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http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20120628/1340864752
昔、今村昌平監督の撮った映画『楢山節考』を見た時、意味がよく分からなかった。「なぜお年寄りは自分で死を選ぶのか?」ぼくなら単純に抵抗するのにと思った。石にかじりついてでも、あるいは村から逃げてでも生きるのにと思った。その時は、自ら捨てられることを選択する老婆の気持ちが分からなかった。映画の見方が浅かったのかもしれない。
今なら分かる。今なら、老婆が自ら死を選ぶ気持ちはよく分かる。では、なぜ彼女は死を選ぶか? それは、生きているのがつらいからだ。何がつらいか? 社会の善意が苦しいのである。人々の善意が、彼女を殺すのだ。
これは伝聞であることをあらかじめお断りしておくが、福島原発付近の避難区域に住んでいた人たちは、避難所の仮設住宅に暮らしながら、生活費は国や東電の支給するお金でまかなっているらしい。彼らに対して、月々定期的にお金が支給されているのである。それはそれで、もちろん何の問題もないのだが、その避難した人たちが住む仮設住宅の近くにあるパチンコ屋やスナックが、震災以降、急激に売上を伸ばしているのだそうだ。避難所の近くにあるパチンコ屋やスナックが、真っ昼間から繁盛しているという。
この話を聞いた時、ぼくは「さもありなん」と思った。人間は弱い。一旦庇護を受けられる立場に回ると、そこから抜け出すことはなかなかできない。つい庇護に甘えてしまう。そこから自力で抜け出せず、安きに流れてしまうのである。
ぼくもそうだった。ぼくも、大学生の一時期、何も縛られるもののない状態の中で、どんどん自堕落になっていくのをなかなか押しとどめられなかった。生活が保障されている状態で、膨大な時間を持て余していると、つい安きに流れ、ギャンブルやお酒に溺れかけた。
ぼくは、若かったというのもあるしとある偶然にも恵まれたから、運良くそこから抜け出すことができたけれども、大人の状態でそういう状態にはまったら大変だろうなと思った。今の年齢でそこにはまったら、果たして抜け出すことができるかどうか、自分でも自信がない。
避難民の人々も、そういう状況に陥っているのではないだろうか。毎日やることもなく、時間だけを膨大に持て余す。仕事はない(もしくは与えられない)から、「自分がこの社会の中で生きていていい」という自尊心が、どんどん破壊されていく。どんどん心を蝕まれていくのである。
そういう状態になってみると分かるのだが、「自分は生きていない方がいいじゃないかな」と次第に思い始めるのである。「自分には生きている価値がない」とか「このまま消えてしまいたい」とか、働く場所を失って自尊心を破壊されると、やがて生きる気力を失って、そこから這い上がることができなくなってしまうのである。
だから、ぼくは彼らがパチンコ屋やスナックに通い詰めることを悪く言うことができない。むしろ、「それはあなた方に支給されたお金なのだから、どう使おうと自由です」と、逆にその背中を押しかねない。彼らの選択と行動を支援しかねない。深い同情を寄せかねない。
そして、ここからがこの話のミソなのだが、彼らにとってそういうふうに「パチンコ屋やスナックに行くことを肯定されること」は、実は一番の地獄なのである。なぜなら、そうした善意による理解が、彼らがそこから抜け出すことを阻むからである。これが、もう少しバッシングを受けたのなら、それによってギャンブルやお酒にはまることを自分で押しとどめることもできる。しかしそれを社会からも肯定されてしまったら、もう歯止めが利かなくなるのだ。そしてその結果、自らの死を早める結果となるのである。いや、自ら死へと向かうようになるのだ。『楢山節考』に出てくる老婆のように。
人間は、一旦無気力状態の底まで落ちてしまうと、もう二度と自力では這い上がれず、やがて『楢山節考』の老婆のように、自ら死への道を歩み始める。だから、彼らに善意で接することは、実は彼らを殺すことでもあるのである。これは「ゆっくりとした殺人」なのだ。文字通りの「飼い殺し」なのである。
『楢山節考』の老婆も、やっぱり飼い殺されたのだ。社会の善意に押し潰されそうになり、その苦しさから逃れようとして、自ら「捨てられること」を選んだのである。
ぼくは、今なら『楢山節考』の老婆がなぜ自ら死を選んだののかがよく分かる。彼女は、社会の善意に殺されたのだ。
ところで、そこでふと疑問に思ったことがある。なぜ日本人は、そのような善意で相手を殺すようなことをするのか。あるいは、善意がその人を殺すことになると分かっていながら、それをやめようとしないのか。ある種の人々を「飼い殺し」することによって、彼らを社会復帰させないようにしているのか?
そこで一つ、恐ろしい仮説が浮かびあがってきた。それは、「我々が彼らを本当に『殺そうとしている』からではないか」ということだ。
我々は、彼らを殺そうとしているのではないか? 原発事故の被災民の場合は、原発というエネルギー政策失敗のスケープゴートとして、彼らを生け贄にしようとしているのではないか? あるいは、殺すことによって、もうそれ以上恨みを言われないようにしているのではないか? 本当に殺すのではなく、飼い殺しにすることによって、末代まで恨みを受け継がせないようにしているのではないか?
我々は、分かっていて彼らを殺しているのではないか?
ぼくは考えた。この「飼い殺し」という社会の完全犯罪ソリューションと、似たようなケースが日本にはもう一つある。それは「ゆとり教育」だ。我々は、ゆとり教育世代を、安く働かすことのできる下層民として、意図的に作ってきたということはないか? 人々の嫌がる仕事を押し付けるためのスケープゴートとして、わざと教育をしてこなかったということはないだろうか? 彼らを、ゆっくりと殺そうとしていないか?
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