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【アメリカの軍産複合体を築いた科学者:その名もブッシュw】インターネット・サイエンスの歴史人物館(1)バネバー・ブッシュ http://www.asyura2.com/10/warb3/msg/127.html
連載:インターネット・サイエンスの歴史人物館(1)バネバー・ブッシュ
ネットワーク社会を創出する後進たちに多大な影響 ブッシュの計算機開発に関わったクロード・シャノンは、デジタル時代の到来を告げる理論を示し、世界最初期のデジタル電子計算機であるENIAC(エニアック、Electronic Numerical Integrator and Computer)を開発する動機は、微分解析機を高速化することだった。 ブッシュの提言は、全米科学財団(NSF:National Science Foundation)や、アメリカ国防総省の高等研究計画局(ARPA:Advanced Research Projects Agency)の創設につながり、彼のビジョンはパーソナルコンピュータとネットワーク社会の創出に挑む、数多くの後進に目標を与えた。
ブッシュの父親リチャード・ベリー・ブッシュの先祖は、18世紀初頭にマサチューセッツ州プロヴィンス・タウンに入植し、7代にわたり捕鯨や貿易などの遠洋航海に携わっていた。この町は、マサチューセッツ州西南の半島ケープ・コッドの先端にあり、夏期には広大な砂浜を訪れるリゾート客でにぎわう。母親のエマ・リンウッド・ペインも、この町に初めて銀行を開設した名士の娘だった。 リチャードは、マサチューセッツ州メドフォードのタフツ大学を卒業した後、大学近郊のエヴェレットの町で牧師になり、親友の牧師ジョン・バネバー(John Vannevar)を通じてエマと知り合い結婚した。2人は1890年3月11日にエヴェレットで生まれた長男を、バネバーと名付けた。バネバーには、10歳年上のエディスと、5歳年上のレバという2人の姉がいた。ブッシュ夫妻は1892年、13年過ごしたエヴェレットから、ボストン近郊のチェルシーに移り住んだ。 ブッシュがチェルシーの公立高校に入学して、同校の数学教師だった姉のエディスから1年間学ぶうちに、数学と物理に強い関心を示すようになった。高校生のブッシュは、ボストン湾で小さなヨットを操ることを楽しみ、父の教会のミサではオルガン奏者をつとめた。ブッシュは1909年にタフツ大学に入学し、アマチュア無線クラブに所属した。
ブッシュは大学1年の時に、積分器を応用して起伏がある地面の距離と形状を記録するプロファイル・トレーサー(Profile Tracer)を発明した。この地形記録装置は、自転車のようにパイプフレームの前後に車輪を配置して、その上に木製の箱を乗せたもので、後部のハンドルを芝刈り機のように押して歩く。 箱の中には緩衝器に吊された積分器があり、後輪と連動する回転ディスクと、ディスクと接して摩擦で回転する2つのローラーがあり、1つが上下動、もう1つが走行距離をペンでドラムに記録することができた。ブッシュはこの装置の特許を1912年に取得し、翌年にその論文で学士号と修士号を手にした。 ▽地形記録装置プロファイル・トレーサー(外部リンク) ブッシュは23歳で修士号を得て、ゼネラル・エレクトリック社(GE:General Electric)の研究所で変電器を検査する仕事に就いたが、1年後にタフツ大学の数学講師の職を得て、1915年秋にマサチューセッツ工科大学(MIT:Massachusetts Institute of Technology)とハーバード大学が共同で運営していた電気工学部の博士課程に入った。 ブッシュは、送電に関わる微分方程式を代数式に変換する問題に取り組み、1年後の1916年4月に博士論文を書き上げた。この論文は学部長のデュガルド・ジャクソンに認められ、ブッシュはMITとハーバード大学の博士号を取得した。博士号を得たブッシュはタフツ大学の助教授に昇格し、1916年8月にフェーベ・クララ・デーヴィスと結婚した。この2人の間には、リチャードとジョンという2人の息子が生まれた。
