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足ることを知る
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人は生きるために財を欲し、それを奪い合って争う。もともとは衆に優れた能力を示せた者がその闘いを制したが、時代が進み社会において公正な勝負の場が失われるに伴い、卑怯さの程度において勝った者がより多くの財を獲得するようになった。それでも人は足る事を知る生きものだから、ある程度豊かになればそれ以上を欲しなくなるものだ。しかしイルミーは違う。彼等は「割れ鍋」、つまり永遠に充足を知らない精神の貧民であって、いくら財を得ても満たされるということがない。糖尿病患者が不必要に水を欲する如く、イルミーは力の限り他から奪おうとし続けるので、社会において既に満たされている者たちも彼等から身を守るために財はいくらあっても足りない。よって世は修羅の巷となる。イルミーは欲の対象を永遠に欲し続ける病的な精神状態を創出する古代から続いてきたカルトである。どんな生き物であれ欲はあり、その欲を満たすために力を尽くして闘うものだが、イルミーは生物界における健全な勝者とは大きく異なる。それは彼等が「勇気」を持たないという点においてだ。人間は複雑な社会を形成したので、他の動物においては当然敗北していたはずの者たちが見かけ上生存競争に勝利してあだ花が咲いたようになってしまった。生物としての健全な勝者ならば未来に繋がって行くはずであるが、あだ花は所詮亡びの種に過ぎない。もし人類全体が出生率2前後の安定した調和を長期間維持出来るなら、いずれ誰もが愛を育める社会秩序を形成できることだろう。しかしあだ花を抱えて行くならば、彼らは金の力で愛なく増え続けるので、愛を欲する人々は追いやられ消えていくことになろう。勇気こそ何よりもまず人に問われる資質であり、勇気の無いものはそもそも正しい判断が出来ない。次に判断が正しく出来たとしても、その結果を貫ける意志の強さも必要である。無限の欲を持つことは勇気がなく気が弱いことの反映であり、勇気があり意思が強い者だけが「足ることを知る」精神状態に達しうる。人類全体が調和を達成できるかどうかは、そのような人間がどれくらい存在しうるかで決まる。将来愛のある社会を構築することを望む世の親たちは、まず子供に勇気を教えてあげねばならない。<0568>
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