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■はじめに
「神は死んだ!」今の世の中はおかしいと思いませんか?
私はおかしいと思います。
でも、その「おかしさ」は簡単に修正できるようなものではありません。
なぜならそれは、歴史的、思想史的に発生した大きな変動の上に存在しているからです。
一九世紀ドイツの哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(一八四四〜一九〇〇年)は、世の中がますますおかしくなっていくことを予言しました。
「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。(中略)この未来はすでに百の徴候のうちにあらわれており、この運命はいたるところでおのれを告示している」(『権力への意志』)
それではわれわれの時代の一番の問題はなにか?
それはなにも信じることができない時代になったということです。
価値の根拠があやふやになってしまったということです。
その原因は《神様》が引っ越ししたことにあります。
一七世紀から一八世紀にかけて《神様》が座っている位置が変化したので、われわれ人間もなんだかそわそわしているということです。
ニーチェは「神は死んだ」と言いました。
漫画の『ドラえもん』にも登場するくらい有名な言葉なので、哲学に興味がない人でも小耳に挟んだことがあるかと思います。
でもその言葉の意味となると、正確に理解している人は少ない。
たとえば、こんなことを言う人がいます。
「ニーチェは神の死を宣告した。当時のヨーロッパで神の存在を否定したのは、身の危険を顧みない非常に勇気ある行為だった」などと。
これは完全に勘違いです。
当時のドイツでは無神論が流行していました。
「神なんていない」「宗教は迷信だ」なんてことは、誰でも言っていたのです。
では、ニーチェが言ったことはなにか?
「神は死んでいない」ということです。
「お前ら一般人は神は死んだと思い込んでいるかもしれないけど、本当はまだ生き続けているんだぞ」ということをニーチェは告発したのです。
「神は死んだ」という言葉が最初に出てくるのは『悦ばしき知識』という書物です。
簡単に紹介しておきましょう。
ある狂気を抱えた人物が、真っ昼間に提灯をつけて市場に飛び込んできます。
彼は「オレたちが神を殺したんだ!」と叫びます。
でも市場にいた人々は、最初から神など信じていないので相手にしません。
バカにされておしまいです。
そして最後に狂気を抱えた人物はこうつぶやきます。
「オレがここに来るのはまだ早かった。この恐るべき出来事は中途半端なところでぐずついており、人間どもの耳には達していない」
つまり、《神の死》の本当の意味は、世間にはきちんと伝わっていないということですね。
「中途半端なところでぐずついている」状態。
それが今の状況だと思います。
ニーチェは、《神》はさまざまな形に姿を変えて、現代社会に君臨していると言います。
かつては教会の中に収まっていた神が、別の形で世界を支配するようになった。
ニーチェの鋭さは、神の権威、教会の権威を否定し、「これからは新しい時代だ」などと浮かれている人々の根幹に、依然として《神》が座り続けていることを指摘したところにあります。
私たちの時代は、一般に考えられているような「反宗教の時代」ではありません。実は「巧妙に隠蔽された宗教の時代」なのです。
わが国でも《偽装した神》が暴走を続けています。
われわれ日本人はその奴隷です。
政治は腐臭を放っている。
ゴミのような音楽とゴミのような書物がヒットチャートを賑わせている。
《大衆》はブロイラーのように飼い慣らされ、ベルトコンベヤーでエサを与えられ、暖かい場所で適度に肉付きがよくなり、こうした状況を全世界と信じ込むようになった。
ブロイラーは劣悪な環境において平等です。
それがニーチェの言う《奴隷の幸福》です。
「彼らが全力をあげて手に入れようと望んでいるのは、あの畜群の一般的な〈緑の牧場の幸福〉(中略)である。彼らがたっぷり唄ってきかせる歌と教養といえば、〈権利の平等〉と〈すべて悩める者らにたいする同情〉という二つである」(『善悪の彼岸』) 現在、《神》が姿を変えているものはなにか?
本書ではそれを明らかにし、今の世の中がおかしい原因を究明します。
ニーチェの哲学は《戦闘の書》です。変なもの、いかがわしいものと戦うためのテクニックが具体的に述べられている。狂気に満ちた《宗教の時代》において正気を維持するためには、ニーチェの警告を正面から受け止める必要があるのです。
■どうして今の世の中はおかしいのか?