アマチュア無線クラブの同僚ハロルド・パワーは、1915年にAMRAD社(American Radio and Research Corporation)を設立し、1916年3月18日に1日3時間の音楽放送を初めて行った。これは1920年に、ピッツバーグに世界最初のラジオ放送局KDKAが開局する4年前のことだった。 ブッシュはAMRADで真空管の研究を担当した。AMRADの事業は第1次大戦後に不振に陥るが、ブッシュと、主席研究員のチャールズ・スミスがAMRADで開発した放電整流管は、家庭の交流電源でラジオを利用できるようにした。アメリカン・アプライアンス社は1922年に整流管を事業化し、ブッシュは年5,000ドルの収入を得ることになった。この会社は1925年に、レイセオンに社名を変更した。 ▽「ラジオ回路設計に数学的概念を導入したことが評価され、Radio World’s Hall of Fameに殿堂入りした」(外部リンク)
ブッシュは1919年、ジャクソンに招かれてMITの準教授になり、送電網の講義と大学院生の指導を担うことになった。ブッシュはMITで、送電網の安定性の問題に取り組み、1923年、必要な微分積分をエンジニアが簡単に扱える代数式に変換する方法を、「実働回線分析(Operational Circuit Analysis)」という著作にまとめた。ブッシュはこれにより同年、教授に昇格した。 1924年、GEがカナダから米国北東部に全長800kmの送電網の敷設計画を発表すると、ブッシュはそのミニチュア版を設計する計画を立てた。翌年、8つの発電機と40の変電所を60の回線で結ぶ送電網を、変圧器とコンデンサとケーブルで形成し、中央にプラグボードを配置して様々な電力網を構成することに成功。ブッシュはこの送電網シミュレータで、短期的な異常現象を発生させて測定し、電力網全体に与える影響を計算しようとした。 しかし、ブッシュは繰り返し計算に忙殺された。そこで、送電網の現象を表す微分方程式を、直接評価する方法を考えるようになった。ブッシュはプロファイル・トレーサーに応用した積分器を用いて、計算機が設計できるか検討を重ねた。積分器は、複雑な曲線に囲まれた図形の面積を測定するプラニメーター(planimeter)を実現するために、1836年に考案され、1878年に実用的な器具が開発されていた。 ▽積分器の仕組 積分器のディスクは可動台で、水平方向にスライドさせることができ、円盤の位置をディスクの中心と縁の間に設定することができる。円盤の回転は中心に近ければ遅く、縁に近づくにつれ速くなり、円盤の回転数は y の距離に比例して変化する。ディスクの回転を x、ディスクの中心から車輪の位置までの距離を y とすると、車輪の回転が積分の値を表す。 プラニメーターで閉曲線内の面積を求める場合、y軸上の点aとbの間の曲線は、関数f(y)の積分なので、S=∫baf(y)dyで解くことができる。y=f(x)のグラフであれば、z=∫f(x)dxと書き換えて答えが得られる。そして、2つの積分機を連結すると、2つの関数を扱うことができ、f(y)=∫f(y)g(y)dy に相当する微分方程式を解くことができる。 しかし、ディスクの摩擦で回転する円盤のトルク(回転力)は極めて弱く、他の装置を駆動することが難しい。1927年にベツレヘム・スティールが、自動車のパワーステアリングを実現する「ベツレヘム・トルクアンプ」を発表すると、ブッシュはこのアイデアで積分器のトルクを増強できると考え、1928年に微分解析機のプロジェクトを開始した。 写真1 トルクアンプの設計図(提供:東京理科大学 近代科学資料館 ) トルクアンプは、ハンドルの回転を忠実に再現する装置だが、モーターとベルトでドラムを締め上げて回転を伝えることにより、トルクを大幅に引き上げ、トラックなどの巨大な車輪を操縦できるようにした。ブッシュは同じ仕組みで積分器のトルクを1万倍にして、多数の積分器と入出力装置を連動できるようにした。 微分解析機は、入力テーブルにグラフを描き、出力テーブルに計算結果をグラフで表示する。入力テーブルのグラフを入力ポインタでなぞると、連結するバス・ロッドの位置を決めることができる。最初の微分解析機には18本のロッドが格子状に配備され、格子の交点に配備したらせん状のギアを入れた連結器に、4本のロッドを接続して回転を伝えていた。ロッドの位置とギア比の組み合わせで必要な変数の初期値を設定し、ロッドの回転が変数を積分器に伝える仕組みになっていた。 ブッシュは1931年、6つの積分器と3つの入力テーブル、1つの出力テーブル、および手動の乗算機で構成された微分解析機の1号機を、2万5千ドルで完成させた。この微分解析機は6階の常微分方程式を扱うことができた(写真2、3)。 写真2 微分解析機の前に立つバネバー・ブッシュ(Photo: Courtesy MIT Museum) 写真3 ブッシュの論文を参考にして1930年代に日本で作られた微分解析機(東京理科大学 近代科学資料館 所蔵)
