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東日本大震災後、ヒタヒタと押し寄せる津波の中、引きこもりなどの外来利用者や近隣住民が逃げ遅れて取り残され、4日間にわたって孤立していた精神科クリニックがある。非常事態に陥っていたと言えるが、実はこの間、引きこもり当事者たちがスタッフを手伝って、近隣住民の面倒を見ていたという。今回は、この興味深い話を紹介したい。
宮城県石巻市中里にある「宮城クリニック」(宮城秀晃院長)は、3月11日、近くの貞山運河から溢れ出た泥水によって、建物1階の半分くらいまで浸水した。
宮城院長は石巻市で、自閉症、注意欠陥多動症、脳性マヒ、てんかんなどの症状を抱えた人たちのために就学指導員を長年務めてきた。同クリニックでも、「人とうまく付き合えない」「どこといって、行くところがない」「時々、あるいは、いつも不安でつらい」「緊張する」「イライラする」「仕事をしてもうまく続かない」――といった悩みを抱えた人たちを対象に、生活のリズムを整え、人との関わり方を学ぶ「デイケア」を開いている。
利用者の年齢は、20歳前後から40歳代くらいまで。実際、社会人経験はあるけれど、転職を繰り返して挫折した人や、不登校からずっと引きこもり続けている人、自殺未遂、暴力事件を起こした人もいる。
「デイケアは居場所ではないので、できるだけ早く卒業してもらい、自立支援、就労支援の作業所や、職親を通じて、仕事に就いてもらうことを目的にしています」(宮城院長)
■「当事者だけでなく、逃げ遅れた人々も救出。全員で肩を寄せ合い過ごした4日間。
震災当時も、クリニック2階の広い部屋の中では、デイケアが開かれていて、こうした生きづらさを抱えた当事者が10人ほどいた。
地震によって、天井の一部や非常灯が落下。当事者たちが次々帰宅していく最中に、津波で冠水したため、当事者の4人が帰れなくなって、閉じ込められた。
雪が降っていた。窓の外を見ると、避難所の小学校に逃げる途中、首まで冠水に浸かって、寒さに凍える小学生がいた。
宮城院長らスタッフは、2階から声をかけ、避難所に逃げ遅れた彼らを次々と建物にすくい上げた。
とはいえ、クリニック内は電気、水道、ガスのライフラインはすべてストップ。2階のデイケアの部屋には1個だけ、石油ストーブが使える状況で生き残っていた。
助け出された人たちも皆、ずぶ濡れだったので、下着を脱いで裸になってもらい、毛布とタオルケットで体を包んで、低体温症を防いだ。子どもやお年寄りには、たまたま2階に置いてあった寝袋を渡した。
夜、部屋の中で懐中電灯やロウソクを灯していると、2階の窓灯りを頼りに、ずぶ濡れの1歳の乳児を連れた母親や、おばあちゃんら5人が、次々と玄関に助けを求めてきた。宮城院長は彼らを2階に案内し、部屋にいた皆から1枚ずつ毛布をはがし、新しい被災者に渡して着替えさせた。
生存者の存在を外に知らせるための防災無線は、充電されていなかったため、機能しなかった。
しかし、食糧は、奇跡的に確保することが出来た。たまたま宮城院長が、数年前に起きた宮城内陸部地震の後、カレーやご飯のレトルト食品、水、カセットコンロとボンベなどを箱に詰め込んでいたのだ。それが2箱だけ冠水を免れて無事だったので、1食のレトルトご飯を3人で分けたり、雑炊にしたりして、4日間をしのいだ。
■被災住民の世話をし、スタッフをサポート。サバイバル生活で当事者に起きた変化。
同クリニックのスタッフたちは、こうして帰れなくなってしまった当事者や、助けを求めてきた近隣住民ら20人とともに、2階のデイケアの部屋で、サバイバル生活を行った。
ただ、取り残されたスタッフは、宮城院長を含めて3人。そのうちの1人は、臨月を迎えた事務の女性で、「SOS。ここには臨月の人がいます」という文字を看板に書いて出していたほどだ。
