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小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明 スキャンダルにもう「ふりむかないで」
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投稿者 MR 日時 2012 年 7 月 02 日 23:12:04: cT5Wxjlo3Xe3.
 

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スキャンダルにもう「ふりむかないで」

2012年6月29日 金曜日 小田嶋 隆


 ザ・ピーナッツの伊藤エミさんが亡くなった。報道によれば、死亡したのは今月の15日で、葬儀はすでに近親者のみで執り行われたという。71歳だった。

 マスコミ各社は、訃報を受けて、さっそく前夫である沢田研二さん(以下敬称略)の自宅に駆けつけた。

 が、彼は取材に応じなかった。
 あたりまえだ。だいたい、コメントを求めに行く方がどうかしている。
 いまさら何を言えというのだ?

 結果として、スポーツ各紙は

「沢田研二、元妻の死に無言を貫く」

 ぐらいな記事で誌面を埋めたわけなのだが、これも、考えてみればどうかしている。
 沢田研二が記者の問いかけに言葉を返さなかったことの意味は、

「自分が回答を拒否した旨を記事にしてほしい」

 ということではない。

「何も書いてほしくない」

 という意味だ。
 とすれば、コメントが取れなった以上、記事はボツにすべきだった。それが、まっとうなジャーナリズムというものだ。

 ……というのは、実のところ、ジャーナリズムの現場を知らないオダジマが振り回している青臭い正論に過ぎない。妥当性があるのかどうかはわからない。

 おそらく、現場の答えは違っている。
 取材が不調でも、事実がゼロでも、紙面は存在している。白紙を印刷するわけにはいかない。であれば、記事は、結局は書かれなければならない。このコラムと同じことだ。

 デスクは、記事に需要があると考えている。
 というよりも、四半世紀前に別れた前夫の追悼コメントを読みたがる読者への強力な信頼が、新聞を発行させている当のものなのである。
 

 とはいえ、本当のところ、需要はあったのだろうか。
 私は、ノーコメント記事に需要があったのかどうか、強い疑問を抱いている。
 ふつうに冥福を祈って、業績を振り返ればそれで充分ではないか。

 今回は、スキャンダルについて考えてみたい。

 ご存知の通り、この半月ほどの間に、芸能、政治、スポーツの各分野で、立て続けに大きなスキャンダルが報じられた。これほど続けざまに著名人の醜聞が発覚することは、最近では珍しいことだ。

 ところが、スクープは、たいして世間の耳目を集めていない。
 どういうことなのだろうか。
 われわれは、スキャンダルに関心を抱かない国民に成長したのであろうか。
 あるいは、この10年ほどの間に、わたくしども日本人の中で、スキャンダルを処理する基準が変わってしまったのかもしれない。
 だとしたら、その変貌は、何によってもたらされたものなのであろうか。
 念のために、スキャンダルを振り返っておく。

(1) 国民的人気アイドルグループの主要メンバーとされている女性アイドルの一人が、デビュー間もない時期にファンの少年と交際していた事実が発覚した。
(2) 小沢一郎氏の妻が支持者に宛てて書いたとされる直筆の手紙が公開され、その中で、小沢氏の不倫、隠し子および、震災時の行動が暴露された。
(3) 巨人軍の原監督が選手時代の不倫をネタに恐喝され、1億円を支払っていたことが発覚した。

 まず、(1)についてだが、この問題は、当該アイドルを博多に「左遷」することで既に一件落着している。

 事件発覚から沈静化までに要した時間はわずかに一週間。力加減としては、サッカー部の新入部員が部室で缶チューハイを飲んでましたぐらいなプチ不祥事の扱いだ。芸能リポーターの面々は、最初の会見以降すっかりものわかりの良い近所のおばちゃんに変貌しているし、ワイドショー軍団がメディア・スクラムを組む様子もない。いくつかの実話系週刊誌が続報を追ってはいるものの、注目度は地を這わんばかりに低い。バラエティー班は、半笑いでスルーしている。テヘペロな青春の一コマってやつだ。「もぅー、サシコったら、おっちょこちょいなんだからぁ〜(ё_ё)めっ!」とか、顔文字でぷんすかする見当ですね。

 こうした扱いについて、
「圧力がかかっている」
 という見方は、当然のことながら、各所から提示されている。

「相手がデカ過ぎるんで、芸能マスコミが一斉に自粛規制を敷いたってとこだろ?」
「すでに復帰イベントへのカウントダウンがはじまっていると考えるべき」
「っていうか、スキャンダル発覚から処分の発動のところまでは、モロに番組化されてベッタベタにマネタイズされてますぜ」
「どうせクリスマスぐらいのタイミングで、『おかえりなさいサシコ』みたいなクッサい小芝居を見せられることになるわけだよ」
「その時には、まるで『いい話』みたいな扱いになってるんだろうか」
「そう。『あたしもぉー、こんどのことでぇー、せいちょおできましたぁー。みんなありがとぉおおおお』ぐらいな調子でステージから絶叫されるとオタの連中も一緒に号泣でウェイウェイですよ」
「目に浮かぶようだな」

