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現在の戦争的な中東動乱を招いているのは、背景としての宗教的信仰である。
ここでは、その戦争的動乱の精神的背景の問題を探ってみる。
聖書世界は「アダム・イブの失楽園」を起点とする。
そして、「終末の到来」を確実な経過として、
「救済」の実現・到来を説いていると言っても過言ではない。
ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラムは同様の事を語ってきているのである。
夫々の語り方に少しの違いがあるに過ぎない。
概略的に捉えれば、「アダム・イブが犯した過ち」により間違った生活と苦難を強いられてきたアダム・イブの子孫達が終末の到来を経験して救済を得て、やっとエデンの園に象徴される平和安定の生活を迎える事が出来るという事が説かれていると捉える事が出来る。
救済を迎える前の、その前の終末の時期又はその直前の時期と考える現在において、信仰熱心な又は信仰厚きこれら三教の信者達は夫々が熱心に励む事になる。
旧約・新約聖書とクルアーンは実によく出来ていて、これは人知のものとは言いがたいのであるが、
「原罪」と「救済」の間に、「終末の到来」を置いているのである。
つまり、罪あるものは終末の時に滅びる者達と救われる者達に選別されるとされているのであるが、その終末とは混乱と戦いを伴うものである事とされていると解釈しえるのだ。
それで、信仰者達は夫々の信仰のあり方をもって終末に臨む事になる。
これはどういうことかと言えば、アダム・イブの犯した原罪ゆえの心の歪みの程度の差により終末の時期に夫々の信仰心をもって臨むという事だ。
具体的には金融資本家は利子のあくなき探求としての信仰を示し、政治権力者は政治秩序を乱すものを異教徒と看做し、政争と戦争の勝利の上に神からの信仰の正統性を得られると信じ、政争と戦争を信仰の証として遂行するのである。
上の事を、「終末論」は「現実に起きる承認されるべきもの」として説いている訳であり、これは言い換えれば、清らかな者達も汚れきった者達も一緒に総て「坩堝」に放り込んで引っ掻き回すと言う事なのである。
ここにおいて、混乱の中から悪は自家中毒により生命力を失って滅び、善は旺盛な自己回復力により生き延び、「救済」を得るとの結果を迎える。
この様に考えれば、現在の中東動乱においてカダフィー、東部民衆抵抗勢力、アルカイダ、イスラエル、ヒラリーやオバマの米国政治中枢、ユダヤ金融資本、欧州キリスト教徒金融資本家達、彼等すべてが三教の教義に従って信仰熱心の上に立ち、終末に対し積極的に参加していると言えるだろう。
何しろ、終末を経て救済を迎えられるのであるから熱心になるのは信仰者としては当たり前の事である。
「サンデー毎日」の3月6日号にムハンマドの誕生を祝う式典に参加したカダフィーの写真を載せていた。手を組んで敬虔な表情をしていた。彼の信仰心に偽りはなかろう。
クルアーンはほぼ全編に亘って、必ず終末が到来する事を説き、それを迎える心の準備を整える事を強いるように説いている。
カダフィーと同ページに釈放された政治犯達と関係者達の姿も載せていたが彼らも敬虔なイスラムであろう。
表題に挙げた人物達や金融資本家達のようにまたそこにビンラディンを含めて戦いに臨む者達のように総ての人が戦いと混乱に参加する必要はない。
クルアーンを含めての聖書世界の著者達は闘争と混乱を勧める目的を以て筆を進めたわけではない。
穏やかな平和的人物にはその姿勢を以て終末を迎えるようにして貰いたく、そのような人が多数を占める事を心の中では望んでいたであろう。
しかし、人知を超えた性格を付与されたクルアーンを含めての聖書世界は汚れきった者達も清らかな者達もアダム・イブの子孫達は総ての者達が終末を迎えるように、夫々の信仰の立場から(不信仰も含めて)、漏れる事なく終末に参加仕切る様に仕組まれているのである。
アダム・イブの血縁的な子孫ではなくとも信仰思想上の縁者も同様の運命に招かれる。
我々日本人は、一部の者達には血縁的関係があるであろうが大多数はアダム・イブの原罪とは無関係の立場にある。
しかし、世界的な関係から彼らの終末に巻き込まれざるを得ないのであり、付き合わざるを得ない。付き合うのであれば、積極的に付き合いたいものである。その様に考えてきている。
旧約聖書と新約聖書では終末と救済について厳格に高みから語られることが多いが、
クルアーンではこれらについて親しみやすく説いているとの印象を受けるのは私だけであろうか。
クルアーンは「ター・ハー章」においてアダムへの批判を書いている。
『さて我ら(アッラー)はずっと前にもアーダム(アダム)と契約を取り結んだことがある。しかし、彼は忘れてしまった。どうもあの男にはしっかりしたところがなかった。』
(井筒俊彦訳)
これを見れば判るように、クルアーンを含む聖書世界はアダムへの批判すら行っているのが本当のところであり(はっきり言っているのはクルアーンだけであるようだが)、実は原罪からの脱却つまり救済を説いているのである。
その原罪とは、アダム・イブが犯した政(祭)事の間違いであり、その事をエデンの園の中心に立つ樹の実を食べた事として象徴的に創世記などは伝えていると考える。
神の守備範囲に侵入し、神と同様の事を行えば政治的経済的繁栄を永久のものとすることが出来ると思い違いしたのであろう。思い違いは間違った政事をなすという横道にそれて政治経済の混乱を招き、文明の崩壊を招いたという事であろう。
これは現在の核兵器や遺伝子組み換え技術などを生み出したアダム・イブの子孫らしき分析知性に偏った技術のあり方に同様の姿を再来させている。
安定を考えない技術も政治も破綻にいたる。これは現在進行形だ。
知性や生命の樹を求めたとは、永遠の命を求めて秦の始皇帝が徐福を日本に派遣した話に似ている。
参考投稿↓
何かオカシイ「前原辞任」劇 安東次郎 (地球座) …簡単。使い捨てにした。ムバラク・カダフィー同様。時代の変化に対応。
http://www.asyura2.com/11/senkyo109/msg/477.html
投稿者 新世紀人 日時 2011 年 3 月 08 日 03:42:22: uj2zhYZWUUp16
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