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高松宮と海軍・海上自衛隊(講演覚え)
呉海事歴史科学館「高松宮と呉」特別展の記念講演(平成22年4月29日)
1.皇族と海軍
高貴なる者の義務(ノブレス・オブリージュ・Noblesse Oblige)
(1)外国の例
英国・スエーデン・タイ王室 男子は軍務、女子は赤十字勤務
ナイチンゲール看護婦養成所を導入した海軍(軍医総監・高木兼寛と慈恵医科大学付属看護婦養成所→呉と横須賀の海軍工廠共済病院付属看護婦養成所)で赤十字看護婦の教育
新島八重(新島譲・同志社大学創設)日清戦争時に広島陸軍病院に有志看護婦として勤務
(2)海軍・軍艦の定冠詞に見ると
@Royal Navy HMS(Her majesty Ship Vanpaire)
A日本海軍:巡洋艦以上HMIS(His Majestic Imperial Ship Mikasa(艦首に菊の紋章)
海上自衛隊 JMDFS Katori(Japan Maritime Self-Dehense Ship Katori)
2.皇族の軍務奉仕
(1)起源:明治6年:明治天皇の御沙汰「皇族は自今海陸軍に従軍すべし」
(2)皇族の海軍勤務者:皇族21名、元帥3名、中将1名、少将1名、戦死2名
(伏見宮博英王(62期)第3連合通信隊司令部附、飛行機で移動中にマカッサル近海戦死(浅香宮正彦王(62期)第6根拠地隊参謀(クェゼリン島で玉砕)
軍隊としては皇族・子爵・男爵・公爵の受け入れは迷惑気味
勉学意欲なく病弱、気迫なし(慶応大学の場合:福沢諭吉「公爵・子爵は軍務に付け」
3.皇族と政治
海軍;英海軍が王室と密接、海軍と皇室との関係は陸軍より深く、陛下や皇族が移動「お召艦」:司令長官から水兵と同一空間の生活
訪英時の昭和天皇とお召艦士官との記念写真(軍艦「香取」)
(1)海軍の国内政治力=海軍+皇室パワー
◎日本の外交は陸海外の3省で決定
余談:雅子妃殿下の父方の曾祖父(江頭安太郎中将・兵12期)、母方の曾祖母「T字戦法」の山屋他人大将(兵12期)、雅子妃の両親の小和田恒と優美子の仲人と外交官を進言し斡旋したのは駐米海軍武官・竹内重利中将(兵20期)と、その妻の寿子
(2)親独派:伏見宮(海)秩父宮(陸)三笠宮(陸軍)
@伏見宮博(ひろ)恭(やす)王(おう)元帥
明治18年から兵学寮に通学。同22年ドイツ兵学校、海軍大学校、日露戦争で三笠の分隊長(黄海海戦で戦傷)戦艦朝日艦長、巡洋戦艦伊吹艦長、第二艦隊司令長官、佐世保鎮守府長官、軍令部総長(元帥)と栄進「潮気のある」一流の海軍軍人 昭和6年:陸軍参謀総長閑院宮、海軍も昭和7年に伏見宮を軍令部長に
軍令部権限強化「私の在任中でなければできまい。是非ともやれ」と指示、皇族の威光を利用→艦隊派寄りの政策を推進。「海軍部内ではほぼ絶対的な権威を持ち、天皇といえどもこれを無視できず」伏見宮時代9年間:ワシントン・ロンドン軍縮会議の離脱、日独伊三国同盟の調印、海軍を太平洋戦争へと導く:野村実『天皇・伏見宮と海軍』(文藝春秋)
海軍一家:長男:大佐で病没、次男:大正13年病没、4男:昭和18年に戦死
A秩父宮(陸)
英ジョージ6世の戴冠式参加後、ナチス大会に参列(大島陸武官説得→三国同盟へ
4 親米英派(海洋派)昭和天皇・高松宮(海)
高松宮宣仁親王(52期)大佐
(1)経歴 海軍生活25年(16才から40才)大正13年兵学校を卒業、巡洋艦古鷹、比叡、榛名乗組み、昭和7年に砲術学校高等科を卒業、巡洋艦高雄、戦艦扶桑を歴任し海軍大学校。卒業後は軍令部第2部(戦備)、第3部(情報)、第4部(通信)に勤務、昭和15年:戦艦「比叡」砲術長、昭和16年:横須賀航空隊、昭和16年:軍令部員兼大本営海軍部参謀
新婚 中尉(呉時代)
(2)ノーブレス・オブリージュ(高貴な者の義務)
