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負けん気には2通り
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テレビで有名人が「人間こんちきしょうの気持ちのない奴は駄目だ」と言っているのを耳にしたことがないだろうか?僕は子供の頃からライバル心はあってもこんちきしょうという気持ちをあまり持ったことがない。ぽーっとした性格なので負けてもあまり悔しいと思わないんだ。ただ自分がだらしなかったり完全でなかったりした時の嫌悪感は強く、未熟な自分に我慢が出来ないから努力をする。ある程度以上努力すると目が開くというか視界が開けてきて爽快な気持ちがし始めるものだが、僕は子供の頃受験勉強でその味を知り、その後どんなことでも一定レベルに達するまで努力するようになった。山登りでも二千メートルの稜線に達すると急に展望が開けて爽快な気分がし、重い荷を背負って歩くのもさほど苦痛でなくなる。それに近い。さて世の中にはどうしても他人に勝ちたいという気持ちを強く持つ人々がいる。自分より優れていると思われる相手を、尊敬するのではなく憎み、憎しみの力をエネルギーにして努力する人々がいる。僕はこの心の持ち方を一種のサタニズムと考えている。そういう人は自分自身のレベルというものにあまり関心がなく、とにかく勝つことにこだわる。彼らにとって「勝つ」とは相手が負けたと思うかもしくは自分が勝ったと世間から認められる体裁を手にするということである。こういう人をイルミーは一番欲している。何故かと言えば、自分自身のレベルに関心のない、つまり本質的なプライドを持っていない人は、どんな卑怯なことをしても勝てさえすればそれでいいと考えるからだ。コンプレックスが強すぎるが故に自分に自信を持てず、とにかく勝たない限りコンプレックスが刺激されて苦しいので相手を憎み続けるような人こそ、イルミーが差し伸べた手を一番有り難がり、勝つためには魂も差し出してくれる人だからだ。僕は社会が、こんちきしょうの気持ちを手放しで賞賛する人々を放任している状況を良くないと思うし、卑怯さも自分の力の一部と見做すが故に神の面前において自分が真に優れているかどうかに関心のない人々を野蛮であると思う。自分の限界を打ち破って努力できたらそれこそ真の勝利であって、それは他人を介して証明する必要はなく、稜線から見るような景色が眼前に広がっただけで証明できるものだ。<0558>
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