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昨年10月、滋賀県大津市で発生した中学校の飛び降り自殺問題で、自殺した生徒が「自殺の練習をさせられていた」ことが判明した。ところが、昨年の11月に行われた記者会見の場で、大津市の教育委員会がこの事実を隠していたことが表沙汰となり大きな問題となっている。
毎度のことながらマスコミは、こういった「いじめ自殺」問題が発生すると「痛ましいニュース」として伝えるだけで、決して根本的な問題を追及しようとはしない。教育委員会という組織も、いじめ事件を隠蔽することだけに躍起になっているようにしか見えず、本当にいじめを無くす気など、さらさら無いように見える。
奇しくも大津市の女性市長は当人も子供時代にいじめを経験し自殺を考えたこともあるという理由から「いじめの無い大津市」というものを目標に掲げていたそうだが、そんな目標は、当の教育委員会にとっては馬耳東風であったらしい。
教育委員会いわく、「自殺の練習をさせられていたとの確証は得られなかった」「いじめと自殺との因果関係は判断できない」ということらしいのだが、常識的な視点で観れば、誰が見ても「いじめ」を理由とした自殺としか考えられない。
遺書が無ければ、自殺の原因は断定できないということなのかもしれないが、こういった詭弁を放置しておくと、仮に遺書が有ったとしても、「その遺書の内容が本当だとは限らない」ということになってしまいかねない。
そもそも、事件が起こった当初から15人もの生徒が「自殺の練習をさせられていた」とアンケートで回答しているのだから、因果関係の有る無いに拘わらず、世間から「自殺の原因はいじめだ」と疑われるようなことを無くすべく努めるのが、教育委員会の仕事だろう。口先だけで「いじめを無くそう」などという綺麗事を言っているだけでは、何の解決にもならないのである。
皮肉なことに、現在の教育委員会の教育姿勢は、いじめによって自殺した生徒ではなく、いじめを行っていた生徒達を庇うという構図になってしまっており、その構図は恰も、暴力団にヘコヘコと媚びを売り、間接的に犯罪に加担している取り巻きのようですらある。
現代の中学生の陰湿ないじめ行為というものは、ある意味で暴力団よりも性質(タチ)が悪いかもしれない。遊び感覚で他人を傷付け自殺に追い込んだとしても、教師や教育委員会が庇ってくれる(隠してくれる)のだから、自分自身を律することのできないヤクザ紛いの生徒にとっては、まさにやりたい放題である。
無論、いじめ問題というものは、もっと根が深いものである。単に暴力的な生徒がいるというだけの問題ではなく、家庭の事情や生い立ち、ストレスや劣等感、そういった様々な負の感情が引き金となって発生するものでもある。性善説的な立場に立てば、「いじめ」という行為が生まれること自体が、人間社会の悲劇であるとも言える。
しかし、だからといって性善説的な考えでは、いじめ問題を解決することはできない。いじめ行為を人為的に無くすことが難しいのであれば、採るべき手段は、次の2つになる。
1、いじめ行為を行った生徒には徹底的に厳罰を与える。
2、いじめは無くせないという前提に立ち、教育制度を改める。
1は、いじめを行った人間は、たとえ未成年であろうと全国に名前と素顔を晒し懲役刑にする。そういった厳罰を与えれば、いじめを行おうと考える生徒は激減するだろうし、どんなにいい加減な親でも「いじめはするな」と子供に注意するだろう。しかし、こういった手段は、世間一般にはあまり受け入れられそうにないし、冤罪を生む可能性もあるので私も反対だ。
2の場合は、いじめを絶対的に回避するために、学校という制度自体を無くすことを意味する。
学校内という閉ざされた空間でいじめが発生し、逃げ場がないのであれば、その逃げ場を作ってやればいい。そう、学校に行かずとも、教育を受ける場を与えてやればいいのである。これができれば、いじめによる自殺は綺麗サッパリ無くなる。この件については、以前にも書いたことがあるので、下記の記事も参照していただければと思う。
日本の教育委員会にとっては、生徒達が互いに傷付け合い、罵り合うという「いじめ」行為は有ってはならないものなのかもしれないが、いじめの被害にあっている生徒にとっては、そのような教育委員会の体制自体が有ってもらっては困るものである。
教育委員会にとっては、現在の教育制度を改めるということは死活問題にも成りかねないので、とにかく波風立てずに現状の教育制度を維持したいのだろうと思う。学校というものが、どんなに理想から掛け離れた場所に落ちぶれていようが、あくまでも理想的な教育環境であることをアピールしたいのだろう。
しかし、いじめ等の不都合な問題を隠蔽することによって、現在の教育環境を飾ろうとするのはいただけない。現在の教育制度を維持したいのであれば、本当に理想的な教育環境を構築することを目標に据え、いじめ問題の解決にも前向きに取り込んでいくことこそが求められる。
現在の公立学校の教育体制は、いじめを発見した教師を評価するというものになっておらず、どちらかと言えば、いじめが無いことを評価するという事勿れ体制になってしまっている。そんな官僚的な組織が取り仕切っている無法地帯のような場で教育を受けさせられる真面目な生徒は堪ったものではないだろう。
特に公立学校では、基本的にどんな生徒であっても辞めさせることができない。いじめの加害者を退学にすることができないだけでなく、いじめの被害者も学校を辞めることができない。これではまさしく、刑務所である。
「刑務所はオーバーな表現だ」と言う人がいるかもしれないが、追いつめられた生徒は『自殺』という最悪の選択をするしか、いじめから解放される手段が無いと考えたのだ。それはなぜか? 少なくとも、その自殺した生徒にとって学校は刑務所に近い場所だったということであり、“自殺を選択した”という事実自体がそのことを如実に物語っている。
刑務所のような現在の教育環境を改めない限り、いじめ問題は決して無くならない。野口悠紀雄氏の『1940年体制』ではないが、教育の場に戦時経済体制を敷いたことによって、教育の自由が失われてしまったことが、いじめ問題の遠因になっていると言えるのかもしれない。
いずれにせよ、教育委員会自身が現在の事勿れ主義を改めない限り、いじめ問題は一向に解決に向かわないということである
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