 実際、圧力はあったはずだ。業界内では、事実上の自主規制通達が目に見えないカタチで伝播していたのだろうとも思う。

 が、それ以上に、このスキャンダルには、そもそも需要が無かった。

 逆に言えば、テレビの視聴者や、雑誌の読者が、スキャンダルの詳細について強力な関心を抱いていて、その彼らの好奇心が視聴率や部数を押し上げる圧力として作用していたのであれば、業界の側に多少の隠蔽圧力が介在していたところで、結局のところ、スキャンダル報道は続いていたはずなのだ。

 ところが、ファンは、最終的に、醜聞をスルーして、サシコを左遷する処理を支持した。
 不可思議なことだ。

 これが昭和の時代だったら、当件は、芸能マスコミの脂ぎった記者の皆さんに二カ月はしゃぶり尽くされる大ネタに成長していたはずだ。
 が、結果を見れば、ファンは騒がなかった。2ちゃんねるも3日ほどで鎮火している。というよりも、そもそも炎上というレベルに到達しなかった。
 
 小沢さんのスキャンダルも然り。政局がらみのスクープであったにもかかわらず、テレビや新聞はほとんど黙殺に近い扱いでこれに応じていた。

 思うに、小沢メール(←勝手に名付ける)は、この種の怪文書としては、手紙の実写画像や周囲の証言など、情報の出どころや背景が、かなりしっかりしている。

 にもかかわらず、話題は盛り上がらない。メディアもさることながら、なにより世間の人々が関心を示していない。

 巨人軍の監督をめぐるスキャンダルも、本来なら驚天動地の大スクープだ。

 原監督が現役だった当時の、あの日本プロ野球の黄金期に、このレベルの事件が発覚していたのであれば、世間は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていたことだろう。、

 が、現実には、誰も騒いでいない。

 スポーツ各紙は、巨人軍広報のプレスリリースを追認するテの記事を配信するばかりで、スキャンダルの内実に手を突っ込む気配はゼロだ。テレビのスポーツコーナーも、完全な黙殺。キャスターもコメンテーターも、小指一本すら触れようとしていない。

「この場合も要するに相手がデカ過ぎて突っ込めないってことなんだろうか」
「ほら、リーマンショックの時に『トゥー・ビッグ・トゥー・フェイル』とか言う言葉があっただろ? 大銀行はヤバ過ぎてツブせないっていう。あれと同じだよ」
「つまり『トゥー・ナベェー・トゥー・ツネ』ということだな?」
「ははは。英語になってないぞ」
「まあ、スポーツ新聞の立場からすれば、巨人軍の監督は、自分たちが乗ってる船の船長みたいなものだからな」
「むしろ飛行機じゃないか? パイロットを窓から放り出したら、一蓮托生で墜落するしかないという意味で」
「だからこそ、『一億円は要求したものの、反社会的な組織のヒトだとは思わなかった』みたいなガキの使いじみた説明を鵜呑みにできるわけだね」
「小指が短いように見えたのは偶然だと思ったように記憶している次第でちゅ」
「フリーランスのやんちゃなおじさんだった、と」
「自由極道協会(笑)」
「大切なのは組織的な暴力集団のメンバーであるという認識を持っていなかったのであれば、利益を供与したのだとしても問題はなかったという気持ちを日本プロ野球界全体で共有しようということですよ」
「つまり、要は絆だと」
「その通り。若大将が絶好調なら筒を持たせてホームラン。大安心ですよ」
 
 スポーツ紙の記者が、このスキャンダルを本気で追いかける気持ちになれない事情はなんとなくわかる。彼らは、大きな枠組としては、報道機関であるよりは、球界の一関係者だ。とすれば、自分たちが座っている枝を切り落とすタイプの仕事には、気持ちが奮い立たないはずなのだ。。

 が、私の思うに、今回の場合、記者以上に、一般の野球ファンが、問題の深刻化を喜んでいないことが、スキャンダルの拡大を防いでいる。

 プロ野球ファンは、この数年、大相撲を見舞った一連の不祥事が、あの伝統的な興行を追い込んできた経緯を見てきた人間たちでもある。大相撲は、「正常化」という旗印のもと、その生命であった文化的混沌を扼殺されている。もう二度と昔のような大相撲に戻ることはできないだろう。正常化が終わった時、大相撲は消滅しているはずだ。

 プロ野球ファンは、真相の解明や正義の実現以上に、競技の存続を願っている。
 その意味で、20年も前の女性スキャンダルをいまさら暴くことで、野球を「正常化」できるとは考えていない。
 そもそも、スポーツというのは、異常な情熱がもたらした果実だからだ。

