★阿修羅♪ > 社会問題8 > 670.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
あなた、食べログの星の数で味を確かめてるんですか?メシを食わずにテキストを食っている人達
http://www.asyura2.com/10/social8/msg/670.html
投稿者 墨染 日時 2012 年 5 月 22 日 10:57:08: EVQc6rJP..8E.
 

 http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120521/p1

★食べログという病。
「食べ物を巡る情報や評価がネットに溢れるようになった結果、自分の食べているものについての他人の評価が目に入りやすくなった。その結果、自分がちゃんとおいしいものを食べているのか心配になったり、余所の人のほうが自分より良いものを食べているんじゃないかと嫉妬を抱きやすくなったりするようになった。」
 といった内容。
 
なるほど、この感性は確かにビョーキだ。「食べログという病。」というタイトルをつけるのもわかる。コミュニケーションツールが食領域にまで拡張すれば、こういう感性が現れてきてもおかしくない。そして食べログのようなネットコミュニティができれば、“グルメ通”を気取りながら「こんな店をおいしいって言っているやつはアホ」的な鼻息の荒いことを書く人も当然現れる。そういう文章を眺めているうちに自信が無くなってきて、“このお店は「アリ」”“このお店は「ナシ」”といった正解不正解を気にしたくなる人もいるだろう。そして、店についている食べログの星の数を気にするようになる……。
 
これは、惨めなことだと思う。
漫画『孤独のグルメ』のなかに、こんな台詞がある。
「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ、独り静かで豊かで……」
 
メシを食っている時ぐらい、誰にも邪魔されずに楽しんだっていいじゃないか。コミュニケーションの洪水に溺れがちな日常・他人のまなざしに晒され続ける日常のなかで、「食べる」という営みは、そういった他人のまなざしや評価から距離を置ける貴重なひとときであった筈だ。嗅覚・味覚・触覚といった自分自身の感覚を総動員し、自分自身の記憶と照合しながら、誰にも邪魔されず&誰も邪魔することなく楽しめるのが「食べる」という営みではなかったのか。『孤独のグルメ』という作品には、そういう歓びがきっちり描かれていたと思う*1。
 
これとは対照的に、食べログを見て不安になったり嫉妬したりするような人は、メシ食ってる時もずっと、他人の評価とか、他人のまなざしとかを忘れることが出来ないわけだ。食べログを見て不安や嫉妬を感じる人々が優先しているのは、自分がおいしいと感じたのか・まずいと感じたのかといった個人的な体験や感覚ではない。食べているものが「アリ」なのか「ナシ」なのか――つまり「私は他人よりグルメなのか」「私は他人より不味いものを食べたりしていないか」――のほうである。「食べる」という行為までもが、他人のまなざし・他人の評価を獲得するための手段として動員されていると言い換えてもいいだろう。こうした度合いが高くなればなるほど、「食べる」という営みは他人のまなざしに汚染されて、自分個人の体験や感覚を覆い隠していく。
 
今、私は「汚染されている」と書いた。
 
私は、他人のまなざし・他人の評価に汲々とするあまり、自分個人の体験や感覚を蔑ろにしてしまうのは時間の無駄だと思っている。自分の味覚や嗅覚を研ぎ澄ますことなく、他人の評価や評判にばかり神経をつかって、あまつさえ後者をありがたがるような「食べる」は勿体なくて、まして「グルメ」を気取るのは馬鹿げているんじゃないかと言いたいわけだ。
 
あなたが、その瞬間美味いと感じたものこそがあなたにとっての美味い食べ物じゃないのか?それともなにか?どれだけ美味いと体験しても、食べログで低評価なレビューを読んだ後は、体験がニセモノになってしまうとでも言うのか?
 
なぜ、自分自身の味覚・嗅覚・触覚で感じたものをそんなに簡単に否定してしまって、どこの誰ともしれない野郎のグルメ語りに身を委ねてしまえるのか?どうしてそんなに自分の感覚を簡単に捨ててしまえるのか?これは自分自身の味覚・嗅覚・触覚に対する背信行為である。
 
 ところが世の中には、他人の書いたテキストに依存して「おいしい」「おいしくない」を決定したり、あまつさえ、そういうレビューを暗記暗唱するような人がいる。ひどい場合、自分で飲み食いすることさえせず、レビューだけ読んで「この店は美味い・美味くない」などと言及する人もいる。これを怠慢と呼ばずに何と呼ぶのか。味覚の修練も、実地の体験も軽視し、食のレビューばかり頭に詰め込んで、しかもそのレビューを信じて疑わず、レビューの記述内容からロクにはみ出そうともしないような人は、メシを食っているというより、テキストを食っているようなものだ。
 
★食分野のコミュニケーション化と、テキストに依存したグルメ
食べログに限らず、現代の日本には食に関するコミュニケーションや情報が氾濫している。そんななか、『孤独のグルメ』的においしい体験を求めている人だけでなく、「知る人ぞ知るグルメを知っている私」「他人よりおいしいものを食べている私」という自惚れを求める人がジャンルに参入して、コミュニケーションのなかで差異化ゲーム/優越感ゲームを展開するのは、当然の成り行きだったとは思う。ラーメンなどが典型的だが、最近はB級グルメのサブカル化も著しい。
 
しかし、こうした食分野のテキスト化・コミュニケーション化・サブカル化が進行した結果として、『孤独のグルメ』に象徴されるような他人のまなざしに邪魔されずに食べるという喜びが退いてしまうのは、とてももったいないことだと思う。そのようなテキストとまなざしに汚染された食体験に溺れる人には、「めざめよ!」と声を大にして言いたい。「食べログという病。」は、食体験を豊かにする以上に貧しくするリスクだ。舌で味わわず文字で味わう人々は、ほとんど呪われているも同然である。文字や蘊蓄で憶えるんじゃなく、舌で憶えるのが筋だろうに。
 
こういう事は、食体験というジャンルに限らず、他の色々な趣味分野やサブカル領域でもしばしば起こるものだと思う。ジャンル内でのコミュニケーションや雑誌記事を追いかけているうちに、「「アリ」とされている作品」「話題作」を追いかけるのに精一杯になってしまって、いつしかジャンル内の自分の好みを見失いかけている人は結構いると思う。あるいは、自分自身の体験や感想をよりどころにする以上に、他所で耳にしたレビューや感想に身を委ねているうちに、他人のテキストの劣化コピペ兵と化してしまう人も。彼ら/彼女らは、本当にそのジャンルを愛しているのと言えるのだろうか?本当にそれぞれのコンテンツを愛していると言えるのだろうか?しかし、他人のまなざしに身を委ね過ぎてしまう人・依存してしまう人には、こうした自己喪失の可能性がつきまとう。(以上抜粋)

〆 食は文化なり。食生は生殖行為に劣らぬ文化のアイデンティテーと称される。
生活習俗のなかで、この二つほど無防備な姿を晒して、人を安寧に誘うべきものだ。
現代情報化社会の申し子である・・携帯ITツールの神器が・・この安寧の密儀に仕えられてしまっている。
たとえば、携帯を片手に食事をし・・料理を携帯カメラに撮る。
それと同様、携帯を片手にをする・・新婚カップルがいるとも聞く。

畢竟、食生と性所為がデジタル化された家庭からは・・餓死した2歳児の胃袋から、段ボウルの切れ端が出てくるのも[Enterキ−]の段落でしかないのか。  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
  削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告する?」をクリックお願いします。24時間程度で確認し違反が確認できたものは全て削除します。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 社会問題8掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 社会問題8掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