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ダーウィンはナマケモノを嫌わない   「新型うつ」と「生活保護不正受給者追及記事」
http://www.asyura2.com/10/social8/msg/737.html
投稿者 MR 日時 2012 年 6 月 25 日 13:39:46: cT5Wxjlo3Xe3.
 

日経ビジネス オンライントップ>$global_theme_name>小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明

ダーウィンはナマケモノを嫌わない

2012年6月22日 金曜日 小田嶋 隆


 「新型うつ」という活字をはじめて見かけたのは、昨年の夏、雅子皇太子妃のご病状について書かれた週刊誌の記事の中でのことだ。

 記事の主旨は、この数年来「気分障害」と説明されてきた雅子妃の症状が、実は、「新型うつ」なのではあるまいかという、一種の問題提起だった。

 では、その話題の「新型うつ」とはどういう病気なのかというと、これが、「病気ではない」という。

 ん?
 奇妙な話だ。
 病気でないのなら、はじめから話題にする方がおかしい。

 というよりも、診断名として定まってさえいない症状を、特定の個人に当てはめるのは、礼を失した話ではないか。相手が皇室の人間でなくても、これは、名誉にかかわる問題なんではないのか?

 そんなわけで、当該の記事を読んだ時、私が強い印象を抱いたのは、「新型うつ」という言葉それ自体ではなくて、むしろ

「新しい病名を捏造してまで雅子妃の病状を深読みする意図は奈辺にあるのか」

 という、記事の背景に当たる部分だった。いったい、この人たちは、雅子妃が「怠けている」ということをほのめかすことによって、どんな効果を狙っているのだろうか。

 このことは、いまもって私の中でくすぶっている。が、当件は今回の主題とは別の話なので、先に進むことにする。

 ともあれ、昨年の夏の段階では、私は、「新型うつ」という用語は、雅子妃へのあてこすりとして発明された架空の病名であるというふうに解釈していた。

 あてこすり、ほのめかし、おためごかし――確かな事実は何一つ書かれていないのに、明らかに気分が表現されている――皇室記事は、日本語という豊かな婉曲表現を持つ言語が到達したひとつの洗練の極みだ。わたくしどもの国語は、書き手が自らの心の卑しさを隠そうとする時に、最も華麗な表現力を発揮する。なんとも残念な傾向だ。
 
 「新型うつ」は、この記事が話題になったからなのかどうか、同じ雑誌の誌面で、何度か続報企画を産むことになった。キャンペーンと言っても良いかもしれない。とにかく、週刊文春は、「新型うつ」にご執心だった。

 ほどなく、ほかの雑誌が後追いをはじめた。特に中高年向けの総合雑誌は軒並みこの言葉を見出しに持ってきていた。

 で、ついには4月29日放送のNHKスペシャルが「職場を襲う“新型うつ”」というタイトルで50分間のドキュメンタリー番組を放送する。こうなると、一人前の流行語だ。もしかしたら、今年の新語・流行語大賞を獲るかもしれない。「ワイルドだぜぇ」とどっちが大賞に輝くか、楽しみだ。「再稼働」は選外。ノミネートさえされないはずだ。日常化した現実は、どんなに致命的であっても「流行」とはみなされない。

 記事のフォーマットはあらかじめ決まっている。

 コメントを引用されることになる医師は、冒頭のところで必ず「新型うつ」が診断名として公式に使用されている用語でない旨を強調する。ついでに、「この言葉の安易な使用がうつ病患者への差別につながることはわれわれの本意ではない」ぐらいなイクスキューズが掲げられる。まあ、お約束だ。

 現実には、「差別が本意ではない」というタイプの前置きを提示するということはつまり、

「これから差別的な記事を書くからよろしくね」

 という前フリだったりする。「自慢じゃないけど」に続く文言がほとんどの場合自慢で、「必ずしも断言はできないが」と断った上で繰り出される言葉が必ずや断言であるのと同じなりゆきだ。この程度のことは、週刊誌を読みこなす上でのリテラシーとして、当然、身に着けておかないといけない。断言はできないが。

 「新型うつ」は、医学的な意味でいう「病名」ではない。今のところは、あくまでも最近注目されている新しいタイプの患者層として、医師の間で暫定的に使われている「通称」に過ぎない、と、そういうことになっている。

 なのに、記事(および番組)は、「新型うつ」を、猖獗を極めつつあるひとつの新しい疾患とする体で書き進められる。

 公式の病名として通用しない程度の症例なら、わざわざ記事にする必然性も無いはずなのだが、どっこい説明はやけに細かい。ざっと列挙してみるとこんな感じだ。

・典型的なうつ病と比べて、新型うつの患者は若い世代に多い。主要な患者層は20代から30代。
・真面目で勤勉な性格の持ち主が多いと言われている旧来のうつ病患者の場合と違って、新型うつ病の患者は必ずしも生真面目なタイプではない。
・伝統的なうつ病の患者が自罰的(自分を責める)であるのに対して、新型うつ病の患者には他罰的な傾向が目立つ。
・伝統的なうつ病では、あらゆる活動が困難になる。ところが、新型うつ病の患者は、出勤を回避したがる一方で、レジャーや旅行には積極的に取り組む。