2人のスタッフで20人の面倒を見なければいけない。こうした状況から、4人の当事者たちは、勝手知ったるデイケアの部屋で、被災住民の面倒をよく見てくれたという。
「4人には役割分担をしてもらいました。デイケアで毎週、料理教室をやっていたので、食器を出したり、ご飯を温めたり、トイレや水場の使い方を教えたり、彼らにお願いしたら、スムーズに手伝ってくれて、すごく役に立ったのです。期待されたことをこなす経験がない人たちなので、本来のデイケアでも、このように役割を与えて、うまくできたら評価する。できなかったら、何ができない原因だったかを反省して考える。こうして前に一歩ずつ進んでいくのです」(宮城院長)
図らずも、震災で役割分担が生まれた。しかし、助けを求めた住民たちにとっては、どんなにありがたかったことかと思う。
彼らがいることによって、集団としてまとまった。そのおかげで4日間、皆は孤立したクリニックで、パニックを起こすこともなく、過ごすことができたのだ。
こうして4日目の朝、ようやく水が膝くらいの高さに引いてきた頃、自衛隊や警察のゴムボートが救済に来た。そして20人は順次、高台や自宅へと避難することができた。
■被災でコンプレックスから解放される人も“脱引きこもり”のカギは「フラットな社会」にある
宮城院長によると、周りと比較して、自分はダメだと思って会社に適応できなかったり、劣等感から引きこもっていたりしていた人たちの中には、震災を機に、症状が良くなったケースがいくつもあると指摘する。
「振り返ってみても、震災後、引きこもりや発達障害、知的障害、自閉的な傾向のある人たちが、混乱して対応が大変だった人は、いませんでした。ただ、本人というよりも、父母やご家族のほうが遠慮して、避難所生活で迷惑をかけるのではないかと遠慮されるのです。結局、避難所へ行っても、自分の車で寝泊まりしているケースもいくつかあったようです」(宮城院長)
逆に、今まで仕事もしていなかったり、仕事が長続きしなかったりしていた人たちが、震災復興のボランティア活動を始め、瓦礫の撤去や墓石屋で倒れた墓を立てる作業を重機で行うなど、来年まで予定が入っているという。
「周りが自分よりも優秀で、自分だけがダメだと思って、コンプレックスを持っていたような人も、震災ですべてがダメになってしまったから、逆に元気になって、仕事に就けるようになったり、ボランティアを始めたりしているんです。ただ、それは“マニックディフェンス”と言って、躁的防衛のようなもの。元気を振る舞うことによって、うつになるまい、としているような状況だと思いますけどね」
宮城院長は、このように被災をきっかけに、今まで背負っていたコンプレックスから解放されたような感じの人たちがいるという。
「これまで、人と比べて自分は劣っている感覚でした。ところが、自分のレベルが上がったわけではないのに、周りがストンと下がってきて、自分はそんなにひどい状況ではなくなったんです。皆も同じなんだというように視点が変えられて、前向きに動き始めることができたのではないか。とくに、反応性うつや、社会人になってから引きこもった人たちは、自己不全感が葛藤の中にあった。そういう自己不全感から解放されたような一群の人たちなんです」(宮城院長)
ただ、皆がだんだん復興していったら、やはり自分はダメだと、落ち込んだりするかもしれない。あるいは、頑張りすぎてしまって、またエネルギーが喪失して、ストンと落ちることもあるだろう。
震災から半年が過ぎた。被災地では、いまも時が止まったまま、半年くらいで心の傷が癒えるわけではなく、状況は変わっていない。
当事者が元気になったきっかけは、フラットになった社会にヒントがある。ただ、マニックディフェンスの状態が本当に長続きするのかどうかは、これから先を見ていかないと、まだ何ともいえないのかもしれない。
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