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他者の、なんらかの判断を見聞きしたとき、それに対して「意味がわからない、バカじゃないの」と感じることは、誰にでもあると思います。ただ、これは結構危険なことだと思ったので(自戒を込めて)エントリにしておきます。
*****その判断をした他人は、本当にバカなのだろうか?
まず、そもそも「意味がわからない」という自分は、その判断に関わる分野について十分な知識と経験をもっているのでしょうか。仮にそうだとして、その特定の判断に必要な情報が何であるかを知っていて、それを理解しているでしょうか。
人間は、自分の専門分野を超えた世界については、まず、正しい判断をすることができないものです。少しでも合理的な判断をするためにできることは、その分野の専門家の意見を集めることぐらいでしょう。
他者の判断に「意味がわからない」と感じるとき、僕たちはまず、自分とその他者を比較して、その判断がなされた分野に対して、どちらのほうが土地勘を持っているかということを検討すべきだと思います。
*****他者のほうが土地勘を持っているとき
この場合は「意味がわからない」のは自分のせいである可能性が高いです。そもそもこの世は、わからないことだらけです。だからこそ面白いのだと思いますが、それを「バカじゃないの」と切り捨てたら、もったいないと思います。
今の自分には理解できないことに出会ったとき、その背景になっている理屈を「知りたい」と思う気持ちは、人の学習にとって大切なモチベーションです。この認識がないままに、他者をバカにするような態度ばかりを鍛えてしまえば、学習にとって大切なドライバーを失ってしまうでしょう。
*****自分のほうが土地勘を持っているとき
こちらの場合は、他者が、自分が持っている知識と経験を持っていない可能性も高いです。ただし、ここには大きな落とし穴があります。もう一つの可能性として、そうした他者が、容易には入手できない「貴重な情報」を持っていることを疑う必要があります。
たとえば自分が漁師だとして、自分がよく知っている海で、明らかに素人に見える人が、釣りをしていたとします。その人が釣り糸を垂れるあたりは、ほとんど魚がいない場所だとしたら、どう思うでしょうか。
「バカだな、あんなところに魚なんていないのに」と思ってしまえば、そこで終了です。でも実は、その素人に見えた人は、数年に一度の限られた日にだけ、その場所に集まる魚類の研究をしている生物学者だったとしたら?
*****言いたいこと
他者の判断に「意味がわからない、バカじゃないの」といった感情を抱いたときこそ、学習のチャンスです。自分がそうした他者と全く同じ立場にあれば、同じ判断をしたかもしれないという前提に立つことこそ、謙虚さの定義だと思います。
その上で「その判断を合理的なものにできる情報」を、自分が知らないだけかもしれないという「不安」を持つべきでしょう。その「不安」を心のどこかにしまっておくからこそ、僕たちは、自分とは関係のない分野についても「知りたい」という欲求を持てるのだと思います。
みんな、そんなにバカじゃないです。今を生きている人は、37億年とも言われる生命の歴史を勝ち抜いてきた命なのです。自分には理解できない、他者の判断の背景には、知恵の鉱脈がある(かもしれない)ということを意識する必要があります。
ここまで書いてみて気が付いたのですが、これ、要するにソクラテスのいう「無知の知」ってやつですね。この世界で起こることを「意味がわからない」と切り捨てることなく、「自分は知らない」という態度を貫きたいものです。
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