 このほか、「休職期間中に海外旅行をしていた」「仕事には出て来れないと言うくせに、合コンには積極的だった」といったような、「患者」の具体例を紹介する。
 で、後段では、新型患者激増の背景を探りつつ警鐘を乱打する。

 とはいえ、記事は、明確な結論を出さない。
 確たる統計も無いし、取材自体も、数人の医師のインタビューに乗っかっただけなのだからして、当然ではある。結論など、出るはずがない。

 でも、いくつかの着地点はバラまいておく。読者は、並べられた憶測のうち、好みのものを選ぶことができる。親切な記事はそういうふうにできている。
 若者の弱腰が気に食わない向きはゆとり教育の弊害ぐらいなストーリーに飛びつく。製薬会社の強欲に腹を立てたい気分の読者には社会派な分析も用意しておく。
 かくして、「断言はしないが」という限定辞付きで、「新型うつ」増加の原因として、以下のような原因がほのめかされる。

・「うつは心の風邪だ」という厚労省発の「うつ受診奨励キャンペーン」による受診ハードルの低下が軽症うつ患者の来院を激増させた。
・患者の自己申告を信用せざるを得ない「うつ」診断に内在する問題点が表面化した。
・患者数を増やすことによってしか採算を確保できない精神科医が、三分診療で診断書を乱発している。
・新たに認可されたSSRI(向精神薬)を売りたい製薬会社の意向が安易な診断を生んでいる。
 
 医療方面の分析とは別に、「不可解な若者たち」という黄金の結論に依った分析も併記される。

・苦難に直面することを嫌う傾向。
・忍耐や努力を冷笑する人生観。
・弱さや根気の無さを「個性」として主張する教育の成果。
・ゲームの中で育てられた脆弱な自我。
・少子化の世界で大切に育てられた子供の成れの果て。

 記事の中で紹介されているタイプの、けしからぬ「患者」がいるのはおそらく事実なのだと思う。
 何十万人という患者の中には、会社をサボる口実として病名に逃げこんでいる組の人間も実在するのだろうし、ネットで検索した「うつ病」の症状を口述することで診断書をゲットしているサボリ屋も混じっているはずだ。

 が、問題は、そこではない。
 詐病はいまにはじまったことではない。
 怠業も甘えも現実逃避も、21世紀になって発明された新機軸というわけではない。職場には、常に怠け者がいる。彼らの歴史は職業の誕生より古い。

 にもかかわらず、ここへ来てニセ患者や怠け者への風当たりがにわかに強くなっている理由は、サボっている人たちの側にではなくて、それをとがめようとしている私たちの側の変化に求めなければならない。 

 つまり、明らかに変わってきているのは、うつ病患者の数やありようではないのだ。変わっているのは、うつ病患者を見つめるわれわれの視線の方だ。問題は、うつによる休業者のうちに含まれる怠業者の存在に対して、われわれの社会が、寛容さを失ってきているところにある。つまり、われわれは、なんだかギスギスしているのである。

 なにより私が異様に感じているのは、「新型うつ」特集企画の筋立てが、「生活保護不正受給者追及記事」とあまりにも良く似ていることだ。

 今週発売の「週刊現代」は、新型うつについて、一歩踏み込んだ記事を掲載している。

 タイトルは、
《問題提起レポート 「新型うつ」これが真相です》

 刺激的だ。サブタイトルも同様。扇情的な文言が選ばれている。

《なぜか「患者」は大企業のサラリーマンと公務員ばかり》

 本文には、「化粧とネイルが完璧な患者」「休職中も給料満額」「厳しくすると治る」「魔法のような診断書」という4つの小見出しがついている。

 で、4ページにわたる特集記事の末尾は、以下の一文で締めくくられている。

「つらいことに直面したら逃げる、自分の利益を最優先する――易きに流れる人々が蔓延することこそが新型うつの最大の原因であり、問題ではないか。」

 この記事がまったく的外れだとは思わない。
 うつ病患者が増加している理由の一部を言い当てていると評価しても良いかもしれない。
 でも、全体として、この断定はいただけない。
 易きに流れる人々がいることは事実であるのだろうし、自己利益のために診断書を利用している患者がいることもおそらくその通りだとは思う。
 でも、圧倒的多数のうつ病患者は、単純に、苦しんでいる。ほとんど生死の境にいると言っても良い。
 甘ったれていたりサボっていたりする半端者であっても、毎日働いている健康な労働者に比べれば、間違いなく苦しみをかかえて生きているはずだ。 

