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わざと負けた日本!? [日記] [編集]
ヤコブ・モルガンというユダヤ丸出しの名前がどうも気になって仕方が無かったので検索してみました。
どうも素性を知られたくない日本人のペンネームみたいですね
しかし凄い内容の本をたくさん出されたようで
なるほど!という主張が次々と歴史の謎を解いていく思いです
私は趣味でサバイバルゲームをやっている関係で友達には軍事史に詳しい人間が多くおりますが
彼らは一様に首を傾げます。
「なぜあそこ○○で無駄に負けるような戦いをしたのか!?」
様々な戦局で理解に苦しむような命令が下り、日本人兵士は命を落としていきました
あまりにも無謀な指令の数々をどう理解すればよいのか
これは・・・・あり得る話だ!
[286] 帝国海軍はわざと太平洋戦争でアメリカを勝たせた論の登場。
『山本五十六は生きていた』という本について 投稿者:アルルの男・ヒロシ 投稿日:2006/08/12(Sat) 16:29:57
気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板より転載
アルルです。
最近、「山本五十六は生きていた」(第一出版社)という本を読んだ。
この本の著者は、ヤコブ・モルガンという「米国の作家」で、翻訳が忍野昭太郎という人になっている。しかし、実際のところ、これは日本人が書いた本だと思う。作者も訳者も実際には同一の日本人であろうと思う。
海外の著者で、日本の歴史物を書いた人は、『ヤマト・ダイナスティ』や『ゴールド・ウォリアーズ』という明治・大正・昭和史を題材にした日本の皇室の内幕ものをを書いたスタンレー・シーグレイブなどいないわけではないが、この本はどうもそういうモノとは違って、日本人が書いた者を翻訳書として出しているだけだと思う。
この本は、そのように、だれが書いたのか判らないという点で大きなマイナス面を持っているが、内容は非常に興味深いモノであった。
一言でこの本の主張を要約すると
米による太平洋戦争は、日本国内にいた、海軍の山本五十六、米内光政、井上成美、陸軍参謀のの辻政信、瀬島龍三、服部卓四郎らがアメリカの支配に置かせるために、わざと拙劣な戦い方をした戦争であった」
ということになる。
山本五十六が「米英の手先」ではなかったか、という議論は良く訊いており、その根拠として、戦後、フリーメーソンに買収された海軍の士官の高級倶楽部「水交社(すいこうしゃ)」に山本や米内が頻繁に出入りしていた事実が挙げられている。米内内閣の組閣も対米開戦の真珠湾作戦の採用もこの倶楽部で決定されたと言われている。
この『山本五十六は生きていた』では、そのような戦前に行われた謀略の視点ではなく、実際の戦術問題を取りあげて「日本がどのようにして太平洋戦争にわざと敗北したのか」を説明する。
日本軍がアメリカをわざと勝たせたという疑問を抱かせるのは、日本の連合艦隊が、アメリカ海軍を撃滅するチャンスを何度もみすみす逃しているからである。真珠湾攻撃でも、山口多聞少将が、「第3次攻撃隊」を出すように強く主張したにも拘わらず、上官の山本五十六、南雲忠一のような司令長官クラスの人物達がその提案を受け入れなかった。ハワイの空軍基地に対する徹底的な攻撃をおこなわかったことで、アメリカの戦局に有利に働いたのである。
その他、井上成美第4艦隊司令長官が、昭和17年5月の珊瑚海会戦で、米空母「ヨークタウン」を撃沈することなく、攻撃を中止させた件、あるいは、いわゆる「海軍乙事件」として知られるものがある。
海軍乙事件とは、山本五十六が、将兵視察の際にブーゲンビル上空で米航空隊によって撃墜された事件を「海軍甲事件」というが、これに続く、連合艦隊司令長官戦死事件という意味だろう。
山本五十六亡き後の連合艦隊司令長官・古賀峯一らが載った航空隊がフィリピンのダバオに向かう途中に消息を絶ち、不時着した際に、古賀に同道していた、福留繁中将が抱えていた、のちの「マリアナ沖海戦」「レイテ海戦」の原案となる作戦資料が現地の原住民によって奪われた後、なぜか米軍に手に渡った。この文書のコピーはどうもアメリカの公文書館に保存されているらしい。(『帝国海軍が日本を滅亡させた』佐藤晃著の記述による)