大きな底が抜けてしまった
私たちの日常生活も一枚皮をめくると暗黒が顔を覗かせています。
大きな底が抜けてしまっているのです。
たとえば巷には「生産者の顔が見える」というコピーが氾濫しています。
スーパーマーケットの棚には、「安曇野の吉田さんがつくったレタス」や「北海道の木村さんがつくったトマト」が陳列されている。夫婦の笑顔の写真に「私たちがつくりました」などとマジックペンでコメントが書き込んであったりする。
でも「生産者の顔が見える」ってそういうことではないでしょう。
そもそも、人相を見ただけでは、吉田さんや木村さんが信用できる人物なのかわからない。社会に対して深い悪意をもっている可能性もあるし、「顔の見えない」農家のほうが真面目にやっているかもしれない。
なにかが変だと感じつつ、それをやり過ごすしかないのが現代です。
宣伝過剰の大人の隠れ家、スーパーマーケットで売っている門外不出のスープ、社員証を首にぶらさげてランチに出かける大企業のサラリーマン・・・。
居酒屋でうっかりレモンハイを頼むと、半分に切ったレモンとアルミ製の搾り器を一緒に出されたりします。そして誰もが、情けない顔をしながらレモンをぎゅうぎゅうと搾り、氷と焼酎を入れただけのジョッキに種が入らないように細心の注意を払いながら注いでいたりします。
こうしたものにいちいち腹を立てても仕方がないのかもしれません。
そういうものだと割り切って、黙ってレモンを搾るのが大人なのかもしれません。
しかし、自己欺瞞を続けるのにも限度がある。
私たちの社会はどこかで大切なものを見失ってしまったのではないか?
ある危険な一線を越えてしまったのではないか?
そう感じると同時に、この怒りが今の世の中では共有されないことも感じています。
ニーチェは言います。
「今日最も深く攻撃されているもの、それは伝統の本能と意志とである。この本能にその起源を負うすべての制度は、現代精神の趣味に反するのである」(『権力への意志』)
《今日最も深く攻撃されているもの》
《現代精神の趣味に反するもの》
《反時代的なもの》
今の時代がどこかおかしいと感じるなら、むしろそちらに目を配る必要があるのではないか?「まともな時代」「まともな人間」「まともな文化」とはなにかと考えてみる必要があるのではないか?
そう考えたのが、本書を執筆した動機です。
■全国に発生した変な知事
現在、全国に変な知事が続々と誕生しています。
一九九五年に東京都で青島幸男(一九三二〜二〇〇六年)、大阪府で横山ノック(一九三二〜二〇〇七年)が相次いで当選し、タレント知事ブームが発生しました。結局彼らはグダグダでしたが、青島やノックには本業の実績がありました。
「青島やノックなら期待できそうだ」と有権者が勘違いしたとしても、それほど不思議なことではありません。
しかし、二〇〇七年の宮崎県知事選挙で東国原英夫が当選したあたりで、完全に社会の防波堤が決壊します。そのまんま東は芸人としてなにか実績を残したのでしょうか?
それ以前に「そもそも芸人なのか?」という疑問が残ります。冠番組も芸と呼べるようなものも特にない。芸歴より目立つのは犯罪歴です。
一九八六年にはビートたけしと共に講談社を襲撃し、暴行罪で現行犯逮捕。一九九七年には、当時たけし軍団に在籍していた男性の側頭部を蹴り、傷害容疑で書類送検されています。一九九八年には、東京都内のイメクラで一六歳の従業員の少女から性的なサービスを受け、児童福祉法違反、東京都青少年健全育成条例違反の容疑で、警察から任意の事情聴取を数回受けている。
要するに、本業でダメだった人間が知事に転職しているのです。
東国原は知事選最終日にマラソンを行い、当選後には作業服姿で初登庁します。特定の知的階層を狙ったパフォーマンスでしょう。
知事になったのは国会議員になりたかったからです。
二〇〇八年一〇月、「衆院選に出る意思はない。知事の任期を全うしたい」と発言したものの、翌月には「なるからには閣僚か、トップ(首相)です。初当選、初入閣。そうでない限り行きません」と前言を翻します。
二〇〇九年六月に自民党から衆院選出馬を打診された際には「自民党総裁候補にすること」を条件としました。勘違いも甚だしい。要するに、周囲がまったく見えていない。東国原が芸人として大成しなかったのは、こうした資質のせいかもしれません。
もっとも、グラドル崩れや過激派崩れが閣僚になったり、市民活動家が総理大臣になるような世の中ですから、タレント崩れが総裁候補になってもおかしくはない。わが国はすでに取り返しのつかないところまで来てしまっています。