 そう思えば、百人に一人か二人いるかもしれない不心得者を糾弾するために、ただでさえ苦しんでいるうつ病の患者に疑いの目を向けるこの種の記事の罪は小さくない。おそらく、「新型うつ」というこの心無い名称(だって、ニュアンスとしては「うつ仮病:うつけもの(笑)」ってことですよ)がもたらす偏見は、うつに苦しむ人たちにこれまでにはなかった余計な苦しみをもたらすことになる。だとしたら、こんな半端な新語は即刻排除するに越したことはない。

 百歩譲って、企業が採算に貢献しない社員を冷遇することは、営利を追求するその本旨からして、ある程度仕方のないことだというふうに考えることはできる。

 が、その場合でも、生産管理の思想からして、うつは、こじらせる前に対処すべきものであるはずなのだ。
 組織のメンバーが休むことは、企業にとって直接的な損害になる。
 下っ端が弱音を吐くことも、中堅社員が簡単にくじけることも同様だ。
 とはいえ、過剰に頑張って本式のうつになってしまう前に、軽い抑うつ状態を自覚した段階で対処した方が良いという考え方もある。

 半月ほど休んで復帰した時、厳しい見方をする人々は、

「なんだおまえ、半月で復帰できる程度のうつで休んでたのか?」

 と言うかもしれない。
 でも、3年の休業が必須な本格的なうつになるまで自分をすり減らした場合の結果と比べれば、こっちの方がずっとマシだ。

 二度と復帰できないうつもある。というよりも、現世に帰って来れない場合だってあるのだ。
 それでも、そもそも「うつ」になるような弱い人間は、「淘汰」されるべきだ式の考え方をする人たちは相変わらず絶えない。

 その種の「社会的ダーウィニズム」ないしは「優生学」的な思想を無邪気に振り回す人々は、自分を強者であり、より適応的な人間であるというふうに考えているのだろう。

 が、最新の進化学ではその種の19世紀的な適者生存説は、あまり評判が良くない。
 生物進化の歴史は、強い者やより適応した者が生き残ってきただけの歴史ではない。

 想定外の環境変化(氷河期や、流星の衝突や、巨大火山の噴火)があった場合、むしろ、特殊な環境に追いやられていた個体が生き残る。ということはつまり、より偏奇で不適応な種だけが生き残るケースもあるということで、その場合、「適者生存」ということよりは、「ダイバーシティー」(多様性=あらゆる変異を持った個体の生存を許すということ)が生物のDNAを守ったことになる。

 慶応義塾大学の岸由二さんは、インタビュー(※)の中で、いわゆる弱肉強食と進化論を同一視する考えを「とんでもない誤用」と断じ、そもそも、「弱肉強食」という言葉自体、ダーウィンの原典にある「Struggle for existence」を訳した言葉で、この訳は、「生存のための努力」と訳しても良かったはずだと言っている。

(※岸由二氏はリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を日本に紹介した進化生物学者。インタビューは「日経ビジネスアソシエ 2011年5月3日・17日合併号「ビジネスパーソンよ、本当の進化論を学ぼう」)

 なるほど。とすれば、危機に直面した精神がサボろうとする反応は、案外適応的である可能性もある。

 ナマケモノはああ見えてなかなか強靱な生き物だ。

◆  ◆  ◆

 生活保護受給者を「生保」(←「ナマポ」と読む)と呼んで冷笑する習慣は、2ちゃんねるでは、もう何年も前から定着している傾向だ。

「ナマポがいっちょまえにおしゃれとかしてんじゃねえよ」
「ナマポはナマポらしく日陰を歩いてろってこった」

 この種の掲示板やツイッターの中の特定のタコツボに露悪的なメッセージが溢れることは、いまさら驚いてみせるようなことではないし、2ちゃんねるのような場所に差別主義者が集結することは、善し悪しを言う以前に、これはもうどうしようもないことだ。

 私が驚くのは、この明らかな差別用語を、テレビがいともあっさりと紹介していたことだ。
 時期は6月のはじめ頃。夕方のニュース枠の番組だった。

「この字読めますか?」

 と、レポーターが街を行く若者に「生保」という文字が書かれたパネルを見せている。

「ナマポでしょ?」
「ナマポ、かな」
「ああ、ナマポナマポ」

 次にレポーターは、その意味を尋ねる。
 若者たちは、悪びれることなく答える。

「生活保護の略でしょ?」
「生活保護」
「いわゆる生活保護の受給者のことですよね?」

 スタジオでは、現代の若者たちにとっては「生保」は「ナマポ」と読むのが普通である旨を紹介する。
 それ以上の解説はしない。
 つまり、現状、「ナマポという言葉には明らかな蔑視のニュアンスが宿っており、この言葉が使われる文脈では、生活保護受給者は汚物として扱われているといったあたりの説明が、きれいに省略されているのである。