 ついでに言えば、野球にさしたる興味を抱いていない多数派の日本人にとって、このスキャンダルは、登場人物の顔さえ思い浮かばない退屈な話題であるに過ぎない。

 だから、結果として、ある週末のテレビ番組が実施した街頭調査では、原監督に辞任を求める意見は、続投を容認する意見の3分の1にも満たなかった。
 許すも許さないも、人々は、他人の恥辱や罪過に飽き飽きしているのだ。

 昭和の人間は、スキャンダルに対してもう少し潔癖だった。
 人気歌手の不倫に本気で腹を立てている人々がけっこういたし、女性問題で辞任に追い込まれた政治家も少なくない。
 そういう人々は、21世紀に入って、徐々に目立たなくなっている。
 21世紀の人間は、有名人の私生活に対して、もう少しクールだ。

 というのも、われわれのまわりには、もっと身近な人間のより刺激的なプライバシーがあふれているからだ。 
 インターネットを覗けば、そこにはあらゆる生活が晒されている。
 ネットは、著名人の存在を相対化するとともに、無名の人々のプライバシーに脅威を与えている。

 ファイル流出ソフトを介して、私的な写真を公開されてしまった人々のプライバシーは、永遠にネット上を漂流することになる。何度消しても、ひとたび流出してしまった画像は、絶対に消すことができない。

 SNS経由でプライバシー情報を公開されて、困った事態に立ち至っている人々の数も、この数年で急激に増加している。ツイッター上にアップされた写真から思わぬ足跡が発覚したり、ダイレクトメールのつもりで送った写真が単純な操作ミスでタイムライン上に公開されてしまったりということは誰にでも起こり得る悲劇だ。

 さらにやっかいな例では、悪意を持った人間が、電話番号や写真や、勤務先の情報をネット上に散布する例がある。

 これは、原理的に防ぐことができない。犯人を特定して罰することは可能だが、ひとたび拡散したデータは、この場合も、決して消すことができない。

 ネットに、誰かの噂が書き込まれている。

 本当のことも書いてあるが、ウソも書いてある。誰が書いたのかはわからない。が、書かれている情報は明らかに特定の個人を指さしている。写真も同様。どんなに気に入らない写真であっても、ひとたびアップされれば、それは検索にひっかかって、万人の目に届く。

 スキャンダル報道が受けなくなった裏には、21世紀になって生まれた新しいタイプのプライバシー感覚の存在があると思う。

 私自身、原辰徳の失策を、まったくの他人事として楽しむことができない。なんというのか、見ていて「うしろめたい」気持ちになるからだ。

 だから、彼の過去が暴かれている記事を見ると、胸が痛む。これは、20世紀の人間があまり感じていなかったタイプの罪悪感だと思う。

 公開の恥辱は、ネット社会に足を踏み入れている以上、誰にでも起こり得る事態だ。
 とすると、これは、罪悪感というよりは、恐怖感であるのかもしれない。
 
 ずっと昔、私が小学生だった当時、若い母親が電車の中で赤ん坊に母乳を飲ませている姿は、まったく普通の風景だった。

 デパートでも公園のベンチでも、昭和三十年代の母親は、平気で乳房を出してそれを赤ん坊に与えていた。

 何を言いたいのかというと、プライバシーの感覚や、恥辱についての感受性は、時代とともにおどろくほど大きく変わるものだということだ。

 おそらく、この先、われわれは、著名人の醜聞や恥辱を、昭和の庶民みたいに無邪気に楽しめなくなるはずだ。

 というのも、私生活の流出や、恥辱の公開は、既に有名人だけの問題ではなくて、あらゆる粗忽者にとっての共通の危機になってしまっているからだ。

 われわれが、著名人の恥辱に後ろめたさを感じるようになってきているのは、これは、普通に考えれば、悪い変化ではない。それだけ、感受性が研ぎ澄まされているということだからだ。

 が、この変化は、別の意味で、何かが弱体化していることのあらわれである可能性もある。


 ザ・ピーナッツのヒット曲、「恋のフーガ」は、

「追いかけて 追いかけて すがりつきたいの」

 という歌詞で始まる、不思議な歌だった。今あらためて聴くと、コワい。

 これにかぎらず、昭和の歌謡曲が歌う「恋」は、現代の水準から言えば、ストーカーに近いものが多い。

 それだけ、昔の人は情熱的だったということもできるが、単に無遠慮だったといふうに解釈することもできる。
 現代の人間は、高精度な情報に晒されているせいで、生身の感情に対して臆病になっているのかもしれない。

 どっちが良いのかはわからない。
 それに、どっちみち、後戻りはできない。
 ふりむかないで行くしかないのだ。


(文・イラスト/小田嶋 隆)

おじさんたちがなんとなく可愛く見えてくる


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小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明

「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。

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小田嶋 隆(おだじま・たかし)

1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。近著に『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』(駒草出版)『1984年のビーンボール』(駒草出版)などがある。 ミシマ社のウェブサイトで「小田嶋隆のコラム道」も連載開始。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120628/233903/?ST=print  

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