そして、最後にレイテ海戦における、栗田艦隊の「転進」事件がある。この事件は、栗田健男中将がフィリピンのレイテ湾に逃げ込んだ米艦隊を深追いせずに追撃をやめたとされる事件である。
このいずれもその後の米軍の戦闘に有利に働いており、立役者となるのが、山本五十六以下海軍の「条約派」(親英米派)と言われた人物とそれに共鳴していたひとたちである。
そして、山本五十六や米内光政は、日独伊三国同盟に反対し、日米開戦にも徹底した反対者であり、彼らは水交社での日米海軍サークルを作り上げていた。
となれば、彼らは自らの合理的選択としてどのように行動するだろうか。
「日米開戦をなんとしてでも防ぐ(ただしそうだからといって彼らが戦後民主主義的な意味での絶対平和主義者ではない)」
しかし、どうも、アメリカのルーズベルト大統領は日米開戦を決意したという情報が伝わってきており、日本の陸軍も「それをやむなし」と考えているらしい、と彼らに伝わってきたらどうするか。
山本は「2,3年は暴れ回って見せます」と言っていたらしい。しかし、実際には暴れ回るというよりは無惨に負けて見せたという動き方をしている。
私は、こう考える。
「山本・米内は徹底した親英米派であるがゆえに、日本とアメリカを闘わせてアメリカを負けさせるわけにはいかない」という信念をもっていたと。これが小室直樹先生の言う山本五十六の「必敗の信念」の正体である。
また、仮に三国同盟をうまく機能させて、独伊と連携し、開戦当初に真珠湾ではなく英国を叩き、印度方面に進軍させることは、太平洋を守る彼ら「海軍サークル」の権力の低下にも繋がる。終始、親英米派であった、皇室内の重臣達の意向にも反する。
三国同盟を推進した陸軍がドイツ・イタリアと繋がっているなら、海軍はアメリカ・英国と繋がっていた。陸パワーと海パワーとの勢力が日本国内で分裂していたのである。
しかも、そもそも昭和天皇や皇室の重臣たちは、あくまで親英米派であった。これは、昭和天皇の母上である貞明皇后がグルー駐日大使夫人との交流をしていたこと、昭和天皇の兄弟の秩父宮妃の父親が駐英大使の経験もある松平恒雄の娘であり、秩父宮勢津子さまと秩父宮の恋のキューピッドになったのが親英米派の大物であった、牧野伸顕卿だったことからも判るのである。
昭和天皇が、2/26事件を起こした、天皇崇敬の思想を持つ、皇道派の真崎甚三郎らの青年将校を嫌っていたことは非常によく知られている事実である。そもそも皇室は親英米派なのであり、アメリカ・英国と巧くやっていくことで、皇室の存在を長らえさせ、ひいては日本という国の国際社会でのポジションを確保しようという戦略だったはずである。
その意図をくみ取った、米内・山本たちは、戦争になるやいなや「わざと負ける戦略」を取ったのである。山本の上官であった米内光政は戦時中は、山本五十六の国葬や、重臣会議に参加する他は、静かになりを潜めていた。
そして、戦後、マッカーサーの副官であったフェラーズ准将と内通して、戦争責任を東条英機らに押しつける裏工作を行ったのも米内である。米内の親英米派としての大仕事はここまでであり、彼は1959年に死ぬ。(井上成美はその後も長く生きた)
戦争が終わって暫く、帝国海軍は消えたことになっているが、人脈的には生き残り、やがて海上自衛隊として生まれ変わる。米内・山本の理想としての「新しい日本海軍」が誕生した、ということなのだろう。
ここで私は、吉田茂が大きく裏切ったのではないかと思う。憲法9条を受け入れて、「日本は戦争ができない親英米国家」になった。この戦争ができない親英米国家路線は皇室の承諾に基づいて行われていただろう。
私は今のところそう考える。
しかし、山本・井上の「わざと負ける」戦略は必然的に多くの日本の罪もない軍人の命を奪った。二人にしてみれば、「それが日本が親英米という正しい路に目覚めるためのコストである」という考えなのかも知れないが、このコストを正当化することは到底出来ない。
あの戦争を正しく評価するのは至難の業であり、タブーがまだまだ多く存在すると云わざるを得ないのである。
<転載終了>
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