ブッシュの微分解析機は、ペンシルバニア大学ムーア電気工学校、GE、英国のマンチェスター大学とケンブリッジ大学、英国空軍、アイルランド・ベルファストのクイーンズ大学、スウェーデンのオスロ大学、ロシアのレニングラードなどで相次いで製造された。 ブッシュはこれらの複製品の製作を奨励し、それによって微分解析機の設計が改善されることを望んだ。MITは微分解析機の開発を通して、軍や産業界を含む様々な研究機関と幅広い関係を樹立することができ、ブッシュは1932年、MITの副学部長兼工学部長に任命された。 1934年、ブッシュは計算問題の設定を簡素化するため、真空管を活用してスイッチボードでプログラムでき、第1世代の微分解析機よりも大規模な問題を高精度で解ける次世代機を構想した。 このマシンでは、これまで数日かかる場合があった計算問題の設定を、スイッチの開閉で行うことにより大幅に短縮し、積分器の円盤の動きをエンコーダで電気信号に変換し、サーボモータで出力装置を駆動する設計が採用された。ブッシュはそのマシンのコストを約7万ドルと見積もり、1935年にロックフェラー財団に提案、翌年に開発プロジェクトを立ち上げた。
クロード・シャノンは1936年、ミシガン州立大学を卒業してMITの大学院に入り、ブッシュの研究助手になった。シャノンは、ロックフェラー微分解析機のスイッチボードのプロトタイプをリレーで設計するうちに、リレーで論理回路が設計できることを確認した。 そして、シャノンは1938年3月に修士論文として、「リレーとスイッチング回路の記号分析(A Symbolic Analysis of Relay Switching Circuits)」を書き、ブール代数による2進数の論理回路をスイッチで設計できることを示した。シャノンは、ブッシュがアナログ・コンピュータに電子回路を導入することを決めたおかげで、記号論理とスイッチング回路を結びつける機会を得、デジタル時代の到来を告げる理論を提示することができた。 ロックフェラー微分解析機は1942年になって、予定より2年遅れで弾道計算に威力を発揮し始めた。このマシンは、真空管回路とベル研究所が試作したクロスバースイッチにより、変数の入力や積分器の出力を柔軟にルーティングでき、5分ほどで計算式を設定できた。ロックフェラー微分解析機は、18個の積分器を統合し、約2,000本の真空管と150のモータ、約320kmの配線を使用した重さ100トンの巨大なシステムになったが、性能は1号機の3倍以上、精度は10倍(誤差0.01%以下)に向上した。
ペンシルバニア大学ムーア校のアーベン・トラビスは、1934年に2台の微分解析機を製作し、メリーランド州アバディーンの陸軍実験場とムーア校で弾道計算に利用した。トラビスは1939年の報告書「電子式微分解析機の開発可能性」の中で、クロック周波数を利用した電子カウンタ式の積分器について説明し、1941年の報告書「微分方程式の自動数値解析」には、微分解析機をデジタル化するための構成要素として累算器、乗算器、加算器、レジスタ転送装置による相互連結について記した。 トラビスは1941年夏、海軍に招集されてムーア校を去ったが、1938年からトラビスと交流していたジョン・モークリは、1941年9月、微分解析機より15倍から30倍高速な計算機が設計できると試算した。 モークリとJ. プレスパー・エッカートは1943年3月、アバディーンの陸軍実験場に電子式計算機の開発を提案した。ブッシュは大戦中には完成しないと予測し出資に反対したが、陸軍兵器局は50万ドルの開発資金を認可した。ENIACが最初の問題を解くために稼働したのは、太平洋戦争が終結した4ヶ月後の1945年12月であった。
