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戦争の原因は金か、宗教か
markn(May 9, 2009 7:34 PM) | 個別ページ | コメント(0) | トラックバック(0)
数ヶ月前にパレスチナとイスラエルの紛争があったとき、昼食時にこんな話題が出ました。
「根本的な原因はなんだ?」
一つの意見は「金」、もう一つは「宗教」でした。もちろん実際にはそんなに単純ではないんでしょうが、この2つの視点に単純化して戦争を見てみると、興味深い考察が得られます。
この分け方があまりに即物的であれば、「物質的な利益」「精神的な利益」と言い換えてもいいかもしれません。ここでは仮に、これらの言葉を使います。
物質的利益
数多くの戦争は、大部分が金、土地や資源など、物質的な利益を求めて行われています。わかりやすい例として、特に古代では、より収穫の多い土地を求めて隣接する集落・国などに対して戦争を起こす例は枚挙に暇がありませんね。
人にとって、より豊かになりたいというのは自然な欲求ですから、これらは仮に同意はできなくても理解は可能でしょう。
太平洋戦争も、日本を含め各国がそれぞれの利益を求めて戦っています。日本は大東亜共栄圏(この言葉の是非はさておき)に基づくアジアの土地や資源が、欧米諸国もやはりアジアの権益が主たる目的といえるでしょう。結果としては日本は負けたわけですが、アジア各国はその後独立を獲得しました。その意味では、アジアの権益を手放した、または確保できなかったという点で連合国側も「(試合に勝って勝負に)負けた」といえると思います。
まぁ、この戦争で勝ち組といえるのは、戦後独立を勝ち得たアジア諸国かな?
精神的利益
一方、宗教が絡んだ戦争の場合は、表面上はかなり異なる様相を呈します。特に、欧米で勢力を持つ3つの宗教(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教)は、ことあるごとに紛争を起こしています。私を含め宗教観念の希薄な日本人には理解しにくいですが、これらの宗教を主に崇拝する欧米諸国では、想像以上に宗教と日常は不可分です。そして彼らの間には2000年近くもの確執があり、何かと紛争が多いのです。
興味深いのは、この3つの宗教はいずれも源を同じくするものなんですね。際立った特徴としては、いずれも唯一神をいただく一神教だということでしょうか。この唯一神の名前は言語の違いもあり、ヤハウェ(ユダヤ教)、アラー(イスラム教)など、宗教によって異なるようですが。古くから自然発生的に興った土着の宗教の多くが多神教なのとは対照的です。
私は詳細を論じることができるほど知識がありませんが、アブラハムの宗教に端を発し、最も早くに成立したのがユダヤ教です(紀元前6世紀ごろ?)。その後、イエス・キリストを経てユダヤ教から派生し、1世紀ごろに成立したのがキリスト教です。そしてムハンマドが7世紀に興したのがイスラム教です。
キリスト教はもともとユダヤ教の一宗派だったこともあり、旧約聖書などでモーセをはじめとしたユダヤ教の人物を重要視しています。また、当初のイスラム教も先行するユダヤ教やキリスト教の延長線上であり、これら先行する宗教の指導者たちはイスラム教にとっても重要人物(預言者)ということになっているそうです。
これらの宗教間で、「異教徒を制圧する」「聖地を奪還する」などの名目の下に行われた数々の戦争(例:十字軍、レコンキスタ等)は、外様である私から見るといわば内紛のようです。
さらに、同じ宗教内でも対立を生み、戦争に発展しています。たとえば、イラン・イラク戦争は同じイスラム教のシーア派とスンナ派の対立がクローズアップされました。
これらのことは、太平洋戦争で日本とアメリカが戦ったときに、「神道」対「キリスト教」のような宗教対立にならなかったこととは対照的です。日本は歴史上何度か外国と戦争を行っていますが、そもそも宗教対立の構図になったことはないのではないでしょうか。
本来人の安息や平和を願い、人を救うための宗教が、まさに戦争の原因になっているというのが皮肉です。
物質的利益の理由のための宗教
ただ、これら宗教対立が原因とされる戦争も物質的な利益と密接に絡んでいます。
宗教は、即物的、世俗的なな利益を求めることの「醜悪さ」を包むオブラートとして、その機能を存分に発揮します。戦争に良いも悪いもありませんが、下手に言い訳をせずに純粋に物質的利益を求める古代の戦争は、その意味では(人間以外の)動物的と言えなくもないかもしれません。動物は戦うのに余計な理由をつけたりしません。
このオブラートの効果は絶大で、本来救うはずの死すら(死後に安息が約束されるなどの理由をもって)辞さないという、ある意味宗教の本末転倒に走ることになります。もちろんその裏には、純粋な宗教的意義を求めて(または騙されて)死を選んだ人の上に物質的利益を得る者がいる、という構図がほぼ例外なく見えます。十字軍の「エルサレム奪還」の御旗の元に、犠牲になった人と、これを狡猾に利用して利益を得た人の両方がいたことはよく知られています。
もっとも、オブラートは別に宗教に限った話ではありません。
たとえば、ホロコーストで有名なドイツのユダヤ民族排斥は、アーリア民族の優位性、民族的純血を守るという名目のもとに、劣等とされる「ユダヤ民族」を排斥する、という優生学の思想に基づいているといわれます。しかし、この「民族」や「純潔」の概念はかなり曖昧です。ホロコーストが行われた20世紀、既に「ユダヤ民族」「アーリア民族」は混血が進み、その違いを論じるのは難しいためです(ただしホロコーストの対象はユダヤ人だけではありませんが)。
ユダヤというのが宗教と民族の混じったものなので、そこに上手に付け込まれたということなのでしょうか。古くからキリスト教やイスラム教では良しとされない金融業などを営み、それにより資産家が多く、ある意味経済を牛耳っていることによる反感(逆恨みといったほうが正しいでしょうか)を買ったのかもしれません。
「オブラート」では明治以降の近代日本も負けていませんね。天皇を祀り上げることによって富国強兵に邁進し、それだけなら良かったのですが、たくさんの勤勉な国民が「大東亜共栄圏」の理想を信じながら亡くなっていったのですから。この構図は「唯一神」を心から信じて犠牲になっていった宗教人たちとよく似ています。
まとまりがありませんが、歴史的に偉大な宗教家や、崇高な信念を持つ政治家の思想を受け入れるには、まだまだ人の心は未熟なのかもしれません。このことについては、またいずれ考えてみたいと思います。
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