@上海事件に参加を申し出(不許可)「赤子国民を死地にオキ、国民の危険ヲ座視スルハ皇族トシて、皇軍ナル如何ナル見地ヨリモ不可」(天皇と対立@)辞職を申し出る
Aアッツ島視察申し出るも却下(「憤慨す」)
(3)高松宮殿下の人間性:
@比叡砲術長時代の歌
「私は比叡の油虫 立派なお部屋に納まって たらふく食うたら ちょろちろと ふざけ散らして 毎日を 遊んで暮らす有様は 他人が見れば羨めど 我が身となれば徒食の 辛さに苦労の増すばかり 早く私も人並みに 比叡のために働いて 大きな顔して闊歩して 愉快な日々を送りたし」
A観艦式反対:「観艦式の準備で会議やら、保存手入れやら。かくも手数をかけ、ことに兵員の労を費やして、しかも当日は、やれ兵は下におりていろの、厠はつかうなの、兵員室の一部は拝艦人につかわすと言うので、面白くないことおびただしい、益々、観艦式不賛成の感を濃くす」。
B戦艦「扶桑」時代:呉駅の見送りに「フンガイス」正月休暇で東京へ「午前零時45分呉発、帰京の途に着く。見送り不可のことを言わなかったらゾロゾロいて驚く。艦の副長までいたのでアキレタ。列車食堂:行くときは酒など飲んでいた人がいたが帰りには誰もいない。1等寝台を1両付けて、お召列車の金札を掛けていたので、フンガイス」。
(4)妃殿下の呉時代の思い出:参考:高松宮喜久子『菊と葵のものがたり』(中央公論社)
@住所:金谷俊造(石鹸会社社長の別荘)潜水学校の真上 軍艦旗掲揚「かかれ」で朝食
「書留郵便の受け取り」「鴨料理に四苦八苦」「チョコ8杯で酩酊」
(4)戦争中の高松宮の動き
@ハワイ(奇襲成功の懸念):対米戦争反対ではなかった「沢本頼雄中将の手記」
A東條首相暗殺計画(高木惣吉少将・神重徳大佐・小園安名大佐、細川護貞秘書官などと東條内閣暗殺に動いたが中止、その後は米内光政海軍大臣をはじめ海軍の和平派と終戦工作、兄の昭和天皇に箴言
5 戦後の高松宮と海軍・海上自衛隊
(1)海軍再建を支援
@野村機関の「新海軍再建研究会(野村吉三郎大将・資金は藤原銀次郎)長:野村、主任幹事・保科善四郎)への三笠宮の尽力
兵力:護衛空母4隻、潜水艦8隻、巡洋艦4隻、駆逐艦13隻、総数341隻(29万2000d)、航空機(海空)750機
A第2復員省グループ(山本善雄少将・長沢浩大佐など)→指揮系統・兵力など海上保安庁逆転負け) Y委員会(海軍6名、海保2名)
Y委員会(海上自衛隊の組織編成、兵力、教育、補給などの計画と推進)
B三笠宮→野村吉三郎元大将などと支援、自宅に米海軍士官を招待・米空母を訪問(安保騒動の時)日米海軍の親密化には多くのエピソードあり
4.妃殿下(高松宮喜久子)
『高松宮日記(全8巻)』、宮内庁反対:喜久子妃殿下の強い意志で発行
妃殿下:徳川慶喜の孫:「気迫」とユーモアの人
昭和19年6月のサイパン失陥後:丹念な戦況:電報などの記録
なし(敗戦を予感)。
6.海上自衛隊(私の関係分のみ)
(1)海上自衛隊の部隊訪問(士気高揚)
(2)練習艦隊・遠洋航海出発前の壮行会(宮邸で接待は海兵同期の奥様とお嬢様
(3)昭和37年のオーストラリア遠航(語学幕僚・副官)、翌38年ヨーロッパ遠航(副官兼語学幕僚)主席幕僚、最小限1回の遠洋航海で3回、
(1)昭和37年のオセアニア遠の航壮行の辞は録音あり(右の写真の顔だけが私)
(2)昭和38年には晴美埠頭・殿下来艦・当直幕僚
「高い本を読みなさい。なぜならば高い本には良いことが書いてあるから。また、高いノートに要点をメモしなさい。高いノートだと途中で止められないから」。
妃殿下と私のお話「貴様仲間」@タマネギとニンニクを誤訳
A色黒大使に対する実習幹部の質問 Bタスマン海で盲腸の手術
C20年後に主席幕僚:妃殿下から「あら、副官さん、偉くなったわね」
D呉や江田島訪問時:妃殿下に話しかけられ「出しゃばり」と勤務評定低下
花瓶は葬儀の引き出物
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