ブッシュは1938年、ワシントンDCの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの私設研究機関、カーネギー研究所(Carnegie Institution)の所長になり、国家航空諮問委員会のメンバーとして国防研究委員会(NDRC: National Defense Research Committee)の創設を提案した。 国家航空諮問委員会は、1940年にこの提案書を議会に提示する計画だったが、同年5月にドイツがフランスに侵攻した。ブッシュはNDRCの設立が急務になったと判断し、同じ委員会のメンバーで大統領の叔父のフレデリック・デラノを通じて、民間科学者を戦時研究に動員する重要性を訴えた。ブッシュはルーズベルト大統領に直談判する機会を与えられ、NDRCが設立された。 NDRCは大統領直轄の諮問機関のため、使える資金は限られていたが、ブッシュは1941年5月に大統領から科学研究開発局(OSRD: Office of Scientific Research & Development)の創設を認可された。 このディレクタに就任したブッシュは、議会により承認された予算を配分できる立場となり、国防研究の頂点に立った。ブッシュはまず、マイクロ波レーダーと電波で検知した標的の近くで爆発する砲弾の開発を重視した。これらを実現する基本的な仕組みは英国から米国にもたらされた。
ブッシュは、ルーズベルト大統領に軍事政策委員会の議長に指名され、最初の核兵器の開発を決断し、監督する立場にあった。彼は当初、核兵器の実現性には懐疑的だったが、1941年7月、コロンビア大学のイタリア人物理学者、エンリコ・フェルミから実験データと開発コストの算定方法を提示され、この問題に真剣に取り組むようになった。 そして、ユダヤ系アメリカ人物理学者で、「原爆の父」として知られるロバート・オッペンハイマーが、1941年にサイクロトロンによって核分裂に必要なウラン同位体の電磁分離法の確立にめどをつけ、翌年12月2日にシカゴ大学が最初の核分裂の連鎖反応に成功すると、ブッシュは大統領を説得する役割を担った。 ブッシュは1941年から約6,000人の科学者を動員し、およそ200の兵器や装置の開発を監督した。中でも、レーダーと連動して敵機の軌跡を予測し、対空砲の照準と砲火のタイミングを自動化する装置をはじめとして、水陸両用車の開発、さらには化膿性および細菌性疾患の治療に有効なサルファ剤とペニシリンの量産技術の確立は、連合軍の勝利に大きく貢献した。 レーダーによる観測データに基づいて対空砲火を自動化するシステムは、戦後、SAGE(Semi-Automatic Ground Environment)と呼ばれる防空システムに発展し、史上初のオンライン・リアルタイム・コンピューティングを実現、インターネットを可能にするタイムシェアリング・システムの研究に影響を与えた。
ブッシュは1945年3月、「科学ー終わりなきフロンティア(Science--The Endless Frontier)」を執筆し、政府による長期研究プロジェクトの支援と、若手の科学者とエンジニア育成の重要性を訴えた。 そして、ルーズベルト大統領に米国研究基金の創設を要請した。次いで、アトランティック・マンスリー誌の7月号(6月27日発売)に「われわれが思考するごとく(As We May Think)」というエッセイを寄稿し、必要な情報を瞬時に呼び出せる未来のマシンについて記した。ブッシュは実のところ、このエッセイを1944年10月に「機械化と記録(Mechanization and Record)」の表題で書き上げ、ドイツの敗戦後に出版することを希望して出版社に寄稿していた。 このエッセイに登場するMemexというマシンは、基本的にはデスク・サイズのマイクロフィルム・リーダー/ライターだが、フィルムに記録した情報は思考の道筋に沿って相互にリンクさせることができる。ブッシュによれば、人間は連想によって情報を整理するので、連想による検索経路の網目を再現できれば、忘れてしまった情報でも見つけることができる。 Memexは、機械化された私的なファイルと蔵書のシステムで、1台の机の上に半透明のディスプレイ、キーボードといくつかのボタン、レバーを備えている。文書や写真を透明のプラテンに置いてレバーを下げると、情報はマイクロフィルムに記録される。書籍はキーボードから入力したコードで管理され、キーをひとつ叩けばコード表がディスプレイに映し出される。 書物をディスプレイに表示してレバーを右に動かすと、本の各ページがひと目で判読できる速度で順番に現れ、さらにレバーを右に動かすと10ページずつ進み、レバーを左に動かすと頁が逆戻りする。 ▽Memexのイメージ
