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http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010120402000025.html
『贖罪の医』山崎宏さん死去 戦後、中国に残留
2010年12月4日 朝刊
【北京=朝田憲祐】日中戦争後も「贖罪(しょくざい)のため」と中国にとどまり、六十年近くにわたり中国人を診療してきた医師の山崎宏さんが一日、老衰のため百二歳で山東省済南市の自宅で死去した。遺体は「死んでからも人民のために奉仕したい」との遺言通り、地元の医療施設に献体された。
盧溝橋事件直後の一九三七年に出身の岡山県から中国へ。軍事物資の保管担当として従軍するも「侵略戦争についていけない」と退職し、済南市に残った。四四年に現地召集され河南省で終戦を迎えると、再び、済南に向かった。
約千キロの道のり。身一つ、空腹のまま歩き続ける「敵国の人間」に、中国人は彼らにも貴重だった食べ物を分けてくれた。何度も目が潤み、中国で罪を償う決心を固めた。中国人女性と結婚し、五二年に医師になった。
古い集合住宅の一角にある診療所で、お年寄りや子どもの胸に聴診器を当て続けた。貧しい患者からの治療費は拒んだ。「山先生」と敬慕され、一族四世代にわたり頼ってきた患者も。耳は遠くなったが亡くなる一週間前まで現役を通した。
日中国交回復後の七六年、日本に戻ると実家の仏壇には遺骨代わりの石三個と位牌(いはい)が供えられ、戦死扱いされていた。滞在中、知人から月給三十万円の仕事を紹介されたが断り、済南の病院に寄付する最新の心電図計などを買い、中国に戻った。
日中友好の橋渡しにも尽力。大学などで日本語をボランティアで教えた。四川大地震の際には三千元(約三万八千円)を寄付した。今年八月には、両国の相互理解促進に貢献したとして日本の外務大臣表彰を受けた。
一日昼、家でトイレに立った後に容体が急変。救急隊員が駆けつける前に、ベッドで穏やかに息を引き取った。娘の雍蘊(よううん)さん(64)は、山崎さんと血のつながりはないが「父は私の誇り。尊敬できる人でした」。線香をたきながら、在りし日の写真を家族と眺め、静かに冥福を祈っている。
山崎さんの訃報は、国営中央テレビなど中国メディアも報道。インターネット上では「山崎さんのような日本人がいたことに感動した。中国人が憎むべきは、日本ではなく、罪悪だ」といった書き込みが寄せられている。
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