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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35548
世の中で「高学歴」とされる学生たちを見ていて思うことがあります。「正解のない問題」にぶち当たったとき、必ずしも答えを出すのが得意でない、という人を見かけるのです。
***ある東大生のケース
東大教養学部で全学必修の授業を受け持っていた頃の話です。僕は頻繁に学生アンケートの類を取るのですが、その中で「伊東教官は大変に怠惰な授業をする」という意見がありました。
あまりに重症な病の回答でスタッフ一同「へぇ」と感心するやらあきれるやら。どんな回答かというと
「そもそも、授業というのは、教師が黒板に一つひとつ、問題と模範解答を板書するのが正しいのである・・・」
あたりに始まって、この子が経験してきた、主としてペーパーテストで○がつく受験勉強の1つのタイプを絶対化する趣旨のものでした。
「ところが東大というのはどの教師も腐っている。ちっとも板書をしない。そもそも問題などというものは、見たことがないものが解けるわけはないに、解けない問題、解き方のパターンを教えない問題ばかりを出してくる。こんな問題を出すのは時間の無駄だ」
はぁ、前人未踏の問題は誰にも解けないということですか・・・この時点でこの子は東大に、いや、そもそも大学というものに入ってきたのが間違いだったのではないか、と案じてしまいました。
「教師が黒板にきれいに板書して、回答パターンを教え、それをいく度も練習するから試験問題が解けるのである。それが伊東教官はパワーポイントなど使って板書をしない。これは手抜き以外のなにものでもない。早口でしゃべるのでノートも取れない。そのうえ見たこともない問題を毎週宿題に出す。こんなダメ教官に必修で当たって大変不幸だ・・・」
というような内容でした。
***過剰適用という病
一応馬鹿正直に、この子の病がどういうものであるかをおさらい、確認してみましょう。
まず、この学生は大学の授業が高等学校や予備校のように「板書主体」で「例題への回答パターンを教えるもの」と思い込んでいます。
このあたりが一番かわいそうなところで、その実大学に入ればそんな授業はほとんど皆無ですから、今までと勝手が違って、さぞ困っていたことでしょう。
このアンケートを実施したのは前期の6月頃なので、1年坊主はまだ入学したてでパワーポイントを使う授業は少なかったのかもしれません。が専門課程などに進めば、いちいち板書などする講義はほぼなくなってしまいます。
この子は理科系でしたので、数学の演習などでは黒板でたくさんチョークを使うといいと思いますが、大学に入れば数学も講義は講義だけでイプシロンだのデルタだのという話になり、子供向けの例題演習など、ほぼ100%してくれません。
さらに・・・ここは僕が「鬼教官」と呼ばれたゆえんなのですが・・・僕は毎週必ず一定以上量の宿題プリントを出していました。
1つ以上、見たこともないような問題が含まれている。実際に自分で一から頭を使って考えてごらん、というのが、出題の趣旨なわけですが、こういうアタマの使い方を、そもそもしたことがほとんどないらしい。
これはかなりの重症だ、ということで、そうした子供が心を閉ざしてしまわないように、どうしたら自分で考えることができるようになるか、教える側・・・ つまるところ、この子供のケースは、それまで自分が過ごしてきたペーパーテストに正解すべく類似問題のパターンを練習するという風土に過剰に適応してしまい、それ以外のアタマの使い方ができにくくなっているわけです
***成功体験の落とし穴
今日はそこからもう一つ踏み込んでみたいと思います。それは「成功体験」で味を占めることの当否です。
この学生・・・東京大学教養学部・理科に入学したての1年生ですが、この子が持っている教師は丁寧に例題を板書すべし、解き方のパターンを教え、それと同じタイプの解答可能な問題を出すべし、という「確信」というか「哲学」というか(笑)、子供っぽい幼稚なものではありますが、でも本人は大真面目で信じている「べき論」は、間違いなくこの学生の過去の経験、とりわけ「成功経験」に裏打ちされていると思うのです。
まず間違いなく、こういう「お勉強」のパターンで、彼は高校入試をクリアしてきたのでしょう。
もしかしたら、学校の先生が「ダメ」な教え方をしていたところ、塾の先生が「優れた」教え方をしてくれ、それで点数アップ、偏差値も急上昇したとか、何か味を占める経験をしたのかもしれません。
そして、そのトドのつまりが大学入試だったはずです。
問題は解答パターンがある、正解とされるパターンをともかく暗記しろ、そしてそれを時間を無駄にせず短時間でバリバリ解答せよ・・・式の、同様の(我々大学教員の目からは、最もお寒い)「お勉強法」で、何とトーダイまで合格しちゃったンだもんねボク、というあたりでしょうか。
ここから先が、喜劇というか悲劇というか、本当にこの子がかわいそうなところなのですが、彼は「これで東大だって合格できた」という「成功体験」に基づいて、勉強の仕方、授業のあり方を講釈してしまっている。
