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「新・心に青雲」2011年06月21日の掲題を下記に転載します。
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作詞家の故 阿久悠氏の詩集『凛とした女の子におなりなさい』を昨日とりあげたが、今日はこの本のなかからもう一つ、紹介したい。
「コピーライターの失敗」という詩である。2003年4月発行の「暮しの手帖」保存版“𠮟る”に掲載されたものを、この詩集に収録してある。
* *
『コピーライターの失敗』
コピーライターの最大の失敗は
“友だちのような”を使ったこと
その時は 何となく 心やさしく
平和で 自由で
美しい関係に思えた
人間と人間をつなぐのに
なんと便利な言葉なんだ
友だちのような夫婦
友だちのような親子
明るく 新鮮で
みずみずしいとさえ感じたが
思えば これが失敗だった
思えば これが失敗だった
コピーライターの最大の後悔は
“友だちのような”を使ったこと
その時は 人間が 壁を外して
素直に 楽しく
わかり合う関係と信じた
このような結末になるなんて
誰が予想を立てただろう
友だちのような先生
友だちのような社長
親しく フランクで
微笑ましいとさえ見えてたが
思えば これが失敗だった
思えば これが失敗だった
* *
こういう詩である。詩には前説のようなエッセイがついている。そのタイトルも「 “友だちのような”が失敗だった」となっている。
阿久悠氏の父親は厳しい人で、「幼心に、この人を怒らせると絶縁になるだろう」とか「こんなことをしたら親父は怒るだろうな」ということがわかっていたそうだ。
「先生も親も、子どもたちに何かを伝えるべき役目を背負っている」のであって、それは知識だけではなく、「立ち居振る舞い」や「態度」などである。それを日常の生活のなかで親や先生は子どもに伝えたのだ、と。
私たち旧世代の人間は、ほとんどがそういったまともな親や先生から教育を受けることができた。つまり “友だちのような”親ではなかった。
だから親子、師弟、夫婦、先輩後輩、社長と従業員、の関係が “友だちのような”であるとは思いもしなかった。
阿久悠氏の『コピーライターの失敗』の詩みたいに、「それが美しい関係」などとははなから思っていなかった。世間が親子や師弟を“友だちのような”で良いとする風潮を苦々しく思っていたのだ。
空手の世界は当然、“友だちのような”関係を排除しており、だからかえって居心地は良いものであった。阿久悠氏は遅まきながら、親子、師弟、夫婦などは “友だちのような”であってはならぬことに気づいたのだろう。
「ぼくは今の若者に対しては悲観的だ。少なくとも七十年代までは、俺たちにはもうできないけど、あいつらにはまだやれる力がある、という若者に対するある種の畏怖の念が大人にはあった。今の若者に社会を、政治をひっくり返すパワーがあるとは、とても思えない。明治以降を考えてみても、この意味で、怖くない若者というのは初めてのケースではないか。」
と阿久氏は書いている。これはそのとおりだろう。
それともう一つ。
「今、若者は、なぜ、しゃがみ込むのか。地べたにケツを下すということは、単なる流行とは思えない。根本的にそうさせてしまうものが、きっと彼らの中にあるのではないか。しゃがむことより、きちっと立っているほうが美しいという感覚がない。自分の立ち居振る舞いを美と照らし合わせて考えることが、多分ないのだろう。」
これもそのとおりであるが、訳は阿久悠氏が思いもよらぬところにある。
親子、師弟、夫婦、先輩後輩などの関係が “友だちのような”になってしまったからだけではない。つまり個人の認識の問題だけが原因ではなく、認識を創りだす脳細胞の実体の生育如何に関わる。
それは人間としての誕生前と誕生後の幼児までの育ち方に大きく起因するのだ。
若者が地べたにケツを下すのは、阿久悠氏は説くように、「単なる流行」なのではなく、脳細胞が「きちっと立つ」ことに耐えられないからである。
一つ大きな問題を挙げれば、母親が赤ん坊に粉ミルクを与えてしまうことである。だから人間としての実体、脳が育たないので、ウシのように平気で地べたに座り込むのである。
それだけではない、近頃流行の、母親が赤ん坊をおんぶしないで胸の前にぶら下げていることもその原因になるだろう。あるいは、母親になる女性が、子どものころから茶髪に染めることも関係してないとは言えない。
そういうもろもろが旧来の親子関係や師弟関係に耐える認識を形成できる脳細胞として育たないことも大きな要因なのである。
それゆえ阿久悠氏が書くように、「これをしたら親父が怒るだろうから止めよう」という認識が身に付かない。粉ミルクとか紙おむつで育った近頃の若者に、人間になりそこなっている部分があるからである。
戦後のその風潮を根底に据えたうえで、阿久悠氏の説く「理由」になるのだ。
阿久悠氏は、この詩とエッセイを、「暮しの手帖」の保存版「𠮟る」という特集に寄稿した。
「ぼくは7年前、(中略)「コピーライターの失敗」と題した一編で、『友だちのような』という言葉を、非常にいい言葉として扱ってしまったのが、作詞家の失敗だった、と自責の念を込めて書いた。友だちのような夫婦・親子・先生が美しい関係に思えたのが、𠮟れなくなった最大の原因だと思っている。幸福な状態が死ぬまで続けばよいが、何かを超えなければいけない場面になったとき、友だちのような関係ではどうしようもないのである。」
これはこのとおりだ。「𠮟れなくなった最大の原因」を認識面で探れば、夫婦・親子・師弟などの関係を「友だちのような」と捉えようとしたからだ。それをあたかも民主主義であるかのようにねじ曲げて。
よく新聞の投書でもみかけるが、病院で医者や看護婦が患者にタメ口をきくのが批判されている。これも看護婦と患者を、「友だちのような」と捉えようとするからだろう。そのほうが自分たちがストレスが少なく仕事ができるとでも思っているのだろうか。
親が赤ん坊に粉ミルクを与え、紙おむつをあてがうのも、楽をしたいからであり、「友だちのような」関係を好むのも、結局は楽をしたいからである。
楽をすれば楽をした分、代償は払わねばならない。それが弁証法だろう。
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