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このところの学校教師によるセクハラ事件や、生徒による暴力、いじめ、窃盗事件など、学校にまつわる不祥事は枚挙に暇がなく、まるで現在の教育現場の歪みを暗に訴えかけているかのようでもある。
この年末年始にちょうど1冊、教育関係の古本を読み終えたので、この機会にその本の感想とともに、日本の教育について少し述べてみたいと思う。
本のタイトルは『子どもが学校に行かなくなったら赤飯をたきなさい!』というもので、10年も前の本ながら非常に示唆に富んだ興味深い内容だった。現在の教育環境にもそのまま当て嵌まる…と言うよりも、ある意味で時代を先取りした教育論が書かれていた。一見、挑発的なイメージのするタイトルだが、内容は至ってまともで、現代の日本の教育というものを真正面からとらえており、本音の教育論が語られている。
著者の大越俊夫氏は『師友塾』という不登校児童の教育を行う私塾的な学校を経営されており、教育界では名の知れた有名な方であるらしい。
大越氏によると、不登校児童には共通する3つの特徴があり、それは次のようなものであるらしい。
1、他人の世話をやたらとしたがる。
2、自然や動物に対して異常にやさしい。
3、競争を極度にイヤがる。
これまでの世間一般の常識では、「不登校」というと、どこか落ちこぼれ的な意味合いで使用される場合が多かったと思うが、この3点の特徴を見てもお分かりのように、この本では、「不登校」になる生徒こそ人間的(精神的)に優れている場合が多く、将来的にも見所があるということが述べられている。
実際、カナダなどでは「不登校」という概念が無いらしく、自ら学校に行かない生徒こそ、決められた枠に収まりきらない個性を持った人物だということで評価されるらしい。
アメリカでも、個性ある人物が尊重されることはよく知られているが、こういった国々では、日本のように就職浪人するようなことで人物の評価が落ちるというようなこともないのかもしれない。
現代の敏感な子供達は、現在の日本の教育システムに乗っかっても未来が無いということを直観的に感じ取っているとも書かれていたが、私もその通りだと思う。
現在の日本の教育課程は昔と変わらず、将来、大人になってから役に立たない知識を満遍なく教え込むというスタイルを採っている。こういった全体主義的な平等教育は、もはや時代遅れであり、変化の激しい現代社会とは明らかにマッチしていない。
教育とは本来、“社会に出てから困らないための基礎学習”と“社会に出てから役に立つための専門学習”とに分けられる。しかし現在の日本の教育が後者を満たしているかどうかは甚だ疑問である。
現代社会で、学生が就職するために必要な知識は、一般常識、国語、英語、社会、パソコン、そして、お金の計算ができること位かもしれない。高度な数学や複雑な物理学などは、そういった専門の職業に就く人には必要かもしれないが、大抵の一般人には全く無縁の代物(無用の長物)とも言える。
例えば、学生時代に因数分解の公式などを覚えたところで、将来的にそんな知識が必要となることはまず有り得ないし、大人になれば綺麗さっぱり忘れているというのが常である。
以前、「分数のできない大学生」というものが話題になったことがある。確かに分数ができないというのは格好悪いことかもしれないが、これとて、社会に出てから本当に役立つかどうかは別問題である。
英語教育にしても、実際に英語で会話する能力を養うことこそが重要だと思うのだが、細かい文法やら単語の綴りなどを間違わないことに重点を置いた教育になっているように思える。現在の日本の英語教育では、引っ掛け問題を解く能力だけは養われる。しかし本来は、多少のスペルや文法を間違えたとしても、英語で意思疎通することのできる能力の方が重要であるはずだ。実際、社会に出てから引っ掛け問題を解く能力など何の役にも立たない。
現在の日本の教育は、基本的には中国の『科挙』の制度がモデルになっていると言われている。これはどういうことかというと、目指すべきゴールが『仕事のできる人間に成ること』ではなく、『官僚に成ること』になってしまっているということである。つまり、官僚や公務員にならない一般人にとってはほとんど意味の無い教育課程でもあるわけだ。
社会に出てからほとんど役に立たない膨大な知識を頭に詰め込み、学歴社会の頂点に立ち、晴れて官僚になれた人はまだ良い(?)としても、通常のサラリーマンや商売人になる人にとっては、ほとんど仕事に活かせない。勉強したことが全て無駄になるとまでは言わないが、あまりにも無駄が多過ぎることだけは間違いない。
生きていく上でほとんど必要のない知識を覚えるために学校だけでなく塾にも通い、遊び盛りの子供の頃から寸暇を惜しんで真夜中まで勉強する。それが学歴信仰が根付いた現代の日本の詰め込み教育の実態でもあるが、はたしてこれがまともな社会の姿なのだろうか?
将来の夢に向かって寸暇を惜しんで勉強するというなら結構な話だが、単なる学歴を競うためだけの学習にどれだけの意味があるというのだろうか?
昔のように、お国の発展のために官僚になるというならともかく、自分の生活の安定のため(悪く言えば楽をするため)に官僚や公務員になるというのでは、なんのための教育か解らない。
「学生の就職難」と言われて久しいが、義務教育課程の段階から就職するに相応しい能力を磨く教育を行っていれば、今とは違った就職環境になっていたかもしれない。
大企業に就職すれば、ほとんど能力が無くてもなんとかなった時代ならともかく、現代のように明日も知れない生き馬の目を抜くような厳しいビジネス環境の中では、仕事に活かせる能力的な武器を携えて就職活動を行うというのが本来の姿だと言える。しかし、現在の教育ではそういった能力を身に付けるのは難しいと言わざるを得ない。
本来、教育というものは、将来的に役に立ってこそ行う価値が有り、また行う意欲も涌いてくるものだ。逆に、将来的に全く役に立たないことが判れば、学ぶ意欲を失ってしまって当然である。
現在の受験競争というものが、官僚を養成する目的のために行われているものだとすれば、そのシステムから抜け出したいと思う生徒が出てきたとしても何ら不思議ではないと思う。小さい子供の頃から明確な自分の将来像を持っている人であればあるほど、現在の教育システムに疑問を抱いてしまうものなのかもしれない。
現在の日本の教育現場に必要なものは、官僚を養成するための詰め込み教育ではなく、起業人や企業人を養成する将来を見据えた生きた教育であるべきだ。
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