ところが、その相手が悪いわけですね。
こっちは東大教授屋でありまして、彼にとってそれまでの人生最大の成功経験となった入試を作ったり、採点したりする側である、ということを、子供は全く理解できていないわけです。
「仮想現実感」。悪い意味でこの言葉を思い出さないわけにはいきません。自分にとっての成功・失敗の実感だけがリアルで、いったい自分が誰を相手に何を言っているのか、分かっていないわけです。
このアンケートが帰ってきた直後も、ティーチングアシスタントたちと「こういう子はこの先どういう人生を送るのだろうか・・・?」ということで、ひとしきり議論になりました。
つまるところ「正解」とされるマニュアルがなかったら、自分では何一つ考えることができない。というより、考えることそのものが「時間の無駄」くらいに思っている。
かなりの確率で言えることは、この子は大学に入って最初の学期で、凄まじく低い成績を取るだろうことです。大学は、そういう「教えられたパタ−ン」での処理しかできない学生にとって居心地の良いところではない。
自ら疑問を持ち、自ら考え、自ら調べて自ら結論を出す。そういうクリエイティビティーのある学生が高く評価される。
既存のパターンがないと何らかの解答を出すことができない者はほとんど評価の対象にならない・・・彼の場合、大学に入って最初にもらう成績表では、かなり大きなショック療法を経験するだろうことが想像されました。
さらに具合の悪いことに、東京大学は、2学期の成績で、希望する学科に進学できたりできなかったりするというシステムを持っています(進学振り分け)。
受験のお勉強に過剰適応し、それに変な成功経験を持ってしまった子供は、一方で塾講師バイトなどで儲けたりもするのですが、他方、たいていの場合、学内の成績は惨憺たるものとなります。
教養以降に進学する学部学科不本意な専門に進むことになったり、その他いろいろ、あまり望ましくない現象が起きてくるのです。
一口に「受験産業」と言っても、本当に良心的で、ものを考える本質を教えるような塾もあれば、解答パターンの暗記を中心に学生の思考習慣を奪ってしまうようなところまで、本当にピンからキリまであると思います。
後者に過剰適応し、そこで成功経験など持ってしまうと、大学時代もそうですが、その先の人生に、かなり大きな影響が出てしまうのではないか・・・そんなふうに懸念されてならないのです。
***正解のない問題に答えを出す
それというのも、ちょっと考えれば自明なことですが、社会に出てから私たちがぶち当たる「問題」には、模範解答もへったくれもないわけですよね?
大学で機材が故障して、某大手メーカーの担当者が修理にやって来たときのことでした。故障の状況が分からない・・・と、若い担当者氏、いきなり延々と電話を始めたのです。
マニュアルを見、部局のあてをつけ、電話をする・・・まあ、そういう手筋なのでしょうが、ほとんど故障している機材自体を見ていないのが印象的でした。
「ああいうのはテレフォンエンジニアと言うんですよ」と企業経験の長い同僚の某教授が説明してくれました。
修理担当と言っても、最近の高度な電子情報通信機器は、出先で担当がチョコチョコと直せるような代物ではない。
修理も結局「基盤まるごと交換」みたいなケースが珍しくなく、担当者自身はハードウエアのことを何も知らないケースも珍しくない。製品もいろいろあるから・・・ということで、勢い「テレフォンエンジニア」化が進む、というわけです。
正解とされるものを、ともかく担当部局に確認して聞き出す。正解は必ずどこかにある。その正解を、カンニングではないけれど正解集から写してきて、きちんと書き込めば、仕事として一丁あがり・・・。
そう思っているのか、いないのか、分かりませんが、修理と言っても顧客がいるわけで、客商売の部分がある、というような観点は、この若い修理担当者氏にはなかったようで、お客の見ている目の前で、延々と「テレフォンエンジニアリング」業の手の内を見せまくっていました。
が、その実、このときの「故障」はその機材そのものではなく、周辺機器に起因するものであることが、後になって分かりました。
テレフォンエンジニアリングの2〜3時間は完全に見当はずれ、無駄な時間でした。きちんと現場を見ることから始めていれば、こんなミスにはならなかったろうに、と思いつつ、典型的なケーススタディーを見たような気分にもなったものです。
***「どこかに正解が書いてある」という錯覚
「どこかに必ず、正解とされるものが書いてある」という思い込み、錯覚。
いや、正解がある場合もあるわけですが、まずは目の前を自分自身でよく見、そこでものごとを感じ、自分自身のアタマで考え、試行錯誤し、一段一段、正解に向かって近づいていく、というこて試し、努力があってもいいはずなのですが・・・。
きれいさっぱり、そのあたりが抜け落ちている。
こういう「病」、ある時期以降世の中でも目にするようになった気がするのです。そんなあたりを巡って、もう少し引き続き考えてみたいと思います。(続く)
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