http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/120.html
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ご想像の通り、元のアイデアはイルミナの銀行家、英国東インド会社のジャーミー・ベントハムです。
http://www.henrymakow.com/french_revolutions_depopulatio.html
マスゴミが垂れ流す「表」の歴史は嘘です。
毎年7月14日に記念祭が行われますが、元はテロのプロがパリ市民に「王の軍隊が攻めてくるぞ!」とデマを広めたのがきっかけです。原始マルクス共産主義のプログラムだったのです。
200年後に行われた、ポル・ポトによる大虐殺も全く同じパターンでした。
革命指導者達が王族の首をはねた後、虐殺が始まりました。1793年の革命集会でリーダーの一人ジーン・ボン・セントアンドレは当時のフランスの人口2千5百万人を半分に削減する、と宣言しました。過激派のマキシミリアン・ル―ブスピエーに至っては2千3百万人削減すると豪語。
バカげた話しでしょ?国力の土台は国民の労働力・生産力なのだから。
人口削減策はセントアンドレとかル―ブスピエーのボケなす・ゴロツキから出てくるアイデアではなかったのです。
東インド会社は、1770年に植民地・ベンガルで人口削減実験をしています(飢餓で1千万人死亡)。
革命リーダー達の演説を書いて翻訳したのは英国諜報機関MI6です。東インド会社から革命指導者に支払われた資金の領収書が大英博物館に残っています。
それ以外にどうやってゴロツキのル―ブスピエー(当時35歳)とかセントジャスト(27歳)がフランスの指揮をとり、腐敗させられたのでしょう?なぜポル・ポトみたいなのがカンボジアでジェノサイドを引き起こせたのでしょう?
スターリンのように、ル―ブスピエーは自分の側近を次々とギロチン台へと送ったのです。
幸運にも、フランスでの犠牲者は2百万程度で収まりました。意味のない殺戮に嫌気がさした革命集会がリーダー達を1794年7月に投獄したのです。リーダー達も結局ギロチン台送りでした。
ポル・ポトのように、一般市民の眼の届かない田舎で殺戮していたら、話は違っていたかも知れません。
恐怖政治が終結したのは、パリ市民に良心があったためと言われます。
前リーダー層を一掃した新リーダー層は市民に温かく迎え入れられました。全ての罪は前リーダー層に被ってもらうのがいい、と判断したのです。自分達が権力に居座れるなら、人口削減計画などどうでもよかったのです。
日本人絶滅大作戦
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/868.html
「菅直人政権が退陣しても、大連合政権の議論の中から、<鰻(ウナギ)は出てこない、出てきて泥鰌(ドジョウ)程度だ。それを、長生きしたオオサンショウウオが出てきたのなら、それは、戦争末期の鈴木貫太郎内閣と同じとなる。」
2011年6月8日、榎 本 東 州 記
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