律令という法制度の元で、「天皇」から超法規的な命令を引き出すこ
とによって(正確には引き出すのではなく、言わせるのだが)、政敵を倒すことがで
きたからである。
すなわち藤原氏にとって、法治国家にありながら、法を曲解、無視することのでき
る魔法が、「天皇」の存在だったわけである。
その魔法の杖を支配するための手段が、「姻戚」である。
「この世をば我が世とそ思ふ望月の……」と詠った道長は、娘の三人を皇后にするこ
とに成功している。皇后の生んだ子がもっとも有力な皇位継承候補になるのであって、
その皇子たちを、藤原は「我が子」として飼い慣らしていったのである。そして、藤
原氏の意に背く天皇は強引に退位させられた。こうしておけば、藤原権力は安泰であ
る。
このように、奈良時代から平安時代にかけて、藤原氏は律令(法律)と天皇を支配
することに奔走した。律令を自家の都合のいいように解釈し、それでもだめなら、
「天皇の命令」という魔法を用意し、朝堂を独占したのである。
近衛文麿は、こういう歴史を背負っていたからこそ、昭和天皇の前で足を組んだの
であろう。
関裕二氏著「藤原氏の正体」
第一章「積善の藤家」の謎
現代日本の閏閥(けいばつ)を牛耳る藤原氏
昭和天皇の前で足を組んだ近衞文麿
五十六頁據り
NHKテレビで西園寺が「あの戰爭は俺達がやつたんだ」とニヤニヤし乍ら語つてゐた事は、今も腦裏から離れない
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/365.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 2 月 27 日 16:28:05: yX4.ILg8Nhnko
イルミナテイーカードの一枚にある「Japanカード」 眞珠灣奇襲攻撃 あんたらのやらうとしてゐる事は解つてゐる
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/388.html
投稿者 不動明 日時 2010 年 11 月 13 日 03:05:17: yX4.ILg8Nhnko
あんたらが自作自演核テロと尖閣諸島周邊海域での偶發を裝つた武力衝突、第二の盧溝橋事件を再び企ててゐる事は既にバレてゐる
http://www.asyura2.com/10/warb6/msg/741.html
投稿者 不動明 日時 2010 年 12 月 03 日 01:23:40: yX4.ILg8Nhnko
中共の核武裝に全面協力したのは佛魔百濟勢力藤原五攝家だつた
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/363.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 2 月 27 日 02:05:04: yX4.ILg8Nhnko
藤原五攝家に據る日本核武裝論中共側最大の功勞者 江沢民の知られざる?事実・経歴 出身大学、実は…… [サーチナ]
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/753.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 7 月 12 日 01:58:09: yX4.ILg8Nhnko
「白村江の戰い」と云ふ古代に起きた敗戰革命 其れを謀つた百濟王子豊璋(中臣鎌足)と中大兄皇子(天智天皇)と云ふ佛魔
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/847.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 8 月 12 日 06:14:52: yX4.ILg8Nhnko
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