しまいには、居酒屋チェーンの社長が都知事選に出馬し、石原慎太郎、東国原英夫に続き第三位につけている。
二〇一一年の都知事選に出馬したワタミグループ創業者の渡邉美樹はこう述べます。
「たかだか居酒屋のオヤジがと言われ続けてきました」
「素人であるがゆえにものすごい政治家になれる」
「大いなる素人でありたい」
「今の政治に必要なのは経営感覚」
恐ろしい世の中になったものです。
政治家の仕事と居酒屋の経営は違うということに気づかない人間が、そのまま社会の前面に躍り出てしまった。「素人が世の中を動かしてはいけない」と注意する人間も周囲にはいなかった。
これを「ワンマン経営者が陥りやすい罠」と笑うのは簡単です。しかし、問題はもっと根深いところにあります。《常識》《良識》《歴史感覚》それらすべてが《現代精神の趣味に反するもの》《反時代的なもの》として葬られてしまった結果、社会全体がブレーキを失ってしまったのです。
■安住淳とEXILE
今の世の中はニセモノで溢れています。
政治の世界も混乱が続いています。
第一次野田内閣(二〇一一年九月成立)で防衛相になった一川保夫は、「(自分は)安全保障に関しては素人だが、これが本当のシビリアンコントロール(文民統制)だ」「防衛のみならず、あらゆる分野で国民的な感覚、一種の素人的な感覚でしっかりと対応したい」と妄言を吐きました。
同年一一月にはブータン国王を歓迎する宮中晩餐会を欠席し、民主党の高橋千秋議員の政治資金パーティーに参加。「こちらのほうが大事だ」と発言している。普天間基地移設問題のきっかけとなった米兵少女暴行事件については「正確な中身を詳細には知らない」と答弁しています。
続く野田改造内閣(二〇一二年一月成立)で防衛相になった田中直紀もまた安全保障の素人でした。武器使用基準の緩和と武器輸出三原則の見直しを混同したり、日米政府間の極秘文書を暴露したりと、女房を彷彿させる暴走ぶりを見せた。
世界が経済危機に直面する中、財務相には安住淳が選ばれました。財政政策についての実績も見識もまったくない素人です。
この人事には、経済界はもちろん、民主党内からも不安視する声があがりました。
普通に考えれば、財務省に仕事を丸投げしたということでしょう。中途半端に経済がわかる人間をトップに据えると、余計なことを言い出して面倒なので、無能中の無能を選んだと。柔道をやっていた野田佳彦は「寝技は苦手」と謙遜していましたが、どうもそうでもないらしい
この人事に敏感に反応したのは海外メディアでした。
「活発で単刀直入な四九歳」「安住氏自身のウェブサイトを見る限りでは、円高よりも一四人組のダンスボーカルユニットEXILEに詳しいようだ」「安住氏のサイトにある二〇〇九年一一月のブログでは、明仁天皇の即位二〇周年記念の式典でついにEXILEのメンバーと会った日のことが書かれている。そこでは自身の写真に加え、『やっと会えました』という吹き出し付きで、『会えた、会えた、会えた、・・・会えました』と記されている」(米紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』)
「公式サイトから判断すると、EXILEが得意分野らしい」(英紙『インディペンデント』)
すでに世界にはこうした深刻なメッセージが発信されているわけです。
安住のあだ名は「ちびっこギャング」です。『週刊ポスト』(二〇一一年九月三〇日号)によると、安住は周囲に「俺は暴走族出身だからな」と言って回っているとのこと。
一八世紀の巨匠ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(一七四九〜一八三二年)は、「活動的なバカより恐ろしいものはない」と言い、素人が政治に口を出すことを批判しました。
ところが今や、素人が政治に口を出すどころか、素人が閣僚になっている。国家の中枢に「活発で単刀直入」なバカが居座るようになってしまった。
〆ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒 著者:適菜 収(講談社刊)より抜粋
適菜収(てきな・おさむ)
1975年、山梨県に生まれる。作家。哲学者。早稲田大学で西洋文学を学び、ニーチェを専攻。卒業後、出版社勤務を経て、現職。
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