ブッシュがルーズベルト大統領に提案した事柄は、1947年2月に法案化されて上下院を通過したが、戦後の緊縮財政を重視したトルーマン政権は拒否権を行使した。しかし、ブッシュは同年9月に成立した国家安全保障法の研究開発評議会の議長に選任され、戦後の研究体制の整備を訴え続けた。 1948年8月にソ連が最初の核実験を行うと、ブッシュは国防総省から科学者のパネルの議長になることを要請され、科学者による諮問委員会を編成した。ブッシュは水爆の開発には反対の立場をとったが、ソ連との競争で優位に立つためには、研究開発に対する政府支援と軍の研究計画の統合が不可欠だと訴えた。この主張は1950年の米国科学基金(NSF:National Science Foundation)の設立を促し、ブッシュは初代ディレクタを3年間勤め、その後も2年間諮問委員として運営に関わった。
ソ連は1957年10月4日、人工衛星スプートニクを打ち上げて米国に衝撃を与えた。ブッシュは同年11月にリンドン・ジョンソン上院議員が召集した軍事サービス小委員会で、「米国は、数多くの有益かつ困難な仕事が必要な熾烈な競争の最中にあることを認識すべきだ」と語った。 アイゼンハワー大統領はこの提言に応えて、国防総省のARPA(高等研究計画局)と宇宙開発機構のNASA(米航空宇宙局)を創設することを決めた。ARPAは1958年1月7日に議会の予算承認を得て、2月7日に発足した。 民間の科学研究を支援するNSFと、軍の研究活動を統合するARPAが設立されたことにより、ブッシュが提唱し続けた軍産学の協力体制の礎が築かれ、米国におけるコンピュータ・サイエンスとインターネットの発展が支えられることになる。
1962年10月1日にARPAに着任して情報処理技術の責任者になったJ. C. R. リックライダーは、1965年に「未来の図書館」を著し、ブッシュの夢をデジタル・ネットワークの世界へと拡張した。ブッシュのMemexに感銘を受けたダグラス・エンゲルバートは、1968年にマウスでハイパーリンクを操作できる文書処理や、ビデオ会議が可能なオンラインシステムを実演し、来るべき情報化の時代を示した。 さらに、テッド・ネルソンは、1960年にブッシュのアイデアをヒントにして、「ハイパーテキスト」という言葉を生み出し、地球規模のネットワークで多様な情報をリンクで結ぶ「ザナドゥ(Xanadu)」でWebさながらの未来像を描いた。 ブッシュは1964年、ジョンソン大統領から科学大賞(National Medal of Science)を授与されたが、ベトナム反戦活動の矛先はブッシュにも向けられ、しばしば批判の矢面に立つことになった。ブッシュは戦後の対ソ連封じ込め政策を受け入れ、米国の軍産学複合体を象徴する人物でもあったからだ。 1969年7月に妻に先立たれたブッシュは、反戦活動の喧噪渦巻く1971年、MITの名誉学長を辞した。ブッシュの体力はその後急速に衰え、1974年6月30日、自宅で脳出血と気管支炎により倒れ、84年の生涯を閉じた。
・David A. Mindel「Between Human and Machine: Feedback, Control, and Computing before Cybernetics」The Johns Hopkins University Press, 2002 ・W. Aspray, A. G. Bromley, M. Campbell-Kelly, P. E. Ceruzzi, M. R. Williams「Computing Before Computer」 Iowa State University Press, Ames, Iowa 1990 ・Robert Buderi 「The Invention That Changed the World: How A Small Group of Rader Pioneers Won the Second World War and Launched a Technological Revolution」 Touchstone, 1997 ・岩山知三郎「汎用計算機と仮想空間の先駆者 バネバー・ブッシュ」、『月刊オープン・エンタープライズ・マガジン』、2005年9月号、(株)ソキウス・ジャパン ・http://web.mit.edu/mindell/www/analyzer.htm http://wbb.forum.impressrd.jp/feature/20061102/313?page=0%2C5
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