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最も価値ある言葉
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16(口語訳)
改めて、この御言葉を読むとき、何と美しい価値ある言葉だろうかと驚嘆します。ここにこそ聖書の全ての真理が凝縮して書かれているのです。ここに口語訳を取り上げたのは新改訳の場合、冒頭に「実に」と余計な言葉が入っているからです。何だか、翻訳者の人柄が滲んでいて、聖書そのものの味わいを殺しているようで私は好みません。
英語の聖書からこの御言葉を考えて見ましょう。
For God so loved the world that He gave His only begotten Son, that whoever believes in Him should not perish but have everlasting life. KJV
日本語の場合、「神は、愛してくださった」という間に「どのように」「どれほど」という説明が入りますが、英語の場合、主語の次に動詞が来ますから「神は愛してくださった」となります。英語の場合、まずFor〜so〜that「神は愛してくださった故に」「ひとり子を下さった」となるので、日本語とはちょっとニューアンスが違います。そしてよりダイレクトですね。
神様は愛してくださったのです、この世を。この言葉だけで、あの天地創造から今に至るまでの神様の御心が偲(しの)ばれるのです。神様は愛によってこの世界を創造され、アダムとエバを造り、人間が増え広がっていくのを楽しまれました。しかし、御心とは裏腹に、人間は罪に沈んで行きました。およそ罪とか悪とは縁の無い神様にとって、それはどんなに心痛むことだったでしょう。人間はどんどん神様から離れていきました。それは不幸せで暗闇の道だったのですが、帰る道も知らないままに突き進んで行ったのです。もう取り返す手段も無くなりました。神と人の間には越えることのできない溝、決定的な断絶が生まれました。
その溝を越える橋、断絶を解消する手段はただ一つしかありませんでした。それは御子が死んで罪の贖いをすることでした。He gave His only begotten Sonとありますが、このgave「与えた」という言葉は、あの十字架を意味しています。何という激しい愛であることか。(begottenというのはbegetの過去分詞形で「もうけた、生んだ、生じた」という意味です。Abraham begot Isaac. アブラハムの子にイサクができた.。)
神が御自分の死をもって人間を救う決断をされたのです! どこにそんな神がいるでしょうか。他に方法は無かったのでしょうか。
こんな逸話があります。イエスさまが十字架に掛かるために人となってこの世に来られようとしたとき、天使長たちはイエス様に「止めて下さい、私たちが行きますから。」と言ったそうです。しかし、イエス様は「止めないでくれ。他に方法は無いのだよ。」と言われたというのです。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:4
愛するが故に、命を懸けて救うとされたのです。
また、 begotten Son ですが、御子は神から生まれた方、神と同質の方です。
御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
コロサイ1:15
そして、天地創造のとき、現場監督の働きをされたのです。
わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、箴言8:30
whoever believes in Him should not perish but have
everlasting life
御子を信じる者は、誰でも perish 滅びることなく everlasting 永遠の命を持ちます。 perish とは、失われる、腐る、死ぬ、消滅する、枯れるなどの意味です。
骨肉種で死んだある少年のお母さんが私に言った言葉を忘れることが出来ません。「死んで、無くなってしまうなんて、いやです。耐えられません」。私は神と共に住む永遠の命について語りましたが、その方は判ったかどうか。
御子を信じる者には everlasting 不朽の、永遠の、永久の命が与えられます。何の功績も、努力も、必要ありません。その命は、人間の努力で獲得できるほどささやかなものではないのです。
私の年になるとかなり頻繁に友人や親族の死に出会います。今までいた人が居なくなると、そこにぽっかりと穴が開いてしまったような気持ちになります。確かに人は死ぬのだなあと実感します。どんなに富んでも権力を持っても、いつか必ず全ての人は居なくなるのです。その先に二つの道があります。一つは失われる、腐る、死ぬ、消滅する道であり、もう一つは不朽の、永遠の、永久の命の道です。どちらがいいかは聞くまでもないことなのに、ほとんどの人がこのことを知らないし、知ろうともしないのは驚きです。
神の御子が命を懸けて造って下さったこの命の道を全人類が感謝を持って受け取るべきなのに、ある者はあなどり、ある者はあざ笑い、空しい心のままで滅びの道に行くのは悲しい限りです。
そればかりか、生きているうちに彼らは空しい偶像を熱心に拝むのです。
彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ローマ1:21:〜23
日本には大きな神社や仏閣があります。荘厳な伽藍や社のただずまいに、人々は「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙あふるる」と感激します。しかし、その拝む本体はへびであったり、人の作った仏像であったりするだけです。
一方でエルサレムのゴルゴタの丘の前に立てられた十字架が、天地を創造された方が愛によって命を捧げられ、私たちの罪を全く拭い取ってくださるということには一向に目を向けません。キリスト教は教会の建物によって救われるわけではありません。
ヨーロッパに行くと仏教のように大きなカテドラルがあってそれで人を驚かせるような舞台装置があります。どこでも同じだなあと思います。しかし、本当のキリスト教は“言葉”によって救われるのです。教会は集まる場所に過ぎません。
聖書の御言葉こそ人を救うのです。中でもこのヨハネ3章16節は世界で最も価値ある言葉なのです。>>
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