 で、結局、「ナマポ」は、「若者言葉豆知識」みたいな調子の一言ネタとして、生活保護不正受給問題の前フリに利用されていたわけだ。

 悪意があったわけではないと思う。
 現場のディレクターは、取材VTRに新味を加えたかったのか、でなければ、単純に尺を稼ぎたかったのだろう。
 あるいは、「ナマポ」という言葉の使われ方について、マジで無知だった可能性もある。
 番組付きのAD君あたりが、生保を「ナマポ」と読むのを聞いて、とっさに思い付いたとか。

「ん? ヤナセちゃん。キミらは、この字をナマポって読んでるワケ? それ普通?」
「ええ。セイホって読むヤツの方が少数派だと思います」
「おお面白い。ソレ行こう。紹介しとこう。早速渋谷あたりでガイロク撮って来ちゃってよ」

 悪意が無かったのだとしても、結果は最悪だ。
 
 6月20日、政府が現行の障害者自立支援法に代わり今国会に提出していた障害者総合支援法案が、参院本会議で可決、成立している(記事はこちら)。

 注目すべきは、すべての障害者(重度の心身障害者を含む)に原則として一割の負担を求める「応益負担」が決定したことだ。
 重度心身障害者に「応益負担」を求めるという理屈は、まったくもって、空恐ろしい考え方だと思う。

 このことはつまり、心身障害者がお国から受ける支援なり補助を「益」であると見なす人々がいたということを意味している。のみならず、それを踏まえて、この件について「受益者である以上応分の負担を負うべきだ」と単線的に考える議員が国会の中で多数を占めたということでもある。

 しかも、この件についての報道が、驚くほど少ない。
 私は、このことにも、ショックを受けている。
 元来、マスメディアは、弱者の味方だった。
 無論、彼らが半ば反射的に弱者の味方をする習慣の裏には、若干の偽善があずかっている。
 それ以前に、弱者に寄り添うポーズを取ることは、マスコミにとって、安全策に過ぎなかったのかもしれない。

 とはいえ、偽善を含んでいようが、臆病さのあらわれであろうが、公の場にある人間が弱者の側に立つことは、結果として、善をもたらしていた。われわれの世界は、そういうふうにして、弱者をいたわるポーズをお互いに強要することで、かろうじて弱者を保護する形を整えてきたのである。

 ところが、ネットに無遠慮な言論が溢れるようになってからこっち、マスメディアの偽善は、嘲笑の的になることが多くなった。
 で、その反動として、差別には、俄然甘くなってきている。

◆  ◆  ◆

 思うに、新型うつに対する風当たりと、生活保護受給者への視線と、心身障害者へのこの度の仕打ちには、通底するものがある。

 簡単に言えば、われわれの社会が「差別」よりも「偽善」に対してより厳しく臨むようになってきているということだ。

 で、われわれは、「建前」よりも「本音」を珍重する流れの中で、「偽善」を排除し、多少の「差別」は仕方のないものとして放置するようになってきている感じがするのだ。

 差別も偽善も良いことではない。それはよくわかっている。でも、私は、この両者を同時に根絶することはできないと考えている。
 差別や残酷さを減らすためには、多少とも偽善的なふるまいに対して寛大であらねばならない。逆に、偽善を無くすためには、残酷さや差別意識を容認しなければならない。

 で、どちらがマシなのかという話になる。
 私個人としては、偽善的な世界の方がずっと住みやすいはずだと考えている。
 もちろん、私がこんなことを言っていること自体、偽善なわけだが。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

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■変更履歴
記事掲載当初、本文中の「Struggle for existence」のスペルが誤っておりました。ご指摘をいただいた皆様に御礼申し上げます。お詫びして訂正します。本文は修正済みです [2012/06/22 13:40]

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明

「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。

⇒ 記事一覧


小田嶋 隆(おだじま・たかし)

1956年生まれ。東京・赤羽出身。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。1年ほどで退社後、小学校事務員見習い、ラジオ局ADなどを経てテクニカルライターとなり、現在はひきこもり系コラムニストとして活躍中。近著に『人はなぜ学歴にこだわるのか』(光文社知恵の森文庫)、『イン・ヒズ・オウン・サイト』(朝日新聞社)、『9条どうでしょう』(共著、毎日新聞社)、『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)、『サッカーの上の雲』(駒草出版)『1984年のビーンボール』(駒草出版)などがある。 ミシマ社のウェブサイトで「小田嶋隆のコラム道」も連載開始。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120621/233624/?ST=print  

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